このような日蓮の防疫的な仏教解釈は危険を伴う。
伝染病的な性質を持つ悪は滅しなければならないという理論。

じゃあ、誰が何を悪と断定できるのか?
本当に滅していい悪なんてあるのか?
無常の世界においては、あらゆる物は移ろい行き実態は無いのだから、そもそも滅ぼせるものなど存在しないのではないか?

仏とは、あらゆる物を包括する生命の偏満性だと思う。
そしてそれらはあらゆるもの、あらゆる変化を受容する。
我々人間は、その包括生命の子供として、包括生命内の宇宙で小さな泡のように活動している。
泡は消えてはまた生じる。
同じ泡は1つとしてない。
包括生命の子供である泡は死として消えて包括生命に復帰し、親であり本体である包括生命に泡の経験を与える。
そしてまた誕生して宇宙の小さな泡に戻って無常の世界で経験を続けるという生死輪廻を繰り返す。
そうするとことにより、包括生命は子供の無限の経験を同一体験することにより、子供と同一である親として自己を知り、子供と共に自己の無限の歓喜を享受し続ける。

小さな泡は自由意思を有し、その意志が仏からの分離を選択すれば、仏から分離しているという経験をすることが出来る。
仏からの分離という独立体験は必ず痛みを伴う。
なぜなら、仏から分離すれば同じ泡どうしを同じ包括生命と感じられなくなる。
そして、自分と異なる傾向を有する泡を、自分の泡を消す脅威と見なし始める。
そしてまた、無常の変化を包括生命の無限の営みであることを見抜けなくなり、泡である自分を消し去る悪や悲惨と感じてしまう。
これが防疫理論の誕生の理由。
防疫理論は包括生命の子供である自分を仏である包括生命から切り離したときに、己の防御手段として必然的に生じる。

仏からの分離という体験を自ら意思選択したのが末法の私達。
仏からの分離独立体験は、自分が仏であることを忘れなければ経験ができない。
自分が仏であることを知っているままなら、それでは分離ではないからだ。
私達はあえて自分が仏であることを忘却することによって仏から独立した分離の体験を味わっている。