https://ja.wikipedia.org/wiki/異端審問

この種の異端審問制度はドイツやスカンジナビア諸国など北ヨーロッパへも拡大して
いったが、ほとんど定着せず、場所によってはより穏健な形のものに変容していった。
また、イングランドでは異端審問はほとんど行われなかった。中世の異端審問がどれ
ほどの規模で行われたのかは正確に知ることは困難だが、現代の人々が想像するほど頻
繁に大人数の処刑が行われたとは考えにくい。記録によれば、中世異端審問が最も活
発に行われた1233年に南フランスの異端審問官に任命されたロベール・ル・プティは
数百人に火刑を宣告したが、刑罰が過酷すぎるという理由で1年目で解任された。有名
なベルナール・ギーは異端審問官を16年間の長きに渡って勤めたが、死刑を宣告した
のは40件に過ぎなかった[7]。