>>713
清洲越しは時代遅れの水運都市を捨てた?
常に水害の被害に晒される清洲を捨てたに過ぎない。
そして、狭いながらも熱田台地の上に城と武家町を作っただけの話。
名古屋は当時の動脈である東海道や中仙道からも外れたヘンピな場所。
尾張徳川は、苦労して矢田川から水を引き港湾の熱田まで運河を作った。
名古屋の回りは稲作をするだけの濃尾平野が広がるだけ。
維新後、明治政府の殖産工業政策に乗って町中の川沿いに工場ができた。三菱が大曽根駅前に巨大な工場を構えるのは矢田川が近いため。
その後軍備増大に備えて港区などの港湾部に工場ができて名古屋は巨大な工業都市となった。
戦時中名古屋に空襲が多かったのは軍需工場が多かったため。
戦争が終わり都合よく市内中心部が全焼してくれたため一から都市計画を策定した。
昭和34年に伊勢湾台風で大被害に遇い都市計画の再考を迫られ住宅地は東部丘陵に移るようになった。
昭和40年代の頃の栄の写真や映像を見ると街路樹も少なく道路だけが太くてスカスカ。
郊外も道路だけで町はスカスカだった。
ま、今も栄を始めどこに行ってもスッカスカだけどね。