日蓮って ver.44
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前スレ日蓮って ver.43 https://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1510541794/ 「日蓮って」過去ログ http://hyakkimaru.nukenin.jp/ 創価学会の教義と日蓮仏法について、真面目に語るスレッドです。 創価学会擁護の論客もふるってご参加下さい。 コテハン推奨。sage推奨。「荒らし」は無視で。 スレが荒れる原因になりますので、暴言や挑発、嘲笑、語尾のwwwはNGです。 スレ違いの話題はほどほどにして下さい。 初心者の方も教義についての質問があればお気軽に書きこんでください。 麻原の空中浮揚に相当するのが立正安国論の予言的中宣言で 選挙惨敗が蒙古撃退に相当 が、テロは起こさず湯治と称して連れ出され消された人 >>428 さん 遺文には辻説法で布教をしたということは書かれていないようですね。 後々の信仰者の誰かが暗示したものだとのことのようですよ。 辻説法も行われた可能性はあるだろう程度のものなのですね。 てっきり私も常不軽菩薩のような日蓮像を描いてました。 >1254年(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始。 >退出 www 追い出されたんだよ wwwww あの臨済宗を捨てたホームレスが日蓮の辻説法を聴いて、日蓮に帰依したとの話。 学会員さんだったら第三、創価新報、潮、聖教で一度は読んだ事あるでしょう? しかしそんな事実があるのか?私は調べました 臨済宗妙心寺派、円覚寺派、建長寺派、また大学のコネを使って日蓮正宗にも 資料室からアーカイブスを調べ尽くしましたが、一つもその根拠が出てこないんですよね。 ただ神宮皇学館のアーカイブスには鎌倉にて反社会的な民衆を味方につけた怪僧、神宮(伊勢神宮)渡来家(常明寺の事でしょう)に現れ 尊大なる気炎を吐き天照大御神に配し奉りたいと申さば、豊受大御神のみ礼し奉り 天照大御神の礼賛の言を残して去るという資料は読んだ事がある。 日蓮の伊勢神宮参りはイメージとして日蓮が弟子数人と参拝した物だったが 神宮皇学館と國學院の資料を見ると、かなり大勢の強面な弟子というか舎弟を連れて 伊勢神宮に乗り込んだんじゃ無いかな?と 時々、邪推する。まあ、面白いな。 ごめん間違えました。 日蓮正宗では無く日蓮宗の間違えでした。 また間違え発見 (間違い)渡来家 (訂正)度会家 度々すみません 日蓮死後500年も経ってるのに真実とかいう伝記を出版する 捏造する気マンマンの姿勢ね 田中智学はかつて茂原寺の末寺があった蛭子神社のある辺りを 辻説法を行った場所と定め、辻説法跡碑を建てたそうですけど 茂原の半グレがアジトにしてたとかじゃなくて? 「末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」 考えてみれば、日蓮が辻で説法しても効果がないことは知っているはずなのに、 なんで鎌倉に行く必要があるんだろう? 辻説法やフリーの僧侶として邪宗の寺に突撃したりが制限されてたと すると、日蓮って鎌倉で何をしてたんでしょう http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index109.htm 辻説法について宗門以外の史料は皆無であることから、辻説法が行なわれたことを否定は できないが、説法のあり方は不特定多数の人々に、やみくもに法華経を説いたとはいえない ともいいます(佐藤弘夫著『日蓮』七三頁)。また、時頼が執権になってからは、鎌倉市中の 統制が厳しくなり、寺院をはなれて自由に活動する念仏僧が取り締まりの対象になり始めて いたので、このようなときに、辻説法を行なうことはできなかったといいます。(中尾尭著『日蓮』六九頁)。 もしかして日蓮ってすごく優しい人だったりして。 優しいからこそ怒りたくなったりする気分もあるよね。 あまりにも酷い鎌倉の状況を目のあたりにすれば、阿弥陀にも文句の一つも言いたくなると思うわ。 自然災害とかで多くの犠牲者など見たら、「やりやがったな〜この野郎!」って仏に怒鳴ってやるわ。 だって怒る先がないもんねw・・・政府に言ってもしょうがないし。 安国論意味ないだろ。 麻原を処刑したから水災が起きただとか、、、あいつら言い出すぜ。 昔の今も変わらんな。 >>437 さん その『日蓮大士真実伝』の該当箇所がありました。 __________________________________________________________________________________________________________________________________ 大法将日蓮大士は、日に日に辻町の東小町往還の路に立ちて、往来の人の足を駐め、 念仏は無間地獄の業因よ、禅宗は天魔の邪法、真言は国を滅ぼす大悪法、律は国の賊なりと、 声を限りに喚ばはり給ひ、末法当今の衆生の為には、南無妙法蓮華経の外助かるべき正法なしと、 御経を巻返し繰返し、説き示し給へば、 流るる水を塞くが如く、眠れる獅子を擲つが如く、 立集ふ僧俗男女黒山の如く眼を怒らし、牙を咬み悪口過言をするもあり。気の狂ひたる痴者なりと笑ふもあり。 _____________________________________________________________________________________________________________________________________ >>445 デジタルコレクションから写したの? すごっおつー ハルマゲドン(世界最終戦争)が起こってオウムで修業したもの人間以外助からない サリンをバラまいたのは教祖の予言を実現させるため 歴史は繰り返す 夏休みだから、立正安国論の不思議な年表を また貼っときますよ、「安国論」ワードで抽出すると、 1260年7月 立正安国論を幕府に提出(と本人言ってます) 1261・・・ 62・・・ 63・・・ 64・・・八年間、安国論についての記述がない 65・・・ 66・・・ 67・・・ 1268年1月18日 蒙古より国書届く。 ・・・ 同4月5日 安国論御勘由来←これが「安国論」ワードの初出 ・・・ ※どーも安国論ってのは、1268文永五年以降に 成立した文書なんじゃないのかい? と強く思いますが…。 1260文応元年に幕府に提出したというのは 真っ赤な嘘いつわりで、じっさいには、 まだ安国論の構想すら出来てないから御書にも記述がなくて…。 当時はこの嘘は世間にまったく相手にされないんだけど、 現代では、市川市教育委員会みたいな公的機関が、 公然と世間をだまして、詐欺犯罪をやってるわけで、 いつまで平然と犯罪サギをつづけるつもりなのか…。 そういえば、むかし山梨県身延町の教育長が 飲酒運転で捕まったという過去の記事が記憶にあって、 身延町には有名なお寺もあったような気がするけど、 ちょっと度忘れして、名前が思い出せないや…。 撰時抄も貼っとくか、御書は オウムのポア思想と同じじゃねーの? (撰時抄) 建長寺寿福寺極楽寺大仏長楽寺等の一切の念仏者禅僧等が 『寺塔をばやきはらい』て『彼等が頚をゆひのはまにて切らずば』 日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ…。 煽り全開なテロ推奨の危険思想ですねー、 なんか池田せんせーは、山友弁護士を自室に呼んで、 「君は人を殺せますか?」 って聞いたらしいじゃない? これは百苦戦練磨のおっさんに聞くのは 致命的なミスで、とうぜん暴露されちゃうけど、 たとえば十代二十代の、日蓮大聖人と池田せんせーは すげー!と眼をきらきら輝かせている若者 百人に聞いてみました…、となったらどうか? 一人二人のヒットマンが現れそうな気も しますが、もし邪魔者消すことに成功すれば、 その報酬は学会幹部の年収5千万円レベル? 若い人は、幹部の部屋に呼ばれた時の お断りの言葉をあらかじめ練習しといたほうが 身のためだと思うよん…。 山崎は盗聴器しかけた 原島と福島は池田から離反 池田の高弟三人はなぜ退転者(覚醒)になったか 池田は独裁者なのか? >池田は独裁者なのか? 私が見てきた事しか語れないけど独裁者というよりも、最高幹部達の裁量で分裂というか2ちゃん5ちゃんのような喧嘩をしていると言える。 トップは絶対に出てこない。ただ報告がいくだけ。というか池田先生は実はそれほど権限を持ってないのが事実だよ。 更に今では教義教則変更について池田先生のご指示か?と質問しただけで 聖教新聞社の暇職に左遷させられる。 流出したTwitter事件や遠藤文書などで大体分かってる人も多いと思うが 離反・退転だけならまだ良い方だよ。これは私の知り合いだが 第一庶務の職員だったエリート職員(私と同じ3世の友人の父)は暇職員に追いやられ 学会に尽くした何十年もの努力と情熱が無に還る無念さを持って自殺してしまった。 当然、死因は急性心不全だったが実際は縊死。 その友人(私と同じ3世で付き合いは長い)は無活になった兄がその事の詳細を告白するも 友人は今でも学会員であり、私が思うに以前ほどバリ活さは抜けたようにも見えるのだが 私は彼に「人間というものは常に同じである筈も無く、この世も常ならざる物」 「長い事信心してきたという過去の客観的な事実にアンカリングやコンコルド効果があるにしても私は君の心情を理解する心を余裕はあるよ」 「話す気になったら正直に私だけには私情・心情を語ってくれないか?」 「仏法の根本的教理は無常・無我、空・演技だとよく考えてくれ。そして私は常にその事だけを心の拠り所としての仏法だけを信じているからね」 と、何度か語ったのだが、友人は未だ心の整理がつかないのだろうか? この件に関しては何も語ってくれない。子供の頃から批判すべき所は批判をし合える仲だったのに。 麻原も救済、救済って叫びながら気に入らない奴は皆殺しにしたわけだが 例えば念仏信者をおまえの幸せを思ってのことだってボコボコにしたり 殺したりするのは救済なのか 日蓮の布教も半グレが大勢で取り囲んでの脅迫だった予感 新人間革命で退転者の名は書き残される 日興の時代も退転の弟子の名は書き残されている 新人間革命はキリスト教の聖書のようなものだがおぞましき歴史が語られるわけだ >>452 >>新人間革命はキリスト教の聖書のようなものだがおぞましき歴史が語られるわけだ 新人間革命はそんなに大層なものか?麻原の自伝のようなものだろ。 伝記に辻説法を書いた小川泰堂って日蓮宗の坊主ってわけじゃなくて 信者の医者だろ? 誰も日蓮が辻説法で布教したなんて話は聞いてないのに絵の入った デタラメというか妄想真実伝記が人気出たんで追認したとw >>447 日蓮は五戒を捨てろよ言ってる 元から嘘オーライでしょ。 本人を責めても「でっていう」で終わり。 しかし末法無戒なんてアホにも程がある。 まあそんな嘘つきの書き物など読むに値しないが。 私は仏教のことはよく知りませんが、創価学会の乗っ取りや葬儀の伝統や文化の破壊によって他の日本仏教も全体が閑散としていると思います。 田舎などは人も減って檀家数が激減という話も聞きます。学会霊園事業も暴利だと聞きます。 こういった犯罪的なカルト宗教に破防法を適用しなければもっと破滅的な伝統文化の解体が起こるのではないでしょうか。 彼らは大聖人と言われる開祖すら裏切っています。 偽物の宗教を放置すると無敵化して、国民が奴隷になる可能性が露呈しています。 信仰は万人が必要ですが、宗教についても教育するべきです。無宗教だから悪魔的なものが蔓延るのでしょう。 オウム乗っ取りの件もあります。