菊地成孔の粋な夜電波 Part11 [無断転載禁止]©2ch.net

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0001ラジオネーム名無しさん2017/08/18(金) 18:17:22.42ID:hXX0NCJX
TBSラジオ局長賞受賞そして赤坂ニューラテンクォーター公式認定番組。
お相手は「デューク・エリントン楽団に入れなかったジャズ・ミュージシャン」、菊地成孔。
シーズン8:金曜深夜0時〜1時(24時〜25時)
公式:http://www.tbsradio.jp/denpa/
メール:denpa@tbs.co.jp
Pメール:〒107-8066 TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」
twitter:https://twitter.com/denpa954
第3インターネットdiary:http://www.kikuchinaruyoshi.net/diary/

前スレ
菊地成孔の粋な夜電波 Part1
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/am/1312492793/
菊地成孔の粋な夜電波 Part 2
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/am/1325121427/
菊地成孔の粋な夜電波 Part3
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/am/1330315432/
菊地成孔の粋な夜電波 Part4
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/am/1337602248/
菊地成孔の粋な夜電波 Part5
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/am/1347624879/
菊地成孔の粋な夜電波 Part6
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/am/1368814039/
菊地成孔の粋な夜電波 Part7
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/am/1383469386/
TBS 菊地成孔の粋な夜電波 (=実質Part8)
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/am/1406982238/
[菊地成孔の粋な夜電波 Part9
http://egg.2ch.net/test/read.cgi/am/1414280698/

前スレ
菊地成孔の粋な夜電波 Part10
http://egg.2ch.net/test/read.cgi/am/1471136004/

0884ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 08:59:09.12ID:5Hp38WMl
1浪して立正大学> 卒業もできず、恥ずかしくて言えない >上智大学の名前で学歴詐称

0885ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 09:04:10.72ID:O2fbnjP8
正直な自分の気持ちを相手に表明するにあたり、
それがどれほどの意味があることなのかを考えないまま発したのなら、
園児の悪口や、非建設的な個人的感想と何が違うだろう。
個人の自由というものが保障されているので、どう思おうが自由なわけだが、
それを表出するかどうかは別の問題になる。
強まればヘイトスピーチや憎悪の風刺画のようになる。
かといって自分に正直でなければ抑圧を生んで、
自己嫌悪する自分につながっていくことだろう。
湧き上がった気持ちを自分のなかでどう消化するかというところが肝心になってくるわけだ。

自分個人の望みや主観をそのまま相手にぶつけても、
ぶつけられた相手は、他人の主観に対してはどうしようもないので意味がないし、
その望みはたやすく実現できるものじゃなかったり、
一方的な尽力が求められるのであれば、素直に受け入れにくい。
相手も人間なのだから。
つまり、最初からそれ言う必要がないことだということになる。
相手によって自分に被害が出るのでなければ、
別にその人のなかで消化して表に出す必要もなく過ごしていけるわけだしね。
相手への思いやりのつもりなら、
相手への思いやりのふりして自分の不快感のぶつけてるだけなので、モラハラになる。
結局、欲望ではなく愛がなければ調和したコミュニケーションが成立しないわけだ。
コミュニケーションは双方あってのものだから、
どちらか一方の愛がないだけで成立しなくなり、
一方的な悟しとある程度の諦観で終わるか、
双方がコミュニケーション不全からの不機嫌に陥るかになる。
あるいは最初からそう不機嫌になることを狙っての嫌がらせか。
自分の不機嫌を相手に伝播させて安心感を得ようとしてしまう未熟さで。

0886ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 09:07:00.23ID:O2fbnjP8
1側面からの正しさは容易に理解されやすく、
偶然自分の立ち位置や視点にマッチしたに過ぎないときだけ、それを正しいと思い、
それをどの方向から見ても正しいといえる正しさだと思い込む危うさが蔓延している。
何が正しいかがわからない、という状態で止めておけずにいる人たち。
流れる中で、ある程度の結論を前提にして歩かねばならないし、
情報化社会によって、どちらが正しいのか分からないという判別の困難性が増大し、
分からないままにしておくべきものが増えすぎると、
自己崩壊してしまうから、それができなくなるためだろう。

又、受け取れる情報や物量が豊富になると、
本質を感じ取ろうとすることをやめた場合、
その場で自分がどう感じるかどうかだけの、
インスタント化された即効性のある感覚を選択しつづけてしまう傾向がある。
1から10まで順に体験すれば100の楽しみと感慨を得られるが、
最初の1から6までは20しか得られない体験Aと、
1から3までで20の楽しみを得られる体験Bがあれば、
後者の体験Bを選ぶ人がほとんどだ。
物量と情報だけは豊富にあるので、
3まで行ったらつぎの1から3を求めることを繰り返すわけだ。
だが、体験Bを3回と3分の1繰り返す時間と体験Aの時間が同じなので、
この時、体験Bx3.3=67、体験A=100であり、
実は体験Aのほうが深い体験と総量を得られる。
しかし体験Aは最初の6までが20しかない体験なので、多くは途中で切り捨てられる。
本質的な体験とはそういうものであることが多く、
途中までは無駄なようにしか思えないものが、
ある一定の段階(この場合6)をこえるとつながりだして、
いっきに価値や意味が増大するものが多い。
深みを得たりブレイクスルーして突破できるものを生むのは体験Aしかない。

0887ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 09:08:45.69ID:O2fbnjP8
物事を許容することは必ずしもそれに対する愛ではない。
間違った認識や事象を、「誰にも迷惑をかけていないし、その人の自由」だして許容することは愛ではなく、
自分に関与して来ないから許容しているだけの、それは本質的には無関心と自己中心主義だ。
それを野放しにすれば、真実から外れたものが蔓延し混乱や腐敗が起きる。

人の感情のうち、許容すべきは本質的なものだけ。
本質的な感情であるなら、抑圧のようなコントロールはするべきではなく、出るものを大切に扱うべきだ。
しかしポリシーとか、美徳とするものから2次的に発生しているその場限りの感情は、コントロールが必要。
それまで許容すると歪んで抑圧も生む。けっこう複雑な自然現象になってきたわけだよね人間は。

複雑性を機能させるほど、エントロピー増大則に反する行為であり、
より崩壊しやすい高度でレアな自然現象だといえる。
それ自体になんらかの意味(だれにとっての?)、もしくは効能があるのかは人類にはわからない。
分からないのに存在している。だから迷うのだ。
これが存在するということ=迷うということ が必然化する理由である。
理屈中心の意識の流れは不自然なので「気持ち悪」くて当然のものだ。
自分でもそう思うよw
ただそれは正しさの確保をするにはしょうがないことでもある。
成長中の哲学者が疎まれるようなものだ。

0888ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 09:11:34.62ID:O2fbnjP8
どちらも性的欲求は抜きで考えた場合の話だろうけど、
俺が女性だったら、現在、好きになれる男はいないように思えるし、
俺は男性だが、すきになれる女性はどんどん消えていってしまっているように思える。
かといってゲイのケはいっさいないし、
いろいろなタイミングを失うとダメだってことかね。
組み合わせの妙、時間というものの恐ろしさ、
そういうものの力を見誤っていたのかもしれない。
タイミングとは、時間の組み合わせの妙であるから。
過小評価せずきちんと利用すべきものだった。

真実を追う場合、初期段階では、
人間に存在するバイアスや、植え付けられた常識を排除して何が本質かを考えざるをえず、
人間的に考えることをやめ、
理性的、論理的、客観的、形而上的にとらえようとするものだ。
しかし、あるところから人間的に考えて、
自分が人間であることを受け入れ、
そのうえであるべき態度とか、たどりつける限界点を見極めてから、
それになじませるように真実を追わないと今度はうまくたどり着けなくなる。
その180度価値観や考え方を変える転換点を迎えられない、
もしくは遅すぎるがために、多くの人の可能性が犠牲になっていると思う。
ちょうどそれは、
初期はすべての人間をうらめしく疎ましく気にくわない間違った存在かのようにとらえ、
そこから、それを愛していくような、苦痛を伴う自己転換作業。
悟りの過程や、複雑な鬱の自己治療のような、生きることを苦行にしてしまう作業。
世界を愛し、自分の可能性を最大限生かそうと飛び込んだ結果、
自分と世界を嫌い、否定し、
そこから再度、自分と世界を適切に愛していく作業。

0889ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 09:12:34.74ID:O2fbnjP8
ある選択をすると、未来の確定事項であるはずの結果が、
その選択をしたということだけで、変化しえるとかいう実験結果が少し前にでていた。
つまり、自分の選択で、因果関係的に確定しているはずの未来に揺らぎがあると。
又、未来で選択したことが、過去に影響を与えているのではという大真面目な科学的論もあった。
選択をするということ自体も、
タンパク質が一定順序で並んだ塊の因果律の必然に過ぎないはずだが、
選択→未来が変わりえる→その変わりえる未来は現在に影響を与えうる→
つまりは選択をするということ自体が、私たちの選択行為を変えている可能性があるということでもある。
私がAを選んだことで未来で確定していたCがDになって、
Dは現在において私がAを選ぶことに影響を及ぼし、
私はAではなくBを選ぶかもしれなくなり、
すると未来で確定されていたCはCのままであるかもしれず、
Cは現在において私がAを選ぶことを後押ししているかもれないし、
選択肢Xを発生させてXを選ばせるかもしれない。
そこには私が選択をするという行為で、未来ではなく、
現在の私が変化するという恐ろしい真実が浮かび上がる。
私とはどこにも存在しなくなり、
タイミングという時間の妙のなかで、
選択をするという行為でできあがった時間の局所的な流れのみが、私だと言えるのかもしれない。

0890ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 09:14:28.69ID:O2fbnjP8
迷いを必要としてしまっている自分に本当に大切なことは、
たくさんの選択を間違ったとしても、すること、それ自体が大切なのかもしれない。
選択とは、不確定事項への突入なわけだから、
正しく在りたいと願うものにとっては、
一種の瞬間的な自己の手放しをしなければいけないわけで、ためらわれて当然だ。
選択をなるべく間違わないようにと思うのも、一人の人間にとって当然だが、
それ自体が自己への執着にあたるようになる。
間違えたくない、つまり、真実に則して正しくありたい、
と思うほど、自己執着が起きるというわけだな。

