朝鮮人への差別を物語るエピソードだ。実際、国内の各地炭鉱などで苛烈な労働と悪環境、差別や暴力に耐えられなくなった
朝鮮人労働者が、脱走したり抵抗を試みたという記録は、公的文書によるものも含めて残っている。

 証言も残っている。たとえば、当時、日鉄鉱業池野炭鉱の炭鉱婦だった女性によると、1944年ごろには、働いていたのは
朝鮮人ばかりになっていたという。女性は、朝鮮人たちが置かれた環境をこのように振り返っている。

〈炭坑労働者の朝鮮人は、「半島」「半島人」と呼ばれ、それはもうとてもかわいそうでした。今思い出しても、涙が出ます。
一番あわれなのは、食べ物がないことです。小さい粗末な木の箱の弁当箱の中身に米はない。シャギ麦というか、つぶし
麦ばかりで、おかずはタクアン五、六きれだけです。〉
〈食べ物がなくて、腐ったみかんを拾って食べている朝鮮人を、憲兵がひどくなぐっているのを見たことがあります。どん
なに体の具合が悪くても、休ませなかった。あるとき、四〇過ぎの朝鮮人労務者が、とても疲労がはげしくて「少し、上がら
せてくれ」とたのんだが、聞き入られなかったので、風洞の中へ入った。それを見つけて引っぱられたが、一晩で顔の形相
が一変してしまいました。それははげしいリンチを受けたからだと思います。〉

(『原爆と朝鮮人 長崎県朝鮮人強制連行、強制労働実態報告書 第5集』長崎在日朝鮮人の人権を守る会)