着物や掛け軸など和のしつらえで彩る源鳳院の大広間で講演を企画する山科言親さん=京都市左京区で2018年10月2日、川平愛撮影
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 明治改元から今年で150年。天皇が東京に移り、皇室の洋風化もあって消えかけた古式の宮廷文化を、京都に残って後世に伝えてきた旧公家の一つが、天皇の側近だった山科家だ。宮廷装束の調達や着付けで朝廷に奉仕する「家職(かしょく)」が明治期に廃止される憂き目に遭ったが、伝統を絶やすまいと継承に尽くしてきた。同志社大経済学部を今春卒業した30代目の山科言親(ときちか)さん(23)も今夏から月1回の講演会を企画し、「宮中伝統の神髄や本質を伝えたい」と語る。

 山科家は藤原北家の流れで、平安後期から鎌倉初期の公卿・藤原実教(さねのり)(1150〜1227年)が初代。後白河法皇から山科新御所(京都市山科区)と周辺を拝領し、家名の由来となった。宮中では大納言など要職に就いた他、朝廷の財政を担い、家職として雅楽の笙(しょう)や宮廷装束の二大流派の一つ「衣紋(えもん)道山科流」を継承してきた。

 だが、明治維新により、装束を宮中に納める「調進」と、身分や儀式に応じて着付ける「着装」の役目が廃絶。明治天皇の洋装化などで伝統的な装束が排除されるようになり、京都で装束に関わる職人も減るなど苦難の時代を迎えたという。京都府などによると、明治以降に途絶えた宮中行事の代表例として、端午や七夕、重陽(ちょうよう)など五節句行事がある。

 それでも、幕末から明治、大正へと公家激動の時代を生きた山科家の25代当主、言縄(ときなお)伯爵(1835〜1916年)が「有職(ゆうそく)保存会」を組織して会長に就き、学者や職人、財界人らに装束など宮廷文化を伝承する活動に奔走。幕末に天皇のお使い(勅使)を務めた経験から、勅使が神社の祭祀(さいし)に出向く「勅祭」がいったん途絶えた後も、再興に力を尽くしたという。

 言親さんは「明治後半や大正期には既に江戸期の宮中儀式のやり方を知っている人が他にほぼいなかった。宮廷文化消滅への強い危機感が当時からあった」と話す。

 言親さんも今年8月から、2020年で築100年となる山科家旧邸宅の旅館「源鳳(げんほう)院」(京都市左京区)で、公家文化や伝統芸能に詳しい専門家を招いた講演会を毎月企画。残された日記や所蔵品を基に、七夕には貴族が織り姫の使う糸を連想させるそうめんを食べていた風習や、蹴鞠(けまり)の場面が入った能を紹介するなど宮廷文化が溶け込んだ伝統や慣習を紹介してきた。

 天皇代替わり儀式などに向け、装束の着付けについて現当主の祖父言泰(ときひろ)さん(93)や父言和(ときかず)さん(60)らから、言親さんは手ほどきを受けて育った。明治維新後の先祖の使命感を持った生き方を知り、「装束の伝統は一度切れたが、苦難の歩みがあって細い糸でつながった。明治維新が日本文化に影を落とした暗部も忘れてはならず、先祖のように今を生きる人に伝えていきたい」と話す。【中津川甫】

毎日新聞 2018年10月15日 12時44分
https://mainichi.jp/articles/20181015/k00/00e/040/199000c
毎日新聞 2018年10月15日 大阪夕刊
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