なんてことだ。
人間的に欲望を見るばかりになると自己執着が生まれるが、
それだけじゃなく、
謙虚に真実を追いたいと願っても、自己執着が生まれる。
前者は自己執着により選択を回避することはないが、間違える。
後者の自己執着は、選択自体を間違わないように回避してしまう。
その状態に陥った自己を否定することで、間違った自己を否定できるから、
それは自己許容につながるはずだが、
その確信が足りていないうちは、それができない、と。

0891ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 09:17:30.88ID:O2fbnjP8
自分が幸せになることにどこか罪悪感を感じてか、自分のしたいことをしないのは、
過去に自分の欲求を抑圧することが評価されたがゆえに芽生えた自己否定のためだろうか。
幼児期はとかくしつけというものは、抑圧的にされるもので、
だれしもそれはほぼ必然的に、その抑圧が程度の差こそあれ深部で発生していることだろう。
抑圧で主体性が封じられると、選択をするという行為ができなくなる。
それは上記の考察からいくと、
選択をしないということ=自分という時間を生み出すことを放棄するということであり、
自分が存在する理由を放棄させられるようなことだから、
強い、呪いにもにた苦しみが生まれるのだろう。
しつけらしいしつけもなく、
本当に唯我独尊みたいに育てられたのなら、抑圧はないのかもしれないが、
かわりにその子は欲望が強く出ていることがほとんどだろうから、
別の問題を抱えた、間違った自己肯定と自己執着の中で苦しむことだろう。
多くのものが欲望の中で苦しむのがこれだ。
このような考察をたどると、
エントロピーが増大するほうへ物理現象が流れるこの世界で、
存在し、私というものを成立させるだけでもかなり無理な現象だといえるが、
その上で、
自由と権利をいう自己拡大欲望の副作用を伴いながらも、
愛というこの世界そのものへの肯定を強いられる知的生命体は、
非常にレアな自然現象であるので、存在するに当たり苦しんで当然だといえるな。

0892ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 14:04:02.48ID:y/mJqW/+
> 何処からかコピペして"ボクタソ勝っちゃうもんね〜!"気分で足掻いてる奴=多分ジャヅマソw
https://i.imgur.com/XXMvJXs.jpg

0893ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 14:05:03.59ID:Pykah7IQ
液晶配列にすぎないものを、目という感覚器で知覚して、脳という処理機能の中に取り込んだ時に、
その処理が容易ではなく、またその存在の意味が理解できない場合は、
その「自己」のなかにおいては不自然なものでしかないわけで、
不快感という結果で持って、自己機能不全を自己にお知らせするわけだ。
「気持ちが悪い」「しね」なんて吐き出さずにいられなくなる。
上記の真実を丸ごと理解できれば、そんな自然現象が存在するのも無理はないって分かって、自然視できる。
もし多くの人がその状態を自然だと思えるほど認識が深まれば、
そのうえでのハーモニーをかなでられる新たなコミュニケーションルールが生まれるんだけど、
まだその認識を多くの人が持てるほど人間は強くなっていないから、
現状、俺が提示しているものはあくまで異物でしかなく、気持ち悪がられるにとどまる。
猿に協力という概念を教えても棒を投げつけられて終わる。
1万年前の人類に力以外の秩序がありえることを解いても、暴力がすべて。
500年前の人々にモラハラという概念を教えても、社会構造はそのルールを受け入れられるほど安定しておらず、
男や権力者が支配的に威張って当然の状態であり、魔女狩りにでもあって殺される。
50年前の人々にグローバル化とITによる通信手段で作られた現代社会の共通意識を教えても、空想として却下され笑われる。
20年前の人々に、日本人が持つ意識には本質性が足りておらず、
経済拡大に裏打ちされた価値観からの脱却というだけじゃなく、人間としての主体性の確保をもっと具体的に共通認識として持っていくべきだと言っても、
夢と個人主義という概念が生まれたばかりでは見向きもされない。

1000年後のあなた。
私はあなたの苦しみを理解できないでいる。
あなたか感じている本当の孤独、寂しさ、やるせなさ、怒り、喜びも知らないままなんだ。
その意味で、私たちは、同じだけど、
全く違うところで同じなんだね。

0894ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 14:06:06.12ID:Pykah7IQ
今日の新聞で村上春樹が、
小説は自分が見出したロジックをばら撒くことになるが、
善悪をはっきりさせるロジックではなく
ロジックの下に眠っているところが肝心で、
そこには人間が持っている本質があり、
そこを大事にすることが大切になってきている、みたいなことを言っていた。
どうしたらできると聞かれ、健康に過ごすことが案外きいてくると。

健全な精神は健全な体に宿るってのは真実だし、
ロジックの下にある、人間の本質から出てくる感情や意識は身体とくっついているよね。
これは「経験」としてわかることだ。
数か月くらい前だったか、腸内フローラでその人の思考形態が変わってきて、
ポジティブな人の大腸の細菌を、ネガティブな人の大腸に入れると、
その人はポジティブになるということをNHKスペシャルでやっていた。
どこまで信頼できる実験かはわからないが、
腸内でつくられて脳内へ運ばれる物質があるから、
その量で思考の方向性が変わることは十分あり得るとは思う。
こういうのは「空想」だね。
うつ状態の人はネガティブな思考しかなかなかできないし、
そう状態の人は、自省的な思考をしにくくなっている。
人間のワーキングメモリはすぐに埋まるから、それはいたしかたないよね。
これは「経験」的にもわかると思う。
ロジックでその人にとって本質的じゃないものであれば操作できるので、
ポリシーや美徳などで意図的にワーキングメモリにいれるものの種類を変えることで、
ロジックで割り切れる範囲については自分の感情を操作できちゃうわけだ。
これは「経験で確認できる空想」になるかな。

0895ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 14:11:25.20ID:Pykah7IQ
編集とは一種の創作である。
教科書はすべて引用である。
意味のないレスよりは、関係のない引用で埋まったほうがまだいい。
空想してさらに新しい次元を見せればなおいい。
ジブリの宮崎監督はこれまで見てきたものの組み合わせしかやってないといっていたな。
そういえばポニョってロジックからの決別なんだってね。
意味不明な映画になってるけど、意図的なんだね。
まあ意味不明だけどw

曲解や理解不足でいちいち正してあげないと話が進まない、もしくはこちらが不利益こうむるような愚かな利己主義者に付き合うことは必要かどうか。
気遣うのさえためらわれ、無視でもいい。
肝心なところやタイミングだけしっかり押さえるように動いていれば、相手が陥っている醜い憎しみ攻撃は無力だ。
そういう正論を受け入れられる準備が整っていない相手に、正論を言ったところで意味がないのに、
まずは正論で相手を説明しようとしてしまうもの。
自分にも相手にもこういうものだという規定をまず示さないと、対処の仕様がないからそれは自動であろうね。
しかし真実を相手に認知させるという点では意味あるかもしれないが、
同時に必ず反発が生まれるので、認知後に正論と真逆の愚かさを強めるだけ。
よってそこから重要なのは正論という北風ではなく、
自分と相手の主体性を保ったままハーモニーを生める環境を生むような太陽だ。
が、これは労力が必要で、間違った人々はどこにでも何百人もいるので、一人を治すことに労力を使う必要はない。

0896ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 14:12:37.71ID:Pykah7IQ
「今でしょ」で有名な林さんは、受験勉強するに当たり、
覚えたり身に着けた考え方を他人にレクチャーするようにしていたそうだ。
どこぞの ゆーじ、じゃなかった女医さんも、
そのような方式をとっていたとか言っていたな。
他の人にレクチャーできるということは、
その内容を完全に自分の物にしていないとできないわけだから、自分がどれくらいできているか確認できるから。
あと、レクチャしてその知識や考え方を使うことで、
単に覚えるとか分かるにとどまらず、不道具として使えるようになるわけ。
俺の高3の頃のクラスメートも5人くらい東大や京大に行ったけど、そういうやり方していた子がいた。
「受け売り」するのもいいものだよ。
受け売りってのはこのスレッドないでの意味でだけどw

知識体系を活用して新規事項を空想できないなら、受け売りするのもいい。
受け売りって、まあこのスレでは引用すること自体もそう呼ばれるけど、
受け売り事項について「いいね」をつけているようなものだよね。
広めて使う価値があるから「受け売り」するわけだ。たくさん受け売りされること=いいねがたくさんついた考え方だね。

アインシュタインだってニュートンを聞きかじりして信じて受け売りして考察を開始しなかったら相対論まで辿りつけなかったろうに。
過去に出ている結論で時間を短縮しないと、
ピタゴラスの定理から自分で発見しないとダメなら、人生終わっちゃうよねw

0897ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 14:13:50.52ID:Pykah7IQ
ニタニタと笑みを浮かべながら憎しみを持ってこちらを落としいれ気持ちよくなろうとしてくることに陥った人がたくさんいる。
正論はかれらのニタニタ笑いを強くする。助けを求めるようにニタニタと笑いながら、こちらに走ってくる。
堕とされた地獄から、自らと同じ境遇の者を隣に作って安心したいのか、
こちらの足にへばりついて引っ張ってくる餓鬼のように。
不機嫌という名のウィルスに侵されたゾンビが、新たな感染者をつくろうと襲い掛かって喰らいつこうとしてくる。

昨日あれから無所有少し読んで、雪害木という段を読んだ。
雪害木。正論は雪となって彼らという木をへし折るまでふりつもっていく。
雪にへし折られ負けまいと、さらに木は強情に正論に耐える。
正論なのではねのけられない。自分の中で雪などたいしたことではないと現実逃避をするばかり。
正論を邪魔に思い、正論を溶かして消化することができない木は、
長年降り積もってきた雪の重みでねじり曲がって、やがて折れ、腐る。
それを見せつけ、わめいて、周りに悪臭を放ちだす。
その木に積もっている雪を溶かすのは、愛というなの太陽だと分かること自体は簡単なことだ。
だが彼らは周りの者にとって害であり、悪そのもの。
そしてこちらに被害を今まさにかけようとしている者。
そんな彼らに太陽という名の愛をかける理由が見つかるだろうか?
普通は足蹴りにされたり、無視されたり、チェーンソーで切られ、倒れれば自業自得で拍手が起きる。

