【兵庫】アサヒビール西宮工場跡地、古墳時代は「たたら場」か 建物跡から鉄器づくりの名残が多数出土 [少考さん★]
アサヒビール西宮工場跡地、古墳時代は「たたら場」か 建物跡から鉄器づくりの名残が多数出土 | 神戸新聞
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2023/1/28 05:30 神戸新聞NEXT
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古墳時代の円墳2基と方墳6基が見つかっている兵庫県西宮市津門大塚町の「津門大塚町遺跡」で、新たに古墳時代の中期(5世紀前半)とみられる方墳2基と、中期-後期(6世紀後半)とみられる竪穴建物33棟の跡が見つかった。6世紀後半の建物跡からは鉄器製作の名残が出土しており、鉄を生産・加工する集団が住んでいた可能性が高いとされる。県教育委員会が27日、発表した。
この時代にあった鉄鍛冶工房の発掘例としては、近畿屈指の規模という。
遺跡はアサヒビール西宮工場跡地にあり、現地で県立西宮総合医療センター(仮称)を建てるのに伴い、昨年6月から敷地内の3区画(約6622平方メートル)で発掘調査を実施。今回が最後の1区画となる。
方墳2基のうち、規模が分かる1基は一辺が約13メートル。周濠からは「初期須恵器」と呼ばれる古式の須恵器や土師器のほか、朝鮮半島で作られた陶質土器が出土した。陶質土器が市内で見つかるのは初めて。
33棟の建物跡は方墳のそばにあり、うち3~4棟からは、鉄器製作に使われた砥石や、ふいごから炉に風を送り込むための土製の管(羽口)、鉄を精錬する際に生じる不純物(鉄滓)も多数出土した。
(略)
※省略していますので全文はソース元を参照して下さい。
>>4 >>1
>朝鮮半島で作られた陶質土器
オマエらいまの日本の世代は、
まさに植民地教育を受けた植民地人だ。
超キモチガワルイ
日本の英雄、三韓征伐の神功皇后が、
戦後の歴史から抹殺されているから
おかしなことになっている。
ふつうの感覚だったら、
それは植民地の朝鮮半島で
古代ヤマト王権が造っていた
土器にしか過ぎない。
任那日本府のあった加耶という地方を
中心に出土している土器だからだ。
当時は、鉄の原材料は地表から拾っていた。
鉄の原材料になるものは、
もうすでに日本国内でも中国国内でも
枯渇していた。
原生林で覆われていた未開の朝鮮半島にだけは、
まだ鉄の原材料が地表にあった。
ヤマト王権は朝鮮半島へ武力侵攻し、
鉄の原材料を奪取していた。
朝鮮半島には、歴史は全く無い。
皆無だ。
欧米の歴史地図では、朝鮮半島は真っ白の空白地帯だ。
文明が全く無かったからだ。
朝鮮半島は原生林に覆われ、
人はまばらに、北米インディアンと同種族である、
ツングース語族がテントの移動生活をしながら
狩猟生活をしていただけだった。
朝鮮半島は寒冷地で農業に適さなかった。
農耕文明の文明人たちはけっして利用しなかった。
しかし朝鮮半島は東アジアモンスーン式気候で
雨量が多いので鬱蒼とした原生林に覆われていて、
大陸ステップ草原地帯の遊牧騎馬民族も
けっしてやって来なかった。
明治になってから大日本帝国が開墾を始めるまでは
朝鮮半島はアフリカ以上の未開の秘境地であると、
欧米をはじめとして紹介されていた。
陶質土器は半島南東部からのもの
初期須恵器はこれに酷似している日本製、その後独自になる
ググればわかるけど一応まとめておいた
まあルーツは半島といえるんじゃね >>2
そこは黙っておいてあげなさい。。。
当然、見つかってるだろうけど、なかったことにしたんだろうから。。。
>>14
その真南が、いまでは今津浜と呼ばれているが、
歴史的に深くて良港だった。
今津の『津』という中国の漢字は、港を意味する。
江戸時代には、江戸表へ向かう酒樽廻船の船着き場で、
紀州からヒノキの酒樽に使う木材を運んで来る船の船着き場
でもあった。徳川御三家である紀州のヒノキを酒樽の原材料に
していた。
鉄の原材料が日本国内ではすでに枯渇していたので
原生林に覆われていた朝鮮半島から運んで来ていたからな。
今津の港があったそのすぐ北で製鉄が行われていた
いうことだな。
>>10 テロリスト!
朝鮮語をしゃべるな!
半島へ帰れ!
公安に通報している
公安、仕事をしろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
西宮は病院アホみたいに多いから別にかまへんやろ。ここの近所にも県立と協立あるし あれ?古代は海じゃ無かったっけ?