パナマ文章、核兵器、麻薬と様々な犯罪が出てきます。学会と公明党は同一と露呈しました。これが政権与党にいます。 海外で大事件を起こすとまた日本が貶められてしまいます。今度は仏教自体も非難されるでしょう。 すべてを知って良く考えてください。 ネット対策部隊の中身のない茶番も多いです。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1513947719/ パナマ文書に創価学会の名前が Part.2 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1493614174/l50 #創価 #集団ストーカー #仏教 #仏教 #葬儀 #伝統 #文化 >末法無戒 あれっ、信者さんが本尊を頂くときの御授戒とかっていう儀式は今もやっているよね。 「戒壇」とかって成語もあるのにもなんだか疑問があるし。 日蓮って信者さんから酒は貰っていたようだけど肉は貰ってなかったような気がするし、、、なんか変な感じだな。 殺さない、盗まない、嘘をつかないといったものじゃなくて 一切の謗法を捨てて日蓮大聖人の正法を信仰すること 日蓮正宗 http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/p-deta/kyogaku/nyushin/nyushin_j.htm 御授戒(ごじゅかい) 御授戒とは、一切の謗法を捨てて日蓮大聖人の正法を信仰することを御本尊に誓う儀式です。 その際は、日蓮正宗の数珠と経本を用い、人生の新たな出発にふさわしい心がまえで臨みます >>459 仏教とは無縁の日蓮教と言われる由縁だな。 日蓮大聖人の正法を信仰すれば 殺しも盗みも嘘つきも何やってもいいならば狂気というしかない ●薬物中毒統合失調症患者の支離滅裂な作文 ギャグ係 ◆dQO3LlCLQE 9mfxNS30(1) 元ヤンなのは本当だよ。デビューは小5くらいか? 前から言ってるじゃん。 でも、県内一の進学校を出たのも本当。 この高校から創価大に行ったのなんて聞いたことない。 社会人になるまで創価大なんて知らなかったよ。 近所の中卒者が「東大より凄い大学が日本にはあるんだ」って言い張ってて、 そこが創価大だった。 ↑小五で元ヤンキーとか、県内一の高校に居たとか支離滅裂過ぎて確かに統合失調症が以前より悪化しているようだ。 全体的に作り話と言うより本当に妄想が酷すぎて明らかに薬物の影響で脳細胞が破壊され、 更には精神が崩壊して廃人に近い状態になっている。 宗教弾圧だ!宗教弾圧だって大騒ぎしてたオウムに 人を不幸にする宗教は宗教ではないと反論した 坂本弁護士一家は殺されてしまったわけだが オウム真理教も創価学会も 危険なカルトだという事実 麻原彰晃も池田犬作も (通名)在日ペッチョン(白丁) >>456 誤解を恐れずに言えば日蓮大聖人の宗教的天才性は「嘘でもいいんだよ!こまけぇー事はいいんだよ!」 との信条を元に大乗仏教を広布しようとした事。 日蓮大聖人は多くの人は理解してくれないだろう事は分かっていた筈だし 常に行動を共にした可愛い2人の弟子でさえ日蓮大聖人の事を理解出来ないでいる事を分かっていた。 日蓮大聖人が法華経を第一義的にした。また 日蓮大聖人という人間がが法華経にコミットしていた。 という事実をどう見るか?がポイントなんだろう。 例え十如是が鳩摩羅什の創作だったとしても(サンスクリット原典との比較において) 勤行要点の最初に書かれている「妙法蓮華経 方便品第二」から「嘱累品」までを一気に読めば そこには偉大なるドンデン返しに皆驚かされる。 カート・ボネガットの「タイタンの妖女」のように。 法華経「全ては嘘だよ」 日蓮大聖人「嘘でもいいんだ!」 カート・ボネガット「全ての人間は、それでいいんだよ。」 キルゴア・トラウトは、何故、天のあの人に中指を突き立てたのだろう? >>464 日蓮も他宗を弾圧するように熱心に幕府に進言していたね。 逆に頭がおかしいと思われて佐渡流罪・身延保護観察に処された。 しかし、変な印刷の紙の前で一心不乱にゲキョゲキョしろっていうのは戒律なのか >>468 創出版が出した「開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件」 (7月21日ついに書店に並んだ篠田編集長の魂の一閻浮提) この中で様々な心理学的、精神病理的、共分散構造分析的に犯人の植松聖被告の手記や面会の総括を試みる。 大義名分としては篠田編集長は「事件を風化させない為に」と語るが、この大義名分には、この書を読んでくると両義性のある言葉だと分かる。 一読を勧めるが、篠田編集長が多くの読者、多くの人間、多くの「自分は普通の社会人だ!」と己が実存を軽んじる人達に対して 篠田編集長は 1・人間の2者性 2・病気であるとは言えないが、正常であるとも言えない現証 3・社会病理の加害者は(植松聖は)、加害者になる以前の何年も前から、心を幾度も殺された社会病理の被害者では無かったか? を訴え続ける。 日蓮大聖人に関して私達が直接リアリティを持った情報を知り得る事は出来ない。 しかし、日蓮大聖人も何らかの社会病理の被害者として生きてきたのなら 大乗仏教の慈悲ある行為として、他宗弾圧や、あつかましい進言などの迷惑行為(現在なら執拗な女性へのストーカー行為にも似た) これらは承認される物ではある。 ただ、気おつけて読み直して欲しい。 植松も法曹で裁かれる、加藤智大も金川真大も死刑判決を受けた。 それは法治国家としてのシステム上の話で、社会問題の話だ。 哲学や宗教的問題として彼らは裁かれたのでは無い。 本物の仏教者ほど統合失調者に見えるものである。日蓮大聖人は時の社会問題として裁かれた。 それは形而上学的でも無く実存主義でも無く分析哲学的でも無くポスト構造主義的でも無い。 ただ社会問題としてして流罪をされただけだ。 ここが分からない人が多過ぎる。 >キルゴア・トラウトは、何故、天のあの人に中指を突き立てたのだろう? おそらく村上春樹の「風の歌を聴け」も読んだ事があるでしょう? またカミュの「シーシュポスの神話」も読んだ事があるでしょう? 全ては完成されないんだよ。 全ては変化し続けるんだよ。 それは釈尊も法華経もトラルファマドール星人もデレク・ハートフィールドも テディもバナナフィッシュの男も真理を見つけた人達によって語られるんだよ 不条理の偉大なる英雄。シーシュポスを僕は山の麓に残そう。(アルベール・カミュ) 分からない人はレスしないでくれよ。 >>469 さん 印刷され作られていく工程を見学できるのであれば、一発で目覚める人達が大勢いることでしょうねw それはともかくですが、インクの臭いがきついと私は思いましたが、まぁ仏壇に掛けて置けば少しは消えることでしょうけどね。 色香美味の香とはビニールを焼いたような臭いでした。 正宗のほうのは、そんなに臭いがなかったような、、、。 >>470 さん 誰に誓うのでしょうね。w 私に限らず大半の創価信者は大石寺根本の教えを元に授戒してきたはずであって、当初の牧口、戸田氏の誓いに習う団体でもあったはずなのですね。 日蓮の教義を知って入信する者は殆どいないものであって、近親やら知り合いから「折伏」されて入会の儀式を行ってしまったのが殆どなはずですよ。 これから儀式を行おうとする本人も意味がわからずに授戒とやらを受けてしまうわけですね。・・・・私もですがw 要するにです、知識もない人間が誓うものに気持ちなど殆ど無いに等しいのですね。 「彼は我を罵った、彼は我を害した、彼は我に打ち勝った、彼は我から強奪した」 という思いを抱く人には、恨みは止むことはない 「彼は我を罵った、彼は我を害した、彼は我に打ち勝った彼は我から強奪した」 という思いを抱かない人には、ついに恨みは止む 実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを持ってしたならば、ついに恨みのやむことはない 恨みを捨ててこそ止む これは永遠の真理である 「われらはここにあって死ぬはずの者である」と覚悟をしよう この理を他の人々は知ってはいない しかし、この理を知る人々があれば、争いは静まる』 悟りよ! 幸あれ! スチール・カンさん 日蓮の末法無戒は、日蓮が伝教大師の作と信じた『末法灯明記』からのものでは?。 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%9C%AB%E6%B3%95%E7%81%AF%E6%98%8E%E8%A8%98 その伝教大師は、大乗戒壇の建立を願ったから、伝教大師を根本大師と仰いだ日蓮が戒壇建立を願ったとしても不思議ではないと思います。 本人は言ってないのに、辻説法していたとか戒壇建立を 望んでいたとしても不思議ではないなら 末法無戒なんだし、女房がいたとしても盗賊まがいのことをして 活動資金を得てたとしても不思議ではないな。 オウム残りの6人も、行ってしまったのか…。 前の七人と合わせて、十三人てことだから、 十三階段につながってんね。 麻原尊師と、十二使徒の受難。 とすれば、また別の意味で、数が揃ってますね…。 数字とか、言葉の符牒合わせで、 神秘主義は成り立つんだけど 法務省と裁判官は、そういう感覚が まったく頭にない人たちですな、 一人二人恩赦だして、微調整すればよかったのに…。 ※※ でも死刑囚とはいえ、テキパキと十三人も あっという間に処理してしまう手際の良さ。 これって、覚せい剤がらみの口封じ? 厚生省の麻薬取締局が、サリン製造の第七サティアンを ちょっと見せてくんない? と興味を持ってて、 でも警察はさっさと解体して証拠隠滅してしまった、 という阿修羅の記事を思い出した…。 昔から黒い噂のあった、連立与党のお〜、 某K明党のバックにいるう〜、 えーっと、また度忘れして、 どうしても名前が思い出せないな。 あっ、玄関でチャイムの音が鳴ってる…。 >>343 『欲知過去因、当観現在果』 大蔵経DBで検索すると、法苑珠林がヒットすんのか…。 法苑珠林(ほうおんじゅりん)は、唐代に道世が著した仏教典籍、類書。 668年(総章元年)成立…。引用する典籍は仏教のみならず 儒家、道教、讖緯、雜著など400種を超え…。 いわゆる雑学ダイジェスト集ですな…、 必ずしも仏典ではなくて、他にも 諸經要集とかいうのがヒットしてる。 ※※※であるから、欲知過去因当観現在果である、 と並べて使う一般的な成語と思われますが。 日蓮師匠は、各種ダイジェスト版とか、 平家物語のような小説、説話集、 初心者向けの仏教入門書みたいなのから、 つまみ食いやり放題で、数文字から 一文節ていどの引用を繰り返してるだけなのよ。 そしてその引用が正しいのか 原文を探し出して比較対照すれば、 ほぼすべて無関係でデタラメな理屈なのは かんたんにわかるんだけど、 ※※※※だから、※※※※(難しい漢文表現)である。 と並べられると、なんとなく見た目がそれっぽくて、 高尚な感じもするから、それで世間がダマされる。 でも、現在はネットとデータべ―ス検索あるから、 原文の居場所がすぐにバレるけどな…。 >>480 それで、欲知過去因、当観現在果は まったく仏教じゃないでしょ。 過去も現在も未来も何も見ないのがbodhi概念で、 いちいち過去だの未来だの見てるから 日蓮教は、俗物思考から抜け出せないのよ。 王道経典、般若心経の続編である、 金剛般若経の一節にある、心不可得は…。 (金剛般若経) 如來説諸心皆爲非心是名爲心。 所以者何。須菩提。 『過去心不可得。現在心不可得。未來心不可得』 須菩提。於意云何。 若有人滿三千大千世界七寶以用布施。 如来がいろいろな心(のあり様)について話すのは、 すべて心でないものの(説明をしたい)為で、 このことを心と名付けているのですが、 スブーティよ、これはどんなものかと言えば、 過去の心を得ることが出来ず、 現在の心を得ることも出来ず、 未来の心も得ることが出来ません。 