ソース:ニコニコsm26499843参照

抗戦勝利後、国民政府は数百万の日本人捕虜や孤児を送還した。
中国側はこれらの侵略者に対して「徳を以って報いた」のだ。
だが東北地区では、国軍の兵士たちが日本の婦女を陵辱する風潮になっていた。
この当時の風潮を、東北接収を経験した国軍の憲兵王鼎鈞さんは回顧する。

「あの時、彼女たちは夫の、子供の、自分の命乞いのため、中国人男性を見つければ
何でもした。彼女たちも目の前の中国人がどれだけの権限を持ち、どれだけの影響力を
発揮する人なのかよくわからなかったのだ。彼女たちは完全に「仲介人」の言葉に素直
に従った。いわゆる仲介人は、主に日僑管理所の中国の幹部で、各所の「権勢」が
彼らに女性を要求すれば、彼らは夜に若い女性を指定の場所に送った。
瀋陽外園の某市の市長は、毎晩違う日本人女性と寝ていた、彼はそれを誇らしげに
語り、1年に365人の女性と寝た、自分を民族の英雄だと語っていた。
日僑と捕虜を管理する所長と彼が所属する部署の多くの署長たちは、
みんな現地の党政要因を兼任していた、彼らはそれを履歴表に書いたことはない、
彼らの伝記と墓標には当時の勇ましさが書かれており、捕虜を管理していたことに
ついては書かれていないのだ。」

「淫らな仲介」の類の人物もこの流れに乗じて生まれた。
我が民族の先輩の一人、彼がもし瀋陽に来なければ、部屋は彼の軍の中の密友たちが自由に使用するのだ。
部屋を管理する副官が言うには、多くの上校、少将級の人物がその部屋に泊まり、歳をとった日本の女性が
夜に若い女性を連れてきていたという。
その軍人たちは酒を飲む段取りを省き、ある時は一人が二人と、またある時は二人が一人と寝ていたようだ。

「それから私は台湾へ行き、ある劇作家と知り合った。彼は当時軍で仕事をしていて、彼の部隊は瀋陽を占領した。
彼の地位は低かったが、酒と女にふける日々を過ごすことがあった。彼が言うには、当時の彼らの口癖は
「個人的に抗戦の勝利を祝う」だったという。私は彼らから知った。日本の婦女と少女は服装に違いがあり、
彼らが捜してくるのはみんな婦女のようだったが床についてようやく少女だとわかったのだ。彼らは合点が
いかなかった。少女が婦女になりすまして、「代役」をやるのか?その後にわかった。日本の少女は貞操を
神聖なものだと考えており、成人女性はそこまで重く考えていない。彼女は若い婦女の格好で自尊心を保ち、
同時に彼女もほとんどが「大したことじゃない」と言っていた。」