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【大阪】陸軍大正飛行場(八尾市) 「防空」担った未完の軍都[09/15]
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0001坊主 ★
垢版 |
2018/09/15(土) 22:24:35.60ID:CAP_USER
陸軍大正飛行場は戦後、米軍に接収されたが、1954年に返還され、現在の八尾空港(約70ヘクタール)に
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第11飛行師団司令部跡の碑。戦後70年記念に建てられ、司令部の施設も図示されている=大阪府八尾市志紀町西3の志紀町西公園で
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現存する飛行第246戦隊の戦闘指揮所。コンクリート造りで壁の厚いところは約1.2メートル。現在は陸上自衛隊八尾駐屯地の広報展示室として使われ、内部には大正飛行場関連や戦時中の装備品、現在の陸自の活動などの資料を展示=大阪府八尾市空港の八尾駐屯地で
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 第二次世界大戦では、航空機が兵力の主流となった。「防空」が叫ばれ、1941(昭和16)年、太平洋戦争開戦を前に完成したのが「陸軍大正飛行場」(八尾市)だった。郷土史を研究する「河内の戦争遺跡を語る会」代表で、「日常の中の戦争遺跡」の著者、大西進さん(77)=八尾市=に聞いた。

 陸軍は38年開校の「阪神飛行学校」(「大正飛行場」に39年、改称)を40年に接収。周辺の土地を強制的に買収して軍用飛行場にした。同年の府の記録などによると、用地費などの建設計画予算は計750万円。府が150万円、大阪市が70万円を支出し、民間の寄付で430万円をまかない、陸軍は100万円を負担した。民間が軍に献納した形だ。後に工事費187万円が追加計上された。

 飛行場は近畿を中心に中国・四国から中部地方までの防空を担った。広さ約287ヘクタール、主滑走路の延長1600メートル、副滑走路1300メートル、いずれも幅100メートルでコンクリート舗装され、国内最大規模かつ高規格で「東洋一」とされた。

 西側には大阪陸軍航空廠を併設。飛行機の整備、補給、修理の基地で、資材も調達し、約1600人が働いた。誘導路で滑走路とつながり、貨物専用線も引き込まれていた。

 飛行戦隊の配置は41年10月から始まった。42年8月には第18飛行団司令部が設置され、44年7月には第11飛行師団に発展。飛行場には第11飛行師団司令部の本部庁舎や作戦室、講堂、兵舎など67棟があった。迎撃の実動部隊、飛行第246戦隊も44年3月に配備された。

 では、飛行場はどのように使われていたのか。大西さんは師団長の北島熊男中将の手記など記録を調べ、作戦室に入ったという気象班の人たちを探して聞き取りをした。

 それによると、当時最新の通信機を使い、陸軍開発のレーダー「電波警戒機甲乙」や敵機来襲を見張る「監視哨」などの情報に基づき、飛行機や高射砲で迎撃していた。気象班員は「びりびりした空気だった」と話したという。

 悲しいことに、米軍機が飛ぶのは高度10キロの高空。高射砲は飛行場に配備された7・5センチ砲でも7・5キロぐらいまでしか届かなかった。それでも、246戦隊の飛行機が迎撃、45年1月には米軍機B29を撃墜した。その後も体当たり攻撃で撃墜するなど、文字通り死力を尽くした。

 しかし戦争末期には、飛行機が不足。ベニヤ製のダミー飛行機をおとりに、高射砲1発で米軍機を脅す程度が精いっぱいに。ちなみに大西さんは府立八尾高校の出身で、3階建ての立派な校舎があった同校などには戦時中、電柱を斜めに立てたニセの高射砲があったとか。近隣住民に対するデモンストレーションでもあり、軍はまじめにやったのだが、これだけ窮乏するともう戦いにならない。

 飛行場は、沖縄やフィリピンに行く特攻機の中継地となった。墜落・破損した航空機の部品を特別列車で航空廠に運んで飛行機を修理し、待機していたパイロットが乗り込むありさまだった。

 45年4月には、「航空総軍」という組織が新設された。陸軍の航空戦力を一元的に統合し、本土決戦に臨むためだった。作戦は特攻が主流で、司令部は大正飛行場に置く計画だった。総軍の戦闘司令所として、奈良県香芝市の岩山「屯鶴峯(どんづるぼう)」に地下壕を整備したが、使われる前に終戦を迎えた。「戦争が長引けば、『軍都・八尾』は空襲の目標になり、大被害を受けたはず」と大西さんは話す。「未完の軍都」で幸いだった。

 飛行場は戦後、現在の八尾空港になった。また、一部は工業団地に変わった。航空廠の優れた技術を受け継ぐ人たちが「ものづくりの町・八尾」を発展させ、高度経済成長を支えた。【亀田早苗】

2018年9月15日
http://mainichi.jp/articles/20180915/ddl/k27/040/361000c
0002やまとななしこ
垢版 |
2018/09/15(土) 23:21:39.61ID:uTuHfcZ0
東大阪のほうには、そういうのが、あるんだ。

伊丹空港は、戦時下には軍用になっていて、防空戦闘機部隊がいたはずだった。
だけど、尼崎大空襲のときには何も迎撃しなかったんだ。
ちょろちょろと、一機だけ上昇していったみたいだけど、すぐに堕ちていっただけだったよ。
尼崎は巨大な1トン爆弾が雨のように降って来たんだ。
大爆発していった後に、黒い雨が降るんだよ。
松田優作の映画「黒い雨」でも、やってた?
だから、尼崎市て「無防備都市宣言」今でもやってるなあ
0003やまとななしこ
垢版 |
2018/09/16(日) 01:14:01.86ID:NQMHwzxW
ファビ開戦した東朝鮮韓唐エベンキ国賊偽日本ちょんこゴキブリ寄生虫が悪いわな
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