と思って調べたらあの辺は陸だった。 宮水ってのがあるんやで。
神戸周辺の土建屋なら皆知ってる。 すごいじゃないか!
技術職人が円墳方墳であれば
前方後円墳の性格がより一層
明確になる
これはすごいぞ 他にどんな製鉄関連遺跡があって、
その中でこの遺跡がどういう立ち位置にあるとか説明してるサイト情報ない? 西宮北口周辺はマンション、戸建関わらず、高額物件ばかりで凄いですね。
例えば、神祇官町にあるジオ西宮北口ガーデンズは全戸で414戸ありますが、安く見積もっても一戸あたり中古価格で5000万円~6900万円もします。
中古にも関わらず、全戸で200億円以上もする計算です。
これは、超高級住宅街と言われているお隣の芦屋市「六麓荘町」や「岩園町」の各町の全体を持ってしても匹敵するか否かの規模です。
近隣にはプラネスーペリア、ブランズもあり、桁違いに資産価値が高い地域だということですね。 >>16
>>27
製鉄じゃない
鉄は朝鮮半島から運んできたもの
この時代は鉄鍛冶やってただけ >>25
畿内以外の古墳はちゃんと調べられてないから
円墳をトレンチしてよく調べると前方後円墳なんてザラにある
造山古墳でさえ最近確定した これまでの長野県の弥生時代像を大幅に変える大集落・松原遺跡の中心部分が発見された。
最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに数多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ入る程の規模である。
同時に日本海側から千曲川を遡り関東平野に抜ける交流ルートの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。
根塚遺跡からは鉄剣が出土しているが、同様の鉄剣は朝鮮半島の蔚山下垡遺跡からも発見されており、渡来人との関連性が指摘されている。
紀元前の遺跡としては伊勢宮遺跡と篠ノ井遺跡が発見されているが、この遺跡から発見された人骨は渡来人の特徴が見られた。
4世紀からはヤマト王権によって伊那盆地が馬の生産管理拠点に定められたことが想定される。
また、そのような馬の導入によって内陸交通網の整備が進み地域間交流が発展したことが、各古墳の多様な様相の背景として想定される。
このように本古墳群は飯田地域がヤマト王権の東国経営拠点かつ東西交通の結節点として機能したことを表象する遺跡であり、
内陸交通網の整備による王権の国づくりの一面を表すとして重要視される遺跡になる。
北信では、北は木島平村、南は千曲市までの領域に約900程の積石塚古墳が見られ、大量の高句麗系渡来人が善光寺平に至ったと考えられている。
八丁鎧塚古墳の後には、大室古墳群や安坂古墳群などが形成された。
南信の伊那谷では特に宮垣外遺跡・新井原12号墳4号土壌・茶柄山古墳群・ 物見塚古墳などには、
馬や馬具の埋葬の仕方や埋葬品の形式から、朝鮮半島南部のあたりから渡来人が至ったとされている。
伊那市の手良地区には「大百済毛・小百済毛」という地域があり、この地名の由来はその名の通り百済からの渡来人によって開発されたからである。 朝鮮征伐で高句麗との戦いで初めて騎馬を目にしたヤマト王権は、馬産を招致し東国に牧を作った。
元々高句麗の馬産が多かった信濃と大陸交易を望んでいた上野の毛野氏を引き入れたのが大きい。
4世紀の朝鮮征伐を主導した毛野氏以降は群馬が東国の中心になり積極的な大陸外交と共に栄えるようになる。
4世紀、倭王権の一翼を担った上毛野勢力が対外活動のために結集するに当たって,それまでの経済圏を越えて,
「外交・軍事指揮者」を共立したのがその歴史的背景であったと考えたい[若狭 2017]。
上毛野全域の集団は,外来文化という果実を手にするために大団結したのである。
その結果として5世紀中葉以降の上毛野地域に現出したのが,後述するような「渡来人と多様な技術群」であった[若狭 2011,亀田修一 2012]。
『日本書紀』神功〜仁徳紀には,上毛野氏祖による朝鮮半島での度重なる軍事・外交活動(荒田別・鹿我別の新羅征討[神功49年],
荒田別・巫別による百済からの王仁の招聘[応神15年],竹葉瀬・田道による新羅征討と四邑民の連れ帰り[仁徳53年])が記されているが,
この文献上の記述と,実際に上毛野地域で確認される考古学的事実(渡来文物の多出)との間には,整合する部分が認められる。
したがって,『日本書紀』の記事には5世紀の地域史の実態が埋め込まれていると考えられる[若狭 2015]。 3〜4世紀、近畿勢力・東海勢力の関東・東北への集団移住 日本考古学協会 西川寿勝 2022 年 12 月 17 日
関東平野では東海の土器をもつ集落と近畿の土器をもつ集落がモザイク状に分布。
https://i.imgur.com/JjWfCJd.png
