南沙織という芸名の歌手だった内間明美は1976年12月前半に沖縄に里帰りし、デビュー前からの知り合いで
安室朝由(あむろ ともよし)という氏名の男性と交際した。
このときすでに朝由には妻子がいて、明美もこのことは知っていた。
翌1977年に東京で妊娠に気づいた明美は、沖縄で子供を産み、沖縄の児童養護施設に入れようと考えた。
 明美の所属事務所のバーニングは放送局や新聞社や雑誌社に口止め料を分配して、このことを報じさせないようにした。
報道各社は、母子の健康や人権に配慮して、このことは一切報じなかった。
 極秘産休中に、あたかも明美が東京で活動しているかのように見せかけた番組やコンサートが行われた。
中田喜子が特殊メイクをしてなりすまし(虚貌)、あらかじめ録音された明美の歌声がメロディーと一緒にスピーカーから流され、
中田喜子がマイクに向かって歌詞に合わせて声を出さずに口を動かすというスタイルで、無難にこなされた。
挨拶やトークもあらかじめ録音されていて、中田喜子がセリフに合わせて声を出さずに口を動かしていた。
 明美は自分と同じ血液型である朝由の妻・安室恵美子(旧姓塩崎)に、子供の母親は恵美子で、子供の氏は安室であるという戸籍を作って欲しいと頼んだ。
親切にも恵美子は同意した。
1977年9月20日(火)、明美は沖縄赤十字病院で女児を出産した。
明美は産んだ女児に奈美恵と命名し、入院中は授乳もした。
病院関係者の協力を得て、恵美子が産んだこととする虚偽の出生届と母子健康手帳が作成された(いわゆる「藁の上からの妾養子」)。
明美は退院後、東京へ飛び立って行った。