>>284
の馬鹿へw
天皇「様」と表現するのは敬称の基本を理解していないアホwおまえはチョンの自作自演か?w
ホンモノの右翼にも馬鹿にされるぞw

あんなあ
大正9年に大王→天皇→院→天皇の全員を
万世一系を強調するために「天皇」諡号に統一した皇統譜を作成して
もっともらしくNHKの歴史解説番組まで使っているだけw
そんな偽造皇統譜はまだ98年目にすぎないw

嘘だと思うなら1920年、大正9年以前の皇統譜を見てみろ!w
おめえの妄想の崇神「天皇」なんていう漢風諡号は
奈良時代に淡海御船がもっともらしく創作したもんで国際的には「倭」の「大王」w

天皇諡号と日本の国号を創始したのは実際には記紀神話で40代、41代の天武/持統天皇夫婦から。
それで「天皇」諡号がずっと続いたか?と言えば
平安前期の天皇親政の理想の時期とされる摂関家が後退した
醍醐、村上天皇の延喜、天暦の治までたったの22人、23代で「天皇」諡号は無くなる。

いいか、次の冷泉「院」から何と、平安中期、後期→鎌倉時代→室町時代→江戸時代後半の
後桃園「院」まで約900年間、55人は(乳飲み子で死んだ安徳を唯一の例外として)
上皇、法皇と同じ仏教式の「院」だw

具体的に著名な例を挙げると
醍醐天皇の「延喜の治」の後継者を自認した後醍醐「院」でさえ、崩御後の諡号は「院」。
明治期の南北朝正ジュン論争期に後醍醐「院」「天皇」と呼ぶことに変えて
最終的に後醍醐天皇と呼ばれていたかのように偽装したのは大正9年の皇統譜からだw

ちゃんと東大史料編纂所や宮内庁書陵部に所蔵の皇統譜の閲覧申し込みをして拝んでから、文句言え!この阿呆が!w

それが証拠に足利尊氏は自分で付けた自分の生前戒名を
後醍醐「院」に遠慮して
院=ミカドのシンガリ=殿=尻の方と言う意味で
○○院殿で始まるモノにした。
ところが徳川将軍が源氏の氏の長者として足利将軍の戒名、法名、道号、法号を踏襲して
院殿号を名乗ったもので
細川家を除く殆どの大名が「院殿」号を用いるようになり
明治以降は農民や商人の子孫でも菩提寺に喜捨を多額にして
院号では飽き足らずに院殿号を使う例まで現れたが、、、
本当はミカド=院よりも
院殿号が格下なのだ。