https://i.imgur.com/xN1nfOC.png 5世紀の仙台平野に朝鮮から伝わった大規模な須恵器窯跡群が置かれ一大生産地になったのも、この頃外交を担っていた上毛野氏などが先進技術を積極的に取り入れた功績、ではなかろうか。
北東北の古墳時代の開始期には、古墳文化圏から北上してきた土師器が加わり、5世紀になると多くの土師器に須恵器が加わるようになる。7世紀以降には土師器・須恵器のみとなるのである。
土師器は、西日本における弥生土器の製作・焼成技術がほとんどそのまま受け継がれて成立した土器である。器種は壺・甕・台付甕・坏・高坏・甑・器台・小型器台・小型丸底坩などで構成され、文様は基本的に施されない。
東北における古墳時代の土師器の変遷は、塩釜式→南小泉式→引田式→住社式とされ、これらの各型式は現在さらに細分されつつある。
青森県内では塩釜式に並行する土師器が五所川原市隠川遺跡で出土している。
須恵器は5世紀の初頭頃、朝鮮半島南部の陶工の渡来により製作され始めたもので、今のところ大阪府堺市大庭寺遺跡から出土した須恵器が日本最古のものとして知られている。
同市に所在する陶邑古窯群は日本の須恵器生産を一手に担っていたが、須恵器の生産技術はそこから徐々に各地へ広がり、東北地方南部にも及んだ。
東北最古の須恵器窯跡は、5世紀中頃の宮城県仙台市大蓮寺窯跡である。その後、仙台市金山窯跡や福島県泉崎村泉崎古窯跡などでも生産された。この頃の須恵器の器種は壺・甕・埦・高坏・甑・器台などが一般的である。
青森県における古墳時代の須恵器は、十和田湖町長根遺跡や天間林村森ヶ沢遺跡、八戸市市子林遺跡・田向冷水遺跡・八戸城跡、東通村浜尻屋遺跡の出土例が知られている。
長根遺跡の須恵器は大蓮寺窯製品の胎土と類似し、森ヶ沢遺跡の須恵器は畿内産のものと推定されている。 三陸河北新報社2022年8月24日
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。
突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。
ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。
宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ
当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。 古墳から奈良時代にかけての日本において、東日本あるいは北日本に居住し、当時の中央政権の支配に服さなかった人々はエミシと呼ばれている。
つまり、エミシという言葉そのものが、固有の文化的特徴を共有する、いわゆる民族を指す言葉ではなく、単なる呼称であるといえる。
アテルイの本拠地である奥州胆沢でも常磐広町遺跡など紀元前後の高度な渡来系灌漑水稲集落が見つかっている。
西暦150〜280年、宮城県石巻市の梨木畑弥生人骨について
https://i.imgur.com/7xAiJAh.png
頭骨の観察的所見では、顔面が面長で、眼窩も高く、鼻骨は狭長で、現代的な印象が強い
上顎切歯に明らかなシャベル状形質が認められる
四肢骨では、脛骨骨体が扁平でない、脛骨大腿骨示数が78.5程度であること
縄文人やアイヌを想わせる特徴はまったくと言ってよいほど認められない
ミトコンドリアDNAはD5b2
結論としては、梨木畑人骨は明らかに和人であり、現代化した特徴を有していた
東日本古墳時代人の遺伝的特徴は東北地方縄文時代人とは大きく異なる一方、現代人には非常に近かった。
この結果は、古墳時代には既に、渡来型弥生人の遺伝的影響が東日本において集団の主体をなすほど大きくなっていた可能性を示していると考えられた。
https://i.imgur.com/0uLa3a5.png
エミシとは誰だったのか-学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像- 2〜3世紀、後漢の終わり頃の倭国大乱の時期に新潟各所では戦乱を彷彿とさせる高地性集落が増え始める
日本海側では鉄器を求めて朝鮮半島から直接、東北方面へと準構造船船団による組織的交易がもたらされていた
実際に東北一円、新潟でもそうだがアメリカ式石鏃が残り、朝鮮半島南東部で作られた鉄斧が一斉に普及する様子を知ることが出来る
長野の根塚遺跡から出土した渦巻紋装飾鉄剣は特注品であり、上越から千曲川流域の在地の人々が朝鮮の鉄器制作工人と直接交渉していたことはよく知られている
朝鮮半島製の青銅器や鉄器は千曲川流域からさらには関東地方まで運ばれ、利器が劇的に移り変わる時期にあたる 朝鮮半島は10世紀白頭山巨大噴火で住民は餓死
して全滅した。
その北方の小便で顔洗うエペンキ国が南下、朝鮮
半島に住み着いた。んで朝鮮人はいまだにうんこ
食するニダ