彼らを愛そうとするような甘っちょろいものでは、相手のモラハラに喰われるだろう。
プライドなんて言う安っぽいものでは自己を保てないだろう。
世界というものを理解し、彼らが生まれる構造を理解し、彼らを自然の一部として見ることで、
自分はどうあれば、最も世界が正しい方向へ流れやすいかというキーポイントだけをつかんで、
自らの幸福を維持したまま、餓鬼ゾンビに太陽をあびせ、
ある時は腐った部分を焼き、ある時は太陽を出さずに取り合わず自分と向き合わせ、
ある時は暖かさを利用されないときにだけなげかければ、それで一人の人として十分だ。
それ以上を望むのは、欲望。
メシアコンプレックス、偽善者、自分の存在価値をそれで示したいだけの自己否定者だ。

0898ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 14:15:01.76ID:Pykah7IQ
保健所のホームページには、捨てられたわんこたちの写真がでている。
その写真の多くは、間もなく一方的に殺される命。これから死んでいく子たちのリスト。
「保護期限 5月7日」なんて、残りの寿命が出てる。
その犬は、世間の人間が遊び浮かれているゴールデンウィーク中に、苦しんで死んでいく。
誰の目にとまることもなく、ガス室でもがいて、泣き叫びながら、力尽きて死んでいく。
窒息なので瞬時に死ぬのではないから、ガス室の壁はもがいた犬の爪痕が残っている。
運よく引き取り手が見つかった子は「引き取り手が見つかりました」などのお知らせがでたりもするが、
いつのまにか知らずに消えていった子は、この世から消えていったから、ページからも消えたんだ。

子犬であれば何も知らない無垢な姿でこちらを見ている。
成犬であればすごく不安そうで生気の抜けた顔をしている。
救う活動をしている人たちが、せいいっぱいかわいらしい様子を写真にして、
引き取り手が見つかるようにがんばった結果でも、そんな顔しかできなかったわんこたち。
保健所の写真の場合は、そういうおめかしもなく、やつれたままのぼろぼろの姿も多い。
考えずに諦めて、自然に処理してないと精神病んじゃうだろうし仕方ないのかもしれない。
人間の愚かさ業の深さにごめんなごめんなと、写真を見ていられなくなる。

悪徳なペットショップや悪徳なブリーダーが多くの命を生み出して、
売れなかった動物を、業者にお金を払って引き取ってもらう。
業者は共食いも出るような糞尿まみれの閉鎖環境にぎゅうぎゅうにつめこんで、
餌も与えず、死んだり弱って動けなくなったら山などどこかに持って行って捨てる燃やす・・・。
想像力を欠いていなければできないような、人間がつくる地獄がこの世の中にある。

毎年飼っていたわんこの命日に、捨てられたペットを救う活動をしている団体に寄付をしているけど、
現実に行われていることからすれば、
そんなの肩代わりして動物たちに謝罪しているだけの自己満足、
ほとんど偽善といったほうが近いかもしれない。
日本だけで、犬猫だけでも年間20万頭近く殺されているわけだから。
今日は何頭が死んだのだろう。明日は何頭が死ぬのだろう。
今何頭がおびえて震えているのだ。

0899ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 14:17:45.69ID:Pykah7IQ
成犬になるまでは、それまでかわいいかわいいとかわいがられていたのに、
売れなくなったり、大変になったからなんていって、ある日いきなり捨てられる。
動物からしてみればわけわかんないよね。
捨てられるような飼い主に飼われていたのなら、少なくとも最後は粗末に扱われていた境遇だろうから、
人間不信と不安と恐怖が植え付けられいて、その状態から知らないところに連れてこらえれて、
周りにいたわんこたちが毎日毎日、どんどん帰って来ずにいなくなっていくなんて、
きっと人間のような思考能力があったら精神耐えられないだろう。
動物はよほどひどい環境にしないと精神を病まないそうだが、
死の間際に精神までやられてから殺されるなんて、救いようがない現実。
動物にだって想像力はいくらかはある。
彼らは自分たちのこれからを絶望しているんだ。写真はその姿だね。
動物って表情筋がそれほど発達していないだけで、感情あるからね。
喜怒哀楽だけじゃなく、共感や思いやり、絶望だってあるよ。
人間は犬になれなくて犬を経験できないけど、それくらい理解する想像力は誰でももてるはず。
人間の想像力の欠如でいろいろな問題が起き、
いろいろな問題を解決できないままなわけだけど、
想像力って生きるにおいての余力の部分だから、
社会や生活や周りの目に余裕がないと想像力って育っていかないよね。
社会に余裕生むにはさ、
やっぱ不機嫌や、自分さえよければすべて許容するなんて言う利己主義をばら撒いてちゃ無理。
不機嫌になること自体は自然だろうけど、
それを迷惑かけないようにどうにかするのって成人した人間としての責任だろうね。
自分が嫌だから拒否することだけじゃなく、
自分さえよければあとは許容しちゃうことも、
想像することの放棄だし、自己中心的行為だ。
常に不機嫌や保身は排除しきるなんて、難しいことだと思し、
俺もどれだけできているかわからないけど、
その自覚があるかないかだけでも大きく違うと思う。
いろいろな問題を回避したり解決するのに必要な想像力をはぐくむには、
不機嫌と似非許容(利己的寛容)が蔓延しないように注視することは大切なんだ

0900ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 23:27:31.80ID:bkQ7c/uy
jumpmonk2017/status/1044210034844942336
の具体例が昨日一昨日のウザコピペとか
自分のエアストーカーwカキコ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/dj/1333267755/854-
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

0901ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 23:31:41.82ID:m4hNwW/P
数日後に、
「友達と犬を捕まえて、保健所に引き取ってもらった」と親にいったら、
ちょっと暗い顔をして、
その犬は団地に迷いこんできたらしく、最近何日か見かけていなかったけど、
団地で飼うことができないなら、どうしようかって、
皆で話していたところだったと俺に教えてくれた。
「飼うこともできるかもしれないの? じゃあ戻してもらおう。」
親は、それは無理だと言い、黙ってしまった。
俺はなぜかわからなかった。
狂犬病の予防注射でも打たれて、元気にしていると思ってたから。

0902ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 23:33:28.52ID:m4hNwW/P
>>717
そりゃそうだ。しゃべりことばでその場で思いついたままのものそのまま書き込んでいるのだからw
別に自己顕示しているわけじゃないんだから、そんな能力が俺があると思ってると君が思ってることがおかしいって前にもいったよろれりひ。

>>719
上記の詭弁のテンプレに当てはまるように、
根拠もなく、「自分に都合の悪いことをごまかしたり、嘘を正当化したり、言い訳をしようとしたるする時に文章は長くなる」っていう失礼なレッテルを君は貼ってるけど、
ちゃんとした態度でいれば、
世の中にあるたった1000文字程度の「長文」とやらは、そんなものにあてはまらないものがほとんどだと分かる。
むしろ、そのような文章であるのなら、ただの修飾語羅列程度の即物的な文章になるのだと分かるものだよ。
たとえば、「自分に都合の悪いことをごまかしたり、嘘を正当化したり、言い訳をしようとしたるする時に文章は長くなるよね」みたいな、論拠なしに無駄な押しつけの羅列を重ねただけの文章になる。

俺の書いた文章をいいという人もいるけど、
君のように気持ちが悪いという人は、
俺の文章が気持ち悪いのではなく、
俺がキモチワルイだけだよ。
俺が言ってることは反論できない文章だし、じっさい中身への反論は0のままで、
でもそれを、君の中にある「他人に迷惑を変えてはいけない」という美徳に反しているように君には見えている人間が書いているという、
この解決不能なジレンマが君の中で発生するから、気持ち悪いんだ。
そうなってる理由は、俺が書いてきたことなんだけどね。
でも理解できないところにいるからしかたがないし、
それは俺の中では自然視されているから、自分の在り方優先の過程で君たちに対応している程度だよ。
君たちが感情的におれにかまうことをやめて、自己の中でその不機嫌を処理できるようになれる大人になれたら、
とても静かなスレッドになると思うよ。

0903ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 23:34:27.56ID:m4hNwW/P
今日はとっても暖かくていい天気だったね。
風呂にでだしたカビルンルンたちを、退治した。カビは何で罪悪感なしで退治できちゃうんだろ。
こちらへ害悪あたえているからという理由があるからだろうか。
そこに正義と悪という対立した2元論がでるわけだな。
正義とは盲目的な自己肯定であり、2元論的な単純化。
正義かどうかはわからない、という地点に物事をとどめておくことが大切なこともあるんだが、
俺はこのカビを退治しないと健康を害する。だから白くさせてもらった。
井上陽水が「傘がない」と歌ったようなものだね。

カビは一年中いるわけだけど、20℃越え出すとカビは目立ちだすから、
4-11月あたりまではお風呂場なんかの水回りはカビが出やすいね。
愛未さんの住んでるところは防カビ処理とかちゃんとされてるようないい場所なんだろうか?
もしカビが出て、それが少しなら、体にあまり害のないカビナイトNEOみたいな、細菌つかったもので落とせる。
たくさん出ていて黒くて取れないようなのは、
混ぜるな危険表示有のものでカビごと漂白するしかないな。
綺麗にしたあとに、ジョードメチル系の防カビスプレーでコーティングしておくとつきにくくなる。
「バイオ お風呂のカビきれい ネオパワー(強力タイプ)」
これもけっこう効果ありで、カビつきにくくなり、納豆菌たちがカビルンルンを捕食してくれた。

