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【和歌山】新義真言宗総本山根来寺(岩出市) 焼き打ちを今に伝え 堀や石垣築き信仰守る[01/08]
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0001坊主 ★垢版2018/01/09(火) 23:26:17.15ID:CAP_USER
国宝の大塔(左)と本堂の大伝法堂。豊臣秀吉による焼き討ちでも、火は及ばなかった=和歌山県岩出市根来の根来寺で、山成孝治撮影
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根来寺文化研究所の中川委紀子所長=和歌山県岩出市根来の根来寺で、山成孝治撮影
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地図
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 桜や紅葉の名所として知られる真義真言宗総本山の根来寺(岩出市)。教学の拠点として隆盛を極め、戦国期には焼き打ちに遭いながらも、信仰を守り続けてきた。これまでの発掘調査では堀や石垣など、城郭と共通する防御のための遺構が見つかり、名刹(めいさつ)の激動史が明らかになりつつある。

 「千五百以上の寺院、およびその数を上廻る神と仏の像が炎上した」

 ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイス(1532〜97年)は著書「日本史」で、天正13(1585)年の豊臣秀吉による根来寺の焼き打ちの様子を書き残している。近年、記述を裏付けるかのように、焼土など焼けた跡が多数見つかっている。

 根来寺は、平安時代後期の僧、覚鑁(かくばん)が1132年に高野山に開いた大伝法院が始まりで、鎌倉時代の1288年、根来に移された。

 発掘調査を基にした推計によると、一帯には、僧侶が学ぶ「院家(いんげ)」と呼ばれる学校が300以上あったとみられている。スペイン人宣教師、フランシスコ・ザビエル(1506〜1552年)の書簡にも、根来寺には学校があり「凡(およ)そ三千五百人以上の学生を擁している」と、推計に合致する記述が残されている。

 根来寺文化研究所の中川委紀子(いきこ)所長(69)は「経典や法衣から食事まで全て人数分が必要で、今とは比べものにならない状況だったはず。目立ち過ぎたため(勢力拡大を恐れた)秀吉の焼き打ちにあった」と解説する。

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 2011年の第4次調査では、口や胸びれなど雌雄2体分の鯱(しゃち)瓦の破片が見つかった。鯱瓦は後世、寺院建築にも用いられるが、当初は城郭のための瓦だった可能性が高く、「根来寺城郭」説の根拠の一つになっている。石垣や、石垣で遮られた石階段も見つかり、防衛機能を備えていた様子がうかがえる。これらの遺構はいずれも、秀吉による焼き打ちまでに廃絶したとされる。

 県文化財センターの村田弘さん(62)は「寺が防御する意識を持ったことは事実だが、それほど強固なものではなかったのではないか」と指摘。「創建時の学問の寺としての性格は揺るがない」とし、修学の場としての性格を強調する。

 焼き打ち後は、初代紀州藩主の徳川頼宣(よりのぶ)の支援などで徐々に復興し、数々の遺構が戦乱とは無縁ではなかった寺の歩みを今に伝えている。

 中川所長は「根来寺がどのように法灯(仏の教え)を守り継いできたのかを理解してもらえればうれしい」と語った。【山成孝治】

毎日新聞 2018年1月8日 地方版
http://mainichi.jp/articles/20180108/ddl/k30/040/224000c
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