彼は学会を辞めた。

だが、実際に学会を辞めて、いざ一人になったとき、
自由になれたかといえばそうではない。
時間は出来た。
今まで出来なかったゴロゴロしてテレビをみること、
ビデオを借りてきて見ること、などなど、
人とつきあわずに、好き勝手なことが出来る。

さて、それが続けられるであろうか。
人は人との繋がりのなかで、自分の位置を見いだし、
必要とされることで、自分の存在意義を感じるものだ。
ヒマがあることが、自由なのではない。

次第になんともいえない空虚感に支配される。
まあそれでも、辞めたという自分の行動を
正当化したいものだから強がりは言うだろう。
もう今さら学会には戻れない。

そういう風になってしまったアンチは、
インターネットで憂さ晴らしをする。
自説をあたかも正しいように書いて理屈の世界を生き、
脱会をうながし、仲間を増やそうとする。
その姿はあたかもアンチ教信者の様相を呈す。

悪質なのになると、ときにハンドルを変え、ときになりすまし、
学会員を陥れ、嘲笑して喜ぶような、ひねくれた者もいる。
彼らは概して孤独である。