〇また安国論ワードで、御書から抽出した年表貼っとくわ…。

※時系列が蒙古蝶状の完全後出しになってます、
たとえていえば、日曜日の午後3時50分ごろ、後楽園の
場外馬券売り場で「やっぱ、コントレイル来たなっ!オレの予想通りだったわ」
というおっさんがいて、でもその手の馬券には5番の数字がなく…。

1260年文応元年7月 立正安国論を幕府に提出 (と八年後から言い始める)。 
1261・・・
62・・・
63・・・
64・・・八年間、安国論についての記述がない
65・・・
66・・・
67・・・

1268年1月 (文永五年)蒙古蝶状が届き、戦は避けられず。←予言は後出し。
同年4月 安国論御勘由来、←安国論幕府提出話はここで初めて書かれ…。

〇北条時頼年表…。※文応元年には最明寺ではなく覚了房と名乗っていた。

1256年、北条時頼は最明寺で出家し、覚了房道崇と号した。
1260年、文応元年に立正安国論を、最明寺殿に上奏した。
1263年 最明寺北亭で死去、享年37 戒名は最明寺道崇。

〇宿屋 / 宿谷問題は、※取次人の名前の漢字を、七年間も間違え続ける。

1268年4月、屋戸野と当て字表記 (耳で聞く音の名前しかしらない)
1268年8月、宿屋と表記をあらためて以降八年間、宿屋表記がつづく。
1275年、撰時抄には宿谷と漢字が改められ、以降宿屋 / 宿谷ともに御書から消える。

※撰時抄以降は、最明寺殿に上奏のみで、取次人の名前が省略されてます。