細菌でのカビ落としや、納豆菌での防カビは害悪もないので、
カビがでるような人でペットやお子さんいるような人でも、上記のものなら気にせずできていいかもよ。
エアコンつけるとドライ機能で水滴が内部につくけど、イオンなんかでは防カビしきれずに黒くなっていくよね。
使い初めにエアコン掃除を自分か業者に頼んでして、エアコンの空気取り入れ口にバイオおいとくと多少マシになって、
綺麗な空気で過ごせるよ。バイオ使うと、空気清浄器のイオンでバチルス菌もやられちゃうだろうから、
イオンいれたいときは、バイオ避難させないといけないけど。
まあプラズマイオンとかってあれ、ほとんどオゾンで効果だしてるだけなんで、
むしろ人体に害になりえるから、俺は人がいないところでしかONにしないけど。

0904ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 23:35:40.30ID:m4hNwW/P
HMDを使ったVRで、相手への想像力をもつきっかけが増えるかもしれないね。
臨場感もったまま主観視点を入れ替えられるから、相手の身になりやすい。
HMDがもしゲーム機やスマフォ並みに普及したのなら、
HMD用に、全編がヒーローやヒロインの視点になってる、
「体験できる映画」もそのうち出来るんだろうなあ。
映画のような恋愛や、冒険で、世界観が広がりやすいかもね。
ラブストーリーなら、恋愛して傷ついたり落ちこんだり嬉しかったり、
アクションなら、世界を救うヒーローものなんか体験したら、
ヤクザたちでも正義感に目覚めちゃうかもねw

既存の映像ってのは、カメラは神の目のような客観視点がほとんどなわけだし、
主観視点映像でも、画面に映っている映像ってのはやっぱり、
主人公が見ている景色、という客観でしかないよね。そこに主観は生まれていないと思う。
視差利用した3DTVもその範囲にどうしても留まっちゃうね。
でもHMDでの主観は本当に主観に近くなるので、より主観として物事見るようになると思う。
そしたら画面と主観との間にあった想像力の必要性の壁が取り払われるから、
誰でも簡単に他人の主観にダイブできて、世界平和なりやすくなるかもしれないよね。
まあ、妄想の世界として使っちゃう危険性もあるけど。
人間見てると、そのような使われ方のほうが多くなりそうだね。

0905ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 23:36:31.54ID:m4hNwW/P
OculusやもーふぃあすみたいなHMDは、
いまでこそ解像度もまだフルHDとかそのちょと上レベルだけど、
将来的にはコンタクトなみになると言われている。
もし、そのコンタクトを眠っている間につけられたり、勝手に移植されたら、
目覚めたら、その人は全く違う世界を見て生きることになって、自分というものがよくわからなくなるだろうね。
鏡を見たら知らない誰かの姿が映っていたり、配偶者の顔をみると、すごい美形に補正されたものに見えるとかあるかも。
自分がそのコンタクトしているとは気が付いていないから、その上にVR用のコンタクトつけちゃったり、
おかしなことが起きていきそうだね。主観って不思議であいまいなものになっていきそうだ。

それって、2歳くらいまでの子供の感覚なんだってね。
AとBの箱があって、そこに太郎くんがやってきた。
太郎くんはBにケーキを隠して去っていった。
花子さんがそれを見ていて、花子さんはBに入っていたケーキをAの箱に入れた。
そこに太郎くんがケーキを食べにもどってきた。さて太郎くんはどちらの箱を開けるでしょうか?

3歳以上なら普通はBと答える。
だがこの流れを見ていた1、2歳児はAと答えるそうだ。
2歳くらいまでは主観の区別がつかず、太郎くんも花子さんも同じだと認識しているという。
このような世界感は我々には想像力でしかもはや体験できないわけだけど、
もしVRで主観チェンジが活発になって、主観の確実性があいまいになったら、
今見てる景色は私の主観なのか、それともだれかの主観なのか、脳が混乱してくるだろうね。
元に戻しても、何がもとなのかもわからない。そういう意味で、VRは想像力を引き上げる力をもっていそうだ。
ITや携帯などにより、ここ数十年で人々の意識形態がけっこうかわったような変化がそのうちおきるのかな。
世にも奇妙な物語にでてきそうなお話だねw

0906ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 23:38:28.50ID:m4hNwW/P
でもね、ファン同士でなにかしたいとか、なれ合いたいのなら、2chなんてふさわしくないし、それはできないよ。
煽りあいや、否定から入って、自己の快さえ保守できればそれでいいというスタンスがあまりに染みついた場所だから。

2chが出来上がるとき、1999年だけど、そのときから俺は2ch見ていた。
2chはそもそもアングラ情報から入れる掲示板であり、存在自体がいかがわしいものだった。
エロサイトや違法アップロードサイト、犯罪まがいの情報からリンクされ、
ニフティサーブの健全な馴れ合いに嫌気がさしている奴らなど吸収し、
2chの前身のあめぞうってサイトから社会の吹き溜まりたちが移ってきたサイト。
当時のネットは楽曲をmp3にしてアップロードしてる違法サイトが多くあって、
いまでこそyoutubeにそんな違法アップロードされた曲はたくさんあるけど、
当時はネットの大きなコンテンツだった。
俺も「mp3で無料で曲が聞ける」とか聞いて、
「mp3ってなんですか?」と質問したら「2chにいけば教えてもらえるよ」なんて言われて、2chに来た。
そこには出来上がったばかりの魔界があったw オマエモナーかわいかったなあ。
殺伐とし、みながIPばれ=即死だと思いこみ、
2chにかきこむこと=アウトローと話すことっていうイメージがあった時代だ。
だが、ネオ麦事件などだんだんと2chがTVで露出しだし、電車男などもあって2chは大衆化した。
これが日本のネットコミュニケーションがやたら否定から入り、他人に対して煽り傾向が出来上がってしまった理由だ。

荒らし行為や宣伝行為が度重なり、アクセス規制を乱発されて人が次第に減り、
SNSの隆盛によってとどめをさされ、現在の2chは最盛期の半分の人口もいない。
2chにこだわる必要はないよ。2chは、なんでも書き込みやすい自由性、長文でも書き込み読み流せる場所として利用されているだけかな。
SNSはどんなものかを見たことはあるが、やったことは一度もないので断言はできないが、
あれって1テーマを語るにはばらばらになりやすいし、タグで分散しやすいし、文字数少ないし、参照しにくく埋もれ易いのが難点だよな。

0907ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 23:39:28.98ID:m4hNwW/P
人は弱いから真実という価値に対しても不機嫌になる。
むしろ真実でないのならそれほど不機嫌にはなりにくい。
簡単に無視できるからね。
しかし真実だとそれができない。
真実を突き付けられると、自分のなかでそれを否定できる論理が見えないので、
不愉快な真実であるなら自意識の機能不全を起こす。
そうして不機嫌になった者は、真実を突き返せないので、
かわりに不機嫌にさせる者自体を必死に不愉快にさせるようになる。
いいかえせない真実の論理から逃げるには、
その真実を告げたものを排除すればいいという、徹底した敗北主義がそこにある。
敗北主義は世間への諦めと絶望が根底にあり、その諦めと絶望は愛着障害やモラハラに多くがある。
自己機能不全は生物にとって不愉快な状態だから、必死だ。
いくら正論を言っても、彼らは詭弁で反論した気になって、
脳内前提によって偽りの結論で自己処理することに終わることが多い。
真実に対しての敗北者でも、
そうしている間は自分の姿を見なくて済むので、偽りの安らぎを得られてしまうわけだ。
このような抜け出せない地獄にいるゾンビは2chに多い。
ゾンビの根底には自己否定がある。その自己否定が世界を自然視できない理由になっている。
ゾンビは不機嫌というウイルスをまき散らすやっかいものだ。

0908ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 23:41:12.11ID:m4hNwW/P
その不機嫌の弱さは、
自殺した親族がいて苦しんでいる人たちが弱みを見せているだけかもしれない。
一方で、サイコパスや統合失調症に陥っている者が、
ニヤニヤしながら他人の苦しみを心地よく感じているだけかもしれない。
ネットでは相手の環境や状況が分からないので、
前者のようなたんに弱っている人に投げかけるべき態度を、後者に投げかけてしまってますます精神患者を肥大化させたり、
後者にするべき態度を前者にしてしまって、ますます弱っているだけの人をえぐりとることは避けられない。
真実を告げる以上、そういうことが常に起きえるわけだ。
これがネットのコミュニケーション不全、そして不機嫌が蔓延しやすい理由になっているのだろう。
相手の状態を知りえないというネットの状況は、本質的な態度の確定をできない。
であるから、どちらでもあり、どちらでもない態度をして、どちらも見せ、
どちらも真実であるという、バラエティを提示するのが最善ということになる。
まあ多くの人は黙ったままで、ゾンビがのさばる世界から離れるか、安全地帯から見物しているか、
ゾンビに石を投げる大ばか者であるかか。
その真実を提示した者はだれからも嫌われるからね。
どちらにも有用な真実を提示もしめしているが、どちらにも嫌がられる真実も示しているので、
その存在態度を確定できず、だれにとっても「気持ち悪い存在」になるわけだ。
そしてそういう状況があるということ皆に見せつける、まるで保健所で何十万匹も我々の社会が殺している現実を見せつけるように。
これは気持ち悪さを呼び起こす真実の1側面だ。
真実をうけとめられるほど人間は強くないから、自己処理のキャパシティを越える現象は気持ち悪いという生理反応で遠ざけようとするものだ。
その全体を把握できるよな器を持っていないと、気持ち悪い存在にしか見えなかろうて。

0909ラジオネーム名無しさん2018/09/24(月) 23:46:00.95ID:m4hNwW/P
嫌われる勇気って本があるけど(読んでないけど)、
そういう他人から嫌われる勇気なしで正しく(=真実に則して)在ることはできない。
人間が完全な認識を持っているわけではないということは、
つまりは、常にどこか間違った認識のなかに私たちは常に放り込まれているということなので。
そういう一種の孤独を知っている者は、その孤独を恐れてはいない。

