>>734
大体その通りだけど、最後の一行だけ違う

・日本軍が中国にいたのは義和団事件から始まる居留民保護名目のためであり合法な物(北京議定書)。条約によって規模も制限されていた。日本だけが兵を出していたわけでも無い。

・関東軍の主敵はソ連。よく強硬派の代表みたいに言われる永田鉄山やその弟子も主張は「対支一撃論」であり、これは頻繁に挑発を繰り返す中国に対して一度本気で叩いておとなしくさせよう
 (そして対ソに専念しよう) というもので、むしろ中国との戦いを避けるための物である事が分かる。

・盧溝橋事件で日中戦争が始まったと言う事に世間ではなっているが、これは完全な誤り。
 実際は、盧溝橋事件後は速やかに停戦しているし日本軍も政府も戦闘の不拡大方針を厳命し実際軍はそれをよく守っている。
 しかしその後も、中国では国民党による数々の挑発(と言うには生やさしいテロや兵士殺害、攻撃、日本兵の死体を晒すなどの残虐行為)
 が行われた。しかしそれでも日本政府は不拡大方針を厳命していた。(廊坊事件、広安門事件など)

・そして発生したのが通州事件。これによって日本の世論は激高した。当然だ。
 因みにあまり知られていないが通州事件と前後して、中国各地で国民党や中国人ゲリラによる都市や日本人の住む村落への攻撃が行われている。
 多くは日本軍守備隊が撃退したが、通州は北京議定書の範囲外で直接守備隊を置く事が禁止されていたのと、近隣の守備隊が北京南部の南苑に出動中だったためにああいう事になった。
 (つまり日本軍守備隊の働き次第では、他の地域でも数多くの通州事件が発生していたことが予想される)

・通州事件から2週間後、突如蒋介石の国民革命軍の精鋭約3万の部隊が上海を無差別攻撃。上海市内は夥しい死傷者が出る
 特に外国人租界は集中的に攻撃され、フランス租界でも多数の死傷者。(第二次上海事変勃発)
 やむを得ず、日本政府は防衛行動を指令。しかしこの後に及んで航空隊の出動や対空攻撃を禁止するなどまだ及び腰だった。

・日本領事館は国民党に対して抗議をしたが、「我が軍は攻撃されない限り攻撃をすることは無い」と回答してはぐらかす(爆撃による被害も日本軍によるものとして逆に非難した。後に国民革命軍による爆撃だと認めた)

・当初4000の日本軍守備隊に対して3万で攻撃をかけた国民革命軍だが、日本軍の驚異的な奮戦により苦戦、圧倒的戦力差で万に一つも負けるとは
 思っていなかった蒋介石は上海にどんどん援軍を送り込む。最終的には10万を超える兵を投入

・事ここに至ってついに日本政府は中国との大規模戦闘は不可避と判断、上海に援軍を送る決定をする。
 最終的に両者続々と援軍を投入、日本軍は10倍にも上る国民革命軍に壊滅的な打撃を与えて上海の防衛に成功した。負けるなどとは思っていなかった蒋介石は激しく悔しがったという。
 数千人の犠牲者を出したフランス租界の代表者は、日本軍のおかげで上海が守られたと正式に感謝を伝えた。

・一敗地に塗れた国民革命軍は、上海から雪崩を打って逃亡した。逃亡先には国民政府首都の南京があった。日本軍はそれを追撃、こうして日中戦争は始まった。