>>207-208ひゃっきまるさん
積極的な布教を行った日蓮自身が、法難だとかいう怪我を負うはめになっている事の原因は、日蓮自らの振舞いからだったわけですね。
暴力を振るわれる原因もまた、言葉から出てくるものだと私は思っています。
相手を脅してまでも布教をするというのは常不軽菩薩の精神といえないものであって、法難覚悟とはいっても威嚇的な言葉はどうかと思います。
後にその日蓮の咎が幕府によって罰せられたことは日蓮自身も認めているようですし、
このような発言をも正当化しようとすることは暴力への示唆と私は思ってます。
科学によったとしても日蓮の行動は永遠に良いものだとは証明できないものでしょうと思うのですね。

>教えの解釈が様々になってしまうことは、分裂の原因にはなりますが、争いの原因にはならないと僕は思っています。

大昔からの中東の歴史を見てみてもあの有様ですね。
隣国から日本に攻めてくるという日蓮の予言も仏教の一環にした解釈からでして、また三災七難の自界叛逆も分裂と争いが伴うものであって、
このような例はよく有る話だとは思っています。
今はまだニュースになるほどの暴力沙汰まではなってないとしても、日蓮が教義を信じ過ぎれば誰しもが世法に罰せられることになるでしょう。
それでも彼等が法を仏教にと拠り所とし、世間を見下すようなこととすれば、争いは必然であると思います。
余談ではありますが、信者が坊主を殴るという事件が正宗でありました。
これは被害者と加害者の個人的な分裂であったものでしょうけれども、一概に他人事ではないものだと彼等は思ったと思いますがね。

大勢での争いの始まりはたった一人から始まるもので、宗祖が暴力的な発言をすれば相手も同じような感情になってしまうかと思います。
ぶっちゃけ、日蓮教は戦争での兵士達に教えるにはとても便利かもしれませんがねw