法然上人の父親、時国は押領使(おうりょうし)という地方警官のような役職でした。
明石源内武者定明(あかし げんないむしゃ さだあきら)というものとの土地での争いがあり、
ついに夜襲を受け43歳で命を落としました。
その時、時国は勢至丸に遺言を残します。

「恨みに恨みで返せばお前もいつか恨みによって命を奪われる。勢至丸。お前は仏門に進み、苦しみの世を離れるのだ」
その時、勢至丸わずか9歳(今の7〜8歳)でした。

武士としての敵討ちをすることを諫(いさ)められ、恨みの連鎖を断ち真の幸せを求める仏道を勧められた勢至丸は
叔父のお寺に引き取られ、仏教の手解きを受けることになりました。

法然上人は父の遺言
「恨みに恨みで返せばお前もいつか恨みによって命を奪われる。勢至丸。お前は仏門に進み、苦しみの世を離れるのだ」
に従い、かたき討ちをせずに仏門に帰依して浄土宗をはじめられた。

その浄土宗の岡崎の寺の大樹寺は徳川家の菩提寺
今年の大河ドラマでも取り上げられている通り。

徳川家康公は19歳の時、今川義元の尾張侵攻の先陣をつとめ大高城に居ました。しかし、後方の桶狭間で今川義元が織田信長に
討たれことで戦況は一変。進退窮まった家康公は大樹寺へ逃げ込みますが、もはやここまでと先祖の墓前で自害することを決意します。

その時、大樹寺の13代住職登誉上人は「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」―戦国乱世を住みよい浄土にするのが
お前の役目―と語ります。それで決意を新たにした家康公は敵の包囲を破ります。「厭離穢土、欣求浄土」は、家康公終生の座右の銘となりました。

〇法然上人は父の遺言に従い、かたき討ちをあきらめて仏門に帰依して浄土宗の開祖となられた
 その浄土宗の大樹寺が徳川家の菩提寺
 大樹寺の和尚さんが自決しようとした徳川家康を説得して命を助け
 その後て天下を取った徳川家康は江戸に幕府を築いた
 東京の発展は江戸に幕府を置いた徳川家康があったから。

 つまり、法然上人の父親の遺言が浄土宗を作り、その浄土宗の和尚に命を助けられた
 徳川家康が江戸に幕府を開き、今の東京の発展につながった。
 江戸における徳川家ゆかりの寺として港区芝の増上寺がある。

 法然上人の弟子の親鸞聖人は自ら浄土真宗を開き、日本全国に広がった。
 その中で今の大阪は真宗本願寺派の北御堂、真宗大谷派の南御堂を中心とした
 御堂筋を中心に街ができた。

 名古屋は地下鉄の駅になっている東別院(真宗大谷派)と尾張徳川家ゆかりの寺
 建中寺(浄土宗)がある。