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【急騰】今買えばいい株7307【ハメ撮り】©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001山師さん 転載ダメ©2ch.net (ワッチョイ 83a8-3UrN [14.13.242.64])垢版2017/01/20(金) 12:18:31.04ID:EWYQ8Qs10?2BP(0)

実況はコチラへ
市況1板
http://hayabusa3.2ch.net/livemarket1/

・証券コード、銘柄名を併記してください。
・判断材料をできるだけ明確にお願いします。
・注目銘柄の事実に基づいた情報共有が目的なので、単なる買い煽りや自慰行為は控えてください。

*コテハンを付ける方は投資一般板やみんかぶ、ブログやツイッターを強く推奨しています。
*ブログの宣伝行為、スレの私物化は控えてください。
*コテハンなどの話は別のスレでお願いします。


●風説、店板、インサイダーなどの通報はこちら
証券取引等監視委員会 情報提供窓口 
https://www.fsa.go.jp/sesc/watch/index.html

〇2ちゃんねる初心者の方は必ず使用上のお約束をお読みください。
http://info.2ch.net/guide/faq.html#B0

避難所
http://jbbs.shitaraba.net/business/5380/

●次スレは原則>>700が立てること。
※スレ番が正しいか確認してから立てること
※700がスレ立てできないことが分かった時点、或いは800以降次スレがなければ有志が立てること
 (乱立防止のためスレ立て宣言推奨)
※スレタイに特定の銘柄名をつけるのはやめましょう。トラブルの原因です。
※スレタイの先頭には【急騰】を、途中には通し番号をつけるのをお忘れなく。

ワッチョイの仕様
本文の1行目に下記をコピペしたら ワッチョイになります。
!extend:on:vvvvvv:1000:512
!extend:on:vvvvvvの「v」の数が
5個の時はワッチョイのみ
4個の時はIP表示のみ
6個の時はワッチョイとIPが表示
メール欄に
ageteoff→スレタイの[転載禁止]を非表示
sageteoff→sage+スレタイの[転載禁止]を非表示
VIPQ2_EXTDAT: default:vvvvvv:1000:512:----: EXT was configured
0002山師さん (ワッチョイ c3a4-3qL8 [36.2.197.219])垢版2017/01/20(金) 12:20:28.58ID:kxjRaac90
禿
0003告発 愛知県警と空自小牧基地の悪事 (ワッチョイ cf65-a3Th [121.103.67.192])垢版2017/01/20(金) 12:29:38.67ID:7YOUJnqT0
空自小牧基地でおかしな事をやっている件 使用時()外して
http://uni.(open2ch).net/test/read.cgi/jsdf/1484382001/1-15
愛知県警察本部
http://uni.(open2ch).net/test/read.cgi/police/1484381695/1-13
【重要人物】
  桝田好一 愛知県警本部長 前職は 内閣官房内閣審議官(内閣情報調査室)
  尾崎義典 小牧基地司令官 空将補
  青山 修 春日井市消防本部 消防長
【調査すべき組織】
   春日井か守山の陸自駐屯基地
   創価学会(春日井、上の可能性も)
   春日井警察
【真相】愛知県警本部長の桝田好一が、内調審議官出身である事を利用し自衛隊に公式or非公式のルートで自衛隊の協力を要請
   小牧基地司令の尾崎義典空将補が、要請に応じて協力しブラックヘリや自衛隊機を飛ばすに至った
>785 : 専守防衛さん2017/01/09(月) 11:50:58.61
>空自でPやれるのはごく少数
>残りは民間ヘリとか。警察なら嬉しいだろ
 Pはパーソンパーソナル即ち対人(対個人)作戦、対人(対個人)攻撃の事を指す軍事用語と考えられ
 空での悪事には自衛隊ヘリ、空自機、警察青ヘリ以外に民間機のセスナ、セスナっぽい民間機も関与の為
 警察、自衛隊、民間が連携し協力する形でPが行われている極めて悪質な行為と考えられ
 またチヌークも関与の疑いがあり、春日井か名古屋守山の陸自駐屯地にも関与の疑いあり
 なお空の件には、創価学会も一枚噛んでいる模様(特にセスナやセスナっぽいの等)
>910 : 専守防衛さん 2017/01/11(水) 00:04:14.67
>>908
>自衛隊と創価の繋がりが証明できてないし
>そもそもブラックヘリとやらのストーカーも一般人から見ればただの訓練だし
 との事で一般人から見ればただの訓練に見えるよう偽装してPを遂行
 (投稿者は内容から加害側であると考えられ)

また春日井市消防本部では救急車消防車のカラ出動が頻発(連日)しており
脱法系防犯パトロールの対象者に無意味にサイレンを鳴らす空サイレン行為を数カ月やり続けている
その許可を出しているのが、春日井市消防本部の青山修消防長
0004オリコ(8585) 買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ 6fd1-AVdH [119.230.39.217])垢版2017/01/23(月) 02:09:19.30ID:dkXaqqWB0
オリコ(8585) 買ーいー(^o^)/
0005山師さん (アウアウウー Sa07-2i5d [106.142.29.139])垢版2017/02/02(木) 23:28:32.37ID:h7+Xt56Qa
金融危機、円高、株安なら哲人投資家の大重なんとかだな。
ツイッターも英語の記事が豊富で参考になる。
0006JR西日本(9021) 買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ 6fd1-SU7p [119.230.38.87])垢版2017/02/05(日) 23:10:37.60ID:GWR7BThS0
JR西日本(9021) 買ーいー(^o^)/
0007山師さん (ワッチョイ 76a6-ihKg [153.168.0.136])垢版2017/02/14(火) 17:48:27.84ID:k4mDPYQP0
         ____
       /   u \
      /  \    /\    体が、、、か。。ら・・だが求める・・・・・・・・・・・・・・・
    /  し (>)  (<)\
    | ∪    (__人__)  J |
     \  u   `⌒´   /
    ノ           \
  /´               ヽ
 |    l



         ____
       /      \
      /  rデミ    \   ナンピンという麻薬を
    /     `ー′ /でン \
    |     、   .ゝ    |
     \     ヾニァ'   /
    ノ           \
  /´               ヽ
 |    l
0010GNIマン (バッミングク MM7f-9MQs [122.18.39.196])垢版2017/03/01(水) 16:45:26.55ID:WbXDQNAaM
さっきこのクソコテに反応してくれた人
ありがとう

今後GNI上がり時に出て煽ります
0015山師さん (ササクッテロラ Sp57-6q6/ [126.199.74.223])垢版2017/03/13(月) 10:49:07.07ID:82zGCCgxp
ブロッコリー買っておけって
私言いましたよね?


買ってない雑魚は黙ってて
0016山師さん (ワッチョイ bfa1-ZfXI [118.243.214.96])垢版2017/03/13(月) 10:50:21.03ID:DH4WWSGD0
ブロッコリーは煽らなくてええわ
ウルフがきて気に食わないけど、ジリジリあげていく展開でいいよ
0020山師さん (ワッチョイ 72bd-cNMM [219.96.48.12])垢版2017/03/13(月) 10:56:47.60ID:pd14m/yJ0
コスコスすげえええ
0021山師さん (ワッチョイ 871d-/f89 [110.0.86.108])垢版2017/03/13(月) 11:09:05.97ID:4MxiMQ360
日本ラッド上がるかね?
0023山師さん (アウアウカー Sa7f-75k1 [182.250.253.194])垢版2017/03/13(月) 14:24:03.63ID:Q1ChZlcaa
オイショーガツカエルヨーニナタヨー
0024山師さん (ワッチョイ cf99-ynXw [220.22.24.53])垢版2017/03/13(月) 14:24:27.19ID:igMY1SlP0
モブ追証おるか
0026山師さん (ワッチョイ 87ff-ITSh [110.66.142.238])垢版2017/03/13(月) 14:24:40.44ID:gxoy5qqN0
そーせい↑リバウンド始まるぞ
0028山師さん (ワッチョイ cf06-13QG [220.111.245.89])垢版2017/03/13(月) 14:24:51.30ID:2eICcaDi0
ぐにゃった
0031山師さん (ワッチョイ 074b-oJck [180.52.130.123])垢版2017/03/13(月) 14:26:01.44ID:izH8dE9g0
  |■_
   |m`) アイム スキャートマーン
   |⊂
   |
0034山師さん (ワッチョイ 87ff-ITSh [110.66.142.238])垢版2017/03/13(月) 14:30:46.25ID:gxoy5qqN0
そーせいリバウンドなしか
明日は信用買いの売りで10000切るのか
0035山師さん (ワッチョイ fbb6-nk3I [210.166.21.18])垢版2017/03/13(月) 14:38:19.03ID:Ct0rqcCt0
レノバ張り付くんじゃ…だってサウジ関係ないし
0036山師さん (ササクッテロレ Sp97-CJUg [126.247.70.220])垢版2017/03/21(火) 08:11:28.15ID:Hs/qGcPFp
そーせい思ったより下がらんな
S安張り付けで良いのに
0037山師さん (ワッチョイ be82-3sHt [119.175.245.224])垢版2017/04/09(日) 10:11:34.59ID:nmuwwnMr0
 潜水艦、東京五輪、リニア新幹線
0040山師さん (ワッチョイ 3694-D1KF [153.177.14.178])垢版2017/04/12(水) 14:19:17.50ID:4N+phpo80
ここか
0041山師さん (ワッチョイ d28c-CcT5 [115.65.8.47])垢版2017/04/12(水) 14:22:47.52ID:m7lEuAU50
あのカリアゲいつ殺すか決めたの?
0042山師さん (ワッチョイ feba-0hJK [223.132.255.79])垢版2017/04/12(水) 14:30:50.64ID:ihGEr3Hg0
石川限界だな
0044山師さん (ワッチョイ 4b81-mrvf [36.2.152.237])垢版2017/04/16(日) 23:59:23.01ID:exOK8rf/0
市場がこんな情けない状況にあっても、

ここは、いまはどんな銘柄が安全度高く利益を伸ばせるか。
この点に意識を集中させて投資に取り組みたいですね
http://syoukenshinpou.blog13.fc2.com/blog-entry-26909.html
0051山師さん (ワントンキン MM62-cFHb [153.147.231.203])垢版2017/05/08(月) 16:54:35.04ID:dMdJBP8zM
51
0052山師さん (ササクッテロル Sp27-SPs8 [126.236.165.172])垢版2017/05/12(金) 12:55:29.10ID:rLr0bnztp
馬鹿だなぁお前ら
加山が起こしてくれるならストップするぞ
0053山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/16(火) 22:11:17.11ID:1nPZrUgf0
 先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むし
ろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私に
も全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力しゅうじゃくりょくをいまだ
かつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処とこ
ろに、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと盾たてを突いてみようとした私は、
この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私は他ひとに欺あざむかれたのです。しかも血のつづいた親戚しんせきのものから欺かれたのです。私
は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否いなや許しが
たい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供こどもの時から今日きょうまで背負
しょわされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないん
だから。しかし私はまだ復讐ふくしゅうをしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にや
っているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を
覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
 私は慰藉いしゃの言葉さえ口へ出せなかった。

三十一

 その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私わたくしはむしろ先生の態度に畏縮いしゅく
して、先へ進む気が起らなかったのである。
 二人は市の外はずれから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もな
く別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これか
ら六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」と
いった。私は笑って帽子を脱とった。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人
間を憎んでいるのだろうかと疑うたぐった。その眼、その口、どこにも厭世的えんせいてきの影は射さし
ていなかった。
 私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、
利益を受けようとしても、受けられない事が間々ままあったといわなければならない。先生の談話は時と
して不得要領ふとくようりょうに終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例と
して私の胸の裏うちに残った。
 無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解わかってるくせに、はっきりいってくれないの
は困ります」
「私は何にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませ
んか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏まとめ上げた考えをむやみに人に隠しやしません。
隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉ことごとくあなたの前に物語らなくてはならないとなる
と、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを
切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられ
ただけで、満足はできないのです」
 先生はあきれたといった風ふうに、私の顔を見た。巻烟草まきタバコを持っていたその手が少し顫ふる
えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目まじめなんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐あばいてもですか」
 訐くという言葉が、突然恐ろしい響ひびきをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐すわっている
のが、一人の罪人ざいにんであって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼あ
おかった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果いんがで、人を疑うたぐり
つけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るに
0054山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/16(火) 22:11:26.22ID:1nPZrUgf0
はあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いいから、他ひとを信用して死にたいと思っ
ている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか

「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その
代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ
。聞かない方が増ましかも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さ
い。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。

三十二

 私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り
及第した。卒業式の日、私は黴臭かびくさくなった古い冬服を行李こうりの中から出して着た。式場にな
らぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚羅紗あつラシャの下に密封さ
れた自分の身体からだを持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょにな
った。
 私は式が済むとすぐ帰って裸体はだかになった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡とおめがねのように
ぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放
り出した。そうして大の字なりになって、室へやの真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた
。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意
味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
 私はその晩先生の家へ御馳走ごちそうに招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐ばんさん
はよそで喰くわずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
 食卓は約束通り座敷の縁えん近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊のりの硬こわい卓布
テーブルクロースが美しくかつ清らかに電燈の光を射返いかえしていた。先生のうちで飯めしを食うと、
きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸はしや茶碗ちゃわんが置かれた。そうしてそ
れが必ず洗濯したての真白まっしろなものに限られていた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層いっそ始はじめから色の着いたものを使
うが好いい。白ければ純白でなくっちゃ」
 こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然きちりと片付いていた。無頓
着むとんじゃくな私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は癇性かんしょうですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気に
しないようですよ」と答えた事があった。それを傍そばに聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神
的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿ばかばかしい性分しょうぶんだ」と
いって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという
意味か、私には解わからなかった。奥さんにも能よく通じないらしかった。
 その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布たくふの前に坐すわった。奥さんは二人を左右に置いて、
独ひとり庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のために杯さかずきを上げてくれた。私はこの盃さかずきに対してそ
れほど嬉うれしい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをも
っていなかったのが、一つの源因げんいんであった。けれども先生のいい方も決して私の嬉うれしさを唆
そそる浮々うきうきした調子を帯びていなかった。先生は笑って杯さかずきを上げた。私はその笑いのう
ちに、些ちっとも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲くみ取る事がで
きなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語
っていた。
 奥さんは私に「結構ね。さぞお父とうさんやお母かあさんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突
然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
0055山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/16(火) 22:11:35.04ID:1nPZrUgf0
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
 卒業証書の在処ありどころは二人ともよく知らなかった。

三十三

 飯めしになった時、奥さんは傍そばに坐すわっている下女げじょを次へ立たせて、自分で給仕きゅうじ
の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来しきたりらしかった。始めの一、二回は私
わたくしも窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗ちゃわんを奥さんの前へ出すのが、何でもなくな
った。
「お茶? ご飯はん? ずいぶんよく食べるのね」
 奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そ
んなに調戯からかわれるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた近頃ちかごろ大変小食しょうしょくになったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
 奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子みずがしを運ばせた。
「これは宅うちで拵こしらえたのよ」
 用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふるまうだけの余裕があると見えた。私はそれ
を二杯更かえてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をず
らして、敷居際しきいぎわで背中を障子しょうじに靠もたせていた。
 私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的あてもなかった。返事に
ためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお
役人やくにん?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくら
いなんですから。だいちどれが善いいか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと解わからないんだ
から、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは必竟ひっきょう財産があるからそんな呑気のんきな事をいっていられ
るのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
 私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事
実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
「碌ろくなかぶれ方をして下さらないのね」
 先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分け
てもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
 私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅つつじの咲いている五月の初め
を思い出した。あの時帰り途みちに、先生が昂奮こうふんした語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳
の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ凄すごい言葉であった。けれども事実を知らない私
には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お宅たくの財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
 奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅うちへ帰って一つ父に談判する時の参考にし
ますから聞かして下さい」
 先生は庭の方を向いて、澄まして烟草タバコを吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかっ
た。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。―
―そりゃどうでも宜いいとして、あなたはこれから何か為なさらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生の
ようにごろごろばかりしていちゃ……」
0056山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/16(火) 22:13:50.24ID:1nPZrUgf0
たかった。
「それでもその人のお蔭かげで地位ができればまあ結構だ。お父とうさんも喜んでるようじゃないか」
 兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭めいりょうな手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もでき
ず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑はやのみ込こみでみんなにそう吹聴ふいちょうし
てしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでも
なく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が
書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕ひんしている父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたい
と祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他た妹いもとの夫だの伯父
おじだの叔母おばだのの手前、私のちっとも頓着とんじゃくしていない事に、神経を悩まさなければなら
なかった。
 父が変な黄色いものも嘔はいた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああ
して長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙
ぐんだ。
 兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった
事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
「お前ここへ帰って来て、宅うちの事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかっ
た。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭においを嗅かい
で朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎いなかでも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いいだろ
う」
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口ひとくちに斥しりぞけた。兄の腹の中には、世の中でこれ
から仕事をしようという気が充みち満みちていた。
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取ら
なくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
 兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後あとについて、こんな風に語り合った。

十六

 父は時々囈語うわことをいうようになった。
「乃木大将のぎたいしょうに済まない。実に面目次第めんぼくしだいがない。いえ私もすぐお後あとから

 こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元まくらもとへ集めてお
きたがった。気のたしかな時は頻しきりに淋さびしがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室へや
の中うちを見廻みまわして母の影が見えないと、父は必ず「お光みつは」と聞いた。聞かないでも、眼が
それを物語っていた。私わたくしはよく起たって母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が仕掛し
かけた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があっ
た。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光お前まえにも色々世話になったね」などと
優やさしい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと
丈夫であった昔の父をその対照として想おもい出すらしかった。
「あんな憐あわれっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷ひどかったんだよ」
 母は父のために箒ほうきで背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍なんべんもそれを聞かさ
れた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念かたみのように耳へ受け入れた。
 父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言ゆいごんらしいものを口に出さなかった

