名古屋化する日本と言う恐怖
1何もかもが一極集中であるということ
2単調な無節操な土壌が生んだB級サブカルの氾濫
3排他性と「東京の植民地」性の混在
http://gudachan.hatenablog.com/entry/2015/10/05/165052

何もかもが一極集中であるということ
 それは電車を降り立った時から感じたものだった。
 名古屋の鉄道ターミナル駅といえばただ1つ。
JR名古屋駅だけである。東京なら、新宿もあるし、渋谷もある。
東海道新幹線の駅は東京駅と品川駅の2か所ある。
その次は新横浜駅で、横浜駅とは別の存在感がある。
 ところが名古屋の鉄道はすべてにおいて「名駅」に一極集中しているのだ。
 それは18切符で旅をしたから分かる。
静岡からずっと下っていると車窓は単調な田舎臭い風景で眠たくなってしまうのだが、名古屋市内に入ると急に「都市の風景」になるのだ。
なんとなく普段の東海道線の見慣れた風景と重なるのだが(ここも東海道線とはいえ・・・)行き交う車両がみな相模線レベルの短さであることに違和感を抱き続けると、初めて立派な駅に着く。それが名駅だ。
 普通、中心駅のまわりはそれなりに大きな駅が連続しているはずだが、名古屋は「名駅さえ大きければそれでいいがな」という感じなのだ。
 この名駅で東海人の親友と待ち合わせ、繁華街まで歩いていくことにした。
せっかくなので寄り道を楽しもうと思ったのだ。
しかしこれが間違いだった。名駅前はオフィスビルやデパートが確かにそれなりに満たされているが、そこにしかないような「独自性」が何もなかったのだ。
さながら「ラー博とアリーナがない新横浜」という感じである。おまけに友人によると駅の裏側(西口)は本当に何もない場所らしい。ターミナルに必要最低限度のハコをとりあえず凝縮したという感じも、一極集中精神を感じた。
 名古屋市内の鉄道路線は貧弱である代わりに、地下鉄網が存在する。
もちろん道も広いことで有名だ。
 つまり、地下鉄があってクルマ社会があるから、「鉄道なんて不要だ」ということで、名古屋駅以外にまともな都会的な駅がなく、JRの幹線すら相模線レベルなわけである。
あと自転車もほとんど見かけなかった。
車に乗るか地下鉄に乗れという感覚が徹底していたのかもしれない。
 この「合理性のための選択と集中」で誰もがみな一律化されている感じは、道は広くても心理的にせせこましく感じる。
自由がなくて無言の統制されてる感があって、私は苦手だ。
しかし、最近の日本の傾向はまさにこれである。
直通運転で特定の鉄道路線にばかり乗客が殺到したりする感じ、渋谷みたいな特定の都心ばかりが乱開発される感じと似てないか。
 ちなみに名古屋の中心街である「栄」は、名古屋駅からまっすぐ東の場所にある。
個の栄のど真ん中を縦断する「久屋大通」を北上すると名古屋城にたどりつく。
つまり、駅から名古屋城に向かうさいの「角」の要所だからショッピング街として「栄えた」わけで、「栄」なのだ。
で、この栄の市街地があるから、名駅前は必要最低限のデパートしかない。
この一極集中の仕方もどうもアレだ。