さて受け売り。「孤独に足を置いた者の最低限の想像力によって、
他者も自分と同じように孤独という状況を生きていることに気が付くこと、
それが愛の出発点。」と書かれている本があった。

人間は本質的には孤独だと理解できていれば、
それくらいの孤独は当たり前だと受け止められるし、
他人もその状況にあるわけだという、隣人愛が生まれるよね。
「最低限の想像力」があれば。でてきたねー想像力。愛を理解するにも必要なんだ。

0910ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:10:42.51ID:Y7xxSFsW
認識のレベルが違うと意思疎通は難しくなる。
IQは20違うと意思疎通が難しくなるなんてよく言われるよね。
東大生の平均IQは120くらいで、通常が100なので、
東大生の平均と一般的な人との間に認識がずれ出すかんじだね。
東大生の一番下と一番上の間にある差 > 平均の人と東大生の一番下との間にある差
なので、東大生の中でも意思疎通が難しくなる認識さもでる。
俺はIQテストのようなものを中学の時受けたら、ほぼ全問時間内に解けた。
今じゃ全問は無理だろうな、ああいうテストは。
IQテストって未分化な脳ほど解きやすい問題もあるからな。

さてさて、認識レベルが違っても円滑な意思疎通はしえる。
それは愛だ。
愛があれば認識レベルに依存しない意思疎通になる。
意思疎通の目的が止揚ではなくハーモニーであれば、
意思疎通は幼児と大学教授との間にさえ成立する。

0911ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:11:56.24ID:Y7xxSFsW
俺が2chで荒らし的行為したのでもっとも大きいものは、
全板にスレッドをたてるということだった。
同じことをした者がのちに出たようだけど。
もちろんアクセス規制にはならなったよ。
なぜならそれ自体は荒らしではないから。

2chってさ、宣伝とか、管理人の立場にかかわる荒らしとか、単純なコピペ嵐はすぐに対応されるけど、
そのスレッドで自説を延々と描くのは嵐扱いにならず、その人の個人の主張として受容されるから。
ときどき統合失調症みたいな人が、スレッド乗っ取りみたいに語りまくってるスレあるけど、それも全く対応されないでしょ?
集団ストーカーがどうとか、ネトウヨの政治的書き込みとか、ロリコン属性のレスとか、精神障害系のレスとかさえも。
それさえ個性として許容し、それを許容しないのほうが狭まい度量だとする場所。
それが2chの文化であり、それこそが2chを大きくした要因だからそうなってる。
まあ現在は管理人は変わって、たんに管理がほとんどされてないってだけなんだけど。
 
ようするに、書くしかないんだよ。
押さえつけることはできない。もちろん犯罪行為や、個人の主張を妨害する宣伝やコピペは消されるけどね。
個人の書き込みをけそうとするほうが2ch的には荒らしなんよ。君たちがやってることはそれ。
でも無意味だし、それに価値がないし、1側面からのモラルでしかないものを2chという場所で押し付けても意味がないから、徒労にしかならないんで、
みんなポエマーになればいいのにね。それが一番健全なんだよ結局。
俺のような人がこのスレにあと10人いれば、ものすごく気持ち悪くて健全なスレッドになるだろうね。
まあそれ続かないけどね。全盛期の2chにはそれがあったんだよ。俺はその中でもまれてきた。
現在の2chの中にあるレトリックなどなんの効果もない。

0912ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:14:08.70ID:t8Fhe3f8

0913ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:16:29.17ID:Y7xxSFsW
もともとなにもないスレじゃん
だから君たちもポエマーになればいいものを
俺は詩は別に得意でも何でもないぞい
君たちはなんらかの意図や意味がなければ表出しちゃいけないとかいう意識を植え付けられてしまっているんだ
自由ってのは結構難しいものだね
人という性質も、自分の環境や役割、周りのなかでの立場、常識や経験や知識などもほとんど自動的に君たちの自由を奪っているでしょ?
今日寝て、明日起きたら、
君はまた、君として動き出すよね。意識もせずに。
その時点で、君は君というイメージに縛られてる。

Imagineって曲あるじゃん?
想像力がもつ力を歌った歌だけど、
別にあれ人間愛とか国境越えなくても、自分自身についてもいえることだよ。
想像するだけで自分が縛られてる意識こえられるのに、その余裕がないだけ。
だれでも社長にもなれるのに、なること考えたことすらない人多いし、
なんで女性は髪を伸ばして男は髪を短くするのが当たり前になっているかを考えたこともないだろうし、
キスという行為、愛という言葉、そういうものはすこし昔はなかったことも信じられなくなっているだろうし。
世間を憎む人は微笑んで挨拶をしあってる人の意識を、
幸せで満ち足りている人はリストカットする女の子の気持ちをなかなか理解できないし、
必死に働くことが美徳だと思っている人は、働かずに人の手助けだけしていれば人に助けてもらえて、その人が多大な成果をもたらしていることを想像できないし。
自分の持ってる常識がどのように作られているのか考えたこともないと、
いろいろな想像力の壁に囲まれた範囲で過ごすことになるよ。

3000年を知らぬものは、闇の中、その日その日を生きる

0914ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:17:39.47ID:Y7xxSFsW
自分たちの言っていることや正しいと思っている立場が、
いかに愚かかを俺に説明されるまで、その醜さに気が付けず、
気が付いた後も、間違った論理を押し付けていた罪をつぐなうこともない。
そういう、ひたすら弱い存在が振りかざす傲慢さと欲望を助長するかのように、
自由と権利の概念が使われてしまっているので、民主主義が衆愚化する。
社会の不安定さや、必要のない悲劇、苦しみ、理不尽な流れが起き、
そうなる理由が、自分たちが振りかざす自由と権利にあるのだと気が付けないという、人類の哀しさと可笑しさ。
様々な国で民主主義の問題が話される始末。

その昔、人類は個人の主体性をいくつか犠牲してでも、社会という所属集団を拡大強固して生存力を強めた。
社会には力と支配が自動で生まれるから、得る者と失う者も生まれる。
社会という生存確率向上構造の維持ために、
個人の主体性は抑圧され、それがその当時の人類には最善策であり、正しさとなり、価値になった。
しかし個人の主体性の確保こそ、その人がその人らしく生きる、つまり幸せになれる前提条件。
人々は社会の権力闘争の中で翻弄されながら、
圧政による苦しみから、再度、個人の主体性を取り戻そうと、
自由と権利と民主主義という概念を生み、
価値とし、社会に浸透させることで、
ようやく、社会という物と同時に、個人の主体性を確保する状態へ持ってきた。
まあ日本などの自由と権利の獲得を市民で達成したわけではない国では、
その方法論は借り物であり、外圧で無理やりそう持ってきたに過ぎないので、
それらの国では本質が市民から欠け落ちているが。

0915ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:18:44.53ID:Y7xxSFsW
21世紀。ITにより個人(とその集まり)がその論述の確かさと説得力さえ提示できれば、
マス媒体という国家の拡声器に並ぶほどの力を持ちえるようになった現代、
今度は逆に、個人が得ている自由と権利は、全体の論理や客観性や本質よりも、
個人の欲望とその人の立ち位置から見える視点だけを正当化するために使われだした。
自分の価値観や正義や利害という、自分の手ごろな快を最大化するために徒党を組めば、
その内部でだけは、
彼らの論の確かさと説得力は成立するので、彼らの欲望成立と、立ち位置はある程度確保される。
あくまで彼らの中でだけだが。
そこには普遍性はなくて1側面からの視点でだけ成立する価値観なので、
そこ中に入っていない他者とは、傷つけあうこともいとわない流れを生んでいる。
だがその事に彼らは気が付いてもいない。
自分さえ快であるなら、他人がどうしていようとそれは自由、という一種の利己主義さえ肯定しているようだ。

普遍的に通用する真の正しさをないがしろにする、やさしく弱く愚かで利己的な幼児のような者、
彼らへの苛立ちが、自己責任論を誕生させた。
「よろしい、それでは君たちは君たちの考えでやっていきたまえ。」
こうして自己責任という概念が個人の成熟よりも個人の分断に寄与し、未熟な個人主義が蔓延し、
社会の中で流通する資本を減少させる格差も拡大して国民生活の総幸福量は減少。
そこには周りと調和した主体性はなく、
自分の快さえ保てればいいという無関心と自己保身による利己的な意識だけが肥大化されやすい環境が出来上がっている。
再度、個人がそれぞれの主体性を健全に確保するには、
自由と権利と民主主義の本質を、社会の構成員全員が知っていく必要があるだろう。

0916ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:19:58.59ID:Y7xxSFsW
民主主義は、議論は多数派が理解できるところに落ち着くしかないので、
常に一定の不完全さをどの時代にも残すことになる。
変化スピードを速くしすぎず、安定性を生む利点もあるが、
ITとグローバル化によって急激なスピードで変わっている社会に、
それらの個人の資質が追い付いておらず、民主主義の弊害点が目立ち始めている。
基礎科学の発展から電気と石油の利用にいたるまでの、
人類史上最高の発展スピードが期待できた20世紀までは、
夢や力という社会の拡大能力こそが大きな価値だったが、
電気と石油の利用開始のような爆発的な文明の成長は期待できない時代では、
何が正しく、なぜそれは正しいのかという、本質をとらえる能力に価値をもっと見出すことが、
社会全体の幸福量を高めることにつながるであろう。拡大能力の獲得に集中しすぎている。
本質をとらえられて間違わないという能力に光をあてて評価すればいい。
拡大能力は評価せずとも誰でも評価できるので、軽んじられることはない。

