全体とはいったいなにか、人間「ただひとり」のことである。
精神的に何者にも依存しない、ただひとりの人でいることが、人類全体なのである。

どうして全体でいる人が、宗教や思想を受け入れることができようか? ありえないのだ。

しかしその「なんでもないもの」が、すべての為すことの源泉なのである。
宗教や思想や修行による精神の純化など起こりえない、それは自己催眠なのであり、もうろうとしているだけだ。
純化しているときは、思考が起きることもなく、事実起きていることへの絶え間ない凝視があるだけである。

事実起きていることへの絶え間ない凝視とは、
事実が事実に関与しつづけ混沌が秩序に変容する唯一の手段である。

なんらかの思想を持てばそれは不可能だ。
なのに、みんな純化したいと願いながら神や国家や主義や思想と崇拝するものを必要とするのである。