「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好よし悪あし
だと考えていた。二人は決しかねてついに伯父おじに相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いか
0057山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/16(火) 22:15:11.21ID:1nPZrUgf0
も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅うちを留守にしても大丈夫なものでなければ
心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束おぼつかなく見えたのです。ある日私はま
あ宅うちだけでも探してみようかというそぞろ心ごころから、散歩がてらに本郷台ほんごうだいを西へ下
りて小石川こいしかわの坂を真直まっすぐに伝通院でんずういんの方へ上がりました。電車の通路になっ
てから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃ころは左手が砲兵工廠ほうへいこうし
ょうの土塀どべいで、右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。私はその
草の中に立って、何心なにごころなく向うの崖がけを眺ながめました。今でも悪い景色ではありませんが
、その頃はまたずっとあの西側の趣おもむきが違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだ
けでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅うちはないだろうかと思いました。それで直す
ぐ草原くさはらを横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好いい町になり切れないで
、がたぴししているあの辺へんの家並いえなみは、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした
。私は露次ろじを抜けたり、横丁よこちょうを曲まがったり、ぐるぐる歩き廻まわりました。しまいに駄
菓子屋だがしやの上かみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家かしやはないかと尋ねてみました。上さ
んは「そうですね」といって、少時しばらく首をかしげていましたが、「かし家やはちょいと……」と全
く思い当らない風ふうでした。私は望のぞみのないものと諦あきらめて帰り掛けました。すると上さんが
また、「素人下宿しろうとげしゅくじゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静
かな素人屋しろうとやに一人で下宿しているのは、かえって家うちを持つ面倒がなくって結構だろうと考
え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清にっしん
戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷いちがやの士官しかん
学校の傍そばとかに住んでいたのだが、厩うまやなどがあって、邸やしきが広過ぎるので、そこを売り払
って、ここへ引っ越して来たけれども、無人ぶにんで淋さむしくって困るから相当の人があったら世話を
してくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人びぼうじんと一人娘と下女げ
じょより外ほかにいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極しごく好かろうと心の中うちに思
いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性すじょうの知れ
ない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念けねんもありました。私は止よそ
うかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装なりはしていませんでした。それから
大学の制帽を被かぶっていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれど
もその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子
に一種の自信を見出みいだしたくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなし
にその軍人の遺族の家うちを訪ねました。
 私は未亡人びぼうじんに会って来意らいいを告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらにつ
いて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも
引っ越して来て差支さしつかえないという挨拶あいさつを即坐そくざに与えてくれました。未亡人は正し
い人でした、また判然はっきりした人でした。私は軍人の妻君さいくんというものはみんなこんなものか
と思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性きしょうでどこが淋さむしいのだろう
と疑いもしました。

十一

「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。
そこは宅中うちじゅうで一番好いい室へやでした。本郷辺ほんごうへんに高等下宿といった風ふうの家が
ぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間まの様子を心得ていました
。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過
ぎるくらいに思われたのです。
0058山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:02:22.90ID:7/Y09tcf0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
0059山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:02:31.82ID:7/Y09tcf0
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
には長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人
の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な
地位を占めていた。
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ
下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動
いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に
知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべって
みたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃ
やが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大き
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を
飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。



 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。私
にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいが浜はままで行って、砂の上にしゃがみながら
、長い間西洋人の海へ入る様子を眺ながめていた。私の尻しりをおろした所は少し小高い丘の上で、その
すぐ傍わきがホテルの裏口になっていたので、私の凝じっとしている間あいだに、大分だいぶ多くの男が
塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股ももは出していなかった。女は殊更ことさら肉を隠しがちで
あった。大抵は頭に護謨製ゴムせいの頭巾ずきんを被かぶって、海老茶えびちゃや紺こんや藍あいの色を
波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼めには、猿股一つで済まして皆みんなの前
に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
 彼はやがて自分の傍わきを顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言ひとこと二言ふたこと何なにか
いった。その日本人は砂の上に落ちた手拭てぬぐいを拾い上げているところであったが、それを取り上げ
0061山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:15:37.72ID:7/Y09tcf0
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
0062山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:16:40.90ID:7/Y09tcf0
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
0063山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:17:45.93ID:7/Y09tcf0
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
0064山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:18:49.05ID:7/Y09tcf0
を照らしていた。私は自由と歓喜に充みちた筋肉を動かして海の中で躍おどり狂った。先生はまたぱたり
と手足の運動を已やめて仰向けになったまま浪なみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎ
らぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促し
た。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私は
すぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路みちを浜辺へ引き返した。
 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
 それから中なか二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋かけぢゃやで出会った時
、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分だいぶ長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない
私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答
0065山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:18:57.77ID:7/Y09tcf0
えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極きまりが悪くなった。「先生は?」と聞えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極きまりが悪くなった。「先生は?」と聞
き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内けいだいにある別荘の
ような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解わかった。私が先生先生と呼び掛け
るので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖くちくせだといって弁解した。私はこ
の間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉かまくらにいない事や、色々の
話をした末、日本人にさえあまり交際つきあいをもたないのに、そういう外国人と近付ちかづきになった
のは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、ど
うしても思い出せないといった。若い私はその時暗あんに相手も私と同じような感じを持っていはしまい
0066山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:21:04.74ID:7/Y09tcf0
飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。



 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
0067山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:24:08.61ID:7/Y09tcf0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0068山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:38:08.20ID:7/Y09tcf0
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
0069山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ [153.177.14.178 [上級国民]])垢版2017/05/17(水) 00:40:57.18ID:7/Y09tcf0
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
0071山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:00:22.89ID:7/Y09tcf0
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
0072山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:00:38.89ID:7/Y09tcf0
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
0073山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:00:54.86ID:7/Y09tcf0
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0074山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:01:26.90ID:7/Y09tcf0
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
0075山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:01:42.93ID:7/Y09tcf0
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
0076山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:01:58.92ID:7/Y09tcf0
には長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人
の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な
地位を占めていた。
0077山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:02:14.86ID:7/Y09tcf0
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ
下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動
いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に
0078山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:02:30.90ID:7/Y09tcf0
知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべって
みたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃ
0079山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:02:46.93ID:7/Y09tcf0
やが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大き
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を
0080山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:03:02.89ID:7/Y09tcf0
飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。
0082山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:03:34.95ID:7/Y09tcf0
 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
0083山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 15:03:50.95ID:7/Y09tcf0
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
0084山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:25:57.23ID:7/Y09tcf0

を思い出した。あの時帰り途みちに、先生が昂奮こうふんした語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳
の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ凄すごい言葉であった。けれども事実を知らない私
0087山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:26:45.28ID:7/Y09tcf0
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅うちへ帰って一つ父に談判する時の参考にし
ますから聞かして下さい」
 先生は庭の方を向いて、澄まして烟草タバコを吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかっ
0088山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:27:01.29ID:7/Y09tcf0
た。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。―
―そりゃどうでも宜いいとして、あなたはこれから何か為なさらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生の
0091山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:27:49.29ID:7/Y09tcf0
 私わたくしはその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座
を立つ前に私はちょっと暇乞いとまごいの言葉を述べた。
「また当分お目にかかれませんから」
0092山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:28:05.30ID:7/Y09tcf0
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
 私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来
て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
0093山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:28:21.30ID:7/Y09tcf0
「まあ九月頃ごろになるでしょう」
「じゃずいぶんご機嫌きげんよう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずい
ぶん暑そうだから。行ったらまた絵端書えはがきでも送って上げましょう」
0094山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:28:37.32ID:7/Y09tcf0
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
 先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
「何まだ行くとも行かないとも極きめていやしないんです」
0095山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:28:53.44ID:7/Y09tcf0
 席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。
私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうく
らいに考えていた。
0096山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:29:09.44ID:7/Y09tcf0
「そんなに容易たやすく考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症にょうどくしょうが出ると、もう駄目
だめなんだから」
 尿毒症という言葉も意味も私には解わからなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私は
0097山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:29:25.33ID:7/Y09tcf0
そんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ廻まわるようになると、もうそれっ
きりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
0098山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:29:41.34ID:7/Y09tcf0
 無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
0099山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:29:57.34ID:7/Y09tcf0
 奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも憶おもい出したのか、沈んだ調子でこうい
ったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。
 すると先生が突然奥さんの方を向いた。
0100山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:30:13.29ID:7/Y09tcf0
「静しず、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「なぜ」
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも己おれの方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ旦
0101山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:30:29.34ID:7/Y09tcf0
那だんなが先で、細君さいくんが後へ残るのが当り前のようになってるね」
「そう極きまった訳でもないわ。けれども男の方ほうはどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事にな
0105山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:31:33.37ID:7/Y09tcf0
「どうするって……」
 奥さんはそこで口籠くちごもった。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったら
しかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を更かえていた。
0106山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:31:49.47ID:7/Y09tcf0
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定ろうしょうふじょうっていうくらいだから」
 奥さんはことさらに私の方を見て笑談じょうだんらしくこういった。
0108山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:32:21.38ID:7/Y09tcf0
「君はどう思います」と先生が聞いた。
 先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、固もとより私に判断のつくべき問題ではなかった。私は
ただ笑っていた。
0109山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:32:37.40ID:7/Y09tcf0
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極きまった年数をもらって来るんだから仕方
がないわ。先生のお父とうさんやお母さんなんか、ほとんど同おんなじよ、あなた、亡くなったのが」
0110山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:32:53.39ID:7/Y09tcf0
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
 この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
0111山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:33:09.50ID:7/Y09tcf0
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
 奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを遮さえぎった。
「そんな話はお止よしよ。つまらないから」
0112山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:33:25.39ID:7/Y09tcf0
 先生は手に持った団扇うちわをわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
「静しず、おれが死んだらこの家うちをお前にやろう」
 奥さんは笑い出した。
0113山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:33:41.52ID:7/Y09tcf0
「ついでに地面も下さいよ」
「地面は他ひとのものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは皆みんなお前にやるよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか貰もらっても仕様がないわね」
0114山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:33:57.40ID:7/Y09tcf0
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
 先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった
0115山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:34:13.40ID:7/Y09tcf0
。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわい
のない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍なんべんおっしゃるの。後生ごしょうだからもう好い
0116山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:34:29.39ID:7/Y09tcf0
い加減にして、おれが死んだらは止よして頂戴ちょうだい。縁喜えんぎでもない。あなたが死んだら、何
でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
 先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの厭いやがる事をいわなくなった。私もあまり長
0118山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:35:01.43ID:7/Y09tcf0
 私は挨拶あいさつをして格子こうしの外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀もく
せいの一株ひとかぶが、私の行手ゆくてを塞ふさぐように、夜陰やいんのうちに枝を張っていた。私は二
、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被おおわれているその梢こずえを見て、来たるべき秋の花と香を想
0119山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:35:17.44ID:7/Y09tcf0
おもい浮べた。私は先生の宅うちとこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように
、いっしょに記憶していた。私が偶然その樹きの前に立って、再びこの宅の玄関を跨またぐべき次の秋に
思いを馳はせた時、今まで格子の間から射さしていた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥
0120山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:35:33.45ID:7/Y09tcf0
へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
 私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調ととのえる買物もあったし、ご馳走ちそうを詰めた胃
袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑にぎやかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であ
0121山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:35:49.45ID:7/Y09tcf0
った。用事もなさそうな男女なんにょがぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに
会った。彼は私を無理やりにある酒場バーへ連れ込んだ。私はそこで麦酒ビールの泡のような彼の気※(
「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎ
0123山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:36:21.44ID:7/Y09tcf0
 私わたくしはその翌日よくじつも暑さを冒おかして、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受
けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫おっくうに感ぜられた。私は電車の中
0124山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:36:37.46ID:7/Y09tcf0
で汗を拭ふきながら、他ひとの時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者いなかものを
憎らしく思った。
 私はこの一夏ひとなつを無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらか
0125山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:36:53.47ID:7/Y09tcf0
じめ作っておいたので、それを履行りこうするに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日
を丸善まるぜんの二階で潰つぶす覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から
隅まで一冊ずつ点検して行った。
0126山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:37:09.47ID:7/Y09tcf0
 買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟はんえりであった。小僧にいうと、いくらでも出してはく
れるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上価あたいが極き
わめて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると
0127山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:37:25.59ID:7/Y09tcf0
、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付
かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを煩わずらわさなか
ったかを悔いた。
0128山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:37:41.50ID:7/Y09tcf0
 私は鞄かばんを買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしてい
るので、田舎ものを威嚇おどかすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。
卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切いっさいの土産みやげものを入れて帰るようにと、わざわ
0129山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:37:57.49ID:7/Y09tcf0
ざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡りょうけんが解わか
らないというよりも、その言葉が一種の滑稽こっけいとして訴えたのである。
 私は暇乞いとまごいをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った
0130山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:38:13.80ID:7/Y09tcf0
。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にあ
りながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想
像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟してい
0131山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:38:29.49ID:7/Y09tcf0
たに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底とても故もとのような健康体に
なる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一
度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定さだめて心細
0132山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:38:45.50ID:7/Y09tcf0
いだろう、我々も子として遺憾いかんの至いたりであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際
心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
 私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののよう
0133山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:39:01.60ID:7/Y09tcf0
に思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を想おもい浮べた。ことに二、三日前晩食
ばんめしに呼ばれた時の会話を憶おもい出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
0134山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:39:17.51ID:7/Y09tcf0
 私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰
も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然はっきり分っていたな
らば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外
0135山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:39:33.62ID:7/Y09tcf0
ほかに仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事も
できないように)。私は人間を果敢はかないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽
薄を、果敢ないものに観じた。
0139山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:40:37.54ID:7/Y09tcf0
 宅うちへ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来る
から」
0140山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:40:53.54ID:7/Y09tcf0
 父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽むぎわらぼうの後ろへ、日除ひよけのために括
くくり付けた薄汚うすぎたないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻まわって行った
0141山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:41:09.54ID:7/Y09tcf0
 学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私わたくしは、それを予期以上に喜んで
くれる父の前に恐縮した。
「卒業ができてまあ結構だ」
0142山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:41:25.55ID:7/Y09tcf0
 父はこの言葉を何遍なんべんも繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の
家うちの食卓で、「お目出とう」といわれた時の先生の顔付かおつきとを比較した。私には口で祝ってく
れながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉うれしがる父よりも
0143山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:41:41.57ID:7/Y09tcf0
、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いなかくさいところに不快を感じ出した

