明治憲法下の神権天皇制は、政治権力の究極的根拠を天照大神の神勅神話に求め、国体
という疑似宗教を国民に強制するものであった。それが当初からキリスト教信仰ときびし
い緊張をはらみ、信教の自由、良心の自由に対する幾多の迫害を生んだばかりでなく、キ
リスト教主義教育に対してさまざまな拘束を加えた歴史は、われわれの忘れることのでき
ない体験である。またそれが思想、霄論の自由を抑圧して、学問の発展を妨げ、大学が
その社会的責任を果すことを制約した事実は、数々の受難事件が教える通りである。さらに、
わが国が近隣諸国に対する侵略を進め、ついには戦禍を世界にひろげて、自らの破滅を招
く上にそれが大きな役割を果したのは、忘れ去るにはあまりにも近い過去のことである。

 このような歴史をかえりみるとき、現行憲法の規定する象徴天皇制の運用に当って、
何よりも神権天皇制との区別を明らかにし、かりにもその復活と解されることのないよ
う慎重を期するのは、当然と思われる。それにもかかわらず、今次天皇代替りに当って、
旧皇室典範のすでに廃止された下位法令に規定する諸行事を、現行の皇室典範に根拠
のないまま、伝統、慣行の名の下に既成事実化しようとする試みが、一貫して進めら
れつつあることは、まことに憂慮にたえないところである。

 この成り行きの中で、去る一月十九日公表された予定表「大礼関係緒儀式等」を見ると、
そこには国民主権を明殖にうたった日本国憲法上疑義の余地ある行事形式が、十分な反省
と検討とを経ることなく、自明のことのようにかかげられている。ことに大嘗祭は、皇室
典範に何の規定もないばかりか、すでに四十四年前「年頭ノ詔審」において「架空ノ観念」と
された「天皇ヲ以テ現御神ト」する行事であると認識されて来ているにもかかわらず、即位
の礼とともに大礼と称する一連の行事の中に、堂々と組み込まれている。それはまさに政教
分離の原則からいちじるしく逸脱し、象徴天皇制を神権天皇制に逆行させる道を開くおそ
れを、強くよびおこすものといわなければならない。かつて神権天皇制下のわが国が多大
の損害を与えた近隣諸国に、そのような疑惑を招くことも、また避けられないところであ
ろう。
 われわれは、キリスト教主義大学に責任を負う者として、到底これを黙視することがで
きず、ここに深い憂慮を表明して、政府の再考を求めるとともに、ひろく自由な検討を訴
えるものである。

一九九〇年四月十二日
関西学院大学学長柘植一雄
国際基督教大学学長渡辺保男
フェリス女学院大学学長弓削達
明治学院大学学長福田欽一