信長・秀吉、憧れの地・大阪

抑大坂は、凡そ日本一の境地なり。
其の子細は、奈良、堺、京都に程近く、殊更、淀・鳥羽より大坂城戸口まで、舟の通ひ直にして、四方に節所を拘へ、
北は、賀茂川、白川、桂川、淀、宇治川の大河の流れ、幾重ともなく、二里、三里の内、中津川、吹田川、江口川、神崎川引き廻し、
東南は、尼上ヶ嵩、立田山、生駒山、飯盛山の遠山の景気を見送り、麓は道明寺川・大和川の流に新ひらき淵、立田の谷水流れ合ひ、
大坂の腰まで三里、四里の間、江と川とつゞひて渺々と引きまはし、
西は、滄海漫々として、日本の地は申すに及ばず、唐土・高麗・南蛮の舟、海上に出入り、
五畿七道こゝに集まり、売買利潤、富貴の湊なり。


 日本一の場所とたたえる理由としてもっとも注目しているのが節所(要害の地)であることより、経済的側面であることが重要である。
すなわち、流通の拠点都市奈良・堺・京都に近いこと、京都や近江・日本海との物流の大動脈である淀川の水運の港であり、
海からは海外貿易の船が出入りできることにある。
大坂は川と海両方の水運の結節点であったのである。秀吉が後にここに大阪城を築くのはそのためである。
だから、このような地を「日本一の境地」と見る目を秀吉もまた共有していたということになる。
それは単にしぶとい敵が抵抗を続けられたのはなぜかと理由をさぐる目ではなく、
そこをわがものにせんとする目であり、太田牛一の筆は信長の目を描いたものにちがいない。