>>386(続き)
著者は、安倍寛の生家があった旧大津郡日置村(現長門市)周辺をはじめ、下関市や山口
県内各地の関係者の元に何度も足を運んでいる。そこで次のことが明らかになった。
醸造業を経営する大地主の家に生まれた安倍寛は、幼くして両親を失い、東大に入学する
が卒業後に起こした事業が失敗、同時に離婚もし、結核の病をかかえつつ帰郷。それでも
地元の人から懇願されて村長になり、ベッドを役場に持ち込ませてそのうえで、昭和恐慌後
の困窮にあえぐ地方の農村を立て直すために奮闘したという。
盧溝橋事件が勃発した年、1937年の総選挙に立候補して当選した安倍寛は、選挙公約の
一つに「富の偏在は国家の危機を招く」と掲げ、働いても働いても生活が安定しない労働者、
借金と公課にあえぐ農村、大資本に圧迫される中小商工業者の側に立つことを宣言。国民
大衆の利益を考えず、財閥特権階級のお先棒を担ぐ既成政党を痛烈に批判するとともに、
当時の無産政党にも与せず、国民の信頼を得る新興政党の結成を呼びかけている。ある
作家がいうように、そこには「あらゆる権威におもねらない反骨の臭い」がにじみ出ている。
続く1942年の総選挙では、安倍寛は大政翼賛会の非推薦で出馬し、特高の監視と弾圧に
さらされながら二度目の当選を果たす。すでに真珠湾攻撃から日米開戦になり、保守政党
から無産政党まですべての政党(非合法の共産党をのぞく)がみずから解散して大政翼賛会
に合流していた当時の話である。選挙自体、天皇制軍国主義に忠実な候補を大政翼賛会が
推薦し、選挙資金まであてがう丸抱え選挙であり、非推薦の候補者は立候補届を無視され
たり新聞に名前を出さないなどの嫌がらせにさらされた。そのなかで地元の人人が手弁当で
選挙戦をたたかい、地元の翼賛会壮年部や駐在所の巡査まで安倍寛を応援したという。