「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
0144山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:41:57.55ID:7/Y09tcf0
 私はついにこんな口の利ききようをした。すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう
少し意味があるんだ。それがお前に解わかっていてくれさえすれば、……」
0145山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:42:13.57ID:7/Y09tcf0
 私は父からその後あとを聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会
った時、ことによるともう三月みつきか四月よつきぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどうい
0146山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:42:29.57ID:7/Y09tcf0
う仕合しあわせか、今日までこうしている。起居たちいに不自由なくこうしている。そこへお前が卒業し
てくれた。だから嬉うれしいのさ。せっかく丹精たんせいした息子が、自分のいなくなった後あとで卒業
してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉うれしいだろうじゃないか。大
0147山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:42:45.60ID:7/Y09tcf0
きな考えをもっているお前から見たら、高たかが大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは
余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に
取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
0148山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:43:01.58ID:7/Y09tcf0
 私は一言いちごんもなかった。詫あやまる以上に恐縮して俯向うつむいていた。父は平気なうちに自分
の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その
卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚おろかものであった。私は鞄かばんの中から
0149山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:43:17.60ID:7/Y09tcf0
卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに圧おし潰つぶされて、元の形を
失っていた。父はそれを鄭寧ていねいに伸のした。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
0150山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:43:33.70ID:7/Y09tcf0
「中に心しんでも入れると好よかったのに」と母も傍かたわらから注意した。
 父はしばらくそれを眺ながめた後あと、起たって床とこの間の所へ行って、誰だれの目にもすぐはいる
ような正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生へ
0151山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:43:49.59ID:7/Y09tcf0
いぜいと違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父の為なすがままに
任せておいた。一旦いったん癖のついた鳥とりの子紙こがみの証書は、なかなか父の自由にならなかった
。適当な位置に置かれるや否いなや、すぐ己おのれに自然な勢いきおいを得て倒れようとした。
0153山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:44:21.61ID:7/Y09tcf0
 私わたくしは母を蔭かげへ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。大方おおかた好くおなりなんだろう」
0154山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:44:37.60ID:7/Y09tcf0
 母は案外平気であった。都会から懸かけ隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう
事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんな
に心配したものを、と私は心のうちで独り異いな感じを抱いだいた。
0155山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:44:53.61ID:7/Y09tcf0
「でも医者はあの時到底とてもむずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体からだほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重ておもくいった
ものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさな
0156山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:45:09.64ID:7/Y09tcf0
いようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情ごうじょうでねえ
。自分が好いいと思い込んだら、なかなか私わたしのいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね
0157山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:45:25.67ID:7/Y09tcf0
 私はこの前帰った時、無理に床とこを上げさして、髭ひげを剃そった父の様子と態度とを思い出した。
「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山ぎょうさん過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考
えてみると、満更まんざら母ばかり責める気にもなれなかった。「しかし傍はたでも少しは注意しなくっ
0158山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:45:41.73ID:7/Y09tcf0
ちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の病やまいの性質につい
て、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料
に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり同おんなじ病気でね。お
0159山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:45:57.63ID:7/Y09tcf0
気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方かたは」などと聞いた。
 私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目ま
じめに聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己おれの身体からだは必竟ひっきょ
0160山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:46:13.63ID:7/Y09tcf0
う己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番能よく心得ているはずだから
ね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大
0161山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:46:29.65ID:7/Y09tcf0
変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに
免状を持って来たから、それが嬉うれしいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹なかのなかではまだ大丈夫だと思ってお出いで
0163山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:47:01.66ID:7/Y09tcf0
がね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家うち
にいる気かなんて」
 私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家いなかやを想像して見た。この
0164山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:47:17.65ID:7/Y09tcf0
家いえから父一人を引き去った後あとは、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何
というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母
を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰もらうものは、分けて貰って置けと
0165山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:47:33.71ID:7/Y09tcf0
いう注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試ためしはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死
ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方
0168山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:48:21.78ID:7/Y09tcf0
 私わたくしのために赤い飯めしを炊たいて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日
から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗あんにそれを恐れていた。私はすぐ断わっ
た。
0169山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:48:37.70ID:7/Y09tcf0
「あんまり仰山ぎょうさんな事は止よしてください」
 私は田舎いなかの客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、
何か事があれば好いいといった風ふうの人ばかり揃そろっていた。私は子供の時から彼らの席に侍じする
0170山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:48:53.71ID:7/Y09tcf0
のを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚はなはだしい
ように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙やひな人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた
。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
0171山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:49:09.70ID:7/Y09tcf0
「仰山仰山とおいいだが、些ちっとも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐ
らいするのは当り前だよ。そう遠慮をお為しでない」
 母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰もらったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
0172山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:49:25.70ID:7/Y09tcf0
「呼ばなくっても好いいが、呼ばないとまた何とかいうから」
 これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期
通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
0174山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:49:57.71ID:7/Y09tcf0
 私は我がを張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の好いいようにしたらと思い出した。
「つまり私のためなら、止よして下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭いやだからという
ご主意しゅいなら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありま
0176山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:50:29.76ID:7/Y09tcf0
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義
理ぐらいは知っているだろう」
 母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せても
0177山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:50:45.76ID:7/Y09tcf0
なかなか敵かなうどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
 父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生へいぜいから私に
0178山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:51:01.76ID:7/Y09tcf0
対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張かどばったところに気が付かずに
、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
 父はその夜よまた気を更かえて、客を呼ぶなら何日いつにするかと私の都合を聞いた。都合の好いいも
0179山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:51:17.78ID:7/Y09tcf0
悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起ねおきしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折
れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥こだわらない頭を下げた。私は父と相談の
上招待しょうだいの日取りを極きめた。
0180山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:51:33.80ID:7/Y09tcf0
 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇めいじてんのうのご病気の報
知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を
経てようやく纏まとまろうとした私の卒業祝いを、塵ちりのごとくに吹き払った。
0181山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:51:49.79ID:7/Y09tcf0
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
 眼鏡めがねを掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかっ
た。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下を憶おもい出したりした。
0183山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:52:21.83ID:7/Y09tcf0
 小勢こぜいな人数にんずには広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私わたくしは行李こうりを解い
て書物を繙ひもとき始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩めまぐるしい東京の下宿の二階
で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁ページを一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持
0184山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:52:37.84ID:7/Y09tcf0
よく勉強ができた。
 私はややともすると机にもたれて仮寝うたたねをした。時にはわざわざ枕まくらさえ出して本式に昼寝
を貪むさぼる事もあった。眼が覚めると、蝉せみの声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、
0185山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:52:53.85ID:7/Y09tcf0
急に八釜やかましく耳の底を掻かき乱した。私は凝じっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱い
だいた。
 私は筆を執とって友達のだれかれに短い端書はがきまたは長い手紙を書いた。その友達のあるものは東
0186山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:53:09.88ID:7/Y09tcf0
京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、音信たよりの届かないのもあった
。私は固もとより先生を忘れなかった。原稿紙へ細字さいじで三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分とい
うようなものを題目にして書き綴つづったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ
0187山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:53:25.98ID:7/Y09tcf0
東京にいるだろうかと疑うたぐった。先生が奥さんといっしょに宅うちを空あける場合には、五十恰好が
っこうの切下きりさげの女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生に
あの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違え
0188山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:53:41.99ID:7/Y09tcf0
ていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一
向いっこう音信の取とり遣やりをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁の
ない奥さんの方の親戚しんせきであった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んで
0189山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:53:57.88ID:7/Y09tcf0
いるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あ
の切下のお婆ばあさんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考え
た。そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は能よく承知していた
0190山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:54:13.91ID:7/Y09tcf0
。ただ私は淋さびしかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はつい
に来なかった。
 父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋しょうぎを差したがらなくなった。将棋盤はほこりの溜たまっ
0191山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:54:29.90ID:7/Y09tcf0
たまま、床とこの間まの隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父は凝じっと考え込んでいる
ように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその読よみがらをわざ
わざ私のいる所へ持って来てくれた。
0192山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:54:45.90ID:7/Y09tcf0
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
 父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
「勿体もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
0193山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:55:02.01ID:7/Y09tcf0
 こういう父の顔には深い掛念けねんの曇くもりがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ
斃たおれるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのような下くだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
0194山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:55:17.91ID:7/Y09tcf0
 父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己おのれに落ちかかって来そうな危険を予感してい
るらしかった。
「お父さんは本当に病気を怖こわがってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生き
0197山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:56:05.90ID:7/Y09tcf0
 父の元気は次第に衰えて行った。私わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが
自然と閑却かんきゃくされるようになった。私は黒い煤すすけた棚の上に載のっているその帽子を眺なが
0198山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:56:22.03ID:7/Y09tcf0
めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎つつしん
でくれたらと心配した。父が凝じっと坐すわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという
気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
0199山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:56:38.05ID:7/Y09tcf0
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病やまいと父の病とを結び付けて考えていた。
私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くら
0200山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:56:53.93ID:7/Y09tcf0
しい」
 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前も詰つまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さ
0201山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:57:09.94ID:7/Y09tcf0
んの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方
が好かったんだよ」
 私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それ
0202山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:57:25.94ID:7/Y09tcf0
から一週間後ごであった。そうしていよいよと極きめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。
時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、お蔭かげで好もしくない社交上の苦痛から救われ
たも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
0203山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:57:41.95ID:7/Y09tcf0
 崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己おれも……」
 父はその後あとをいわなかった。
0204山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:57:58.06ID:7/Y09tcf0
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿はたざおの球たまを包んで、それで旗竿の先へ三
寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風の
ない空気のなかにだらりと下がった。私の宅うちの古い門の屋根は藁わらで葺ふいてあった。雨や風に打
0205山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:58:14.06ID:7/Y09tcf0
たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころの
凸凹でこぼこさえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地じと、地の
なかに染め出した赤い日の丸の色とを眺ながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつ
0206山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:58:29.95ID:7/Y09tcf0
て先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね
」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見
せるのが恥ずかしくもあった。
0207山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:58:45.97ID:7/Y09tcf0
 私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有
様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面
に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしている
0208山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:59:01.98ID:7/Y09tcf0
なかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦うずの中に、自然と
捲まき込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯ひもまたふっと消えてしまうべき運
命を、眼めの前に控えているのだとは固もとより気が付かなかった。
0209山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 16:59:17.99ID:7/Y09tcf0
 私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執とりかけた。私はそれを十行ばかり書
いて已やめた。書いた所は寸々すんずんに引き裂いて屑籠くずかごへ投げ込んだ。(先生に宛あててそう
いう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴ちょうしてみると、とても返事をくれそうになかっ
0212山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:00:05.99ID:7/Y09tcf0
中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻
まわる男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好いい地方へ相談ができたの
で、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。
0213山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:00:21.99ID:7/Y09tcf0
知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻
まわしてやったら好よかろうと書いた。
 私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
0214山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:00:38.00ID:7/Y09tcf0
「そんな所へ行かないでも、まだ好いい口があるだろう」
 こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊うかつな父や母は
、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
0215山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:00:54.00ID:7/Y09tcf0
「相当の口って、近頃ちかごろじゃそんな旨うまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さん
と私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなた
0216山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:01:10.00ID:7/Y09tcf0
の所のご二男じなんは、大学を卒業なすって何をしてお出いでですかと聞かれた時に返事ができないよう
じゃ、おれも肩身が狭いから」
 父は渋面しゅうめんをつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。そ
0217山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:01:26.01ID:7/Y09tcf0
の郷里の誰彼だれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ
百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業
したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まる
0218山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:01:42.13ID:7/Y09tcf0
で足を空に向けて歩く奇体きたいな人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持
を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔けんかくの甚はなは
だしい父と母の前に黙然もくねんとしていた。
0219山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:01:58.03ID:7/Y09tcf0
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いいじゃないか。こんな時こそ」
 母はこうより外ほかに先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きている
うちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人では
0221山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:02:30.04ID:7/Y09tcf0
 私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はた
しかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやって
0222山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:02:46.14ID:7/Y09tcf0
いそうなものだがね」
 父はこういって、私を諷ふうした。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得
て働いている。必竟ひっきょうやくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
0223山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:03:02.04ID:7/Y09tcf0
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
 父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
0226山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:03:50.17ID:7/Y09tcf0
 父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅うるさい質問を掛けて相手を困ら
す質たちでもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
0227山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:04:06.05ID:7/Y09tcf0
 父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後あとのわが家いえを想像して
見るらしかった。
「小供こどもに学問をさせるのも、好よし悪あしだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅う
0228山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:04:22.06ID:7/Y09tcf0
ちへ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
 学問をした結果兄は今遠国えんごくにいた。教育を受けた因果で、私わたくしはまた東京に住む覚悟を
固くした。こういう子を育てた父の愚痴ぐちはもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家いな
0229山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:04:38.03ID:7/Y09tcf0
かやの中に、たった一人取り残されそうな母を描えがき出す父の想像はもとより淋さびしいに違いなかっ
た。
 わが家いえは動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動
0230山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:04:54.09ID:7/Y09tcf0
かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ後あと、この孤独な母を、たった一人伽藍堂がらんど
うのわが家に取り残すのもまた甚はなはだしい不安であった。それだのに、東京で好いい地位を求めろと
いって、私を強しいたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭
0231山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:05:10.09ID:7/Y09tcf0
かげでまた東京へ出られるのを喜んだ。
 私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった
。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精くわしく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもす
0232山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:05:26.20ID:7/Y09tcf0
るから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また
取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。し
かし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
0233山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:05:42.10ID:7/Y09tcf0
 私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
 母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
0234山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:05:58.11ID:7/Y09tcf0
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他ひとが気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
 母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
0235山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:06:14.11ID:7/Y09tcf0
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好いい口がないとも限らないんだから、
早く頼んでおくに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るに極きまってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
0236山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:06:30.11ID:7/Y09tcf0
 私はこんな事に掛けて几帳面きちょうめんな先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待
った。けれども私の予期はついに外はずれた。先生からは一週間経たっても何の音信たよりもなかった。
「大方おおかたどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
0237山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:06:46.11ID:7/Y09tcf0
 私は母に向かって言訳いいわけらしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対す
る言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は強しいても何かの事情を仮定して先生の態
度を弁護しなければ不安になった。
0238山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:07:02.25ID:7/Y09tcf0
 私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの
病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生
の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。
0240山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:07:34.13ID:7/Y09tcf0
 九月始めになって、私わたくしはいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り
学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
0241山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:07:50.17ID:7/Y09tcf0
 私は父の希望する地位を得うるために東京へ行くような事をいった。
「無論口の見付かるまでで好いいですから」ともいった。
 私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はま
0242山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:08:06.14ID:7/Y09tcf0
たあくまでもその反対を信じていた。
「そりゃ僅わずかの間あいだの事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相
当の地位を得え次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他ひとの世話になんぞな
0243山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:08:22.17ID:7/Y09tcf0
るものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていない
ようだね」
 父はこの外ほかにもまだ色々の小言こごとをいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったの
0244山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:08:38.15ID:7/Y09tcf0
に、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
 小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には
早いだけが好よかった。
0245山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:08:54.15ID:7/Y09tcf0
「お母さんに日を見てもらいなさい」
「そうしましょう」
 その時の私は父の前に存外ぞんがいおとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎いなか
0246山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:09:10.15ID:7/Y09tcf0
を出ようとした。父はまた私を引ひき留とめた。
「お前が東京へ行くと宅うちはまた淋さみしくなる。何しろ己おれとお母さんだけなんだからね。そのお
れも身体からださえ達者なら好いいが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
0247山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:09:26.16ID:7/Y09tcf0
 私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に坐すわっ
て、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度いくたびか繰り返し眺めた。私はその時また蝉せみの声を聞い
た。その声はこの間中あいだじゅう聞いたのと違って、つくつく法師ぼうしの声であった。私は夏郷里に
0248山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:09:42.15ID:7/Y09tcf0
帰って、煮え付くような蝉の声の中に凝じっと坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった
。私の哀愁はいつもこの虫の烈はげしい音ねと共に、心の底に沁しみ込むように感ぜられた。私はそんな
時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
0249山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:09:58.18ID:7/Y09tcf0
