京都新聞 2018年11月07日 19時19分
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 豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄・慶長の役(1592年〜1598年)の遺跡(京都市東山区)。塚上に巨大な五輪石塔が建つ。

 戦功のしるしとなる首級のかわりに秀吉の将兵が耳や鼻をそぎ持ち帰り埋めたと「淀川両岸一覧」は記す。鼻塚ともいわれる。秀吉軍は朝鮮人の鼻と耳を切り取り、戦勝の証として塩や酢に漬けて日本に送った。高さ約8メートルの耳塚は、これらの耳や鼻を埋めた跡に秀吉が築いた。

 全国統一を遂げた秀吉は中国大陸への侵攻を狙い、朝鮮半島に出兵した。1592年の第1次出兵時の兵力は約20万人の大軍で、4月に釜山、6月には平壌を陥れた。秀吉軍が本格的に朝鮮人の耳や鼻を切り落とす行為を始めたのは1597年からの第2次出兵からという。

 秀吉軍の武将本山安政が残した記録には「秀吉の命令なので男、女、赤子までなで切りにして鼻をそぎ、毎日毎日塩漬けにし…」と記されている。はじめは首を切り落として送っていたが後に耳や鼻になり、樽(たる)で塩や酢漬けにされ、九州・名護屋を経由して秀吉のもとに送られた。

 耳、鼻の数で戦いぶりが評価されるとあって、秀吉軍の諸大名は競って切り落とした。

 秀吉は1597年に塚を築いた。このとき、僧りょ約400人を呼んで供養を行っている。京都芸術短期大の仲尾宏教授(日朝関係史)は「耳や鼻をそぐ行為は、日本では一揆に加わった農民などに見せしめとして行われた。秀吉は耳を塚に埋める前に京都の街で引き回しにしている。慈悲心ではなく武威を示すために建立したのではないか」と指摘する。