0917ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:21:02.41ID:Y7xxSFsW
とりあえず選挙でのマイナス票の導入と、公約破った場合のペナルティと
個人ごとの1票に差をつけることだ。
自分の利益しか考えていない組織票のA君と、全体の利益と将来を考えて投票するB君に差をつける。
市場原理のような適切な状態にやがては向かうという性善説みたいのは、組織票が可能な選挙制度という閉鎖系では成立しない。
そもそも社会の資本でさえ、資本が資本を獲得する力になり、リスク耐性にもなるので、制限なく資本が偏る方向へ進むからな。
1票の差の付け方は学歴や納税額ではなく、数年ごとにその公約の達成率と満足度を調査し、それが高ければ、その公約を掲げて当選した人に入れた人の票パワーがアップ、
達成率が低く空論で、満足度も低いのなら、未熟な公約を掲げる候補を選んでしまったということで、票パワーは減る。最低1は保証。最大10ぐらい差をつけて、
Aくんの1票は1票、B君の1票は10票の力の差ができるようになれば、国全体は民主主義がより反映される。
さらに、票パワーが上がるごとに国から税金の免除などあれば、国民の政治意識も高まる。
パワー3なら確定申告時に税金が3%帰ってくる、パワー5なら10%、パワー10なら20%。
いわば公約を株式のように見立て、度の公約を掲げる候補にいれるかで自分の利益も直接変わってくるようにすれば、
組織的な強制力よりも、本当に客観的に正しいといえるほうへ人は進む。
そういう正しさを判断する力を価値として見ることが社会全体の力になる。

0918ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:22:14.52ID:Y7xxSFsW
俺が言ってた孤独ってのは、対人間によるものじゃないから。
対人関係においての問題とかじゃなく、
なんていうか、状態によるものというか。
どの人にでもあるものであり、その強度の違い。
理解のされにくさによるものだな。
周りに合わせて理解されようと思えばされるようにもできるけど、
それ変だわって気が付いてる量が多めというか。
身体も精神もいたって健康に育ったし、いじめなどにも無縁。
学級委員や会長なんかにも選ばれてやったりしたし、
女の子も、真面目に俺のこと好いてくれる人がいつもいた。
近所の知らない女の子(のお母さん)から、
今度家庭教師やってくれないかって頼まれたりもしたり。
うん、なんだか野暮な自慢みたいだけど、
まあ今はおっさんなので遠い昔の話、別に嫌われてるわけじゃないのよってことで。

君が2chで見せている人格と実際の君はかなりちがうでしょ?
同じように他人もそうだよ。
他人にとって自分が誰だかわからない状態での発言ってのは、
素の自分が出るんじゃなくて、
やってみたい自分が出るものだと思うんだ。
俺のこの感じは、実際でやったらそりゃ人間関係悪くなるだろうねw 
思い浮かぶままにまくしたてるようで気持ち悪いしw
ネットだからこそ、嫌われても何の支障もないから、
遠慮なく真実放り込む、一種のファンタジーで遊んでいるようなものだね。
実際の場でやったら俺が1万人いても足りないと思うよ。

0919ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:23:15.06ID:Y7xxSFsW
10代あたりの成長期に、異性が自分に好意があるんだと分かることって、
その人にとっての承認要求が早い段階から満たされることになるので、
心理的な安定成長に大きな好影響を与えてくれると思う。
好意ってのは単に結果とかじゃなく、
その人丸ごとを認めてもらえるってことだから、非常に大きいんじゃないかな。
これがあるかないかでかなり変わってくる感じがする。

俺は10代とかの若いころには好きな人がいても告白できなかったけど、
若い時に告白する利点として、
失恋すれば自分が最大限に想ってもどうにもならないことがあるっていう事を身を持って受け止める体験が若いうちからできることと、
若いころの気持ちは告白を強くためらうほど純粋であろうから、
それは欲望ではなく、愛からいきなりはじまり得るってところにあるんじゃないかな。
簡単に告白できるような場合は、むしろ告白しないほうがいいかもw
告白がうまくいくかどうかは二の次で、というかふられたほうがいいだろうね。
若いうちから恋愛すること自体は、
たとえそれが純粋な愛から始まっていたとしても、
いったん自分の中で消化することがないままに、欲望がリアルに押し寄せてくる状況になりえるので、
それに翻弄されて生活を不安定にさせやすいだろうし、それがメインになってしまいやすい。
もう少ししてからのほうがちゃんとした人付き合いはできるので、
恋愛中毒みたいにならずにすむだろうね。
ま、これは人それぞれではあるだろうけど。しっかりしてる人なら問題ないわな。
でもふつう10代なんかじゃ溺れちゃうでしょ。

0920ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:27:00.45ID:Y7xxSFsW
恋愛って、あらゆる形で商品化されて一大産業になっているけど、
幸せになりたいのなら、本来は、恋ではなく、愛のほうを市場に供給しなければならないのだろう。
でも、愛って恋のような自分本位ではなく、他人本位なものだから、消費に適さないわな。
愛は恋のようなグワッと爆発的にもりあがるような感じじゃないから、なかなか消費に結びつかないし。
むしろ二人だけで自己完結しえるもので、消費は限りなく0に近くても成立してしまう。
だから愛は市場でメイン商品になっていないのだろうね。
それに、恋は相手さえいればその瞬間生まれうるが、
愛は瞬間には生まれないのでお手軽じゃない。
お手軽じゃなくてよくわからないものに、だれも一生懸命にならない、消費しない。
順番的にもほとんどは愛より恋が先に来るわけだし、愛になるまでに苦しみも生まれる。
だから市場には、食べるだけで心地よくなれると噂の、
恋という名のスイーツだけがこれ見よがしに並んじゃうわけだな。
それを食べて食通気取って恋愛メタボになるわけだ。

女性はその中で恋愛産業の主要なターゲットにされて、盛んに煽られているわけだけど、
それはやっぱり女性は恋愛を本能的に求めるものだからってのがあるだろうね。
子を宿す能力のある女性の場合、
自分が動けないときでも自分のために動いてくれる人を探す本能が在り、
恋愛ありきになりやすいだろうから。
キャリアウーマン像などもあるだろうけど、
やっぱり多人数が消費してくれる主要モデルになりきれないだろう。

男女の平等ってので盛んに女性の社会進出は進んではいるけど、
女性もロマンだけで生きられる人って多いのだろうか?
男にはロマンというもので幸せを見つけやすく、
恋愛という他人ありきのモデルを実現しなくても、
比較的幸せな道筋は見つけやすくはあるが、
それと同じぐらい女性はロマンに生きられるものなんだろうか?

恋に恋するなんて言葉あるけど、あれこそ女性的としてみられているし、
男は恋に恋するよりも、相手自体を欲しがるのが一般的だ。
しかし、もし女性がロマンだけで生きられるような状況になって

0921ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:30:10.84ID:Y7xxSFsW
自演するなって書いてる子自身が=ポエマーがどうとか書いてる子なんじゃないかな?
君たちはいつもどおりなのは日常の一部を見せられたようでちょっとだけ元気がでる。
ありがとう。
半分皮肉で半分本当。
死体蹴りをしたいんだっていう様を見せられるのは、やれやれって感じだけど。

自分が言った事実とは、そういう出来事の様子のことではないよ。
当然そうなのだろうという可能性を俺も踏まえているわけだから。
ダメージがあるのは、いくつかある可能性の中で、
流れの確定によりやっぱりそんな感じなのかという正確な認識による事実でのダメージ。
正確な認識による事実とは、
この社会意識と自分がいる位置により必然的に起きるできごとのこと。
何が悪いとかいうことでもなく、ただの事実としてあることだし、
事実だからといってそれでどうということでもない。
自然な流れだと分かることからこそ、そう思えるのかな。
そうはいっても、その事象を君たちは想像できないのだから意味不明だろうけどね・・・。

このように自分が書いてしまうことに君たちはムカつき、
俺をえぐれるなにかを書いて懲らしめたいという欲求が君たちにはでてるのだろうけど、
そうなることは悪いことじゃないと思うから気にせずにするわけで。
ただ、歪んだ欲求は君たち自身を不幸にする意識を自然と強化するだけ。
その書き込みをしている瞬間の己の姿を鏡で見たら、
きっと嫌な自分の顔がそこには映っているんじゃないか?
俺に構っても価値は何も生まれず、むしろ泥沼のなかに安らぎを見てしまうだけなんじゃないかな。
まあ、俺がそういってしまうと、反発心から逆の意識を持ちたがって悪化してしまうかもしれないけど。

0922ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:31:41.73ID:Y7xxSFsW
恋とはまぼろしを好きになること。
相手のまぼろしを好きになるってだけじゃなく、
まぼろし自体を好きになってしまう性質が人間にはある。
その人が見るまぼろしとは、その人が対象に期待しているイメージ。
期待しているイメージを相手に見られそうなら、恋というまぼろしのなかに自ら入り込む。
そしてお互いに自分の幻を維持&幻そのものを手に入れようと、相手のまぼろしどおりにふるまうようになる。
(恋は軽薄な者しかできないとも言われるのはこのためだろう)
これは本質的には、相手を好きなのではなく、自分のまぼろしを好きになってる状態なんだけど、
そのまぼろしは自分が自分に見せているまぼろしであり、
相手も自分のまぼろしを維持するために、相手のまぼろしどおりにふるまうことを努力するので、
なかなかまぼろしと気が付くことができない。
だから結婚さえできちゃって、まぼろしだと気が付いた場合は後の祭りなわけだ。
人は弱く、期待感(希望)なくして立っていられないがために起きる。
期待感があれば進むパワーが得られるから起きてしまうこと、ともいえるか。
恋という状態の唯一ともいえるポジティブな側面ではあるわけだしね。
人はまぼろしで強くもなりえるのは事実だし。
男女ともに期待感を提示しあって、
相手に一つのパッケージとして見せることができれば、幻が生まれてしまう。
恋しやすい人とは、静かな不安に耐えられず期待感(希望)にすがりつきやすい状態の人であるし、
現実を咀嚼できず、まぼろしを見やすい人でもあるだろうね。

俺はもう恋ではなく、愛が欲しいな。
希望ではなく、地に足付いたうえで見る現実。
まぼろしを打ち消して、現実にいたし、
相手のまぼろしにもなりたくない。

ただ、まぼろしを見ることが必然であるのなら、
まぼろしは現実の一部ともいえてしまう。
だからまぼろしを拒否することは不幸になりやすいんだ。
それはある意味現実を拒否することでもあるから。

