堅実に地道に着々と始めは不器用でも手慣れればお茶の子さいさいな仕事になっちまうということも多く或る話だ。
怖じ気づくことや苦手であるとか向いていないとかそう思わないでも良いわ。
親が子にそういう台詞を無意識にせよ、うっかり口にしてしまう場面が何度か見掛けられるのでいろいろと考えた。
子どもは色々なところに好奇心、興味、知的好奇心とかいうものであるが、知的で無い好奇心などあるものだろうか
好奇心、興味、関心、機会、条件
子どもは大人より世界と一体しているような段階なので、大人が普段している行為や習慣や外界からの様々な複合的要素などによって、決まり切った思考様式をするようになるので大人はステロタイプ、紋切り型で一定の枠に当て嵌める事の出来る実に想像力もなければ、
かつては個性だとかoriginalityとか盛んに言われてきたが、かつては自己中とかいう言葉が流行って自我である「ego」を「エゴ」、「エゴイスト」、今ではますます本来の意味と懸け離れた意味で「エゴサーチ」などという不気味な言葉にしている状態である。
ヤクザ言葉が一般言葉に変化して更には意味合いとしては良い価値を持つ言葉になった系譜的な話はしたけども、流石に自分なりの表現を知らないのかと時折思う事があるくらいであるが、不自由な人なのかもしれないという風にも考え直して黙って話を聞いている。
すると互いが互いに何かの事項を確認し合っているような塩梅の内容も話の筋もあったようなものでなく、単なる指さし確認コレデヨシ!そういう類いの若い学生が多い、いや成人しているかもしれないが子どものような事を言うので正直解らん。
先日も、「これ見て、これって凄いよね、軽くて硬いんだって、どのくらい硬いかな。とゲンコツでコツンとしていた娘さんが連れ添いの男の子に尋ねていた。
男は「えええ。なにそれ。」とか返答に戸惑うのか台詞を考えているのか何か知らんけど、ダンマリしていたので、まあ思い出したくもない話だわ。女の子があっけらかんとしながらこちらを見て、「この男の人じゃダメやよね…このくらいが普通かなあ…どうやろう。ねえ!」ゴツン!
今の時代、女の子も難儀しているのは肯けるわ。今のようなままで行けばもっと家畜か、畜群化したニンゲンになるだけであって、より従順でより投げ遣りで損得勘定ばかりの末人ばかりになってしまうだろう
私たちは人に会えば挨拶をして、何か三言くらいは無口な人でも話すというのが普通であるが、正直なところ、子どもの方が滑舌が良いし、発音も抑揚も正しく、日本語も美しい丁寧な言葉でも感じた事を話していた。
ガイコクジンの方が日本人以上に礼儀正しく親身に声を掛けてくれたりするのでオレはそういう現状に呆れるどころか、アホばっかりになったげ、やはりこうなったか、くらいにしか思わないようにしているわ。
今の小さい子は利口な世代だわ。こうした淘汰は避けられないものだから良いと思えれば良いのだが解らんなあ。
