ただ、小林さんのこういう「善意」の披露を読むと、
私は余りに戦後日本的な戦後日本を感じて、脱力する。
昔の日本男児はこんな風では無かった、と思う。

ここが私たちと「小林よしのり」を別つ部分なのだと気づく。

戦後日本と「対峙する」私たちとの違いを痛感するのだ。

この論争が終わる頃、おそらく、私たちは溶解していく戦後日本を見送る
ことになるだろう。
その中に、小林よしのりさんが含まれていないことを微かに希望しながら、
この「余りに戦後日本的な」人物を見送りたいと考えている。


 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、
 仕抹に困るもの也。
 此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして
 国家の大業は成し得られぬなり。

                    南洲翁遺訓より

私達は、頑固に、西郷翁の言う「仕抹に困る」メディアであり続ける。

私自身も、死ぬまで「仕抹に困る」人間であり続けたいと願っている。