(教えて 憲法)GHQに押しつけられたの? 藤原慎一 2018年2月15日22時51分

 日本国憲法は敗戦後の1946年11月、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で公布された。
 自民党はその「生まれ」を問題視し、GHQに「押しつけられた」と訴えてきた。「押しつけ憲法」論だ。
2012年にまとめた党改憲草案を対外向けに紹介する冊子でも、
「主権が制限された中で制定され、国民の自由な意思が反映されていない」と批判した。

 ただ、制定までの道のりをみると、そう単純な話ではない。
 日本政府の憲法問題調査委員会(委員長、松本烝治(じょうじ)国務大臣)がつくった「試案」を
毎日新聞がスクープしたのは、46年2月。天皇の統治権を記すなど、
戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)とほとんど変わらない内容だった。
 日本政府に民主化をもとめていたGHQはみずから20人あまりで草案づくりを開始。
9日後に英文の草案を松本らに手渡した。明治憲法で主権者だった天皇を「象徴」に位置づけ、
国民主権を明記。新たに「戦争の放棄」をもりこんだ。
 日本政府は、このGHQ案をふまえて政府案をつくったが、前文をけずるなど大きく修正した。
そのため、松本らがGHQ本部に政府案を届けると、GHQ案にふたたび近づけるため徹夜の作業をせまられた。
これらの経緯が「押しつけ」と批判される最大の原因になった。

 一方で、GHQの草案はあらかじめ、後にNHK会長になる社会運動家、高野岩三郎ら
日本の民間研究者が独自につくったさまざまな草案のエッセンスをとり入れていた。
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)をさだめた憲法25条もその一つだ。
 政府案は帝国議会での審議でも修正された。9条2項には、「前項の目的を達するため」との文言がくわわった。
その後の9条論議で、この文言をよりどころに自衛権を認める主張もなされた。
芦田均衆院議員(後に首相)の名をとって「芦田修正」とよばれた。
 GHQのマッカーサー最高司令官は、新憲法が本当に日本国民の自由な意思によってできたものであることを
確認するため、施行後1、2年のうちに改正を検討して国民投票を実施することもみとめると、
吉田茂首相に伝えていた。だが、実際には改憲に世論の支持がなく、手続きはとられなかった。

 押しつけ憲法かどうかについては、衆院憲法調査会(現・憲法審査会)でも議論され、
05年の報告書にもりこまれた。「国民の圧倒的支持を日本国憲法が受けてきたことは明確」との見方が
数で上回り、一定の決着をみた。(以下略)
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