JA秋田中央会の昭和の後期の正職員の佐藤孝喜(さとうこうき)は、
基本が出来ていないまま36歳になっていた。
秋田市大町に
存在する(株)秋田県農協電算センターの2階の日本畳なら40枚をしける面積の一室に
28歳から36歳までのまる8年間を秋田県内の事務会計が手作業の農協の事務電算化のために、
農協標準勘定科目を使用し決算整理後の帳票までストックホームの紙媒体データを
ドットプリンタで出力するシステム開発を
上役の秋田県農協中央会の電算企画調整課の課長の立案で理事会決議までされから、
正式な業務になったコンピューターシステム開発プログラマーとして研修を受けて養成された正職員たちの1人として、
「農協簿記による財務会計システムの言語プログラムと
農協簿記による会計情報システムの言語プログラマープログラム」を
(株)日本アイ.ビー.エム(日本IBM)の社員と共同で「テスト検証」してきた。

課長の男から直属の部下の佐藤孝喜(さとうこうき)に「秋田県内の出先の
秋田市以外の中央会の支所に転勤させるぞ、北秋田市向きだね、とか、
平鹿支所に転勤させて横手市と平鹿郡の農協に無理やり顔を出させるぞ、
早稲田大学政経学部卒の学力より能力を見せてみなさい」と言われていたのではないか、佐藤孝喜(さとうこうき)は「秋田市内で、
今のままでいい、秋田市内で家族と暮らしたい」と28歳の当時の佐藤孝喜(さとうこうき)は考えたはずだ。

人事異動をしないまま他の正職員を喰っていき居座りのために
仕事の垣根(かきね)を作るため直属上役と私生活でも部下だとつきあいしてそう
なのが佐藤孝喜(さとうこうき)だったように思う。

佐藤孝喜(さとうこうき)のもともともってる能力はたいしたことがないと
私(〓t008)は認識していた。