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1山師さん2018/02/06(火) 23:45:22.85ID:M6c71cph
たてた

952山師さん2018/05/31(木) 00:16:31.67ID:X3B7wEIw
て来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑さいぎの眼で叔
父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
 遺憾いかんながら私は今その談判の顛末てんまつを詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいま

953山師さん2018/05/31(木) 00:16:47.69ID:X3B7wEIw
す。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこ
へ辿たどりつきたがっているのを、漸やっとの事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話
す機会を永久に失った私は、筆を執とる術すべに慣れないばかりでなく、貴たっとい時間を惜おしむとい

954山師さん2018/05/31(木) 00:17:05.08ID:X3B7wEIw
う意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではない
といった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を

955山師さん2018/05/31(木) 00:17:19.92ID:X3B7wEIw
。あの時あなたは私に昂奮こうふんしていると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人
に変化するのかと尋ねました。私がただ一口ひとくち金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私は
あなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を

956山師さん2018/05/31(木) 00:17:35.70ID:X3B7wEIw
考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在
し得ない例として、憎悪ぞうおと共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き
進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐ちんぷだったかも知れません。

957山師さん2018/05/31(木) 00:17:51.54ID:X3B7wEIw
けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷ひややかな頭
で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体
たいが動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事

958山師さん2018/05/31(木) 00:18:07.69ID:X3B7wEIw
ができるからです。


959山師さん2018/05/31(木) 00:18:25.52ID:X3B7wEIw
「一口ひとくちでいうと、叔父は私わたくしの財産を胡魔化ごまかしたのです。事は私が東京へ出ている
三年の間に容易たやすく行われたのです。すべてを叔父任まかせにして平気でいた私は、世間的にいえば

960山師さん2018/05/31(木) 00:18:56.53ID:X3B7wEIw
て生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵ちりに汚れた後あ
との私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう

961山師さん2018/05/31(木) 00:19:11.85ID:X3B7wEIw
 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでした
ろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父おじは策略で娘を私に押し付けようとしたのです。
好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑げびた利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたの

962山師さん2018/05/31(木) 00:19:27.62ID:X3B7wEIw
です。私は従妹いとこを愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それ
を断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化ごまかされるのはどっちにしても同じでしょう
けれども、載のせられ方からいえば、従妹を貰もらわない方が、向うの思い通りにならないという点から

963山師さん2018/05/31(木) 00:19:43.74ID:X3B7wEIw
見て、少しは私の我がが通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細さ
さいな事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気ばかげた意地に見えるでしょう。
 私と叔父の間に他たの親戚しんせきのものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していま

964山師さん2018/05/31(木) 00:19:59.81ID:X3B7wEIw
せんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺あざむいたと覚さと
ると共に、他ほかのものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞ほめ抜いていた
叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理ロジックでした。

965山師さん2018/05/31(木) 00:20:15.75ID:X3B7wEIw
 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切いっさいのものを纏まとめてくれました。それは金
額に見積ると、私の予期より遥はるかに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなけ
れば叔父を相手取って公沙汰おおやけざたにするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤いきどおり

966山師さん2018/05/31(木) 00:20:31.71ID:X3B7wEIw
ました。また迷いました。訴訟にすると落着らくちゃくまでに長い時間のかかる事も恐れました。私は修
業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の
結果、市しにおる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形かたちに変えようとしまし

967山師さん2018/05/31(木) 00:20:47.83ID:X3B7wEIw
た。旧友は止よした方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷こき
ょうを離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
 私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永

968山師さん2018/05/31(木) 00:21:03.84ID:X3B7wEIw
久に見る機会も来ないでしょう。
 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経た
った後のちの事です。田舎いなかで畠地はたちなどを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとな

969山師さん2018/05/31(木) 00:21:19.82ID:X3B7wEIw
ると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないもの
でした。自白すると、私の財産は自分が懐ふところにして家を出た若干の公債と、後あとからこの友人に
送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固もとより非常に減っていたに相違ありません。しか

