朝敵の汚名を晴らすためにその血を引く令嬢達を大正天皇の皇子方の妃に迎えたと言われるけど、
高松宮と喜久子妃の場合、有栖川宮家が威仁親王を最後に断絶してしまい、
大正天皇が三男の光宮宣仁親王に有栖川宮家の祭祀を継承させ、有栖川宮家とゆかりのある「高松宮」の宮号を名乗らせたから、
威仁親王の子女の中で唯一、結婚して子供をもうけることのできた実枝子女王の娘である喜久子さまが高松宮家にお輿入れするのは、
当然と言えば当然である。幕末・明治維新時の歴史の清算とは無関係な気が。
実枝子女王の徳川慶久公爵への降嫁が、歴史の清算も視野に入れられていた可能性もあるけれど、そんな計画を誰が立てるのか?