(>>378の続き)

安倍政権はその誕生以来、民主主義のシステムを少しずつ、だが確実に切り崩してきた。
NHKのトップの首をすげ替えて政権批判を抑え込み、特定秘密保護法や安保法制、
共謀罪といった憲法上疑義のある法律を独裁的な手法で通してきた。
にもかかわらず、主権者は大きな国政選挙で繰り返し与党を勝たせ、容認し続けてきた。

僕はこうした現象を「熱狂なきファシズム」と呼んでいる。
それは主権者の無関心と黙認の中、低温火傷のごとくジワジワ、コソコソと進む全体主義である。

全体主義とは、平たく言えば「個人」を犠牲にしてまでも「全体」を優先させる思想や態度のことだ。
「個人のための国」よりも、「国のための個人」を目指す考えとも言える。

全体主義的な価値観では、個人の意見や多様性は無視される。
異なる意見をすり合わせる必要はないので、議論は不要だ。
代わりに個人は「上」が決めたことに従順に従えばよい。
逆に「上」の方針を批判することは、団結心を損なうので厳しく罰せられる。
個人は自分を犠牲にして、全体の利益に奉仕することが求められる。

僕は全体主義的な安倍政権が選挙で勝ち続けているのは、私たちの社会が、
全体主義的価値に浸食されているからではないのかと疑っている。
会社や学校、家庭が全体主義に侵されていれば、
全体主義的な政治家や政党が台頭しても「普通」に見えてしまい、違和感や警戒心を抱きにくい。
熱狂なきファシズムは、実に根深い問題なのだと思う。

  (続く)