大阪経済の特徴は大成功した企業が1つ誕生するとその分野で企業勃興が起き巨大産業へと大発展することですね。
バブル崩壊後の大阪の衰退期から完全に脱するには大成功した大阪企業の誕生が絶対条件ですね。

明治期の「産業革命」、ニッチを突いた戦略性の勝利だった
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67622?page=2
“東洋のマンチェスター”大阪

さらに、生糸についで日本の重要な輸出品となったのは綿糸や綿製品でした。

綿糸の生産については、「東洋のマンチェスター」と呼ばれた大阪が重要な土地になりました。明治時代には日本各地に紡績会社が誕生しますが、工業の規模は2000紡錘程度と小規模で、設備も時流に合ったものでないため、経営的には苦しいものでした。その弱点を熟知していた渋沢栄一は、大阪で独自に紡績会社設立を目指していた松本重太郎や藤田伝三郎といった起業家と共同して、1882年(明治15年)に、大阪に最新の精紡機1万500錘を備えた「大阪紡績会社」(現・東洋紡)を設立します。技術面では工場経営者に、旧津和野藩士でイギリスに経済学と機械工学を学び、さらに現地の紡績工場で働いた経験を持つ山辺丈夫を迎えました。

大阪紡績は当時、日本の産業近代化の象徴のような存在でした。そして大阪紡績の隆盛を見て、これをロールモデルにするように、大阪には数々の紡績会社が誕生し、活況を呈しました。天満紡績、浪華紡績、摂津紡績、金巾製織、岸和田紡績、日本紡績、福島紡績などなど。これらの多くは、後に合併などにより現在の東洋紡やユニチカの源流となっています。

大阪はもともと商都として存在感を示していましたが、そこにこうした綿工業の発展が加わり、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるような工業都市の側面も持つようになっていったのです。そして生糸と同じように、需要な輸出品目となって日本経済を支えたのでした。

こうして日本は、明治政府が思い描いていたように、綿業を起点にした産業革命に成功します。