スブーティよ、これがどんなことかというと、 三千大千世界にいる人が…。 >>481 この心不可得を重視してるのは、 13世紀中国は南宋の禅宗で、 道元禅師が南宋から持ち帰った膨大な量の 禅話集である、正法眼蔵の八巻に、 徳山和尚の心不可得、という話がある。 臨済とならぶ唐代禅宗ツートップ有名人の 片割れが徳山和尚ですが、 若いころは、金剛経の講義をして 全国を旅する経典学者だったようで。 ある旅の途中、道端で休憩していて、 餅を売るお婆さんが居るので、餅を売ってくれと、 徳山が言うと、婆が言うには、 和尚が学者さんならば、金剛経には、 過去心不可得。現在心不可得。未來心不可得とあるが、 わたしがこの餅を売ったとして、 和尚はどの心に餅を食べさせるつもりだい? と質問されて、まったく答えられず、 その場に立ち往生してしまう、という話。 ※正法眼蔵のなかで、道元禅師は徳山和尚のかわりに あれこれ答えを考えて書いてますが、いまいち わかってないなー、という感じ、 心不可得、を書いた仁治二年は、41才ぐらいか…。 曹洞宗と臨済宗の理解の違いというのも伝統的にあって、 でも、心不可得の答えは、話の中ですでに 徳山が回答済みですよ…。 臨済宗はインテリ向け仏教。 曹洞宗は道元教。 と揶揄されがちだが 以前、東大で大森曹玄老師の講義を受けさせてもらった。 この徳山についての公案を用いて、その解釈の違いこそが、それぞれの自身の誤謬の告白なのだと真剣に語られていた。 臨済宗の公案体系も(老師は十牛図を示して) 曹洞宗の現成公案も 道元教というカルト思想も 実は、全てはカルト思想なのだとの主張であった。 仏教に興味の無い人には「大森曹玄老師ともあろうお方が、禅宗を否定するのか?」と驚くかもしれない。 仏教を真剣に勉強されている方には、既に老師の仰る言葉がストンと土手っ腹に落ち着いたであろう。 「意味」がストンと腑に落ちるのでは無く、「言葉」がストンと腑に落ちるのである。 仏罰を怖れず天機を漏らせば、ただ「無心」に餅を食べれば良いだけである。 禅の公案であれ、法華経の七喩であれ、 仏教の「言葉」には二重三重にも「善意のトラップ」が仕掛けられている。 不立文字や教外別伝に囚われ、不立文字や教外別伝を見失う。 法華経の方便に囚われ、法華経自体を見失う。 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった! 日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。 >>476-477 愚人さん 私が疑問に思うのは正宗や創価の「受持即受戒」という末法での戒めが新たにつくられたことに曖昧さを感じるのですね。 これって都合によっての戒律を切ったり残したりしているわけですね。 創価に対しては、もっとも基本であったはずの正宗から受けられた授戒さえも切ってしまことにもなったわけですよね。 これらは、授ける方(創価や正宗)の勝手な教義にも気付くことのない盲目の人達の団体ではあるのでしょうが、 コロコロ変わるお話しの中の「今の教義だけを信じなさい!」ということが奴婢への「受持即受戒」だと言っているようなものかと思うのです。 利用しやすい日蓮遺文を根拠に現在の体制が作られていることが、どれだけの価値があるのかを信者さん達は考えるべきなのですが、その思考さえもできないでいるにが 今の残党信者なのでしょうか。 人としての行いぐらいは自分判断すればいいのに。 他スレで話題にされそうとしているのですが、 末法の灯明に脱益の光は不要とやらに、靖国神社の参道を照らす提灯にもなる正当性も仏法を根拠にした随方毘尼の法門もいい加減な戒律なわけですね。 創価・日蓮正宗の御授戒は退転させないための儀式で それが一番大事な戒なんだろうw http://www.houonsha.co.jp/jiyu/13/434.html 御授戒は、大法弘通の時を感じた牧口常三郎創価学会初代会長が、昭和十二年頃、入信の 儀式として宗門側に提案し、おこなわれはじめたものである。 このとき、宗門の大勢は御授戒に反対であった。牧口会長の発案を諒とされ、用いられたのは、 当初、歓喜寮(中野区)と砂町教会(江東区)に過ぎず、あとから常在寺(豊島区)が追って おこなった経過がある。 このことについて、和泉創価学会最高指導会議議長は、 「当時の新入信者は、いくつもの邪宗を 遍歴したうえで入信するケースが多かったので、正しい信心への“けじめ”をつけさせ、信心の くさびを打って退転させないために、授戒の儀式をうけさせたのである」 (『聖教新聞』平成三年十二月二十五日付より引用) と懐古されている。 おまえは御本尊様に退転しないと誓ったよな? どうなっても知らないぞ ヒーヒヒヒッ 日亨上人が御授戒の儀式について 「近古に至って、にわかにその式が新設せられた」と記されている通り、 宗門が「授戒文」を制定したのは昭和四十一年二月九日である (下の資料を参照)。 実際、大聖人御在世においては出家の弟子に対してさえ 最蓮房以外には授戒されたという記録は残っておらず、 ましてや在家の信徒が授戒を受けた記録はない。 本来、「授戒」は入会に際して一つのケジメとして始められたもので 「昭和十二年頃、学会の草創期に牧口初代会長が宗門に依頼して 始められた」とは、当時をよく知る学会の和泉覚氏 (故人、元最高指導会議議長)の話である。 学会の出現以前は日蓮正宗に入信する人もおらず、 「授戒」の必要もなかった。 「授戒文」制定の理由は、 「各寺約十指に余る夫々の様式」 「その中には二、三意義に於いて、過不足と思われるものも認められる」 「宗門的見地より統一する必要があると思われる」というものだった。 即ち、昔は御授戒など行っていなかった宗門は、 学会に入会する人に対して実施するようになったが、各寺はバラバラだった。 