970山師さん2018/05/31(木) 00:21:40.52ID:X3B7wEIw
も私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそ
れで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学
生生活が私を思いも寄らない境遇に陥おとし入れたのです。

971山師さん2018/05/31(木) 00:21:51.84ID:X3B7wEIw

972山師さん2018/05/31(木) 00:22:07.92ID:X3B7wEIw
「金に不自由のない私わたくしは、騒々そうぞうしい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気
になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆ばあさんの必要
も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅うちを留守にしても大丈夫なものでなければ

973山師さん2018/05/31(木) 00:22:23.73ID:X3B7wEIw
心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束おぼつかなく見えたのです。ある日私はま
あ宅うちだけでも探してみようかというそぞろ心ごころから、散歩がてらに本郷台ほんごうだいを西へ下
りて小石川こいしかわの坂を真直まっすぐに伝通院でんずういんの方へ上がりました。電車の通路になっ

974山師さん2018/05/31(木) 00:22:40.08ID:X3B7wEIw
てから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃ころは左手が砲兵工廠ほうへいこうし
ょうの土塀どべいで、右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。私はその
草の中に立って、何心なにごころなく向うの崖がけを眺ながめました。今でも悪い景色ではありませんが

975山師さん2018/05/31(木) 00:22:55.86ID:X3B7wEIw
、その頃はまたずっとあの西側の趣おもむきが違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだ
けでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅うちはないだろうかと思いました。それで直す
ぐ草原くさはらを横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好いい町になり切れないで

976山師さん2018/05/31(木) 00:23:11.86ID:X3B7wEIw
、がたぴししているあの辺へんの家並いえなみは、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした
。私は露次ろじを抜けたり、横丁よこちょうを曲まがったり、ぐるぐる歩き廻まわりました。しまいに駄
菓子屋だがしやの上かみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家かしやはないかと尋ねてみました。上さ

977山師さん2018/05/31(木) 00:23:27.81ID:X3B7wEIw
んは「そうですね」といって、少時しばらく首をかしげていましたが、「かし家やはちょいと……」と全
く思い当らない風ふうでした。私は望のぞみのないものと諦あきらめて帰り掛けました。すると上さんが
また、「素人下宿しろうとげしゅくじゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静

978山師さん2018/05/31(木) 00:23:44.18ID:X3B7wEIw
かな素人屋しろうとやに一人で下宿しているのは、かえって家うちを持つ面倒がなくって結構だろうと考
え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清にっしん

979山師さん2018/05/31(木) 00:23:59.79ID:X3B7wEIw
戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷いちがやの士官しかん
学校の傍そばとかに住んでいたのだが、厩うまやなどがあって、邸やしきが広過ぎるので、そこを売り払
って、ここへ引っ越して来たけれども、無人ぶにんで淋さむしくって困るから相当の人があったら世話を

980山師さん2018/05/31(木) 00:24:17.09ID:X3B7wEIw
してくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人びぼうじんと一人娘と下女げ
じょより外ほかにいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極しごく好かろうと心の中うちに思
いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性すじょうの知れ

981山師さん2018/05/31(木) 00:24:31.89ID:X3B7wEIw
ない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念けねんもありました。私は止よそ
うかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装なりはしていませんでした。それから
大学の制帽を被かぶっていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれど

982山師さん2018/05/31(木) 00:24:47.96ID:X3B7wEIw
もその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子
に一種の自信を見出みいだしたくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなし
にその軍人の遺族の家うちを訪ねました。

983山師さん2018/05/31(木) 00:25:03.97ID:X3B7wEIw
 私は未亡人びぼうじんに会って来意らいいを告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらにつ
いて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも
引っ越して来て差支さしつかえないという挨拶あいさつを即坐そくざに与えてくれました。未亡人は正し

984山師さん2018/05/31(木) 00:25:19.95ID:X3B7wEIw
い人でした、また判然はっきりした人でした。私は軍人の妻君さいくんというものはみんなこんなものか
と思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性きしょうでどこが淋さむしいのだろう
と疑いもしました。

