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名古屋コーチンの剥製=長久手市の県農業総合試験場で。2017年12月1日午前11時15分、長倉正知撮影
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 地鶏の王様と呼ばれる「名古屋コーチン」。名鉄小牧駅前には、コーチンで町おこしを図っている小牧市による「発祥の地」の碑が建つ。
1887(明治20)年ごろ、小牧で養鶏場を営んでいた海部(かいふ)壮平(1847〜95年)が弟の正秀(1852〜1921年)とともに作り出した。

 尾張藩の砲術家の血筋を引く壮平は「養鶏も武士道なり」と言ったという。明治維新後、海部兄弟をはじめ職を失った多くの元藩士が、卵を取る養鶏業に取り組んだ。

 壮平は、正秀の領地があった現在の小牧市池之内に土地を借り、鶏を飼い始めた。
病気で全滅したり、資金難に陥ったりするなど、苦しい日々が続いたが「辛抱強い人だったようです。失敗しても屈しなかった。武士魂を感じます」と郷土史家の入谷哲夫さん(82)は話す。

 中国から入ってきたバフコーチンと地鶏を掛け合わせたところ、優秀な鶏種ができあがった。
「遺伝の知識はなかったはずだが、砲術家なので科学者の目があったのでは」と入谷さんは推測する。
この鶏は関西などにも広がり、やがて「名古屋コーチン」と呼ばれるようになる。絵図しか残っていないが、壮平は5000羽余を飼う養鶏場を経営するようになった。
卵を取り、産卵率が悪くなれば肉にする便利な卵・肉兼用種の名古屋コーチンは、明治後半から鶏の代名詞にさえなった。

 ところが戦後、外国から卵と肉の専用鶏がそれぞれ入ってくると、産卵率や出荷までの日数で太刀打ちできず、名古屋コーチンはまたたく間に外国種に席巻された。
一時は県農業総合試験場(長久手市)に飼われていた数百羽と、各地の愛好家がわずかに飼う程度にまで落ち込んだ。

 「名古屋コーチンは文化だ。絶やすわけにいかない」。
1973年ごろ、同試験場と関わりの深かった名古屋大学農学部の近藤恭司教授(故人)の言葉をきっかけに、改良に乗り出した。
同試験場が10年にわたる試行錯誤の末、83年に体重で従来種の1・5倍となる改良種(開発名・NGY2)を作り出す。
改良種はその後の地鶏ブームにも乗り、83年は10万羽だった出荷数は10年後に40万羽、21年後の2004年には100万羽に達した。現在も100万羽前後で推移する。

 肉だけでなく、最近は桜色の卵も注目されている。大府市で養鶏場を営む花井千治さん(56)は「ぜひ卵かけご飯で食べてください。コクと味が違います」と自信をみせる。近隣の同業者と「ごんの会」を作り、卵を飲食店向けやプリンなどの加工用にも出荷している。

 同試験場養鶏研究室の中村和久室長(57)は「歴史がある優秀な鶏です」と話す。さらなる品質向上を目指し、関係者は現在も改良に余念がない。


名古屋コーチン
復活「地鶏の王様」外国種席巻も乗り越え
毎日新聞:2018年1月3日 13時04分