大久保利通は幕末慶應4年に朝廷の旧習を一新して外交を進め、海軍や陸軍を整えることを図るとする。
さらに同年1月23日には、太政官の会議において浪華遷都(大坂遷都)の建白書を提出するに至った。
その中で宮中の「数百年来一塊シタル因循ノ腐臭ヲ一新」するために遷都が必要で、遷都先としては大阪が適していると主張している。
しかし、大坂が京都に隣接しているとは言え、遷都を行えば千年の都である京都を放棄することとなるとして、これに抵抗の大きい公卿ら保守派の激しい反対を受け、同年1月26日に廃案となった。

続いて大久保は、副総裁・岩倉具視を通して、保守派にも受け入れられやすい親征のための一時的な大坂行幸を提案し、同年1月29日これが決定した。

大坂行幸の発表により、これが遷都に繋がるのではないかと捉えた公家や宮中・京都市民から、反対の声が高まった。そのため、太政官も同時に移すという当初の計画は取り下げられた。
そして慶応4年3月天皇が京都を出発。副総裁・三条実美ら1,655人を伴い大坂の本願寺津村別院に到着、ここを行在所とした。天皇は天保山で軍艦を観覧するなどして大坂滞在した


大阪への遷都に反対したんは京都民いう事やな