そこで昭和四十一年に正式に制定した経緯があり、 今の勧誡も授戒も深い意味はない。 ジークンドーの関係者や愛好者の諸君! 情報入ったぞーッ! 朗報だぞ! ダン-イノサントが初期の頃ジークンドーと偽って教えていた格闘技パナントゥカン を今に伝えるIUMA振藩國術館は、 創価学会員が運営するカルト団体だった! 脱会者を許すな!邪魔者は潰せ!自殺に追い込め! バックには学会がついている!怖いものはない! 「尾行」「見張り」「脅迫」「誹謗中傷」「怪電話」「殺害予告」などの犯罪行為は当たり前! これが証拠だ! 一番問題なのはもう一つのコンセプト・グループの代表の中村君と、その弟子達の一部です。私もミタチ君 もそこの代表の中村君には相当な被害を受けてきています。 とある日、私とユタカ君が以前お台場にあったマーシャル・アーツ・カフェに行った時、 そのもう一つのグループの代表の中村君と偶然に出会ってしまったのです。 当然、そこで話し合いをしたわけですが、その代表は和解したはずのミタチ君への 非難を堂々と私に話したのです。しかし過去に私をも否定し、非難文を雑誌に載せただろ う、と問いただすと、彼は「あれは雨宮さんのことではなくてミタチさんのこと について言ったんですよ」、とその場を逃れるように私に答えたのです。この後まだまだ 事が起ったのですが、この辺でやめておきます。つまり、私が言いたいのは、その代表が ある人の事について話すとき、本人の前で直接話す時の内容と態度が、弟子達に話すとき の内容と態度とまるっきり正反対であるということです。このようにして私、私の弟子、 私のスクール、そしてテッド・ウォン師父までもが、長い間その代表と弟子達の一部によ って悪口を言われ続けてきました。特にテッド・ウォン師父や私が雑誌に掲載されたとき はひどかったものです。イタズラ電話や無言電話の嫌がらせもありましたし、それはユタカ 君にまで及んでいました。弟子達の様々な悪事を見てみぬふりをして、知って知らぬふり をするそこのグループの代表の中村君の人間性を私達は疑っています。当然そのようなことはテッ ド・ウォン師父を通じてリンダ夫人にも報告はしていますが。 彼らが悪口、非難、中傷さえしなければ、私は暴露文など出すつもり は毛頭なかったのですから。 そもそも日蓮本人が受戒もしていない「なんちゃって坊主」だから末法無戒を唱えて開き直っていたのに、 日蓮教で授戒だの受戒だの仏教の猿真似をすること自体ちゃんちゃら可笑しい。 最蓮房宛は真蹟や日興写本など一切残ってないのに 授戒されたという記録は残ってるのかよ それが日連団 初期仏典と言われている『スッタニパータ』の中に、受戒(入門儀礼)が書かれている。 われらは尊き師にお目にかかりましたが、われらの得たところは実に大きいのです。眼ある方よ。われらはあなたに帰依いたします。あなたはわれらの師となってください。大いなる聖者よ。(岩波文庫 中村元訳 『ブッダのことば』17頁) わたくしは、ゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、わたくしを在俗信者として受けいれてください。今日以降命の続く限り帰依いたします。(岩波文庫 中村元訳 『ブッダのことば』36頁) 参考 『ウパニシャッドと初期仏典の一接点 ―― 入門・受戒の儀礼とブラフマチャリヤ――』 梶原三恵子 また日蓮も釈迦仏が授戒を行っていた認識を持っている。『報恩抄』に、 在世には仏と提婆が二つの戒壇ありて とある通りである。また日蓮は続いて、 わが師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ。(中略)されども経文分明にありしかば叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給ひぬ。(中略)天台よりも伝教は超えさせ給ひたり。 と大乗戒壇・迹門の戒壇を建立した伝教を讃えている。そして、その後に続くのが三大秘法の文であり、そこには、 二つには本門の戒壇 とある。これは、像法は迹門の戒壇であり、末法は本門の戒壇であることを教示していると思う。 ならば日蓮は、本化の菩薩として弟子檀那に、法華本門の受戒(入門儀礼)を行っていたのではないかと思う。 スッタニパータの帰依と日蓮の授戒は全く別物だよ パーリ語を日本語に翻訳した中村元先生は尊敬するけど 彼は仏教研究家では無く、東洋哲学研究の大家だ 日蓮系の人が原始仏教に接すると可笑しな解釈をしてしまうし 原始仏教に明るい人が法華経を読むとビックリするしで 文化圏の棲み分けという問題を考えた方が良い スッタニパータの帰依と日蓮の授戒は全く別物だよ パーリ語を日本語に翻訳した中村元先生は尊敬するけど 彼は仏教研究家では無く、東洋哲学研究の大家だ 日蓮系の人が原始仏教に接すると可笑しな解釈をしてしまうし 原始仏教に明るい人が法華経を読むとビックリするしで 文化圏の棲み分けという問題を考えた方が良い >>496 意図的に混同して日蓮教の矛盾を相対化しようとしているのだよ。 日蓮という擁護しようのない糞坊主の罪業を覆い隠すには議論を錯綜させるしかない。 受戒とは、仏道入門儀礼だと思う。 その入門儀礼は『スッタニパータ』にも記述があり、伝教大師も行っていた。 末法になって本化の菩薩を自称する日蓮が法華本門のうえから入門儀礼を行っていたとしてもおかしくはないという話だ。 髪を剃るっていうのも仏門に入る儀式みたいなものだもんね。 多分、自分ではできないから誰かに剃ってもらうことになると思います。 剃髪云々もそうだけど、これから法華経行者として心得ることの受戒は法華経内容に沿ったものにすべきかと思うのです。 「末法無戒」などと言うような思想や教義はできるはずがないのですよね。但し書きに「受持即持戒は除く」とでも言っておかなければならないかと、、、。 この受け持つ戒とは何であるかというと「法華経での教え」を持つ受けるものじゃないかと思います。 