生存戦略の観点から見ると、満州には膨大な日本の資金が投入
され植民がなされようやく経済成長が出来る所まで来ていた。
それを横目で見ていた支那がその土地は俺の物だ、返せ出て行
けを始めたのだ。今の尖閣諸島と同じ事が当時起こっていた。
満州周辺は荒れていて支那人は目もくれなかったのに、日本の
努力と投資が実り始めた途端にこう言い始めたのだ。満州は支
那とは条約で日本の権利が認められ白人の裏書きも出来ていた。
あからさまな分離独立さえしなければ成立したばかりの国際連
盟の保護下でほぼ日本の影響下に入った事は間違いないだろう。
しかし既に日本は明治の元勲の指導下の政治体制ではなく未成
熟な民主態勢に移りつつあり強力な国策遂行能力に疑いが出て
きていた。そこに悪辣な支那の日本人を含む現地一般民衆に対
する虐殺行為が知られてはこれは手が付けられない事になった。
以前も書いたが、要所要所に最適な人を配置できた明治の態勢
が失われた事は大変に大きかった。日本の政治的な混乱が満州
にも影響していた事は明らかだろう。生存戦略の乱れがこの事
態を招いたと言える。軍の愚劣さは後で書くかもしれない。
安全保障的な観点からは別の見方が出来るだろうし、教育から
は大事な事を教えて居なかった弊害が見えてくる。武田先生が
言うソ連の陰謀から見れば満州の存在意義が別の形で見えて来
る。満州が瓦解した途端に半島と支那が赤化したからね。
見方で色んな事柄が集められ説明され得るので断定してこうだ
と言う事が難しいが、今回はここまでにしておこう。