0923ラジオネーム名無しさん2018/09/25(火) 00:32:53.14ID:Y7xxSFsW
世間を見て、間違っていることがあまりに多く感じられて、世界に親しみを感じなくなり、
世界には間違っていることが当たり前のようにたくさんあると分かると、
自分の幸せに集中する気もそがれ、幸せ感じる生き方を積極的に選択していく気力が消えやすい。
すると不幸になり、不機嫌になる。その不機嫌をぶつけ合って連鎖していく。
親しめる範囲の世界への親しみは持ち続け、つねにそれは在ることを悟るべきなのに、
問題に集中してしまうと、それさえ忘れ、問題意識ばかりで意識が埋まる。
するとさらに不幸になる。不機嫌になる。
こうして、最初は良くあろうとした善良な人間が、不機嫌ウィルスをまき散らすゾンビになってしまう。
絶望が先だったのか、ゾンビへの逃避が先だったのか。あるいはその両方が同時に進行したのか。

俺もゾンビの気持ちはよく分かる。
自分が、どれだけ幸せになりたいかどうかさえよく分からなくなるが、
不幸せを感じることだけは嫌だってことははっきりしている、って状態に迷い込み、
その状況のみじめさや、不安からくる孤独、報われない徒労感や、それでも生きねばならない空しさがそこにはあるだろう。
だがそれもまた自分が自分に見せるまぼろし。
自分の中に生じる拒否反応は、それ自体に意味や価値はなく、
日常性を取り戻すよう自らに促されている自動反応。
風邪をひいたときに、熱が出るのと同じで。
熱自体が問題の本体ではないが、熱に囚われてしまうようなものか。
精神的な防衛、一過性のワーキングメモリの埋まりに過ぎない。
受け取り方で変化してしまうような一過性の世界観にはまるべきではないから、
そんなまぼろしに影響されすぎてはいけない。
ではそのうえで自分はどうありたいのか、
どうあれば、自分という生を満たせるか、
あるがままの世界を解釈するのもいいが、自分が幸せになるために世界を解釈することも必要なのだろう。

0924ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 03:32:05.75ID:UQyk2g7O
ODって木村佳乃に似てるな

0925ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 10:24:19.84ID:XqW1dDwA
中身への反論ではなくただの人格否定で終わってしまっているね。
常識と違った論理を提示されるも、どう論理的に反論していいかわからないままなので、
そんな論理を提示する人を見ると気持ち悪い、となるんだろう。
それも軽薄さの表出の一部。すごく軽薄だよ。
非常識な論理を持って見える人を見ると気持ち悪いってのは理解できるけど、
俺の書いてることはこうなんじゃないかという推論レベルできちんと論理づけてあるのだから、
その論理につっこみいれればいいだけなのに。
まあつっこめないけどね!つっこんでみやがれぇい!お待ちしております。

「恋は軽薄じゃないとできない。」に対して、
「そんなふうにいうのは擦れすぎだろう。恋とはいいものだ。」という立場で反論するなら、
恋とはうきうきしてポジティブになれるし、トキメキが生活に潤いを与え人生が楽しくなる。
成長するパワーももらえる。
哀しみをともなっても美しいストーリーになるし、
一途さや淡さには純粋な人間の気持ちが見えて愛らしい。
性衝動でもあるので、本質的であり、生きることそのものだ。
この気持ちを軽薄というなら軽薄でいい。恋することは美しい!
・・・みたいな感じになるだろうか。

まず一般論として恋は軽薄じゃないとできないとしたが、
期待をもち、ときめくのは自然な衝動、そこまでは軽薄ではない。
だが、そこから進んで、自分の安易な快を得ようと、
すすんでまぼろしを見たり、すすんでまぼろしになりにいくことは、
相手を好きなのではなく、自分自身を好きになってるがために相手を利用する、ような軽薄さがないとできないことだ。
しかし自分がそうしていること、相手がそうしていることに、人は気が付けない。
なぜなら上記のような、
恋とは全肯定出来る素晴らしいものだという意識のもとで作られた消費コンテンツに生まれた時からつかりきっていて、
それ以外は存在せず、それが普遍的な真実のようにちまたではされてしまっているから。
それが愛だとさえされてしまっているから。
だけどそれで不幸になる人が出る。しかも少なくない。
欲望先行のとても軽薄な文化になってるし、社会も意識も軽薄化させていく、
インスタントな快志向に陥っていく原因にもなっている。

0926ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 10:26:09.30ID:XqW1dDwA
恋という現象は生物の1反応である限り、そこには利己的なものも内包しているのにね。
支配と獲得欲求を生み出すパワーは、その人の中にあるネガティブな感情からも生まれている。
利己を最大限に認め、それさえも肯定したうえで獲得しに行くってのなら、
まだ分かりやすい利己主義に過ぎなくなるが。
理性的に大切に思う気持ちより、衝動で我を忘れるように利己的にならないと、まぼろしのなかには入れない。
めがくらみ、めをくらませることは、自分も相手も欺くことだからね。それくらいじゃないと入れない。
ただ入りたがっている人は、すぐに入っていってしまう。

そういうわけで、はじめから愛を求めると、いつまでたっても愛ははじまらぬまま消えていく運命を背負うわけだ。
若い時にそんなの周りに期待できないからね。
周りより先に気が付いてたどり着いてしまうとそうなってしまう。
まぼろしから確かな愛に変わることはありえるが、その確率は低く、困難度は高いので、
やはりまぼろしからはじめるのは軽薄なことだと思う。
まぼろしがきえる状態になった時にはじめて、
私は自分が一番かわいい存在だったに過ぎなかったんだ、と気が付ければまだマシで、
ほとんどは幻を見ていたことさえ気が付いていないんじゃないかな。

規定された常識は、それが常識になった理由があるものだが、
それを理解したのちには、疑いようのない真実だと思っていたこと、つまり常識だと思っていたことが、
こんな程度のものだったのかと、崩れさることはよくあることだ。
非常識な、だが論理的正当性を持って入はいる人間を、
そんな常識という不完全なモラルをたてにたたき出すことはモラハラであり、迫害。
そうして迫害してしまうことに気が付かない様は、とても軽薄で残念なことだね。
あーあ、またうるさく言っちった。
でもそれが人間だから。
そのほうが楽であり、流れに乗れて、いろいろあるだろうけど幸せを感じる機会は得られるかもね。

0927ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 10:31:45.56ID:XqW1dDwA
2chで投稿をミスすると、すべての打ち込んだ文章が消えうるので、
自分の場合は長文になりそうな時はあらかじめPCのメモ帳に打っていく習慣がある。
(ちなみに愛未さんのブログでも、掲載されない文章は時々出たり、
投稿ミスしてページをもどすと打ち込んだ文が全部消えるので、
すべてではないが、メモ帳にかいてから投稿している事が
内容ではじかれるだけじゃなく、
クッキーの処理か何か知らないが、うまく投稿されていないときがあるようだが、本当のところは定かではない。
単純に管理人に、ぐだぐだ書き込んで何か面倒そうな人ので、近寄らないでほしいと、嫌われているのかもしれないw自分はそんな人間じゃないのに。)

又、現在のいろいろな思考実験事項をメモ帳にためていってもいる。
このスレに適したものだけじゃなく、いろいろな考えについて書いている。
愛未さんについては、俺の中で大きなものを占めているので、なんらかの感情の変化がでやすく、
それに関連していろいろ考えが浮かぶため、思考実験的に書いておくんだ。
書いておくと自分を客観的に見て、それは違うとか、これは偏ってるとか、後で分かったり、
思考の深さが深まる。
でも、それを書いているときは、
ちょうど子供がお絵かきで画用紙に適当な絵を描いては、
すぐにそのページを破いて次のお絵かきを始めるくらいのレベルの、
単純想起された思考遊びに過ぎないので、
そこにはあまり意味が感じられたり、論理の完成度もそれほど高くないものかも。
だからつっこみも大歓迎なんだよね。
つっこまれることで思考遊びに新たな視点を加えられる。それは結構楽しい作業だ。
ちなみにこの文章も、君がまた自演だろと言って、
こういう話になりえる状況が容易に想像されたので、
思いついた時点であらかじめがーーーとかいたものをコピペしただけのものだ(←これも、この()内も、このしたも)
想起した時点で書いてメモしておかないと、
同じような内容を書き込む必要性が出たときに、
また同じ考えを自分の中でしなければいけなくて、面倒なのでね。
ってわけで俺の長文は、
誰かにレスした後に、その内容に関連してくるような長文がすぐさま書いてあっても

0928ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 10:36:09.01ID:XqW1dDwA
単に現在のこのスレで俺が想起して書いてあったものを、ちょうど利用してつなげられるので、1ポイントレスの後につけただけってのが多い。
(このカッコ内は今付け足している。1ポイントレスとは、>>51>>52にむかってかいたようなレスだ。)
その場で口語的にかいているときもあるし、メモ帳にかいてあったものをその場で手直しして書き込むこともあり、
その時は少し時間がかかっていると思うw
君自身がこれまで自演だ自演だと言っていた人なら、
君に対するこの長文がすぐさまかかれていることにより、それがよく分かるのではないかな。
もし君が、これまで自演だ自演だと言っていた人じゃないのなら、
その言っていた人は、
君に対するこの文章も、君も、俺の自演だろうと思うだけだろうけどねw
めんどくさいねw

人間は楽な方へ流れやすい。
自分の快に都合のいい解釈をしたりその解釈を他の人に吹聴したり、
自分の快に都合のいい結論へ他人を誘導しようとしたり。
「ポエマーは精神病だ、おかしなやつだ」もその初期のものだし、
恋において、相手の好みを演じ、まぼろしを見せることで、
自分も相手に見ているまぼろしを得ようとして相手を誘導したり。
そういう姑息さ(=軽薄さ)は世の中にありふれている。

ミスチルもそういう恋の軽薄さを意図せずに歌っている。
(またミスチルか!べつに特別好きってわけじゃないけど俺)