「法華経に帰依します」って誰に誓うのかと考えたら、無論日蓮にじゃなく釈迦仏にだよね。 見宝塔品、勧持品、安楽品、従地涌出品、分別功徳品を根拠に「授戒」という思想があるのですが、どうも興門派の教義はおかしいと思いますよ。 「南無妙法蓮華経!」の発する誓いは良しとしても、内容を重視しないようでは意味ないものだと思います。論外ですよね。 ここの宗派、日蓮本佛論がオカシクさせているんだな。 (法華経該当箇所は長すぎてここでは書きません)汗 >>498 愚人さん 日蓮が自ら、絵を書いたり文字曼荼羅を書いたりするのは成仏への途上の表れだと思います。 仏道の一貫とでもいいますか、子供が砂遊びで仏像を造るのと同じようなものなのでしょう。 法華経方便品での釈迦は、これらの行いをしていることを 「仏道成就をしている」 と説いていますので、 必ずしも固定された宗派の儀式で仏道入門ということはないはずなので、 日蓮が何かしらの儀式を弟子に敢えてすることもないと思いますが、、、どうでしょうか? >>498 スッタニパータから ダンマパダ サンユッタニカーヤ マハーパリニッバーナ まで続けて読んでみて欲しい スッタニパータにはバラモンやジャイナの影響、また社会的な事情、文化的事情もあり どちらともとれる文言が散見されるが サンユッタニカーヤとマハーパリニッバーナ(旧・涅槃経の方)には 釈尊は明らかにヴェーダを否定している。 全てにおいて(ここは強調させてくれ) これを矛盾と見るか?善意のトラップと見るか?は読み手に委ねられている。 スチール・カンさん 日蓮は、曾て真蹟が身延に存した『聖密房御書』で、 東寺の真言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし と教示しています。末法に於いては、叡山の戒壇であっても驢乳・臭糞の戒だというのが日蓮の認識であったと思うのです。 末法に於いては天台・伝教の未弘の法である法華本門の三秘密の法すなわち三大秘法の本門の戒壇で受戒を行う、これが日蓮の認識だったと愚人は思います。 法華本門の戒壇の建立は未来の事としても、日蓮は、三大秘法を以て受戒(入門儀礼)を行っていたと思うのです。これによって日蓮が弟子檀那となることが出来ると思うのです。 >>501 ブッダの受戒(入門儀礼)は、ヴェータの教えを受けるものではなく、ブッダの教えを受ける為のものです。 ヴェータの神の前で受戒(入門儀礼)をするのではなく、ブッダの前で受戒(入門儀礼)をするのです。 京都大学学術情報リポジトリ ウパニシャッドと初期仏典の一接点 --入門・受戒の儀礼とブラフマチャリヤ-- 梶原 三恵子 この論文は、参考になると思います。 スチール・カンさん 日蓮が曼荼羅本尊を書いたのは、砂遊びとは違うと思います。時間がないので『観心本尊抄』を読んでみて下さいとだけ書いておきます。 >ブッダの受戒(入門儀礼)は、ヴェータの教えを受けるものではなく、ブッダの教えを受ける為のものです。 いやいや、そうなんだけどさ 根源的にさ日蓮と原始仏教の大きな違いって、喩えて言うと アートマンとアナートマンの解釈の違いとかさ 釈尊は「四苦を滅しようと出家」したのでは無く「善を欲して出家した」とかさ そういう対立概念としてさえ成り立たないよって話ね サンユッタニカーヤの神との対話や悪魔との対話そして マハーパリニッバーナの四依品・菩薩品・月喩品とかで 日蓮の言う末法は定義が全然違うじゃない! って話ですよ。 書き方が下手ですまん。 >>504 愚人さん 誰から質問されたわけでもない自問自答形式の「日蓮が己ずの観心が本尊抄」のようで、これも仏道の途上の姿だと思いますが。 日蓮が論に感化されるものこそが日蓮教徒となるわけでして、その読者の観心に法華経の釈迦の気持ちなど解らないものなのでしょうかと。 そのような信者の心中に法華経での戒壇などないと思いますが。 砂遊びや自問自答が悪いとは私は思っていませんが、他人が作ったものを鑑賞して喜んでいる輩達が何を満足としているのかと不思議にも思いますね。 噛みしめるように日蓮の気持ちを読んでみますね、、、如来滅後五五百歳始観心本尊抄。 有難うございます。 ここのスレにいらっしゃる方で 「テーラガーター」や「空七十論」における言葉の両義性について 何らかの感想・解釈があれば教えてください。 他者の解は他者の解。誰も否定も肯定もしませんから、皆んながどう考えてるのか? 時々知りたくなるんですよ。 ごめんなさい 以前スマナサーラ長老の解釈を聞いたのですが 日蓮とは真逆の独自性・独善性を感じまして このテーラガーターや空七十論には日蓮系の人にも食いつきやすい物かと思いまして 質問させて頂きました。 >>505 簡単に そもそも『涅槃経』では、「了義経」を法華経ではなく「涅槃経」としていますしね。涅槃経の「了義経」を「法華経」とするのは日蓮の己義だと思います。だとすると末法に弘めるのは『涅槃経』かな?。 >>506 簡単に 日蓮が天台・妙楽を通して『法華経』を読んだように、日蓮信者は、日蓮を通して『法華経』を読んでいる。 だから上行菩薩を日蓮だなどどいいだす。 ちなみに私は日蓮信者てはありません。 私の日蓮の曼荼羅についての考えは、後ほど書きます。 私達学会員は勤行唱題で先ず妙法蓮華経方便品第二から読むんですけど 法華経の後半「属類品」まで来ると、方便品第二の前振り、伏線が 見事に回収されるじゃ無いですか? 上行菩薩も地涌の菩薩も宝塔も、本当は無いんだよって 日蓮がもし、この事を前提に上行菩薩と名乗ったのなら、それこそ両義性ありきの善意のトラップですよね? ただ、学会員の中に身を置く私には、、、どうもそのようにも思えない。 多くの学会員は字面に憑依されているだけなんじゃ無いのか?って感じる事があります。 求めていた菩薩も宝塔も本来、何も無かった。 でも、無い筈の菩薩や宝塔を求めたからこそ、ここまで楽しい冒険が続けられた と解釈しても良いような気がしますが、、、、、 「おーい!