トータス松本「長州藩士たちは、西郷のことを快く思っていなかった?!」

薩州勤王家・樺山三円は西郷の同志であり、一時期二人揃って水州藩士
で水戸学大家の藤田東湖先生に師事していたことがあります。この樺山が、
文久元年に江戸にて長州勤王家や土州勤王家と親しく友誼を結んでいた
という史実から考察すると、文久元年の時点で既に、樺山を通じて他藩の
勤王家たちに"西郷の人となり"は或る程度伝えられていたと思われます。
この頃の薩長土の勤王家は、三藩が強固に連携して藩論を勤王に統一し
た上で、三藩主が大部隊を率いて同時に入京して全力で王事に尽くす計
画を立てています。

三藩の連携が崩れたのは、坂本龍馬の亡命にも関係している伏見義挙計
画が失敗した直後からです。事件後、長州藩世子一行が東下したのです
が、その世子の奉じたる勅書の中に、島津久光の命に服せずして寺田屋
にて粛清された薩州藩士の行動を忠義の士≠ニ褒め称えた文言が書か
れてあり、それを知った島津久光が大激怒し、長州藩側の勅使に対して強
烈な圧力を加え、強引に勅書を改竄してしまいました。久光の行動に面子
を潰された長州藩側も激怒して、収拾がつかない最悪の事態に陥ってしま
いました。

その影響は徐々に、それまで薩長の仲を取り持ってきた土州勤王家たち
にも出てきて、王政復古の実現に向けて京師にて大々的に政治活動に奔
走していた武市半平太が、身柄を拘束する目的で藩から強制的に京都留
守居加役という重職に就かされ、更に他藩応接役の土佐勤王党幹部が解
任され、同時に藩命により土佐勤王党に属す軽格連中の入京が禁じられ
ました。土佐勤王党の獄はここから本格的に始まります。裏で動いたのは、
久光の直属の部下である薩州の上級藩士たちです。久光の部下たちは
無節操な中川宮を抱き込み、土州老公山内容堂に讒言させて土佐勤王
党を絶体絶の窮地に陥らせました。武市と主要幹部らはその陰謀に気づき、
「薩の奸謀におち入候事 遺憾の至」と記した書翰を国許の土佐勤王党同
志宛てに送っています。もうこの頃になると、頼みの西郷は伏見義挙絡み
の問題で責任を取らされ、流刑処分されて表舞台には居ません。