脅威、反応、および適度な対応 −太平洋戦争勃発にいたるオーストラリアの大戦略−
スティーブン・C・ブラード
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2008/forum_j2008_06.pdf
 日本の脅威がオーストラリアの軍事戦略に対して目に見える形で及ぼした影響は、当 時の大衆文化にも如実に表れている。
国外勢力による侵略と支配というテーマは、かつ てよりオーストラリアの大衆文化における一般的モチーフであった。
19 世紀の文学では、 この英国文明の辺境に対する脅威はロシアであり、モンゴルであり、中国であった。20 世紀に入ると、
「黄禍」(yellow peril)の恐怖が日本による軍事侵略という想定された脅 威と融合するに至った。「有色人種による征服」
(The coloured conquest)(1904 年)や、 「オーストラリアの危機」(The Australian crisis)〈1909 年〉、更には
「白人のオース トラリア」(White Australia)(1909 年)といった、大衆向けの小説や演劇が、大衆の 間に広まっていた

1914 年以前に軍事訓練を義務化する制度が導入されたのは、日本の国益が不確かであ ったことに動機づけられたものである、
とする示唆がなされているが、第一次世界大戦 の全期間を通じて、日本はオーストラリアと英国の同盟国であった11。日本海軍は、
オ ーストラリア海岸線の沖合で、様々な哨戒や護衛任務を遂行したのである。オーストラ リアの部隊を欧州の戦場に輸送する
最初の船団を護衛する際に、日本の巡洋艦「伊吹」 が果たした役割はよく知られている。しかしながら一方で、日本海軍の措置
の価値につ いては、英国とオーストラリアの当時の分析者が疑問を呈した。英国側は多少慎重に批 評を試みたのに対して、特に
オーストラリア側では、永らく抱き続けてきた日本の意図に対する疑いを捨てたくないという姿勢が際立っていた12。これを最も
よく総括してい るのは、当時のオーストラリア首相ビリー・ヒューズ(Billy Hughes)が、戦争中に、 個人的意見として、
日本は英国の運が尽きるのを待ち受けており、機をとらえてドイツ 側に乗り換えようとしていると示唆した上で、「オースト
ラリアは、日本の侵入を許すぐ らいなら、最後まで戦い続ける」と宣言した言葉である13。 ヒューズは、公人として戦後の
パリ平和会議で自らの意見を率直に表明し、太平洋に おける委任統治権獲得競争から日本を排除するように努めるとともに、
日本が国際連盟 の規約に人種平等条項を盛り込むことに成功裡に反対したが、これらはいずれも、彼の 「白いオーストラリア」
に対する日本の企みとして、彼の念頭にあったものである14。