トム・ソーヤ! 宝物は見つかったかい?」 >>511 地涌の菩薩とは、法華経の製作者達のけと。 オリジナルの法華経の付属は、神力品だけ。 嘱累品は、時が下っての後加分だと思います。 >>511 地涌の菩薩は新しい時代を拓くリーダーという方便が成り立つなら妥当だろ 本門の戒壇を単なる端子と位置づけ自分たちが護持の対象として尊崇してきた”架空の日蓮像”すら 放棄しはじめた学会なんか何のために続けてるんだか 創価とか懸賞会とか正宗から分裂、破門された宗派が問題ばかりおこしてるよね 正宗の教えに問題があるのでは 開眼供養とか戒壇の大ご本尊の件はどうも怪しいし 炭素年代測定あるんだから鑑定依頼すりゃ一発解決なのに頑なに拒否 後世の作と言われても自業自得だよね >>514 元を質せば日蓮こそが諸悪の根源。 ただ日蓮レベルのカルト自営業者は当時も全国にゴマンといたはず。 その 敵対心むき出しにして全ての宗教に喧嘩売るのが教義の核心だったら内ゲバに事欠かないのも当然の成り行きだろ 立正安国論提出の証拠が無いというのは置いといても さすがに、ものすごい数の念仏に襲撃されたら大事件だろう つまり日蓮自身がホラ吹きのインチキ詐欺師じゃないかと疑ってるわけで 日蓮がインチキ坊主か?人智を超える慈悲を持った人物なのか?今となっては明確には分かりませんが カミュが言うように「神話は読み手によって生命を吹き込まれる」の言葉を軽んじなければ 日蓮は読み手によって、読み手の数だけ日蓮が存在するとは考えられませんでしょうか? 原始仏教では「四苦を滅する事」を重要視され、それゆえ釈尊が家族や社会的地位を捨てて出家(逃走)したのは 「四苦を滅する為」と解釈されていると、思っている人は多いですよね。 しかし、マハーパリニッバーナ(パーリ語編の初期版)においては 釈尊がいよいよくたばる時、異教徒の集団が釈尊生存中に一度お話を聞きたいとやって来る話があります。 (マハーパリニッバーナのパーリ語初期版は経典というよりもドキュメンタリーの性格が強い) ここで釈尊は出家した理由を問われて生まれて初めて告白します。それは 「私が出家した1番の理由は四苦を滅する為では無く、善なる物を求める為だった」と告白しています。 更に釈尊は異教徒に言いました。 私は貴方がたのような質問を仲間達(釈尊は終生弟子とは呼ばず仲間と呼びました)から受けた事はなかった。 と喜びながら、仲間達への最後の啓蒙(ダンマの教育)を行いました。 しかし、今でも「四苦を滅する為に出家した」と思い込んでいる仏教者は多いですよね。 >>518 小乗の涅槃経は、ブッダが金色であったり、超能力をつかったり、神話化が窺えるので編纂者達の考えもだいぶ入っているような気もします。 >>519 マハーパリニッバーナは大きく分けて 原始仏教版(初期仏教) 部派仏教版(小乗仏教) 大乗仏教版 がありますが、私が言っているのは原始仏教版の事ね。 小乗仏教版でも大乗仏教版でもありませんよ。 神話化や神格化は第一回結集の時より混乱があったそうで その辺りの混沌もマハーパリニッバーナはドキュメンタリーのように伝えてくれてます。 仏教と言うのは、言葉の多義性だけでも解読が難しい。 シェーンと言う映画がありますが、ラストシーンの少年が叫ぶ言葉が シェーン!戻ってきてよ! だったのですが、様々なの映画研究により、現在では シェーン!また会えるよね! に変わっています。 シェークスピア・ハムレットの 生きるべきか?死ぬべきか?は現在 存在するのか?しないのか?に統一されました 近頃流行ってるが、初期仏教=釈迦の教えと絶対視する向きもまたおかしいね 仏教は学問であって神が存在してはならないし、仏教は歴史的な展開の中で新たな発見や 意味が見いだされ変化を遂げてきた ただし、学問と言ってもあくまで一人一教の教理、主観的経験の学であって 多様な見解を調停しようとする行為もまた妥当でない >522 そうです。そうです。 禅宗の言葉を借りれば 目の前の事象をただ観察する 一無位の真人をひねり出す 不立文字や教外別伝が最初にありきなんでしょう 原始仏教を大乗仏教の様なエヴァンゲリズムで学んでしまう人が多いのは残念ですが 機縁により忽然として皆が悟りを得られる事を祈りましょうよ。 520さん スリランカに伝わった涅槃経のことですか?。 520さん 書き忘れです。 お聞きしたいのですか? 原始仏教版の涅槃経も、編纂されたのは部派仏教時代ではありませんか?。 中村先生をはじめ多くの人達が解読して(解読中) 社会的道義の違いや、貨幣や流通のシステム、チョムスキーの生成文法理論的に 疑問な所、関連性や文脈の連続性と断続性の乖離は見られるというのが現在の一般的な解釈すよね。 要するに色々なアイデア・スケッチを組み合わせて体裁を整えた感は否めない。 梅原猛は大般涅槃経と法華経に対して 「ブッダ入滅後、何百年もたってから、さも先程まで見てきたかの様な事を書く仏教徒のズボラさ」 を指摘し 「このズボラさは宗教だから許され、ズボラだからこそ宗教なのだ!」と 仏教徒のズボラさに肯定的な論を展開した。 仏文は、如是我聞で始まって見てきたようなことばかり書いているかもしらんが、インドに原典のないものを 経典とは呼ばないという原則があるだろう。しかも、仏教は一神教的な律法(神との契約)ではなく体験でしか得られぬ 心の在り方を言い表したものだから記述した時点で色んな誤解や矛盾がでてくるのはある意味で当然のことだ だから知性的な人に 臨済宗やらテーラワーダが人気なのかな? 最近気になるのは若いひと達は苫米地の影響だろうが ツォンカパやナーガールジュナに興味を持つ子が多い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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