985山師さん2018/05/31(木) 00:25:35.99ID:X3B7wEIw
十一

986山師さん2018/05/31(木) 00:25:51.82ID:X3B7wEIw
「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。
そこは宅中うちじゅうで一番好いい室へやでした。本郷辺ほんごうへんに高等下宿といった風ふうの家が
ぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間まの様子を心得ていました

987山師さん2018/05/31(木) 00:26:07.81ID:X3B7wEIw
。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過
ぎるくらいに思われたのです。
 室の広さは八畳でした。床とこの横に違ちがい棚だながあって、縁えんと反対の側には一間いっけんの

988山師さん2018/05/31(木) 00:26:23.83ID:X3B7wEIw
押入おしいれが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向みなみむきの縁に明るい日
がよく差しました。
 私は移った日に、その室の床とこに活いけられた花と、その横に立て懸かけられた琴ことを見ました。

989山師さん2018/05/31(木) 00:26:39.72ID:X3B7wEIw
どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶せんちゃを嗜たしなむ父の傍そばで育ったので、
唐からめいた趣味を小供こどものうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶な
まめかしい装飾をいつの間にか軽蔑けいべつする癖が付いていたのです。

990山師さん2018/05/31(木) 00:26:55.86ID:X3B7wEIw
 私の父が存生中ぞんしょうちゅうにあつめた道具類は、例の叔父おじのために滅茶滅茶めちゃめちゃに
されてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かって
もらいました。それからその中うちで面白そうなものを四、五幅ふく裸にして行李こうりの底へ入れて来

991山師さん2018/05/31(木) 00:27:11.69ID:X3B7wEIw
ました。私は移るや否いなや、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いっ
た琴と活花いけばなを見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後あとから聞いて始めてこの花が
私に対するご馳走ちそうに活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも

992山師さん2018/05/31(木) 00:27:27.85ID:X3B7wEIw
琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあった
のでしょう。
 こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠かすめて通るでしょう。移った私にも、

993山師さん2018/05/31(木) 00:27:43.99ID:X3B7wEIw
移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気じゃきが予備的に私の自然を
損なったためか、または私がまだ人慣ひとなれなかったためか、私は始めてそこのお嬢じょうさんに会っ
た時、へどもどした挨拶あいさつをしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。

994山師さん2018/05/31(木) 00:28:00.09ID:X3B7wEIw
 私はそれまで未亡人びぼうじんの風采ふうさいや態度から推おして、このお嬢さんのすべてを想像して
いたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君さ
いくんだからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行

995山師さん2018/05/31(木) 00:28:15.87ID:X3B7wEIw
きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉ことごとく打ち消されました。そうして
私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂においが新しく入って来ました。私はそれから床の正面
に活いけてある花が厭いやでなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。

996山師さん2018/05/31(木) 00:28:31.89ID:X3B7wEIw
 その花はまた規則正しく凋しおれる頃ころになると活け更かえられるのです。琴も度々たびたび鍵かぎ
の手に折れ曲がった筋違すじかいの室へやに運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖ほおづ
えを突きながら、その琴の音ねを聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解わからな

997山師さん2018/05/31(木) 00:28:47.88ID:X3B7wEIw
いのです。けれども余り込み入った手を弾ひかないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました
。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して
旨うまい方ではなかったのです。

998山師さん2018/05/31(木) 00:29:03.92ID:X3B7wEIw
 それでも臆面おくめんなく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方いけかたはいつ見ても
同じ事でした。それから花瓶かへいもついぞ変った例ためしがありませんでした。しかし片方の音楽にな
ると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。

999山師さん2018/05/31(木) 00:29:19.88ID:X3B7wEIw
唄うたわないのではありませんが、まるで内所話ないしょばなしでもするように小さな声しか出さないの
です。しかも叱しかられると全く出なくなるのです。
 私は喜んでこの下手な活花を眺ながめては、まずそうな琴の音ねに耳を傾けました。

1000山師さん2018/05/31(木) 00:29:35.88ID:X3B7wEIw
十二

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