 私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに
、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻りんねのうちに、そろそろ動いているように思われた。私は淋さ
びしそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶おもい
0250山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:10:14.30ID:7/Y09tcf0
浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっ
しょに私の頭に上のぼりやすかった。
 私はほとんど父のすべても知り尽つくしていた。もし父を離れるとすれば、情合じょうあいの上に親子
0251山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:10:30.18ID:7/Y09tcf0
の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に解わかっていなかった。話すと約束されたその人の
過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越し
て、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であっ
0253山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:11:02.19ID:7/Y09tcf0
 私わたくしがいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父
はまた突然引ひっ繰くり返かえった。私はその時書物や衣類を詰めた行李こうりをからげていた。父は風
0254山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:11:18.21ID:7/Y09tcf0
呂ふろへ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体は
だかのまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へ伴つれて戻った時、父はもう大丈夫だと
いった。念のために枕元まくらもとに坐すわって、濡手拭ぬれてぬぐいで父の頭を冷ひやしていた私は、
0255山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:11:34.20ID:7/Y09tcf0
九時頃ごろになってようやく形かたばかりの夜食を済ました。
 翌日よくじつになると父は思ったより元気が好よかった。留とめるのも聞かずに歩いて便所へ行ったり
した。
0256山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:11:50.22ID:7/Y09tcf0
「もう大丈夫」
 父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいっ
た通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心
0257山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:12:06.21ID:7/Y09tcf0
が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然はっきりした事を話してくれなかった。私は不安のために
、出立しゅったつの日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
0258山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:12:22.22ID:7/Y09tcf0
「そうしておくれ」と母が頼んだ。
 母は父が庭へ出たり背戸せどへ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起
るとまた必要以上に心配したり気を揉もんだりした。
0260山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:12:54.24ID:7/Y09tcf0
 私はちょっと躊躇ちゅうちょした。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであっ
た。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
0261山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:13:10.23ID:7/Y09tcf0
 私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支さしつか
えないように、堅く括くくられたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考え
た。
0262山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:13:26.24ID:7/Y09tcf0
 私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒
した。医者は絶対に安臥あんがを命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そ
0263山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:13:42.25ID:7/Y09tcf0
うであった。私は兄と妹いもとに電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶くも
んもなかった。話をするところなどを見ると、風邪かぜでも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲
は不断よりも進んだ。傍はたのものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
0264山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:13:58.27ID:7/Y09tcf0
「どうせ死ぬんだから、旨うまいものでも食って死ななくっちゃ」
 私には旨いものという父の言葉が滑稽こっけいにも悲酸ひさんにも聞こえた。父は旨いものを口に入れ
られる都には住んでいなかったのである。夜よに入いってかき餅もちなどを焼いてもらってぼりぼり噛か
0265山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:14:14.25ID:7/Y09tcf0
んだ。
「どうしてこう渇かわくのかね。やっぱり心しんに丈夫の所があるのかも知れないよ」
 母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の
0266山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:14:30.38ID:7/Y09tcf0
言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
 伯父おじが見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。淋さむしいからもっといてくれ
というのが重おもな理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも
0267山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:15:02.37ID:7/Y09tcf0
 父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私わたくしはその間に長い手紙を九州にいる兄宛あ
てで出した。妹いもとへは母から出させた。私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる
0268山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:15:18.27ID:7/Y09tcf0
最後の音信たよりだろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという
意味を書き込めた。
 兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼せまらないうちに呼び寄せる
0269山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:15:34.29ID:7/Y09tcf0
自由は利きかなかった。といって、折角都合して来たには来たが、間まに合わなかったといわれるのも辛
つらかった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう判然はっきりした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは
0270山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:15:50.32ID:7/Y09tcf0
承知していて下さい」
 停車場ステーションのある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で
、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元まくらもとへ来て挨拶あいさつする白い服を着た女
0272山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:16:22.29ID:7/Y09tcf0
「今に癒なおったらもう一返いっぺん東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何
でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
 母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴つれて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
0273山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:16:38.30ID:7/Y09tcf0
 時とするとまた非常に淋さみしがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
 私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向
0274山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:16:54.30ID:7/Y09tcf0
かって何遍なんべんもそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は笑わらいを帯びた
先生の顔と、縁喜えんぎでもないと耳を塞ふさいだ奥さんの様子とを憶おもい出した。あの時の「おれが
死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する
0275山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:17:10.31ID:7/Y09tcf0
奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒なおったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃあ
りませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚びっくりしますよ、変っているんで
0276山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:17:26.33ID:7/Y09tcf0
。電車の新しい線路だけでも大変増ふえていますからね。電車が通るようになれば自然町並まちなみも変
るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝じっとしている時は、まあ二六時中にろくじちゅう一分もな
いといっていいくらいです」
0277山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:17:42.33ID:7/Y09tcf0
 私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌しゃべった。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
 病人があるので自然家いえの出入りも多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代
る代る見舞に来た。中には比較的遠くにいて平生へいぜい疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、こ
0278山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:17:58.32ID:7/Y09tcf0
の様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠やせていないじゃないか」などといって帰る
ものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし
始めた。
0279山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:18:14.37ID:7/Y09tcf0
 その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父おじ
と相談して、とうとう兄と妹いもとに電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも
立つという報知しらせがあった。妹はこの前懐妊かいにんした時に流産したので、今度こそは癖にならな
0282山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:19:02.36ID:7/Y09tcf0
を開けて十頁ページもつづけざまに読む時間さえ出て来た。一旦いったん堅く括くくられた私の行李こう
りは、いつの間にか解かれてしまった。私は要いるに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は
東京を立つ時、心のうちで極きめた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の三さんが一い
0283山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:19:18.36ID:7/Y09tcf0
ちにも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通
り仕事の運ばない例ためしも少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭いやな気持に抑
おさえ付けられた。
0284山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:19:34.36ID:7/Y09tcf0
 私はこの不快の裏うちに坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後あとの事を想像した。そ
うしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全
然異なった二人の面影を眺ながめた。
0285山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:19:50.37ID:7/Y09tcf0
 私が父の枕元まくらもとを離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出し
た。
「少し午眠ひるねでもおしよ。お前もさぞ草臥くたびれるだろう」
0286山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:20:06.38ID:7/Y09tcf0
 母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は単簡た
んかんに礼を述べた。母はまだ室へやの入口に立っていた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
0288山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:20:38.38ID:7/Y09tcf0
 母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし
父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺
あざむいたと同じ結果に陥った。
0289山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:20:54.38ID:7/Y09tcf0
「もう一遍いっぺん手紙を出してご覧な」と母がいった。
 役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭いとうような私ではなかった
。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に叱しかられたり、母の機嫌を損
0290山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:21:10.40ID:7/Y09tcf0
じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥はるかに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の貰
もらえないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒らちは明きませんよ。どうしても自分
0291山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:21:26.51ID:7/Y09tcf0
で東京へ出て、じかに頼んで廻まわらなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。癒なおるとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです
0293山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:21:58.39ID:7/Y09tcf0
 私は始め心のなかで、何も知らない母を憐あわれんだ。しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした
際に持ち出したのか理解できなかった。私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあ
るごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、外ほかの事を考えるだけ、胸に空地すきまがあるのかしらと疑
0294山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:22:14.42ID:7/Y09tcf0
うたぐった。その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きてお出いでのうちに、お前の口が極きまったらさぞ安心なさるだろうと思うんだが
ね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口も慥た
0295山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:22:30.42ID:7/Y09tcf0
しかなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
 憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。
0297山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:23:02.42ID:7/Y09tcf0
は眼を通す習慣であったが、床とこについてからは、退屈のため猶更なおさらそれを読みたがった。母も
私わたくしも強しいては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いいようじゃありませんか」
0298山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:23:18.42ID:7/Y09tcf0
 兄はこんな事をいいながら父と話をした。その賑にぎやか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえ
た。それでも父の前を外はずして私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
0299山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:23:34.38ID:7/Y09tcf0
「私わたしもそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
 兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「よく解わかるのかな」といった。兄は父の理解力が病気
のために、平生よりはよっぽど鈍にぶっているように観察したらしい。
0300山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:23:50.43ID:7/Y09tcf0
「そりゃ慥たしかです。私わたしはさっき二十分ばかり枕元まくらもとに坐すわって色々話してみたが、
調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」
 兄と前後して着いた妹いもとの夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。父は彼に向かって妹の
0301山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:24:06.45ID:7/Y09tcf0
事をあれこれと尋ねていた。「身体からだが身体だからむやみに汽車になんぞ乗って揺ゆれない方が好い
。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」といっていた。「なに今に治った
ら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支さしつかえない」ともいっていた。
0302山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:24:22.44ID:7/Y09tcf0
 乃木大将のぎだいしょうの死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった。
 何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
0303山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:24:38.46ID:7/Y09tcf0
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私わたしも
実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
 その頃ころの新聞は実際田舎いなかものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父
0304山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:24:54.55ID:7/Y09tcf0
の枕元に坐って鄭寧ていねいにそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へやへ持って来て、
残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女かんじょみたような服装なり
をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
0305山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:25:10.47ID:7/Y09tcf0
 悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹きや草を震わせている最中さいちゅうに、突然私は
一通の電報を先生から受け取った。洋服を着た人を見ると犬が吠ほえるような所では、一通の電報すら大
事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ
0306山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:25:26.46ID:7/Y09tcf0
呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのを傍そばに立って待っていた。
 電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
0307山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:25:42.47ID:7/Y09tcf0
「きっとお頼たのもうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
 私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や妹い
もとの夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣うちやって、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相
0308山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:25:58.48ID:7/Y09tcf0
談して、行かれないという返電を打つ事にした。できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤きとくに陥りつ
つある旨むねも付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細いさい手紙として、細かい事情をそ
の日のうちに認したためて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間まの悪い
0310山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:26:30.50ID:7/Y09tcf0
 私わたくしの書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろ
うと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛あてで届いた。それには来ないでもよろし
0311山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:26:46.58ID:7/Y09tcf0
いという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
「大方おおかた手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」
 母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私
0312山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:27:02.62ID:7/Y09tcf0
もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から推おしてみると、どうも変に思われた。「先生が口を探
してくれる」。これはあり得うべからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないで
0313山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:27:18.50ID:7/Y09tcf0
すね」
 私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と
答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何
0314山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:27:34.51ID:7/Y09tcf0
の役にも立たないのは知れているのに。
 その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件
について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸かんちょうなどをして帰って
0315山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:27:50.61ID:7/Y09tcf0
行った。
 父は医者から安臥あんがを命ぜられて以来、両便とも寝たまま他ひとの手で始末してもらっていた。潔
癖な父は、最初の間こそ甚はなはだしくそれを忌いみ嫌ったが、身体からだが利きかないので、やむを得
0316山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:28:06.52ID:7/Y09tcf0
ずいやいや床とこの上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経ふる
に従って、無精な排泄はいせつを意としないようになった。たまには蒲団ふとんや敷布を汚して、傍はた
のものが眉まゆを寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿の量は病気の性質として、
0317山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:28:22.64ID:7/Y09tcf0
極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲し
がるだけで、咽喉のどから下へはごく僅わずかしか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなっ
た。枕まくらの傍そばにある老眼鏡ろうがんきょうは、いつまでも黒い鞘さやに納められたままであった
0318山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:28:38.55ID:7/Y09tcf0
。子供の時分から仲の好かった作さくさんという今では一里りばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に
来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨うらやましいね。己おれはもう駄目だめだ」
0319山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:28:54.53ID:7/Y09tcf0
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し
分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの
事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
0320山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:29:10.55ID:7/Y09tcf0
 浣腸かんちょうをしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。父は医者のお蔭かげで大変楽
になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸ができたという風ふうに機嫌が直った。傍そばに
いる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私
0321山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:29:26.53ID:7/Y09tcf0
の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。傍そばにいる私はむずがゆい心持がしたが、母の
言葉を遮さえぎる訳にもゆかないので、黙って聞いていた。病人は嬉うれしそうな顔をした。
「そりゃ結構です」と妹いもとの夫もいった。
0322山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:29:42.54ID:7/Y09tcf0
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
 私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧あいまいな返事をして、わざ
と席を立った。
0324山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:30:14.57ID:7/Y09tcf0
 父の病気は最後の一撃を待つ間際まぎわまで進んで来て、そこでしばらく躊躇ちゅうちょするようにみ
えた。家のものは運命の宣告が、今日下くだるか、今日下るかと思って、毎夜床とこにはいった。
 父は傍はたのものを辛つらくするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむし
0325山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:30:30.66ID:7/Y09tcf0
ろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に
各自めいめいの寝床へ引き取って差支さしつかえなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸うな
るような声を微かすかに聞いたと思い誤った私わたくしは、一遍ぺん半夜よなかに床を抜け出して、念の
0326山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:30:46.58ID:7/Y09tcf0
ため父の枕元まくらもとまで行ってみた事があった。その夜よは母が起きている番に当っていた。しかし
その母は父の横に肱ひじを曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りの裏うちにそっと置かれた人
のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
0327山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:31:02.58ID:7/Y09tcf0
 私は兄といっしょの蚊帳かやの中に寝た。妹いもとの夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れ
た座敷に入いって休んだ。
「関せきさんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
0328山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:31:18.69ID:7/Y09tcf0
 関というのはその人の苗字みょうじであった。
「しかしそんな忙しい身体からだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんより
も兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
0329山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:31:34.60ID:7/Y09tcf0
「困っても仕方がない。外ほかの事と違うからな」
 兄と床とこを並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないと
いう考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っ
0330山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:31:50.70ID:7/Y09tcf0
ているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚はばかった。そうし
てお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
0331山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:32:06.59ID:7/Y09tcf0
 実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うとい
って承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自
分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
0332山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:32:22.58ID:7/Y09tcf0
「お前の卒業祝いは已やめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。
私はアルコールに煽あおられたその時の乱雑な有様を想おもい出して苦笑した。飲むものや食うものを強
しいて廻まわる父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
0333山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:32:38.59ID:7/Y09tcf0
 私たちはそれほど仲の好いい兄弟ではなかった。小ちさいうちは好よく喧嘩けんかをして、年の少ない
私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学
にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺ながめて、常に動物的だと思っていた。
0334山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:32:54.63ID:7/Y09tcf0
私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、
兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優やさし
い心持がどこからか自然に湧わいて出た。場合が場合なのもその大きな源因げんいんになっていた。二人
0335山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:33:10.62ID:7/Y09tcf0
に共通な父、その父の死のうとしている枕元まくらもとで、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体家うちの財産はどうなってるんだろう」
0336山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:33:26.60ID:7/Y09tcf0
「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高た
かの知れたものだろう」
 母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
0338山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:33:58.62ID:7/Y09tcf0
「先生先生というのは一体誰だれの事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私わたくしは答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他ひとの
0339山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:34:14.64ID:7/Y09tcf0
説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
 兄は必竟ひっきょう聞いても解わからないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理
0340山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:34:30.63ID:7/Y09tcf0
解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
 先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少な
くとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をも
0341山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:34:46.63ID:7/Y09tcf0
っているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから
遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰つ
まらん人間に限るといった風ふうの口吻こうふんを洩もらした。
0342山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:35:02.62ID:7/Y09tcf0
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡りょうけんだからね。人は
自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘うそだ」
 私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解わかるかと聞き返してやり
0343山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:35:18.75ID:7/Y09tcf0
たかった。
「それでもその人のお蔭かげで地位ができればまあ結構だ。お父とうさんも喜んでるようじゃないか」
 兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭めいりょうな手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もでき
0344山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:35:34.67ID:7/Y09tcf0
ず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑はやのみ込こみでみんなにそう吹聴ふいちょうし
てしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでも
なく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が
0345山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:35:50.66ID:7/Y09tcf0
書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕ひんしている父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたい
と祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他た妹いもとの夫だの伯父
おじだの叔母おばだのの手前、私のちっとも頓着とんじゃくしていない事に、神経を悩まさなければなら
0346山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:36:06.65ID:7/Y09tcf0
なかった。
 父が変な黄色いものも嘔はいた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああ
して長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙
0347山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:36:22.78ID:7/Y09tcf0
ぐんだ。
 兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった
事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
0348山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:36:38.70ID:7/Y09tcf0
「お前ここへ帰って来て、宅うちの事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかっ
た。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭においを嗅かい
0349山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:36:54.68ID:7/Y09tcf0
で朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎いなかでも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いいだろ
う」
0350山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:37:10.80ID:7/Y09tcf0
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口ひとくちに斥しりぞけた。兄の腹の中には、世の中でこれ
から仕事をしようという気が充みち満みちていた。
0351山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:37:26.64ID:7/Y09tcf0
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取ら
なくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
0354山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:38:14.70ID:7/Y09tcf0

 こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元まくらもとへ集めてお
きたがった。気のたしかな時は頻しきりに淋さびしがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室へや
0355山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:38:30.70ID:7/Y09tcf0
の中うちを見廻みまわして母の影が見えないと、父は必ず「お光みつは」と聞いた。聞かないでも、眼が
それを物語っていた。私わたくしはよく起たって母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が仕掛し
かけた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があっ
0356山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:38:46.69ID:7/Y09tcf0
た。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光お前まえにも色々世話になったね」などと
優やさしい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと
丈夫であった昔の父をその対照として想おもい出すらしかった。
0357山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:39:02.73ID:7/Y09tcf0
「あんな憐あわれっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷ひどかったんだよ」
 母は父のために箒ほうきで背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍なんべんもそれを聞かさ
れた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念かたみのように耳へ受け入れた。
0358山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:39:19.55ID:7/Y09tcf0
 父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言ゆいごんらしいものを口に出さなかった

「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
0359山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:39:34.73ID:7/Y09tcf0
「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好よし悪あし
だと考えていた。二人は決しかねてついに伯父おじに相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いか
0360山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:39:50.74ID:7/Y09tcf0
も知れず」
 話はとうとう愚図愚図ぐずぐずになってしまった。そのうちに昏睡こんすいが来た。例の通り何も知ら
ない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、傍はたにい
0361山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:40:06.73ID:7/Y09tcf0
るものも助かります」といった。
 父は時々眼を開けて、誰だれはどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻さっきまでそこに坐すわ
っていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇やみ
0362山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:40:22.70ID:7/Y09tcf0
を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡こんすい状態を普通の眠りと
取り違えたのも無理はなかった。
 そのうち舌が段々縺もつれて来た。何かいい出しても尻しりが不明瞭ふめいりょうに了おわるために、
0363山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:40:38.80ID:7/Y09tcf0
要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い
声を出した。我々は固もとより不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならな
かった。
0365山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:41:10.75ID:7/Y09tcf0
を頭の上へ載のせた。がさがさに割られて尖とがり切った氷の破片が、嚢ふくろの中で落ちつく間、私は
父の禿はげ上った額の外はずれでそれを柔らかに抑おさえていた。その時兄が廊下伝ろうかづたいにはい
って来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。空あいた方の左手を出して、その郵便を受け取った
0366山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:41:26.76ID:7/Y09tcf0
私はすぐ不審を起した。
 それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並なみの状袋じょうぶくろにも入れてな
かった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧ていねいに糊のり
0367山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:41:42.73ID:7/Y09tcf0
で貼はり付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を
返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行か
ないので、ちょっとそれを懐ふところに差し込んだ。
0369山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:42:14.88ID:7/Y09tcf0
 その日は病人の出来がことに悪いように見えた。私わたくしが厠かわやへ行こうとして席を立った時、
廊下で行き合った兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で誰何すいかした。
「どうも様子が少し変だからなるべく傍そばにいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。
0370山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:42:30.76ID:7/Y09tcf0
 私もそう思っていた。懐中かいちゅうした手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。父は眼を開けて、
そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたび
に首肯うなずいた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
0371山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:42:46.78ID:7/Y09tcf0
「どうも色々お世話になります」
 父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺まくらべを取り巻いている人は無言のまましば
らく病人の様子を見詰めていた。やがてその中うちの一人が立って次の間まへ出た。するとまた一人立っ
0372山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:43:02.90ID:7/Y09tcf0
た。私も三人目にとうとう席を外はずして、自分の室へやへ来た。私には先刻さっき懐ふところへ入れた
郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる所作しょさには違い
なかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息ひといきにそこで読み通す訳には行
0373山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:43:18.80ID:7/Y09tcf0
かなかった。私は特別の時間を偸ぬすんでそれに充あてた。
 私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂さき破った。中から出たものは、縦横たてよこに引いた罫け
いの中へ行儀よく書いた原稿様ようのものであった。そうして封じる便宜のために、四よつ折おりに畳た
0374山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:43:34.80ID:7/Y09tcf0
たまれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。
 私の心はこの多量の紙と印気インキが、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。私は同時に病室の
事が気にかかった。私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なく
0375山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:43:50.96ID:7/Y09tcf0
とも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父おじからか、呼ばれるに極きまっているという予覚よ
かくがあった。私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。私はそわそわしながらただ最
初の一頁ページを読んだ。その頁は下しものように綴つづられていた。
0376山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:44:06.82ID:7/Y09tcf0
「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それ
を明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われ
てしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私
0377山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:44:22.84ID:7/Y09tcf0
の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸いっするようになります。そうする
と、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘うそになります。私はやむを得ず、口でいうべきところ
を、筆で申し上げる事にしました」
0378山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:44:38.85ID:7/Y09tcf0
 私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事がで
きた。私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣きづかいはないと、私は初手から信じ
ていた。しかし筆を執とることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気にな
0379山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:44:54.82ID:7/Y09tcf0
ったのだろう。先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。
「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
 私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづ
0380山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:45:10.85ID:7/Y09tcf0
いて後あとを読もうとした。その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。私はまた驚いて立
ち上った。廊下を馳かけ抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。私はいよいよ父の上に最後の瞬間が
来たのだと覚悟した。
0382山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:45:42.85ID:7/Y09tcf0
 病室にはいつの間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸かんちょうを
試みるところであった。看護婦は昨夜ゆうべの疲れを休めるために別室で寝ていた。慣れない兄は起たっ
てまごまごしていた。私わたくしの顔を見ると、「ちょっと手をお貸かし」といったまま、自分は席に着
0383山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:45:58.85ID:7/Y09tcf0
いた。私は兄に代って、油紙あぶらがみを父の尻しりの下に宛あてがったりした。
 父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元まくらもとに坐すわっていた医者は、浣腸かんちょう
の結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰り際ぎわに、もしもの事があったらいつでも呼
0384山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:46:14.97ID:7/Y09tcf0
んでくれるようにわざわざ断っていた。
 私は今にも変へんがありそうな病室を退しりぞいてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこし
も寛ゆっくりした気分になれなかった。机の前に坐るや否いなや、また兄から大きな声で呼ばれそうでな
0385山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:46:30.87ID:7/Y09tcf0
らなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖いふが私の手を顫ふるわした。私は先生
の手紙をただ無意味に頁ページだけ剥繰はぐって行った。私の眼は几帳面きちょうめんに枠わくの中に篏
はめられた字画じかくを見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束おぼつ
0386山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:46:46.87ID:7/Y09tcf0
かなかった。私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに畳たたんで机の上に置こ
うとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょ
0387山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:47:02.89ID:7/Y09tcf0
う」
 私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結ぎょうけつしたように感じた。私
はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒さかさに読んで行った。私は咄嗟
0388山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:47:18.87ID:7/Y09tcf0
とっさの間あいだに、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字もんじを、眼で刺
し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先
生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私は倒さかさ
0389山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:47:34.89ID:7/Y09tcf0
まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈じれったそうに畳ん
だ。
 私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺まくらべは存外ぞんがい静かであった。頼
0390山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:47:50.88ID:7/Y09tcf0
りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招てまねぎして、「どうですか様子は」と聞いた。
母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少
しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯うなずいた。父ははっきり「有難う」といった。父の
0391山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:48:06.90ID:7/Y09tcf0
精神は存外朦朧もうろうとしていなかった。
 私はまた病室を退しりぞいて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私
は突然立って帯を締め直して、袂たもとの中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。
0392山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:48:22.91ID:7/Y09tcf0
私は夢中で医者の家へ馳かけ込んだ。私は医者から父がもう二に、三日さんち保もつだろうか、そこのと
ころを判然はっきり聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎あい
にく留守であった。私には凝じっとして彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の落おち付つきもな
0393山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:48:38.90ID:7/Y09tcf0
かった。私はすぐ俥くるまを停車場ステーションへ急がせた。
 私は停車場の壁へ紙片かみぎれを宛あてがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙は
ごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅うちへ届ける
0394山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:48:54.91ID:7/Y09tcf0
ように車夫しゃふに頼んだ。そうして思い切った勢いきおいで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私
はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂たもとから先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼
を通した。
0398山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:49:58.92ID:7/Y09tcf0
「……私わたくしはこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから宜
よろしく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入いったものと記憶しています。私はそれを読ん
だ時何なんとかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし
0399山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:50:14.94ID:7/Y09tcf0
自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭
いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力を
あえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどう
0400山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:50:30.93ID:7/Y09tcf0
すれば好いいのかと思い煩わずらっていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのよ
うに存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたび
にぞっとしました。馳足かけあしで絶壁の端はじまで来て、急に底の見えない谷を覗のぞき込んだ人のよ
0401山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:50:47.05ID:7/Y09tcf0
うに。私は卑怯ひきょうでした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶はんもんしたのです。
遺憾いかんながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張で
はありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口ここうの資し、そんなものは私にとって
0402山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:51:02.97ID:7/Y09tcf0
まるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は
状差じょうさしへあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅うちに相応
の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻もがき廻まわるのか
0403山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:51:18.99ID:7/Y09tcf0
。私はむしろ苦々にがにがしい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥いちべつを与えただけでした。私
は返事を上げなければ済まないあなたに対して、言訳いいわけのためにこんな事を打ち明けるのです。あ
なたを怒らすためにわざと無躾ぶしつけな言葉を弄ろうするのではありません。私の本意は後あとをご覧
0404山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:51:35.03ID:7/Y09tcf0
になればよく解わかる事と信じます。とにかく私は何とか挨拶あいさつすべきところを黙っていたのです
から、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
 その後ご私はあなたに電報を打ちました。有体ありていにいえば、あの時私はちょっとあなたに会いた
0405山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:51:51.13ID:7/Y09tcf0
かったのです。それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返
電を掛かけて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺ながめてい
ました。あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、
0406山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:52:07.13ID:7/Y09tcf0
あなたの出京しゅっきょうできない事情がよく解わかりました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う
訳がありません。あなたの大事なお父さんの病気をそっち退のけにして、何であなたが宅うちを空あけら
れるものですか。そのお父さんの生死しょうしを忘れているような私の態度こそ不都合です。――私は実
0407山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:52:23.03ID:7/Y09tcf0
際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる頃ころ
には、難症なんしょうだからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。私は
こういう矛盾な人間なのです。あるいは私の脳髄のうずいよりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛
0408山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:52:39.06ID:7/Y09tcf0
盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点においても充分私の我がを認めています。あな
たに許してもらわなくてはなりません。
 あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それ
0409山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:52:55.06ID:7/Y09tcf0
でその意味の返事を出そうかと考えて、筆を執とりかけましたが、一行も書かずに已やめました。どうせ
書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたか
ら、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。
0411山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:53:27.07ID:7/Y09tcf0
「私わたくしはそれからこの手紙を書き出しました。平生へいぜい筆を持ちつけない私には、自分の思う
ように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義
務を放擲ほうてきするところでした。しかしいくら止よそうと思って筆を擱おいても、何にもなりません
0412山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:53:43.19ID:7/Y09tcf0
でした。私は一時間経たたないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の遂行す
いこうを重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは否いなみません。私はあなたの
知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右
0413山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:53:59.08ID:7/Y09tcf0
前後を見廻みまわしても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切
り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭
敏えいびん過ぎて刺戟しげきに堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になっ
0414山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:54:15.10ID:7/Y09tcf0
たのです。だから一旦いったん約束した以上、それを果たさないのは、大変厭いやな心持です。私はあな
たに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
 その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だか
0415山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:54:31.10ID:7/Y09tcf0
ら、私だけの所有といっても差支さしつかえないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいとも
いわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらい
なら、私はむしろ私の経験を私の生命いのちと共に葬ほうむった方が好いいと思います。実際ここにあな
0416山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:54:47.10ID:7/Y09tcf0
たという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはなら
ないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいの
です。あなたは真面目まじめだから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったか
0417山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:55:03.11ID:7/Y09tcf0
ら。
 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗い
ものを凝じっと見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫つかみなさい。私の暗いというのは
0418山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:55:19.22ID:7/Y09tcf0
、固もとより倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫
理上の考えは、今の若い人と大分だいぶ違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私
自身のものです。間に合せに借りた損料着そんりょうぎではありません。だからこれから発達しようとい
0419山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:55:35.13ID:7/Y09tcf0
うあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
 あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対す
る態度もよく解わかっているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑けいべつまでしなかったけれども、決し
0420山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:55:51.13ID:7/Y09tcf0
て尊敬を払い得うる程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の
過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私
に見せた。その極きょくあなたは私の過去を絵巻物えまきもののように、あなたの前に展開してくれと逼
0421山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:56:07.16ID:7/Y09tcf0
せまった。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮ぶえんりょに私の腹の中か
ら、或ある生きたものを捕つらまえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流
れる血潮を啜すすろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭いやであった。それで他
0422山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:56:23.13ID:7/Y09tcf0
日たじつを約して、あなたの要求を斥しりぞけてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血を
あなたの顔に浴あびせかけようとしているのです。私の鼓動こどうが停とまった時、あなたの胸に新しい
命が宿る事ができるなら満足です。
0424山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:56:55.27ID:7/Y09tcf0
「私が両親を亡なくしたのは、まだ私の廿歳はたちにならない時分でした。いつか妻さいがあなたに話し
ていたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた
通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです。実をいうと、父の病気は恐るべき腸
0425山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:57:11.16ID:7/Y09tcf0
ちょう窒扶斯チフスでした。それが傍そばにいて看護をした母に伝染したのです。
 私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。宅うちには相当の財産があったので、むしろ鷹揚お
うように育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも
0426山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:57:27.16ID:7/Y09tcf0
父か母かどっちか、片方で好いいから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事
ができたろうにと思います。
 私は二人の後あとに茫然ぼうぜんとして取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、また分別
0427山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:57:43.27ID:7/Y09tcf0
もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ
事さえまだ知らせてなかったのです。母はそれを覚さとっていたか、または傍はたのもののいうごとく、
実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。母はただ叔父おじに万事を頼ん
0428山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:57:59.16ID:7/Y09tcf0
でいました。そこに居合いあわせた私を指さすようにして、「この子をどうぞ何分なにぶん」といいまし
た。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいう
つもりらしかったのです。それで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後あとを引き取って、
0429山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:58:15.18ID:7/Y09tcf0
「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。母は強い熱に堪え得うる体質の女なんでしたろうか
、叔父は「確しっかりしたものだ」といって、私に向って母の事を褒ほめていました。しかしこれがはた
して母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。母は無論父の罹かかった病気の恐るべ
0430山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:58:31.18ID:7/Y09tcf0
き名前を知っていたのです。そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。けれども自
分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでも
あるだろうと思われるのです。その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかな
0431山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:58:47.18ID:7/Y09tcf0
ものにせよ、一向いっこう記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから
……しかしそんな事は問題ではありません。ただこういう風ふうに物を解きほどいてみたり、またぐるぐ
る廻まわして眺ながめたりする癖くせは、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それ
0432山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:59:03.20ID:7/Y09tcf0
はあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に
大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えます。あなたの方でもまあそのつも
りで読んでください。この性分しょうぶんが倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来こうら
0433山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:59:19.20ID:7/Y09tcf0
いますます他ひとの徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶はんもんや苦悩に
向って、積極的に大きな力を添えているのは慥たしかですから覚えていて下さい。
 話が本筋ほんすじをはずれると、分り悪にくくなりますからまたあとへ引き返しましょう。これでも私
0434山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:59:35.19ID:7/Y09tcf0
はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他ほかの人と比べたら、あるいは多少落ち付いてい
やしないかと思っているのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響ひびきももう途絶とだえました
。雨戸の外にはいつの間にか憐あわれな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で微
0435山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 17:59:51.30ID:7/Y09tcf0
かすかに鳴いています。何も知らない妻さいは次の室へやで無邪気にすやすや寝入ねいっています。私が
筆を執とると、一字一劃かくができあがりつつペンの先で鳴っています。私はむしろ落ち付いた気分で紙
に向っているのです。不馴ふなれのためにペンが横へ外それるかも知れませんが、頭が悩乱のうらんして
0437山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:00:23.20ID:7/Y09tcf0
「とにかくたった一人取り残された私わたくしは、母のいい付け通り、この叔父おじを頼るより外ほかに
途みちはなかったのです。叔父はまた一切いっさいを引き受けて凡すべての世話をしてくれました。そう
0438山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:00:39.22ID:7/Y09tcf0
して私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
 私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐さつばつで粗
野でした。私の知ったものに、夜中よる職人と喧嘩けんかをして、相手の頭へ下駄げたで傷を負わせたの
0439山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:00:55.21ID:7/Y09tcf0
がありました。それが酒を飲んだ揚句あげくの事なので、夢中に擲なぐり合いをしている間あいだに、学
校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃ
んと、菱形ひしがたの白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、その男はもう少し
0440山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:01:11.37ID:7/Y09tcf0
で警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに表沙汰おもてざたに
せずに済むようにしてやりました。こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞か
せたら、定めて馬鹿馬鹿ばかばかしい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思います。しかし彼ら
0441山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:01:27.22ID:7/Y09tcf0
は今の学生にない一種質朴しつぼくな点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から貰もらっ
ていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると遥はるかに少ないものでした。(無
論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生の
0442山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:01:43.24ID:7/Y09tcf0
うちで、経済の点にかけては、決して人を羨うらやましがる憐あわれな境遇にいた訳ではないのです。今
から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。というのは、私は月々極きまった送金
の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から
0443山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:01:59.23ID:7/Y09tcf0
請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
 何も知らない私は、叔父おじを信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいも
ののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありま
0444山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:02:15.25ID:7/Y09tcf0
しょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格か
らいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に
守って行く篤実一方とくじついっぽうの男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりました。それから詩
0445山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:02:31.24ID:7/Y09tcf0
集などを読む事も好きでした。書画骨董しょがこっとうといった風ふうのものにも、多くの趣味をもって
いる様子でした。家は田舎いなかにありましたけれども、二里りばかり隔たった市し、――その市には叔
父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が懸物かけものだの、香炉こうろだのを持って、わざ
0446山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:02:47.25ID:7/Y09tcf0
わざ父に見せに来ました。父は一口ひとくちにいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら好いい
のでしょう。比較的上品な嗜好しこうをもった田舎紳士だったのです。だから気性きしょうからいうと、
闊達かったつな叔父とはよほどの懸隔けんかくがありました。それでいて二人はまた妙に仲が好かったの
0447山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:03:03.25ID:7/Y09tcf0
です。父はよく叔父を評して、自分よりも遥はるかに働きのある頼もしい人のようにいっていました。自
分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹さいかんが鈍にぶる、つまり世の中と
闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました。私も聞きました。父
0448山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:03:19.38ID:7/Y09tcf0
はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。「お前もよく覚えているが好いい」
と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父か
ら信用されたり、褒ほめられたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただで
0449山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:03:35.27ID:7/Y09tcf0
さえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には
、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。
0451山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:04:07.39ID:7/Y09tcf0
、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残
された私が家にいない以上、そうでもするより外ほかに仕方がなかったのです。
 叔父はその頃ころ市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合からいえば、今までの居宅
0452山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:04:23.41ID:7/Y09tcf0
きょたくに寝起ねおきする方が、二里りも隔へだたった私の家に移るより遥かに便利だといって笑いまし
た。これは私の父母が亡くなった後あと、どう邸やしきを始末して、私が東京へ出るかという相談の時、
叔父の口を洩もれた言葉であります。私の家は旧ふるい歴史をもっているので、少しはその界隈かいわい
0453山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:04:39.28ID:7/Y09tcf0
で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒ゆいしょのある家
を、相続人があるのに壊こわしたり売ったりするのは大事件です。今の私ならそのくらいの事は何とも思
いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家うちはそのままにして置かなければなら
0454山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:04:55.30ID:7/Y09tcf0
ず、はなはだ所置しょちに苦しんだのです。
 叔父おじは仕方なしに私の空家あきやへはいる事を承諾してくれました。しかし市しの方にある住居す
まいもそのままにしておいて、両方の間を往いったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといい
0455山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:05:11.40ID:7/Y09tcf0
ました。私に[#「私に」は底本では「私は」]固もとより異議のありようはずがありません。私はどん
な条件でも東京へ出られれば好いいくらいに考えていたのです。
 子供らしい私は、故郷ふるさとを離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固
0456山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:05:27.30ID:7/Y09tcf0
よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人たびびとの心で望んでいたのです。休みが来れば帰
らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は
熱心に勉強し、愉快に遊んだ後あと、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
0457山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:05:43.31ID:7/Y09tcf0
 私の留守の間、叔父はどんな風ふうに両方の間を往ゆき来していたか知りません。私の着いた時は、家
族のものが、みんな一ひとつ家いえの内に集まっていました。学校へ出る子供などは平生へいぜいおそら
く市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎いなかへ遊び半分といった格かくで引き取られて
0458山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:05:59.32ID:7/Y09tcf0
いました。
 みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって賑にぎやかで陽気になった家
の様子を見て嬉うれしがりました。叔父はもと私の部屋になっていた一間ひとまを占領している一番目の
0459山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:06:15.31ID:7/Y09tcf0
男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の数かずも少なくないのだから、私はほかの部屋で構
わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の宅うちだからといって、聞きませんでした。
 私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外ほかに、何の不愉快もなく、その一夏ひとなつを叔父の家
0460山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:06:31.43ID:7/Y09tcf0
族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影
を投げたのは、叔父夫婦が口を揃そろえて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。
それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。
0461山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:06:47.34ID:7/Y09tcf0
二度目には判然はっきり断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなく
なりました。彼らの主意は単簡たんかんでした。早く嫁よめを貰もらってここの家へ帰って来て、亡くな
った父の後を相続しろというだけなのです。家は休暇やすみになって帰りさえすれば、それでいいものと
0462山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:07:03.33ID:7/Y09tcf0
私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰もらう、両方とも理屈としては一通
ひととおり聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく解わかります。私も絶対にそれを嫌
ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡とおめがねで物を
0465山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:07:51.45ID:7/Y09tcf0
世帯染しょたいじみたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉ことごとく単独らしく思われ
たのです。こういう気楽な人の中うちにも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされ
て、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした
0466山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:08:07.39ID:7/Y09tcf0
。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺あたりに気兼きがねをして、なるべくは書生
に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後あとから考えると、私自身がすでに
その組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
0467山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:08:23.37ID:7/Y09tcf0
 学年の終りに、私はまた行李こうりを絡からげて、親の墓のある田舎いなかへ帰って来ました。そうし
て去年と同じように、父母ちちははのいたわが家いえの中で、また叔父おじ夫婦とその子供の変らない顔
を見ました。私は再びそこで故郷ふるさとの匂においを嗅かぎました。その匂いは私に取って依然として
0468山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:08:39.36ID:7/Y09tcf0
懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
 しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き
付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。た
0469山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:08:55.36ID:7/Y09tcf0
だこの前勧すすめられた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心かんじんの当人を捕
つらまえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹いと
こに当る女でした。その女を貰もらってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中ぞんしょうち
0470山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:09:11.37ID:7/Y09tcf0
ゅうそんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそ
ういう風ふうな話をしたというのもあり得うべき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始
めて気が付いたので、いわれない前から、覚さとっていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。
0471山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:09:27.38ID:7/Y09tcf0
驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解わかりました。私は迂闊うかつ
なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着むとんじゃくであった
のが、おもな源因げんいんになっているのでしょう。私は小供こどものうちから市しにいる叔父の家うち
0472山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:09:43.62ID:7/Y09tcf0
へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時
分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、兄妹きょうだいの間に恋の成立した例ためしのない
のを。私はこの公認された事実を勝手に布衍ふえんしているかも知れないが、始終接触して親しくなり過
0473山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:09:59.38ID:7/Y09tcf0
ぎた男女なんにょの間には、恋に必要な刺戟しげきの起る清新な感じが失われてしまうように考えていま
す。香こうをかぎ得うるのは、香を焚たき出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹
那せつなにあるごとく、恋の衝動にもこういう際きわどい一点が、時間の上に存在しているとしか思われ
0474山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:10:15.87ID:7/Y09tcf0
ないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、馴なれれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経は
だんだん麻痺まひして来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹いとこを妻にする気にはなれませ
んでした。
0475山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:10:31.40ID:7/Y09tcf0
 叔父おじはもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急
げという諺ことわざもあるから、できるなら今のうちに祝言しゅうげんの盃さかずきだけは済ませておき
たいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父
0476山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:10:47.41ID:7/Y09tcf0
は厭いやな顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し
込みを拒絶されたのが、女として辛つらかったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛
していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。
0478山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:11:19.41ID:7/Y09tcf0
「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経たった夏の取付とっつきでした。私はいつでも学年試
験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷ふるさとがそれほど懐かしかったからです。あな
たにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂においも格別です、父や母の記憶
0479山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:11:35.41ID:7/Y09tcf0
も濃こまやかに漂ただよっています。一年のうちで、七、八の二月ふたつきをその中に包くるまれて、穴
に入った蛇へびのように凝じっとしているのは、私に取って何よりも温かい好いい心持だったのです。
 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断
0480山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:11:51.42ID:7/Y09tcf0
る、断ってさえしまえば後あとには何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに
意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托
くったくした覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
0481山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:12:07.45ID:7/Y09tcf0
 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好いい顔をして私を自分の懐ふところに
抱だこうとしません。それでも鷹揚おうように育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました
。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母おば
0482山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:12:23.42ID:7/Y09tcf0
も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、
手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
 私の性分しょうぶんとして考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう
0483山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:12:39.54ID:7/Y09tcf0
。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍にぶい私の眼を洗って、急に世
の中が判然はっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくな
った後あとでも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっ
0484山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:12:55.56ID:7/Y09tcf0
ともその頃ころでも私は決して理に暗い質たちではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊
かたまりも、強い力で私の血の中に潜ひそんでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪ひざまずきました。半なかばは哀悼あいとうの意味、半
0485山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:13:11.56ID:7/Y09tcf0
は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ
握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私
も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
0486山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:13:27.46ID:7/Y09tcf0
 私の世界は掌たなごころを翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかっ
たのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には
、一度にはっと驚きました。何遍なんべんも自分の眼を疑うたぐって、何遍も自分の眼を擦こすりました
0487山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:13:43.55ID:7/Y09tcf0
。そうして心の中うちでああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気いろ
けの付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができた
のです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目めくらの眼が忽たちまち開あいた
0488山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:13:59.48ID:7/Y09tcf0
のです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
 私が叔父おじの態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然がぜんとして心づいたのです
。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私
0491山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:14:47.48ID:7/Y09tcf0
はに対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体からだだと自称するごとく、毎晩同じ所
に寝泊ねとまりはしていませんでした。二日家うちへ帰ると三日は市しの方で暮らすといった風ふうに、
両方の間を往来ゆききして、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいとい
0492山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:15:03.49ID:7/Y09tcf0
う言葉を口癖くちくせのように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っ
ていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。け
れども財産の事について、時間の掛かかる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見る
0493山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:15:19.48ID:7/Y09tcf0
と、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕つらまえる機
会を得ませんでした。
 私は叔父が市の方に妾めかけをもっているという噂うわさを聞きました。私はその噂を昔中学の同級生
0494山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:15:35.51ID:7/Y09tcf0
であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪あやしむに足らな
いのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚おぼえのない私は驚きました。友達はそ
の外ほかにも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他ひと
0495山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:15:51.51ID:7/Y09tcf0
から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私
の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
 私はとうとう叔父おじと談判を開きました。談判というのは少し不穏当ふおんとうかも知れませんが、
0496山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:16:07.51ID:7/Y09tcf0
話の成行なりゆきからいうと、そんな言葉で形容するより外に途みちのないところへ、自然の調子が落ち
て来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑さいぎの眼で叔
父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
0497山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:16:23.61ID:7/Y09tcf0
 遺憾いかんながら私は今その談判の顛末てんまつを詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいま
す。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこ
へ辿たどりつきたがっているのを、漸やっとの事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話
0498山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:16:39.52ID:7/Y09tcf0
す機会を永久に失った私は、筆を執とる術すべに慣れないばかりでなく、貴たっとい時間を惜おしむとい
う意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではない
0499山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:16:55.53ID:7/Y09tcf0
といった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を
。あの時あなたは私に昂奮こうふんしていると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人
に変化するのかと尋ねました。私がただ一口ひとくち金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私は
0500山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:17:11.52ID:7/Y09tcf0
あなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を
考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在
し得ない例として、憎悪ぞうおと共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き
0501山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:17:27.55ID:7/Y09tcf0
進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐ちんぷだったかも知れません。
けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷ひややかな頭
で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体
0504山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:18:15.65ID:7/Y09tcf0
三年の間に容易たやすく行われたのです。すべてを叔父任まかせにして平気でいた私は、世間的にいえば
本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊たっとい男とでもいえましょうか
。私はその時の己おのれを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が
0505山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:18:31.55ID:7/Y09tcf0
口惜くやしくって堪たまりません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰っ
て生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵ちりに汚れた後あ
との私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう
0506山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:18:47.67ID:7/Y09tcf0

