寒村♪寒村♪寒村♪

「寒村横恥」


https://www.bar-aquarium.com/yokohama-rekishi.htm


「横浜村」と書かれている、この辺りは現在の山下町に当たる地域にあたり、
1800年代までは横浜といえばこの部分だけだったのだ。
現在の大都市・横浜も、江戸時代(1800年代前半)は80数戸の家が立ち並ぶだけの寒村だったのである。

住んでいる人たちは半農半漁の貧しい人ばかりで、半農とは言っても先述の通り横浜村のある宗閑嶋は砂地なので水田が作れない。
あったのは陸田(畑)だろうと考えられており、ただ平地が少ない上に灌漑(かんがい)整備も発達しておらず生産力は低かったと考えられている。

後にペリーと一緒に村を訪れた宣教師のウィリアムズも、自身の日記で「あまり繁栄しているようには見えない。
悪臭が漂っている」とジャーナリスティックに「ショボイ村」であることを記しているくらいである。

特に1800年代初期には、お上から「どんどんナマコを取ってこい」とのお達しがあり、ナマコ採りはのちに村の一大産業となる。


【80数戸の寒村】

【半農半漁の貧しい人ばかり】

【ショボイ村】

【一大産業はナマコ採り】


奇跡のペリー来航(浦賀)

そして

(ある程度栄えていた)神奈川宿あたりに開国窓口を設定したなら今の横恥にはならなかっただろう

そもそも

ペリーが銚子港に立ち寄っていたら今の横恥はなかった


現在の横恥の姿はペリーの賜物

江戸幕府は江戸から数十km離れた地を開国窓口とし
しばらくアメリカの様子見をしたのだ

そうそう人々がアメリカ(キリスト教)かぶれになっては困るので
日本の仏教を重んじるよう伊勢山皇大神宮を突貫工事で造った


開国?

「江戸の開国」であって寒村横恥は蚊帳の外の外の外

他人(他所)のお手柄をさも自らの手柄のごとく語るのは痴脳カスの象徴である


(笑)