♪恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム♪

その歌ではその男女間に発生するエゴのシーソーゲームを肯定的にとらえて、
エゴ、つまり利己をぶつけあう恋を肯定してしまってはいるが。
これも一つの、恋がポジティブに描かれる現代の象徴ではある。
恋を(美しさや悲哀なしに)ネガティブに否定する者は、
もはや現代の恋愛メタボ社会の中では生きていられないかのような、恋愛至上主義がある。
若者が恋愛をせずに友達感覚のままでいることが多くなっている(その反対に簡単に恋愛する人は恋愛を重ねる)のは、
そういう軽薄さを感じる環境への本能的な疑問なのかもしれない。

0929ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 10:37:11.13ID:XqW1dDwA
スピリチュアル関連に、「ひきよせ」という方法論がある。
よい気分になれることをする自分をとにかく肯定すれば、
いいことが勝手にひきよせられてきて幸せになれる、
それは量子力学から導かれる科学的なことなのである(そのところの詳しい説明は書かれていない)、
と、もっともらしい人たちに言わせた信仰みたいな感じの方法論。
利己的な自分でも、自分が心地よいならそれはよいことなのであり、
皆がそうすれば皆が幸せになるから、世界もよくなるんだ、それが人間の正しい生き方なんだ、それでいいんだよ、
みたいに、
とにかく自分が心地よいと思う状態でいることを肯定しまくっていくことが良いとしている。
迷える女性たちの一部に特に受けているようだ。
ひきよせという考え方は、
自分以外に起きている問題をかえりみる時間や意識を持つより、自分の幸福(自己実現、夢など)に集中し、
利己を最大限に認めると快を得やすい資本主義と自己責任社会に大きくマッチした考え方だと言えるので、
好まれている面があると思う。そこには自分以外にリソースを使わないという、一種の軽薄さが存在する。
(引き寄せは、その罪みたいな意識が幸せの邪魔なのだ、
だから利己を思う存分発揮し、人間として快を追求することは自然の法則に身をゆだねた、ただしい姿なのだよ、としている。)

軽薄なものほど自己リソースを節約して自分の利己に集中できるので、資本主義と自己責任社会のなかでは有利な資質になる。
だから快になる確率は高くはなる。
同時に、軽薄すぎてもそっぽを向かれるし、利己がなさ過ぎても、なにもできなくなるというのもある。
この状況があるから、軽薄さを正当化する引き寄せという考え方は、ある程度の有効性と信憑性を保持できて、信仰者がいるわけだ。

0930ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 10:38:15.28ID:XqW1dDwA
又、人は幼児期にしつけを受ける中で自制心を持つようになるが、
その時に利己的な意思はわがままであり、我慢するべきものだとされるので、
その副作用として、自分の主体性を制限することが生まれやすい。
社会性を身に着けるときに一緒に抑圧が生まれやすいわけだ。
とく女性の場合はワンパクが許される男性よりも抑圧は生まれやすいかもしれない。
そのモラハラの副作用ともいえる心の状態を、ひきよせという考え方は、
「自分の意思を、それが利己的なものでもいいから解放していい、
あなたが心地いいと思うことこそが大事であり、それがより高い次元につながっていくんだ。」みたいな考え方で、
自分の意思を全肯定してあげることによって、ありのままの自分の意思を取り戻すことにつながり、
心が楽になるという効果がでるために、ひきよせという考え方を評価をする人がいるのだろう。
特に女性の場合は、論理的に考えて正しさを導くことは男性より苦手としているので(あくまで一般論として)、
そのような、論理を介さずに利用できる方法論や、占いなどを含むスピリチュアル系カウンセリングを、男性よりも好む傾向がある。
こういうのも一種のまぼろしを見る効果を積極利用しようとするもの。

引き寄せという考え方は、
科学的には、ワーキングメモリをポジティブな気分になれるもので埋めることで、
そういう意識で行動してると、自然にそういう気分になれることに目が行くようになるので、
「やっぱり自分にいいことが起きているんだ」となり、さらにポジティブになって、
そういう自分を肯定していける循環を作っていく感じだろう。
だが、まぼろしを見ることで良い面もあるが、悪い面もある。

0931ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 10:39:33.90ID:XqW1dDwA
信仰とは、自分の理解を介さないで特定の考えをとりあえず受け入れ、なぞることで、
自分の凝り固まった意思を矯正し、
弱い自分の考えよりも、よいとされる型枠に自分を変化させて近づけてやることで、
心を楽にして生きよう、みたいな発想から生まれ出た行動様式。
キリスト教もそうだし、仏教にもそういうお経を読むだけで自然に悟りに近づける、みたいな方法論がある。
ブッダ自体がつくったものではないが。
新興宗教とかも個人が作った考え方を受け入れさせようとするものだろうし、スピリチュアル系もそうだろう。
そういう、解釈を挟まない信仰によって、自分の主体性のリセットをする行為は、
自分の考えを介さないで現実の中にいられる楽さがあるし、
自分の考えよりも深みと正しさがありそうな考えを受け売りすれば、
未熟な自分を捨て去って生きられるという不安感を和らげる効果も出る。
そういうわけで、がんじがらめになった自分の気持ちや現実をうまく理解できない人には信仰は手助けにはなりえるから、
その効果がほしい人には重宝されているわけだ。
しかし本質的には、自分の考察を省いて、他人が作った方法論をなぞっているだけなので、
真の主体性はなく、本質は理解されておらず、
そこには硬直によるもろさと、正しさの押しつけが発生しえる。
流行に乗る人にはその人間的もろさが感じられるから、それでいいのかというケチをつけられやすいわけだ。
流行やランキング上位など、多くの人に利用されているものは、
ある程度の価値保証の側面はありえるが、
そういうものに乗ることは、自分の考察の放棄をして、
多勢の受け売りをしているだけだろうということを想像させられるから。
楽しんでいるのだからケチをつけるのは野暮だし、
ティラミスがはやったときにティラミスを食べても、ティラミスはおいしい事実に変わりはない。
だが、そうなる過程に危うさを感じさせるところが、ケチをつけられる原因になっていよう。

0932ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 11:29:01.32ID:MAiZH6ov
菊地成孔の粋な夜電波 Part12 [無断転載禁止]
http://egg.5ch.net/test/read.cgi/am/1537928853/

0933ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 11:30:26.66ID:iC//njBX
他に、引き寄せという考え方に発生しえる害悪の証明として、
上記のように引き寄せは、利己を最大限に肯定するものだから、
資本主義と自己責任社会では快を得やすく、支持されやすい土壌があるわけだが、
引き寄せの考え方は、
個人の責任をなるべくみないようにすることで己に集中し、
環境とその流れに状況の責任問題を転嫁し、
個人の利己追求を最大限に正当化するというのは、
精神の市場原理主義ともいえるかもしれない。
己の利己を追求し、皆がそうすることで、
やがては各自に与えられるべき幸せが与えられるはずというのは、
俗に言う方の市場原理主義(経済学者が規定しているほうではなく俗にいうほう)と考え方が同じだからだ。
俗にいう方の市場原理主義はすでにうまく機能しないことは暴かれている。
ルールを撤廃した自由競争を肯定しても、
一度資本を獲得した者がさらに資本を獲得しやすくなり、
構造的に苦しむ格差につながり、
そうなったとしても自己責任だとして、
その苦しみを自己正当化してしまう人々が多くなり無力感が広がる。
利己を最大限に認めること自体が、他人をかえりみない、一種の軽薄さを含んでいることは明白だろう。
しかし、利己は生物にとって自然であり、なくてはならない意思のベクトルでもある。
健全な範囲の格差(価値創造量にきちんと比例するも限度のある格差)が必要なように、
健全な範囲の利己主義もまた必要。
足りていない利己をおぎなうには、そのようなまぼろしにも価値がでるからやっかいなところだ。

0934ラジオネーム名無しさん2018/09/26(水) 11:34:13.36ID:iC//njBX
引き寄せという考え方を意識していなくても、
資本主義と自己責任社会では、いつしか利己を最大限肯定するような、引き寄せ的考えになっていきやすい。
まずは自分の取り分、己の欲求ために一生懸命働かなければ、苦しくなるから、いつしかそうなっていきやすい。
一方、共産主義や、護送船団方式の自意識の責任分散型の社会は他の問題をはらむ。
結局は、健全な範囲の利己の実現と、それと同時に主体性の保持をすることが各自求められているわけだ。
資本主義や自己責任社会において、まぼろしなしにそれをやっている人は、実は思った以上にとても少ない。
利己の健全さとはどのあたりにあるのかをまず意識していないし(資本主義社会で成功したものは過剰に肯定しやすいだろう)、
その根拠を論理的には導き出しにくいし、
まぼろしなしに現実を主体性を持って生きるのはなかなかハードなことだから。
もしかしたら、厳密な意味で実現できている人はだれもいないかもしれない。

上記してきたものもその一部だが、本質的なことを知るにはとても面倒くさく、
理解するにもその量と深さは人々の理解の範囲はこえている。
(だからこそ信仰が昔発明され、まぼろしは便宜的に利用されてきたわけだ。)
そのため、リソース(この場合、思考量とそれにともなう時間=自分の限られた人生)を無駄に消費しないように、
人々は、おおまかな結論を保持してそれをほとんど盲目的に信仰することで、
ある程度の正しさと利己実現(幸せ)をしながら生きている。
モラハラもその過程ででてくる害悪みたいなもの。

そして、上記のような本質的なことを理解ができたところで、真実を常に意識しながら生きることは人間にはできない。
お腹が痛い時に、このような真実なんてどうでもいいし、はやくこのお腹が治ってくれとだれしも思うし、
恋をして充実感を感じているときや、おいしいものを食べているときなどに、真実がどうとかどうでもいいはずだ。
親族が亡くなって悲しい時には、真実などより、わきあがる悲しみに圧倒されるのが自然なことだ。
真実は人が正しい道を選択するには必要だが、
正しい道を選択するよりも目の前の生に集中し、圧倒されるのがまた人間の自然な姿。
真実は大きな価値があるが、ほとんどの場合は無力だといえる。

レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。