頭大丈夫(笑)


大都は確かに江戸時代の前はそんなに栄えてはいなかった

これは江戸も同じ

しかし江戸時代に入り「五都」に数えられるほどになった


一方で横恥は…

https://ure.pia.co.jp/articles/-/15172?page=2

【抜粋】

横浜は海のイメージが強いが、住んでいる人はご存知の通り山も多い。
この時代もそれは同じで、海の近くまで山が迫っており、今の関内エリアはほとんど海だったわけだから平地は少なく、東海道からも離れている孤立した寒村地帯だった。

住んでいるのは半農半漁の貧しい人ばかり。
ところが、半農とは言っても先述の通り横浜村のある宗閑嶋は砂地なので水田が作れない。
だから、あったのは陸田(畑)だろうと考えられる。
畑でも満足な野菜が取れればいいが、平地が少ない上に灌漑(かんがい)整備も発達しておらず生産力も低い。
端的に言うと、ニッチもサッチもいかない。

後にペリーと一緒に村を訪れた宣教師のウィリアムズさんは、自身の日記で「あまり繁栄しているようには見えない。
悪臭が漂っている」とジャーナリスティックに「ショボイ村」であることを記しているくらいだ。

そんな箸にも棒にも掛からないような横浜村だが、幸いにも海に囲まれていた。
陸がダメなら船を出せ、とばかりに漁業や塩づくりに精を出す。

『横浜いま/むかし(横浜市立大学刊)』によると、海の幸の中でもナマコが重要な財源であったというのだ。


江戸時代もずっと寒村の横恥

悪臭の寒村の脳タリンが考えるカネ儲け手段がナマコ漁(笑)

ペリー来港し明治に入ってやっと世間に知られるようになる

そんな横恥が鉄道発祥?

あまり笑わせないでくれ

すべて江戸町民にやってもらったんだよ(笑)

鉄道は始点あれば終点あり

「格好の練習台」なんで分からんの


(笑)