毎日新聞 2017年12月21日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20171221/ddl/k26/040/495000c

 街角のマナび場では今春の連載開始当初、四条河原の歴史を紹介したが、その地で暮らしを営み、独自の技術や文化を培っていったのは、中世では「余部(あまべ)(天部)」と呼ばれた集落に住む人たちだった。安土桃山時代の1591(天正19)年、京の都市開発を進めた豊臣秀吉は、都をぐるりと土塁で囲む御土居を構築するが、この時期、あまべは、現在の三条大橋東側(東三条)に移された。今回は、その後を追ってみた。

 中世では、あまべは現在の四条寺町を少し南に行ったところにあった。そこに住む人々は弔いに関係する仕事や皮革業を担っていたが、室町時代中期になると、造園にも活躍する。広い意味での河原に暮らす、河原者として賤視(せんし)されもしたが、他地域も含む河原者全体の中からは、足利義政のひ護を受け、銀閣寺の庭づくりに大きな役割を果たした善阿弥のような作庭家も出てくる。

 辻ミチ子・元京都文化短大教授の「『京あまべの歴史』を語る」(部落解放同盟京都府連東三条支部発行)によると、安土桃山時代には、あまべは地域として相当な経済力を持ち、織田信長、秀吉から保護される。都市改造を行った秀吉は信長の菩提(ぼだい)を弔う大雲院をあまべの地に移し、あめべの人々は移転を余儀なくされた。

 河原に寺院を? そう思う人もいるだろうから、河原者とされた人々の居住地の復習をしておく。皮革業などでは大量の水を必要としたため川の近くに住んだが、堤防がぜい弱だった当時、危険な流れの直近に住んだわけではなく、当時は広大だった河原の端の普通の土地とほぼ同等の場所に住んだようだ。

 辻氏によると、作庭は時の権力者、実力者らと哲学的な話し合いを含めて進められ、作庭を担った「山水河原者」とされる人たちは力を持つようになっていった。江戸時代に入った後も、あまべ出身ともされる下村家は、百石の知行をとる武士待遇として処遇される。

 江戸には、江戸幕府から関東を中心とした被差別民の長として認められて大きな力を持ち、明治時代に入るまで代々存続した弾左衛門(だんざえもん)がいる。これに対し、西の下村家と記す古文書もある。弾左衛門ほどではなかったというのが歴史研究の定説だが、それでも相当な有力者ではあったらしい。ただ、下村家は1708(宝永5)年に当主・文六の病死によって断絶してしまう。

 あまべでは江戸時代、太鼓やせったづくり、にかわ生産が盛んに行われた。戦国時代が終わり、よろいなどの武具に用いる皮革の需要は減少したが、文化や生活を支える皮革とその関連製品の需要は拡大した。太鼓で京都での最も大きな仕事は、二条城の大太鼓の皮の張り替えだが、あまべの仕事となっていた。他にも、歌舞伎や祭り用に多数の太鼓を製造していたようだ。せったは、草履の裏に皮革を貼って防水機能を持たせた履きもの。千利休の考案ともいい、江戸時代に普及した。にかわは、動物の骨や皮などを煮た液から作る。化学的に作られるものができるまで、接着剤として広く用いられた。いずれも、あまべをうるおす産業となった。他にも、牛馬の肝などを使った薬を製造していたという。

 また、あまべは江戸幕府のもとで「公役(こうやく)」も担っていた。二条城の清掃や刑吏(けいり)役などの御用を務め、やがて犯罪者の検挙も受けもつようになった。あまべ村の年寄と手下は、四条周辺の芝居小屋や神社の神事、寺の行事の際に出動して不審者を召し捕っていたという。公役には報酬があり、村人の収入源となっていた。

 こうして江戸時代も、あまべには経済力があり、その形跡が地域の信仰の中心地だった円光寺にみられるという。三条まちづくり協議会の安田茂樹座長は「円光寺にはお宝が多く、地域に相当な経済力があったことを示しています。地域の技で差別をはね返してきました。その歴史をまちづくりに生かしていきたい」と語った。

 現在、大正時代に設置された「三條道場」と刻む石碑が、円光寺前に立っている。辻氏によると、江戸時代の初期には寺のなかった地域が、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の掛け軸をまつり、道場と称していた。円光寺ができた後も、そういう経緯を経てできた寺を地域の誇りとしたことから、石碑にはその文字が刻まれたと考えられるという。なかには、幕末から明治への移行期に茶道の近代化に努めた裏千家の玄々斎精中の茶室も移築されている。

 あまべの歴史を知り、街を歩きながら力強く生きた人たちの姿を心に描くと、なんだか励まされる。散歩では、四条寺町南側の大雲院跡の石碑も訪ねたらよい。その辺りが中世にあまべがあった場所だ。【戸田栄】