しかし酷いと思わないか贅六よ
東京、甲府、佐倉、広島福山の各部隊が最強米兵を相手に絶望的な戦いを続けている間、最大兵力の京都16師団の弱兵連中は山ん中へ逃げて行方知れずになってたんだから

マッカーサー「レイテ島の上陸(vs 京都16師団)は他の戦線と比べるとよほど楽だった」
レイテ戦記(上)80頁

京都16師団の戦闘振りは、友近軍参謀長(愛媛県出身)をはじめ多くの上級兵団の不満を買った。
水際陣地よりの早期後退、カトモン山の放棄は、航空作戦実施中の南方総軍をがっかりさせた。(昭和19年10月)31日付電報で、ペリリュー島の敢闘(水戸、高崎連隊)を引用しつつ、方面軍の作戦指導を避難しているくらいである。
レイテ戦記(上)327頁

(米軍の俘虜)収容所代表は16師団20連隊(京都福知山)の曹長と称する上等兵であった。
収容所が開設された頃、日本軍の糧秣の隠匿場所に米兵を案内し、俘虜の給与改善に貢献したため、日本人の代表者に選ばれたのであった。
レイテ戦記(下)79頁

日本の歩一も向う意気の強い東京の部隊である
現役であるから、主に東京下町の商家の子弟、近郊の農家の息子から成っていて、都会の蒼白きインテリ部隊ではない。
佐倉の57連隊のような粘りはないが、気性はむしろ荒いのである。
レイテ戦記(中)142頁

この非現実的な作戦にも拘らず、左翼を受け持った佐倉57連隊の二個大隊の奮戦は賞賛に値しよう。
圧倒的に優勢な砲兵と化学兵器の圧迫の下に、闘志と白兵戦闘の技術を生かして、支えられるはずのない北方稜線を10日、錯綜した東方山嶺を30日以上支えたのであった。
12月21日転進命令の出た時は参加人員約2,500のうち、91名しか残っていなかった。
レイテ戦記(上)399頁

ヘナチョコ大阪wwwww