>>90
せっかく横浜の未来を心配するならちゃんと江戸時代のお勉強からはじめよう。

まず江戸時代の商業の中心は旧日本橋区と旧京橋区(現在の千代田区と中央区)。
例えば魚市場は日本橋(→築地→豊洲)、青果市場は神田(→秋葉原→大田)や京橋(→築地→豊洲)にあった。
行政と司法の中心、つまり北町奉行所は東京駅八重洲北口辺りにあり、南町奉行所は有楽町駅銀座口辺りにあった。
上野や浅草が盛り場だったのは実はごく短期間にすぎない(浅草の裏手にあった吉原遊廓は別)。

そして幕末に横浜が東京の外港として開港してからは海外と日本をつなぐゲートウェイとして独自の経済圏を築くようになり、六大都市(現在の政令指定都市の元祖)と称されるまでに成長した。

戦後には東京があまりにも膨張したので東京から横浜、そして湘南や三浦半島まで市街地が連接してしまい、さらに国際旅客需要が客船から飛行機へと変遷したので横浜は東京の一部のように埋没しそうになった。
そこで始まったのが横浜市六大事業で、現在の市営地下鉄、首都高、みなとみらい、港北ニュータウンなどはこの構想の素晴らしい先見性のおかげ。

さて、この先の横浜はどうなるだろうか。みなとみらい地区の開発がほぼ完了したいま、次の開発ビジョンをはっきりと提示してほしい。