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(続き)

その後、島根県にあった海軍大社基地に配属された。天気図を作成し、風向きや
雲の高さなどの情報をまとめ、出撃する爆撃機の乗員に伝えるのが任務だった。
終戦間際には帰還の見通しもなく沖縄方面へ飛び立つ仲間を連日のように見送った。
「なんとも気の毒な気持ちになった。そんなこと、おくびにもだせなかったが。
軍隊はデタラメばかりだった」

戦前知るから 危機感

戦後は気象庁で予報官として勤務。日本気象学会に所属していた77年、公選によって
学術会議の会員にえらばれた。公選制最後となる2期目に入った80年以降、政府与党
から学術会議批判が起こり、82年には自民党から廃止の提言も出た。結局、83年の
法改正で推薦制に変更された。

なぜ会議のあり方を変える必要があるのか。「政府から十分な説明はなかった」と
当時を振り返る。今回も、政府は6人の任命拒否について具体的な理由を説明して
いない。学術会議は、原子力政策や軍事研究をめぐって政権と相いれない立場を
表明してきた。「政府にとっては、のどの奥のとげなんでしょう」

「科学者が望むと望まざるにかかわらず、すべてが戦争のための科学になる」。
そんな戦前を知るからこそ、会議の独立が脅かされているとして、危機感を強める。

情報収集のため8年前から始めたSNSでいま、自ら積極的に情報発信を続ける。
「私は不合理が嫌いでね。おかしいことはおかしいと言い続けますよ」

(終り)