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地方分権に於ける首都の役割に就いての論考

示偏

現代は守銭奴の時代のように思う。

吝嗇家が多い。
そういう自分も吝嗇なれども、気持ちというものを示すに際して、世間の人びとが喜ぶなり、有難い有難いと思うのは金銭である場合は多いし、世の中金であるとかまで思う人も中には一定の割合出存在する。
使い方を知らない人もいる。
金銭を増やせば何か利得になると錯覚している人もいる。
金銭の多寡はあまり関係無いだろう。

一円盗んでも一兆円盗んでも同じ事だ。即刻死罪だ。
そう思う。ところがそうもいかない。それを行えば忽ち恐怖政治の始まりであり、今、尤も過ごしやすく、そうして生きやすい、少なくとも私はそのように感じておるけれど、近隣のものに知れ渡るように自分は所謂気分屋で癇癪持ちである。
それは演技の場合が多い。若しくは相手がボンヤリとしてあまりにも無礼で不躾であったり、口の利き方や人との接し方、話し方を知らぬ事が原因であるけれども、如何、若いというのも、そうして身体を現在傷めているというのも一つの原因であろう。
おとなしい子どもだった。第二次性徴が始まると自我を即ち自分という意識が芽生えた。昔の記憶というものはこの確立した自我を介しての記憶の想起であり、決して同じ風景を見ているわけではないことは大抵の人ならば何となく解るはずであるし、そう私は誰からも言われるように、いや、そう家の者にしか言われた事は無いけども、大雑把であるとか、いい加減な性格とか言われるけども、人前では几帳面過ぎる程に几帳面であり、却って相手が辟易するくらいである。
普通にすると一番いけないようだ。私の普通は世間の普通ではないからであり、世間を乱すものではないけれども、大人には理解されないことが多い。子どもや外国人の子ども、その親には私は好まれる事が多い。話し掛けてくる事が多い。ニコニコヘラヘラしたことなど一度も無いけども、哀しい時は敢えて微笑を浮かべるようにしている。