 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでした
ろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父おじは策略で娘を私に押し付けようとしたのです。
0507山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:19:03.56ID:7/Y09tcf0
好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑げびた利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたの
です。私は従妹いとこを愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それ
を断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化ごまかされるのはどっちにしても同じでしょう
0508山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:19:19.58ID:7/Y09tcf0
けれども、載のせられ方からいえば、従妹を貰もらわない方が、向うの思い通りにならないという点から
見て、少しは私の我がが通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細さ
さいな事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気ばかげた意地に見えるでしょう。
0509山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:19:35.58ID:7/Y09tcf0
 私と叔父の間に他たの親戚しんせきのものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していま
せんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺あざむいたと覚さと
ると共に、他ほかのものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞ほめ抜いていた
0510山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:19:51.70ID:7/Y09tcf0
叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理ロジックでした。
 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切いっさいのものを纏まとめてくれました。それは金
額に見積ると、私の予期より遥はるかに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなけ
0511山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:20:07.69ID:7/Y09tcf0
れば叔父を相手取って公沙汰おおやけざたにするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤いきどおり
ました。また迷いました。訴訟にすると落着らくちゃくまでに長い時間のかかる事も恐れました。私は修
業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の
0512山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:20:23.58ID:7/Y09tcf0
結果、市しにおる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形かたちに変えようとしまし
た。旧友は止よした方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷こき
ょうを離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
0513山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:20:39.60ID:7/Y09tcf0
 私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永
久に見る機会も来ないでしょう。
 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経た
0514山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:20:55.60ID:7/Y09tcf0
った後のちの事です。田舎いなかで畠地はたちなどを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとな
ると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないもの
でした。自白すると、私の財産は自分が懐ふところにして家を出た若干の公債と、後あとからこの友人に
0515山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:21:11.59ID:7/Y09tcf0
送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固もとより非常に減っていたに相違ありません。しか
も私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそ
れで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学
0517山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:21:43.61ID:7/Y09tcf0
「金に不自由のない私わたくしは、騒々そうぞうしい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気
になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆ばあさんの必要
0518山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:21:59.61ID:7/Y09tcf0
も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅うちを留守にしても大丈夫なものでなければ
心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束おぼつかなく見えたのです。ある日私はま
あ宅うちだけでも探してみようかというそぞろ心ごころから、散歩がてらに本郷台ほんごうだいを西へ下
0519山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:22:15.64ID:7/Y09tcf0
りて小石川こいしかわの坂を真直まっすぐに伝通院でんずういんの方へ上がりました。電車の通路になっ
てから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃ころは左手が砲兵工廠ほうへいこうし
ょうの土塀どべいで、右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。私はその
0520山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:22:31.72ID:7/Y09tcf0
草の中に立って、何心なにごころなく向うの崖がけを眺ながめました。今でも悪い景色ではありませんが
、その頃はまたずっとあの西側の趣おもむきが違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだ
けでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅うちはないだろうかと思いました。それで直す
0521山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:22:47.62ID:7/Y09tcf0
ぐ草原くさはらを横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好いい町になり切れないで
、がたぴししているあの辺へんの家並いえなみは、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした
。私は露次ろじを抜けたり、横丁よこちょうを曲まがったり、ぐるぐる歩き廻まわりました。しまいに駄
0522山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:23:03.62ID:7/Y09tcf0
菓子屋だがしやの上かみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家かしやはないかと尋ねてみました。上さ
んは「そうですね」といって、少時しばらく首をかしげていましたが、「かし家やはちょいと……」と全
く思い当らない風ふうでした。私は望のぞみのないものと諦あきらめて帰り掛けました。すると上さんが
0523山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:23:19.63ID:7/Y09tcf0
また、「素人下宿しろうとげしゅくじゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静
かな素人屋しろうとやに一人で下宿しているのは、かえって家うちを持つ面倒がなくって結構だろうと考
え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
0524山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:23:35.75ID:7/Y09tcf0
 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清にっしん
戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷いちがやの士官しかん
学校の傍そばとかに住んでいたのだが、厩うまやなどがあって、邸やしきが広過ぎるので、そこを売り払
0525山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:23:51.64ID:7/Y09tcf0
って、ここへ引っ越して来たけれども、無人ぶにんで淋さむしくって困るから相当の人があったら世話を
してくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人びぼうじんと一人娘と下女げ
じょより外ほかにいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極しごく好かろうと心の中うちに思
0526山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:24:07.75ID:7/Y09tcf0
いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性すじょうの知れ
ない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念けねんもありました。私は止よそ
うかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装なりはしていませんでした。それから
0527山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:24:23.76ID:7/Y09tcf0
大学の制帽を被かぶっていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれど
もその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子
に一種の自信を見出みいだしたくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなし
0528山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:24:39.66ID:7/Y09tcf0
にその軍人の遺族の家うちを訪ねました。
 私は未亡人びぼうじんに会って来意らいいを告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらにつ
いて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも
0529山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:24:55.67ID:7/Y09tcf0
引っ越して来て差支さしつかえないという挨拶あいさつを即坐そくざに与えてくれました。未亡人は正し
い人でした、また判然はっきりした人でした。私は軍人の妻君さいくんというものはみんなこんなものか
と思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性きしょうでどこが淋さむしいのだろう
0531山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:25:27.67ID:7/Y09tcf0
「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。
そこは宅中うちじゅうで一番好いい室へやでした。本郷辺ほんごうへんに高等下宿といった風ふうの家が
0532山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:25:43.68ID:7/Y09tcf0
ぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間まの様子を心得ていました
。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過
ぎるくらいに思われたのです。
0533山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:25:59.68ID:7/Y09tcf0
 室の広さは八畳でした。床とこの横に違ちがい棚だながあって、縁えんと反対の側には一間いっけんの
押入おしいれが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向みなみむきの縁に明るい日
がよく差しました。
0534山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:26:15.71ID:7/Y09tcf0
 私は移った日に、その室の床とこに活いけられた花と、その横に立て懸かけられた琴ことを見ました。
どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶せんちゃを嗜たしなむ父の傍そばで育ったので、
唐からめいた趣味を小供こどものうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶な
0535山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:26:31.70ID:7/Y09tcf0
まめかしい装飾をいつの間にか軽蔑けいべつする癖が付いていたのです。
 私の父が存生中ぞんしょうちゅうにあつめた道具類は、例の叔父おじのために滅茶滅茶めちゃめちゃに
されてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かって
0536山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:26:47.72ID:7/Y09tcf0
もらいました。それからその中うちで面白そうなものを四、五幅ふく裸にして行李こうりの底へ入れて来
ました。私は移るや否いなや、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いっ
た琴と活花いけばなを見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後あとから聞いて始めてこの花が
0537山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:27:03.72ID:7/Y09tcf0
私に対するご馳走ちそうに活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも
琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあった
のでしょう。
0538山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:27:19.72ID:7/Y09tcf0
 こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠かすめて通るでしょう。移った私にも、
移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気じゃきが予備的に私の自然を
損なったためか、または私がまだ人慣ひとなれなかったためか、私は始めてそこのお嬢じょうさんに会っ
0539山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:27:35.72ID:7/Y09tcf0
た時、へどもどした挨拶あいさつをしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
 私はそれまで未亡人びぼうじんの風采ふうさいや態度から推おして、このお嬢さんのすべてを想像して
いたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君さ
0540山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:27:51.72ID:7/Y09tcf0
いくんだからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行
きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉ことごとく打ち消されました。そうして
私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂においが新しく入って来ました。私はそれから床の正面
0541山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:28:07.88ID:7/Y09tcf0
に活いけてある花が厭いやでなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
 その花はまた規則正しく凋しおれる頃ころになると活け更かえられるのです。琴も度々たびたび鍵かぎ
の手に折れ曲がった筋違すじかいの室へやに運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖ほおづ
0542山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:28:23.87ID:7/Y09tcf0
えを突きながら、その琴の音ねを聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解わからな
いのです。けれども余り込み入った手を弾ひかないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました
。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して
0543山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:28:39.72ID:7/Y09tcf0
旨うまい方ではなかったのです。
 それでも臆面おくめんなく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方いけかたはいつ見ても
同じ事でした。それから花瓶かへいもついぞ変った例ためしがありませんでした。しかし片方の音楽にな
0544山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:28:55.77ID:7/Y09tcf0
ると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。
唄うたわないのではありませんが、まるで内所話ないしょばなしでもするように小さな声しか出さないの
です。しかも叱しかられると全く出なくなるのです。
0546山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:29:27.73ID:7/Y09tcf0
「私の気分は国を立つ時すでに厭世的えんせいてきになっていました。他ひとは頼りにならないものだと
いう観念が、その時骨の中まで染しみ込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父おじ
0547山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:29:43.74ID:7/Y09tcf0
だの叔母おばだの、その他たの親戚しんせきだのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽
車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもする
と、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛を呑のんだように重苦しくな
0548山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:29:59.76ID:7/Y09tcf0
る事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖とがってしまったのです。
 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因げんいんになっているように思われます。
金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私
0549山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:30:15.78ID:7/Y09tcf0
ならば、たとい懐中ふところに余裕ができても、好んでそんな面倒な真似まねはしなかったでしょう。
 私は小石川こいしかわへ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛くつろぎを与える事ができませ
んでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻みまわしていました。不思議にも
0550山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:30:31.78ID:7/Y09tcf0
よく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は家うちのものの
様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐すわっていました。時々は彼らに対して気の毒だ
と思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注そそいでいたのです。おれは物を偸ぬすまない巾着切き
0551山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:30:47.77ID:7/Y09tcf0
んちゃくきりみたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭いやになる事さえあったのです。
 あなたは定さだめて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢じょうさんをどうして好すく余裕をもって
いるか。そのお嬢さんの下手な活花いけばなを、どうして嬉うれしがって眺ながめる余裕があるか。同じ
0552山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:31:03.79ID:7/Y09tcf0
く下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であ
ったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外ほかに仕方がないのです。解釈は頭のある
あなたに任せるとして、私はただ一言いちごん付け足しておきましょう。私は金に対して人類を疑うたぐ
0553山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:31:19.79ID:7/Y09tcf0
ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他ひとから見ると変なものでも、
また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
 私は未亡人びぼうじんの事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんとい
0554山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:31:35.90ID:7/Y09tcf0
います。奥さんは私を静かな人、大人おとなしい男と評しました。それから勉強家だとも褒ほめてくれま
した。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。
気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解わかりませんが、何しろそこにはまるで注
0555山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:31:51.80ID:7/Y09tcf0
意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚おうような方かただといって
、さも尊敬したらしい口の利きき方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言
葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と真面
0556山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:32:07.80ID:7/Y09tcf0
目まじめに説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を宅うちへ置くつもりではなかったらしい
のです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷ざしきを貸す料簡りょうけんで、近所のものに周旋を頼ん
でいたらしいのです。俸給が豊ゆたかでなくって、やむをえず素人屋しろうとやに下宿するくらいの人だ
0557山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:32:23.83ID:7/Y09tcf0
からという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸
に描えがいたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒ほめるのです。なるほど
そんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれ
0558山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:32:39.82ID:7/Y09tcf0
は気性きしょうの問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥
さんはまた女だけにそれを私の全体に推おし広げて、同じ言葉を応用しようと力つとめるのです。
0560山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:33:11.82ID:7/Y09tcf0
付かなくなりました。自分の心が自分の坐すわっている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれ
ました。要するに奥さん始め家うちのものが、僻ひがんだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合
わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないた
0561山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:33:27.80ID:7/Y09tcf0
めに段々静まりました。
 奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風ふうに取り扱ってくれたものとも思われますし
、また自分で公言するごとく、実際私を鷹揚おうようだと観察していたのかも知れません。私のこせつき
0562山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:33:43.93ID:7/Y09tcf0
方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で胡魔化
ごまかされていたのかも解わかりません。
 私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも笑談じょう
0563山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:33:59.85ID:7/Y09tcf0
だんをいうようになりました。茶を入れたからといって向うの室へやへ呼ばれる日もありました。また私
の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が殖ふえた
ように感じました。それがために大切な勉強の時間を潰つぶされる事も何度となくありました。不思議に
0564山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:34:15.85ID:7/Y09tcf0
も、その妨害が私には一向いっこう邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより閑人ひまじんでした。
お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがま
た案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっ
0565山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:34:31.84ID:7/Y09tcf0
しょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
 私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室へやの前に立つ事
もありますし、茶の間を抜けて、次の室の襖ふすまの影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そ
0566山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:34:47.85ID:7/Y09tcf0
こへ来てちょっと留とまります。それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。私は大抵む
ずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、傍はたで見たらさぞ勉強家のように見え
たのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。頁ページの上
0567山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:35:03.85ID:7/Y09tcf0
に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと
、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強です
か」と聞くのです。
0568山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:35:19.87ID:7/Y09tcf0
 お嬢さんの部屋へやは茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さ
んの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は仕切しきりがあっても、ないと同じ事で、親子
二人が往いったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、「おはい
0569山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:35:35.86ID:7/Y09tcf0
んなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても滅多めったに返事をした事があり
ませんでした。
 時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに坐すわって話し込むような場合
0570山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:35:51.88ID:7/Y09tcf0
もその内うちに出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に冒おかされて来るのです。そうして
若い女とただ差向さしむかいで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわ
そわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はか
0571山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:36:07.88ID:7/Y09tcf0
えって平気でした。これが琴を浚さらうのに声さえ碌ろくに出せなかった[#「出せなかった」は底本で
は「出せなかったの」]あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので
、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。そ
0572山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:36:23.87ID:7/Y09tcf0
れでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれが解わかっていました。よく解
るように振舞って見せる痕迹こんせきさえ明らかでした。
0574山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:36:55.90ID:7/Y09tcf0
済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見た
らなおそう見えるでしょう。しかしその頃ころの私たちは大抵そんなものだったのです。
 奥さんは滅多めったに外出した事がありませんでした。たまに宅うちを留守にする時でも、お嬢さんと
0575山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:37:11.90ID:7/Y09tcf0
私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らな
いのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能よく観察していると、何だか自分の娘と私と
を接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或ある場合には、私に対して暗あんに警戒
0576山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:37:27.90ID:7/Y09tcf0
するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
 私は奥さんの態度をどっちかに片付かたづけてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明
らかな矛盾に違いなかったのです。しかし叔父おじに欺あざむかれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏
0577山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:37:43.91ID:7/Y09tcf0
み込んだ疑いを挟さしはさまずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、ど
っちかが偽いつわりだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、
何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑のみ込めなかったのです。理由わけを考え出そうとしても
0578山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:37:59.91ID:7/Y09tcf0
、考え出せない私は、罪を女という一字に塗なすり付けて我慢した事もありました。必竟ひっきょう女だ
からああなのだ、女というものはどうせ愚ぐなものだ。私の考えは行き詰つまればいつでもここへ落ちて
来ました。
0579山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:38:16.03ID:7/Y09tcf0
 それほど女を見縊みくびっていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私
の理屈はその人の前に全く用を為なさないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に
近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変
0580山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:38:31.92ID:7/Y09tcf0
に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでない
という事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしま
した。お嬢さんの事を考えると、気高けだかい気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし
0581山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:38:47.92ID:7/Y09tcf0
愛という不可思議なものに両端りょうはじがあって、その高い端はじには神聖な感じが働いて、低い端に
は性欲せいよくが動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕つらまえたものです。私はも
とより人間として肉を離れる事のできない身体からだでした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さ
0582山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:39:03.94ID:7/Y09tcf0
んを考える私の心は、全く肉の臭においを帯びていませんでした。
 私は母に対して反感を抱いだくと共に、子に対して恋愛の度を増まして行ったのですから、三人の関係
は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて
0583山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:39:19.93ID:7/Y09tcf0
来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろ
うかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え
直して来たのです。その上、それが互たがい違ちがいに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両
0584山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:39:36.04ID:7/Y09tcf0
方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さ
んを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警
戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させた
0585山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:39:51.94ID:7/Y09tcf0
がっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌いむのだ
と解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌きざさなかった私は、その時入いらぬ
心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。
0587山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:40:23.96ID:7/Y09tcf0
「私は奥さんの態度を色々綜合そうごうして見て、私がここの家うちで充分信用されている事を確かめま
した。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。他ひとを疑うたぐり始
めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚
0588山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:40:39.99ID:7/Y09tcf0
に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺だまされるのもここにあるのではなか
ろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていた
のだから、今考えるとおかしいのです。私は他ひとを信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じ
0589山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:40:55.95ID:7/Y09tcf0
ていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。
 私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかった
のです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だ
0590山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:41:12.00ID:7/Y09tcf0
けを聞こうと力つとめました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を
知りたがるのです。私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何
にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました
0591山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:41:28.42ID:7/Y09tcf0
。お嬢さんは泣きました。私は話して好いい事をしたと思いました。私は嬉うれしかったのです。
 私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。
それからは私を自分の親戚みよりに当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ち
0592山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:41:44.00ID:7/Y09tcf0
ませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の猜疑心さいぎしんがまた起って
来ました。
 私が奥さんを疑うたぐり始めたのは、ごく些細ささいな事からでした。しかしその些細な事を重ねて行
0593山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:42:00.01ID:7/Y09tcf0
くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父おじと同じような意
味で、お嬢さんを私に接近させようと力つとめるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に
見えた人が、急に狡猾こうかつな策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々にがにがしい唇を噛
0594山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:42:16.00ID:7/Y09tcf0
かみました。
 奥さんは最初から、無人ぶにんで淋さむしいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私
もそれを嘘うそとは思いませんでした。懇意になって色々打ち明け話を聞いた後あとでも、そこに間違ま
0595山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:42:32.07ID:7/Y09tcf0
ちがいはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大して豊ゆたかだというほどではありませ
んでした。利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかった
のです。
0596山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:42:48.11ID:7/Y09tcf0
 私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に
対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を嘲笑ちょうしょうしました。馬鹿だ
なといって、自分を罵ののしった事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦
0597山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:43:04.00ID:7/Y09tcf0
痛も感ぜずに済んだのです。私の煩悶はんもんは、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうか
という疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろう
と思うと、私は急に苦しくって堪たまらなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような
0598山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:43:20.01ID:7/Y09tcf0
行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だ
から私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像
であり、またどっちも真実であったのです。
0600山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:43:52.03ID:7/Y09tcf0
「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持
がしました。勉強もその通りでした。眼の中へはいる活字は心の底まで浸しみ渡らないうちに烟けむのご
とく消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、冥想めいそうに
0601山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:44:08.04ID:7/Y09tcf0
耽ふけってでもいるかのように、他たの友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。
都合の好いい仮面を人が貸してくれたのを、かえって仕合しあわせとして喜びました。それでも時々は気
が済まなかったのでしょう、発作的に焦燥はしゃぎ廻まわって彼らを驚かした事もあります。
0602山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:44:24.04ID:7/Y09tcf0
 私の宿は人出入ひとでいりの少ない家うちでした。親類も多くはないようでした。お嬢さんの学校友達
がときたま遊びに来る事はありましたが、極きわめて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないよう
な話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きません
0603山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:44:40.04ID:7/Y09tcf0
でした。私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、宅うちの人に気兼き
がねをするほどな男は一人もなかったのですから。そんなところになると、下宿人の私は主人あるじのよ
うなもので、肝心かんじんのお嬢さんがかえって食客いそうろうの位地いちにいたと同じ事です。
0604山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:44:56.03ID:7/Y09tcf0
 しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただそこにどうで
もよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんの室へやで、突然男の声が聞こえる
のです。その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らない
0605山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:45:12.05ID:7/Y09tcf0
のです。そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の昂奮こうふんを与えるのです。私は坐す
わっていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろう
かとまず考えて見るのです。それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。坐ってい
0606山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:45:28.06ID:7/Y09tcf0
てそんな事の知れようはずがありません。そうかといって、起たって行って障子しょうじを開けて見る訳
にはなおいきません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰
った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした
0607山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:45:44.09ID:7/Y09tcf0
。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追窮ついきゅうする勇気をもっていなかったので
す。権利は無論もっていなかったのでしょう。私は自分の品格を重んじなければならないという教育から
来た自尊心と、現にその自尊心を裏切うらぎりしている物欲しそうな顔付かおつきとを同時に彼らの前に
0608山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:46:00.07ID:7/Y09tcf0
示すのです。彼らは笑いました。それが嘲笑ちょうしょうの意味でなくって、好意から来たものか、また
好意らしく見せるつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を見出みいだし得ないほど落付おちつきを失って
しまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろう
0609山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:46:16.06ID:7/Y09tcf0
かと、何遍なんべんも心のうちで繰り返すのです。
 私は自由な身体からだでした。たとい学校を中途で已やめようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、
あるいはどこの何者と結婚しようが、誰だれとも相談する必要のない位地に立っていました。私は思い切
0610山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:46:32.07ID:7/Y09tcf0
って奥さんにお嬢さんを貰もらい受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくあ
りました。けれどもそのたびごとに私は躊躇ちゅうちょして、口へはとうとう出さずにしまったのです。
断られるのが恐ろしいからではありません。もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれ
0611山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:46:48.09ID:7/Y09tcf0
ども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですか
ら、そのくらいの勇気は出せば出せたのです。しかし私は誘おびき寄せられるのが厭いやでした。他ひと
の手に乗るのは何よりも業腹ごうはらでした。叔父おじに欺だまされた私は、これから先どんな事があっ
0613山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:47:20.09ID:7/Y09tcf0
「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を拵こしらえろといいました。私は実際田舎いなかで
織った木綿もめんものしかもっていなかったのです。その頃ころの学生は絹いとの入はいった着物を肌に
0614山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:47:36.10ID:7/Y09tcf0
着けませんでした。私の友達に横浜よこはまの商人あきんどか何なにかで、宅うちはなかなか派出はでに
暮しているものがありましたが、そこへある時羽二重はぶたえの胴着どうぎが配達で届いた事があります
。すると皆みんながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、折角せっかく
0615山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:47:52.10ID:7/Y09tcf0
の胴着を行李こうりの底へ放ほうり込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと
着せました。すると運悪くその胴着に蝨しらみがたかりました。友達はちょうど幸さいわいとでも思った
のでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津ねづの大きな泥溝どぶの中へ棄
0616山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:48:08.11ID:7/Y09tcf0
すててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の所作しょさを
眺ながめていましたが、私の胸のどこにも勿体もったいないという気は少しも起りませんでした。
 その頃から見ると私も大分だいぶ大人になっていました。けれどもまだ自分で余所行よそゆきの着物を
0617山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:48:24.14ID:7/Y09tcf0
拵えるというほどの分別ふんべつは出なかったのです。私は卒業して髯ひげを生やす時代が来なければ、
服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。それで奥さんに書物は要い
るが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読
0618山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:48:40.12ID:7/Y09tcf0
むのかと聞くのです。私の買うものの中うちには字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありなが
ら、頁ページさえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。私はどうせ要らないも
のを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口
0619山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:48:56.11ID:7/Y09tcf0
実の下もとに、お嬢さんの気に入るような帯か反物たんものを買ってやりたかったのです。それで万事を
奥さんに依頼しました。
 奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かな
0620山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:49:12.14ID:7/Y09tcf0
くてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若
い女などといっしょに歩き廻まわる習慣をもっていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の
奴隷でしたから、多少躊躇ちゅうちょしましたが、思い切って出掛けました。
0621山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:49:28.14ID:7/Y09tcf0
 お嬢さんは大層着飾っていました。地体じたいが色の白いくせに、白粉おしろいを豊富に塗ったものだ
からなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視
線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
0622山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:49:44.13ID:7/Y09tcf0
 三人は日本橋にほんばしへ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったよ
り暇ひまがかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々反物た
んものをお嬢さんの肩から胸へ竪たてに宛あてておいて、私に二、三歩遠退とおのいて見てくれろという
0623山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:50:00.14ID:7/Y09tcf0
のです。私はそのたびごとに、それは駄目だめだとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞
きました。
 こんな事で時間が掛かかって帰りは夕飯ゆうめしの時刻になりました。奥さんは私に対するお礼に何か
0624山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:50:16.16ID:7/Y09tcf0
ご馳走ちそうするといって、木原店きはらだなという寄席よせのある狭い横丁よこちょうへ私を連れ込み
ました。横丁も狭いが、飯を食わせる家うちも狭いものでした。この辺へんの地理を一向いっこう心得な
い私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
0625山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:50:32.16ID:7/Y09tcf0
 我々は夜よに入いって家うちへ帰りました。その翌日あくるひは日曜でしたから、私は終日室へやの中
うちに閉じ籠こもっていました。月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調
戯からかわれました。いつ妻さいを迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君
0628山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:51:20.20ID:7/Y09tcf0
ろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな風ふうにして、女から気を引いて見
られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその
時自分の考えている通りを直截ちょくせつに打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私には
0629山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:51:36.22ID:7/Y09tcf0
もう狐疑こぎという薩張さっぱりしない塊かたまりがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、
ひょいと留とまりました。そうして話の角度を故意に少し外そらしました。
 私は肝心かんじんの自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚
0630山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:51:52.34ID:7/Y09tcf0
について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らか
に私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと
説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分だいぶ重きを置いているらしく
0631山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:52:08.23ID:7/Y09tcf0
見えました。極きめようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それか
らお嬢さんより外ほかに子供がないのも、容易に手離したがらない源因げんいんになっていました。嫁に
やるか、聟むこを取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
0632山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:52:24.25ID:7/Y09tcf0
 話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は
機会を逸いっしたと同様の結果に陥おちいってしまいました。私は自分について、ついに一言いちごんも
口を開く事ができませんでした。私は好いい加減なところで話を切り上げて、自分の室へやへ帰ろうとし
0633山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:52:40.26ID:7/Y09tcf0
ました。
 さっきまで傍そばにいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に
行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その後姿うしろすがたを見た
0634山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:52:56.26ID:7/Y09tcf0
のです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えているか
、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして坐すわっていました。その戸棚の一尺しゃ
くばかり開あいている隙間すきまから、お嬢さんは何か引き出して膝ひざの上へ置いて眺ながめているら
0635山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:53:12.27ID:7/Y09tcf0
しかったのです。私の眼はその隙間の端はじに、一昨日おととい買った反物たんものを見付け出しました
。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
 私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くの
0636山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:53:28.28ID:7/Y09tcf0
です。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解わからないほど不意でした。それがお嬢さんを
早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然はっきりした時、私はなるべく緩ゆっくらな方がいい
だろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。
0637山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:53:44.29ID:7/Y09tcf0
 奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入いり込まなければならない事にな
りました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を来きたしています。もしそ
の男が私の生活の行路こうろを横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必
0638山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:54:00.41ID:7/Y09tcf0
要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気
が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を宅うちへ引張ひっぱって来たのです。
無論奥さんの許諾きょだくも必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです
0639山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:54:16.32ID:7/Y09tcf0
。ところが奥さんは止よせといいました。私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せと
いう奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の善いいと思うところを強
しいて断行してしまいました。
0641山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:54:48.33ID:7/Y09tcf0
「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供こどもの時からの仲好なかよしでし
た。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは
真宗しんしゅうの坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ
0642山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:55:04.31ID:7/Y09tcf0
養子にやられたのです。私の生れた地方は大変本願寺派ほんがんじはの勢力の強い所でしたから、真宗の
坊さんは他ほかのものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の
子があって、その女の子が年頃としごろになったとすると、檀家だんかのものが相談して、どこか適当な
0643山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:55:20.32ID:7/Y09tcf0
所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんの懐ふところから出るのではありません。そんな訳で真宗寺
しんしゅうでらは大抵有福ゆうふくでした。
 Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどう
0644山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:55:36.34ID:7/Y09tcf0
か知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏まとまったものかどうか、そこも私
には分りません。とにかくKは医者の家うちへ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の
事でした。私は教場きょうじょうで先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今で
0645山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:55:52.34ID:7/Y09tcf0
も記憶しています。
 Kの養子先もかなりな財産家でした。Kはそこから学資を貰もらって東京へ出て来たのです。出て来た
のは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。その時分は一
0646山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:56:08.38ID:7/Y09tcf0
つ室へやによく二人も三人も机を並べて寝起ねおきしたものです。Kと私も二人で同じ間まにいました。
山で生捕いけどられた動物が、檻おりの中で抱き合いながら、外を睨にらめるようなものでしたろう。二
人は東京と東京の人を畏おそれました。それでいて六畳の間まの中では、天下を睥睨へいげいするような
0647山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:56:24.35ID:7/Y09tcf0
事をいっていたのです。
 しかし我々は真面目まじめでした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったので
す。寺に生れた彼は、常に精進しょうじんという言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉ことごと
0648山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:56:40.46ID:7/Y09tcf0
くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬いけいしてい
ました。
 Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の
0649山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:56:56.36ID:7/Y09tcf0
感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解わ
かりません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遥はるかに坊さんらしい性格をもっていたように見受け
られます。元来Kの養家ようかでは彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医
0650山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:57:12.37ID:7/Y09tcf0
者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を欺あざむくと
同じ事ではないかと詰なじりました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事
をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかっ
0651山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:57:28.48ID:7/Y09tcf0
たでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この漠然ばくぜんとした言葉
が尊たっとく響いたのです。よし解らないにしても気高けだかい心持に支配されて、そちらの方へ動いて
行こうとする意気組いきぐみに卑いやしいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました
0652山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:57:44.37ID:7/Y09tcf0
。私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。一図いちずな彼は、たとい
私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万
一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知し
0653山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:58:00.38ID:7/Y09tcf0
ていたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が
起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当しとうになるくらいな語気
で私は賛成したのです。
0655山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:58:32.39ID:7/Y09tcf0
「Kと私わたくしは同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の
好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つ
ながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
0656山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:58:48.41ID:7/Y09tcf0
 最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。駒込こまごめのある寺の一間ひとまを借りて勉強するのだ
といっていました。私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして大観音おおがんのんの傍そばの
汚い寺の中に閉とじ籠こもっていました。彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭い室へやでしたが、彼はそこで自
0657山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:59:04.41ID:7/Y09tcf0
分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。私はその時彼の生活の段々坊さんらしく
なって行くのを認めたように思います。彼は手頸てくびに珠数じゅずを懸けていました。私がそれは何の
ためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する真似まねをして見せました。彼はこうして日に何遍な
0658山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:59:20.41ID:7/Y09tcf0
んべんも珠数の輪を勘定するらしかったのです。ただしその意味は私には解わかりません。円い輪になっ
ているものを一粒ずつ数えてゆけば、どこまで数えていっても終局はありません。Kはどんな所でどんな
心持がして、爪繰つまぐる手を留めたでしょう。詰つまらない事ですが、私はよくそれを思うのです。
0659山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:59:36.40ID:7/Y09tcf0
 私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにお経きょうの名を度々たびたび彼の口から聞いた覚
えがありますが、基督教キリストきょうについては、問われた事も答えられた例ためしもなかったのです
から、ちょっと驚きました。私はその理由わけを訊たずねずにはいられませんでした。Kは理由はないと
0660山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 18:59:52.41ID:7/Y09tcf0
いいました。これほど人の有難ありがたがる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。その
上彼は機会があったら、『コーラン』も読んでみるつもりだといいました。彼はモハメッドと剣という言
葉に大いなる興味をもっているようでした。
0661山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:00:08.41ID:7/Y09tcf0
 二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。帰っても専門の事は何にもいわなかったも
のとみえます。家うちでもまたそこに気が付かなかったのです。あなたは学校教育を受けた人だから、こ
ういう消息をよく解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚くべく無
0662山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:00:24.46ID:7/Y09tcf0
知なものです。我々に何でもない事が一向いっこう外部へは通じていません。我々はまた比較的内部の空
気ばかり吸っているので、校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖がありま
す。Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。国を
0663山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:00:40.46ID:7/Y09tcf0
立つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るや否いなやすぐどうだったとKに問いました。Kはどうで
もなかったと答えたのです。
 三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時Kに帰国を勧
0664山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:00:56.43ID:7/Y09tcf0
めましたが、Kは応じませんでした。そう毎年まいとし家うちへ帰って何をするのだというのです。彼は
また踏み留とどまって勉強するつもりらしかったのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました
。私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、いかに波瀾はらんに富んだものかは、前に書
0665山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:01:12.43ID:7/Y09tcf0
いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽欝ゆううつと孤独の淋さびしさとを一つ胸に抱いだいて
、九月に入いってまたKに逢あいました。すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。彼は
私の知らないうちに、養家先ようかさきへ手紙を出して、こっちから自分の詐いつわりを白状してしまっ
0666山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:01:28.44ID:7/Y09tcf0
たのです。彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。今更いまさら仕方がないから、お前の好きなもの
をやるより外ほかに途みちはあるまいと、向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。とにかく大学へ
入ってまでも養父母を欺あざむき通す気はなかったらしいのです。また欺こうとしても、そう長く続くも
0668山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:02:00.56ID:7/Y09tcf0
「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を騙だますような不埒ふらちなものに学資を送る事はできな
いという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私わたくしに見せました。Kはまたそれと前後し
0669山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:02:16.45ID:7/Y09tcf0
て実家から受け取った書翰しょかんも見せました。これにも前に劣らないほど厳しい詰責きっせきの言葉
がありました。養家先ようかさきへ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、
こっちでも一切いっさい構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それと
0670山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:02:32.45ID:7/Y09tcf0
も他たに妥協の道を講じて、依然養家に留とどまるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうか
しなければならないのは、月々に必要な学資でした。
 私はその点についてKに何か考かんがえがあるのかと尋ねました。Kは夜学校やがっこうの教師でもす
0671山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:02:48.58ID:7/Y09tcf0
るつもりだと答えました。その時分は今に比べると、存外ぞんがい世の中が寛くつろいでいましたから、
内職の口はあなたが考えるほど払底ふっていでもなかったのです。私はKがそれで充分やって行けるだろ
うと考えました。しかし私には私の責任があります。Kが養家の希望に背そむいて、自分の行きたい道を
0672山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:03:04.48ID:7/Y09tcf0
行こうとした時、賛成したものは私です。私はそうかといって手を拱こまぬいでいる訳にゆきません。私
はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳はね付けました。彼の
性格からいって、自活の方が友達の保護の下もとに立つより遥はるかに快よく思われたのでしょう。彼は
0673山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:03:20.47ID:7/Y09tcf0
大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。私は私の責任
を完まっとうするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思う通りにさせて、私は
手を引きました。
0674山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:03:36.48ID:7/Y09tcf0
 Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。しかし時間を惜おしむ彼にとって、この仕事がど
のくらい辛つらかったかは想像するまでもない事です。彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩ゆるめずに
、新しい荷を背負しょって猛進したのです。私は彼の健康を気遣きづかいました。しかし剛気ごうきな彼
0675山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:03:52.50ID:7/Y09tcf0
は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。
 同時に彼と養家との関係は、段々こん絡がらがって来ました。時間に余裕のなくなった彼は、前のよう
に私と話す機会を奪われたので、私はついにその顛末てんまつを詳しく聞かずにしまいましたが、解決の
0676山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:04:08.48ID:7/Y09tcf0
ますます困難になってゆく事だけは承知していました。人が仲に入って調停を試みた事も知っていました
。その人は手紙でKに帰国を促うながしたのですが、Kは到底駄目だめだといって、応じませんでした。
この剛情ごうじょうなところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、
0677山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:04:24.49ID:7/Y09tcf0
向うから見れば剛情でしょう。そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。彼は養家の感情を
害すると共に、実家の怒いかりも買うようになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書い
た時は、もう何の効果ききめもありませんでした。私の手紙は一言ひとことの返事さえ受けずに葬られて
0678山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:04:40.53ID:7/Y09tcf0
しまったのです。私も腹が立ちました。今までも行掛ゆきがかり上、Kに同情していた私は、それ以後は
理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
 最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったの
0679山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:04:56.51ID:7/Y09tcf0
です。その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉でいえば、ま
あ勘当かんどうなのでしょう。あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈
していました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに継母けいぼに育てられた結果とも見
0680山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:05:12.50ID:7/Y09tcf0
る事ができるようです。もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで隔へだ
たりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。彼の父はいうまでもなく僧侶そうりょでした。け
れども義理堅い点において、むしろ武士さむらいに似たところがありはしないかと疑われます。
0682山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:05:44.52ID:7/Y09tcf0
「Kの事件が一段落ついた後あとで、私わたくしは彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子
に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の
意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
0683山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:06:00.65ID:7/Y09tcf0
 手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。姉が心配しているから、なるべ
く早く返事を貰もらいたいという依頼も付け加えてありました。Kは寺を嗣ついだ兄よりも、他家たけへ
縁づいたこの姉を好いていました。彼らはみんな一つ腹から生れた姉弟きょうだいですけれども、この姉
0684山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:06:16.54ID:7/Y09tcf0
とKとの間には大分だいぶ年歯としの差があったのです。それでKの小供こどもの時分には、継母ままは
はよりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。
 私はKに手紙を見せました。Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような
0685山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:06:32.55ID:7/Y09tcf0
意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやっ
たのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、物
質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。
0686山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:06:48.55ID:7/Y09tcf0
 私はKと同じような返事を彼の義兄宛あてで出しました。その中うちに、万一の場合には私がどうでも
するから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。これは固もとより私の一存いちぞ
んでした。Kの行先ゆくさきを心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、
0687山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:07:04.55ID:7/Y09tcf0
私を軽蔑けいべつしたとより外ほかに取りようのない彼の実家や養家ようかに対する意地もあったのです

 Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃なかごろになるまで、約一年半の間、彼は
0688山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:07:20.55ID:7/Y09tcf0
独力で己おのれを支えていったのです。ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して
来たように見え出しました。それには無論養家を出る出ないの蒼蠅うるさい問題も手伝っていたでしょう
。彼は段々感傷的センチメンタルになって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背
0689山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:07:36.54ID:7/Y09tcf0
負しょって立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分
の未来に横よこたわる光明こうみょうが、次第に彼の眼を遠退とおのいて行くようにも思って、いらいら
するのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上のぼるのが常ですが、
0690山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:07:52.57ID:7/Y09tcf0
一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍のろいのに気が付いて、過半
はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮あせり方はまた
普通に比べると遥はるかに甚はなはだしかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一せんい
0691山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:08:08.56ID:7/Y09tcf0
ちだと考えました。
 私は彼に向って、余計な仕事をするのは止よせといいました。そうして当分身体からだを楽にして、遊
ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。剛情ごうじょうなKの事ですから、容易に私のいう事
0692山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:08:24.70ID:7/Y09tcf0
などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際いい出して見ると、思ったよりも説き落すのに骨
が折れたので弱りました。Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い
人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論する
0693山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:08:40.59ID:7/Y09tcf0
のです。普通の人から見れば、まるで酔興すいきょうです。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっと
も強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に罹かかっているくらいなのです。私は仕方がないから
、彼に向って至極しごく同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に向って、人生を進むつ
0694山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:08:56.59ID:7/Y09tcf0
もりだったとついには明言しました。(もっともこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったので
す。Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣り込まれて来るくらい、彼には力があったのですか
ら)。最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上の路みちを辿たどって行きたいと発議ほつぎし
0697山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:09:44.62ID:7/Y09tcf0
するには、ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、至極しごく不便な室
へやでした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有に
して置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人でいる方が好いいといって、自分でそっちのほう
0698山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:10:00.62ID:7/Y09tcf0
を択えらんだのです。
 前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人よ
り二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくなら止よした方が
0699山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:10:16.61ID:7/Y09tcf0
好いいというのです。私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、世話は焼けないでも、気
心の知れない人は厭いやだと答えるのです。それでは今厄介やっかいになっている私だって同じ事ではな
いかと詰なじると、私の気心は初めからよく分っていると弁解して已やまないのです。私は苦笑しました
0700山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:10:32.61ID:7/Y09tcf0
。すると奥さんはまた理屈の方向を更かえます。そんな人を連れて来るのは、私のために悪いから止よせ
といい直します。なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。
 実をいうと私だって強しいてKといっしょにいる必要はなかったのです。けれども月々の費用を金の形
0701山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:10:48.62ID:7/Y09tcf0
で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取る時に躊躇ちゅうちょするだろうと思ったのです。
彼はそれほど独立心の強い男でした。だから私は彼を私の宅うちへ置いて、二人前ふたりまえの食料を彼
の知らない間まにそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。しかし私はKの経済問題について、一言いち
0702山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:11:04.74ID:7/Y09tcf0
ごんも奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
 私はただKの健康について云々うんぬんしました。一人で置くとますます人間が偏屈へんくつになるば
かりだからといいました。それに付け足して、Kが養家ようかと折合おりあいの悪かった事や、実家と離
0703山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:11:20.64ID:7/Y09tcf0
れてしまった事や、色々話して聞かせました。私は溺おぼれかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移し
てやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さ
んにもお嬢さんにも頼みました。私はここまで来て漸々ようよう奥さんを説き伏せたのです。しかし私か
0704山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:11:36.74ID:7/Y09tcf0
ら何にも聞かないKは、この顛末てんまつをまるで知らずにいました。私もかえってそれを満足に思って
、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。
 奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何なにかをしてくれました。すべてそれを私に
0705山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:11:52.65ID:7/Y09tcf0
対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――Kが相変らずむっちりした様子を
しているにもかかわらず。
 私がKに向って新しい住居すまいの心持はどうだと聞いた時に、彼はただ一言いちげん悪くないといっ
0706山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:12:08.65ID:7/Y09tcf0
ただけでした。私からいわせれば悪くないどころではないのです。彼の今までいた所は北向きの湿っぽい
臭においのする汚い室へやでした。食物くいものも室相応そうおうに粗末でした。私の家へ引き移った彼
は、幽谷ゆうこくから喬木きょうぼくに移った趣があったくらいです。それをさほどに思う気色けしきを
0707山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:12:24.64ID:7/Y09tcf0
見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、一つは彼の主張からも出ているのです。仏教の教
義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢ぜいたくをいうのをあたかも不道徳のように考えていま
した。なまじい昔の高僧だとか聖徒セーントだとかの伝でんを読んだ彼には、ややともすると精神と肉体
0708山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:12:40.66ID:7/Y09tcf0
とを切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻べんたつすれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあっ
たのかも知れません。
 私はなるべく彼に逆さからわない方針を取りました。私は氷を日向ひなたへ出して溶とかす工夫をした
0710山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:13:12.66ID:7/Y09tcf0
「私は奥さんからそういう風ふうに取り扱われた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚してい
たから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上において、大分だい
0711山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:13:28.66ID:7/Y09tcf0
ぶ相違のある事は、長く交際つきあって来た私によく解わかっていましたけれども、私の神経がこの家庭
に入ってから多少角かどが取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたの
です。
0712山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:13:44.68ID:7/Y09tcf0
 Kは私より強い決心を有している男でした。勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。その上持って生れた
頭の質たちが私よりもずっとよかったのです。後あとでは専門が違いましたから何ともいえませんが、同
じ級にいる間あいだは、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。私には平生から何
0713山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:14:00.67ID:7/Y09tcf0
をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。けれども私が強しいてKを私の宅うちへ引ひっ張
ぱって来た時には、私の方がよく事理を弁わきまえていると信じていました。私にいわせると、彼は我慢
と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。これはとくにあなたのために付け足しておきたい
0714山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:14:16.68ID:7/Y09tcf0
のですから聞いて下さい。肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の刺戟しげきで、発達もするし、
破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考
えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろん傍はたのものも気が付かずにい
0715山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:14:32.68ID:7/Y09tcf0
る恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。粥かゆばかり
食っていると、それ以上の堅いものを消化こなす力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。だか
ら何でも食う稽古けいこをしておけと医者はいうのです。けれどもこれはただ慣れるという意味ではなか
0716山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:14:48.68ID:7/Y09tcf0
ろうと思います。次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくては
なりますまい。もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみれ
ばすぐ解わかる事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。
0717山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:15:04.71ID:7/Y09tcf0
ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと極きめていたらしいのです。艱
苦かんくを繰り返せば、繰り返すというだけの功徳くどくで、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅
めぐりあえるものと信じ切っていたらしいのです。
0718山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:15:20.70ID:7/Y09tcf0
 私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。しかしいえばきっと反抗されるに
極きまっていました。また昔の人の例などを、引合ひきあいに持って来るに違いないと思いました。そう
なれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。それを首肯う
0719山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:15:36.70ID:7/Y09tcf0
けがってくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまでゆくと容易に後あと
へは返りません。なお先へ出ます。そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しに掛かかります。彼は
こうなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壊しつつ進みます。結果から見れば、彼はた
0720山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:15:52.73ID:7/Y09tcf0
だ自己の成功を打ち砕く意味において、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではあ
りませんでした。彼の気性きしょうをよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。その上
私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に罹かかっていたように思われたのです。よし私が
0721山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:16:08.72ID:7/Y09tcf0
彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。私は彼と喧嘩けんかをする事は恐れてはい
ませんでしたけれども、私が孤独の感に堪たえなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の
境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなお厭いや
0722山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:16:24.84ID:7/Y09tcf0
でした。それで私は彼が宅うちへ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにい
ました。ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
0724山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:16:56.73ID:7/Y09tcf0
れまで通って来た無言生活が彼に祟たたっているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、
彼の心には錆さびが出ていたとしか、私には思われなかったのです。
 奥さんは取り付き把はのない人だといって笑っていました。お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私
0725山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:17:12.75ID:7/Y09tcf0
に説明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。では持って来き
ようというと、要いらないと断るそうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといった
ぎり応対をしないのだそうです。私はただ苦笑している訳にもゆきません。気の毒だから、何とかいって
0726山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:17:28.75ID:7/Y09tcf0
その場を取り繕つくろっておかなければ済まなくなります。もっともそれは春の事ですから、強しいて火
にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。
 それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように力つとめました。Kと
0727山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:17:44.74ID:7/Y09tcf0
私が話している所へ家うちの人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ室へやに落ち合った所へ、Kを引っ
張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。もちろん
Kはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと起たって室の外へ出ました。またある時はいくら呼
0728山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:18:00.75ID:7/Y09tcf0
んでもなかなか出て来ませんでした。Kはあんな無駄話むだばなしをしてどこが面白いというのです。私
はただ笑っていました。しかし心の中うちでは、Kがそのために私を軽蔑けいべつしていることがよく解
わかりました。
0729山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:18:16.77ID:7/Y09tcf0
 私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価あたいしていたかも知れません。彼の眼の着け所は私より遥は
るかに高いところにあったともいわれるでしょう。私もそれを否いなみはしません。しかし眼だけ高くっ
て、外ほかが釣り合わないのは手もなく不具かたわです。私は何を措おいても、この際彼を人間らしくす
0730山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:18:32.86ID:7/Y09tcf0
るのが専一だと考えたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像イメジで埋うずまっていても、彼自身が偉く
なってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼を人間らしくする第一の
手段として、まず異性の傍そばに彼を坐すわらせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼
0731山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:18:48.77ID:7/Y09tcf0
を曝さらした上、錆さび付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
 この試みは次第に成功しました。初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに纏まとまっ
て来出きだしました。彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。彼はある日私に向
0732山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:19:04.78ID:7/Y09tcf0
って、女はそう軽蔑けいべつすべきものでないというような事をいいました。Kははじめ女からも、私同
様の知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたも
のと思われます。今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての男女なんに
0733山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:19:20.77ID:7/Y09tcf0
ょを一様に観察していたのです。私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば
、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。彼はもっともだと答えました。私
はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっている頃ころでしたから、自然そんな言葉も使うようになった
0734山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:19:36.78ID:7/Y09tcf0
のでしょう。しかし裏面の消息は彼には一口ひとくちも打ち明けませんでした。
 今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠こもっていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見
ているのは、私に取って何よりも愉快でした。私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、
0735山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:19:52.89ID:7/Y09tcf0
自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さ
んに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。
0737山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:20:24.91ID:7/Y09tcf0
がありました。私の方が早ければ、ただ彼の空室くうしつを通り抜けるだけですが、遅いと簡単な挨拶あ
いさつをして自分の部屋へはいるのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、襖ふすま
を開ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。私は何も答えないで点頭うなず
0738山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:20:40.80ID:7/Y09tcf0
く事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。
 ある日私は神田かんだに用があって、帰りがいつもよりずっと後おくれました。私は急ぎ足に門前まで
来て、格子こうしをがらりと開けました。それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。声は慥たし
0739山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:20:56.85ID:7/Y09tcf0
かにKの室へやから出たと思いました。玄関から真直まっすぐに行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ
続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という間取まどりなのですから、どこで誰の声がし
たくらいは、久しく厄介やっかいになっている私にはよく分るのです。私はすぐ格子を締めました。する
0740山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:21:12.91ID:7/Y09tcf0
とお嬢さんの声もすぐ已やみました。私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで手数て
かずのかかる編上あみあげを穿はいていたのですが、――私がこごんでその靴紐くつひもを解いているう
ち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。私は変に思いました。ことによると、私の疳違かんちがいか
0741山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:21:28.82ID:7/Y09tcf0
も知れないと考えたのです。しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、そこに二
人はちゃんと坐すわっていました。Kは例の通り今帰ったかといいました。お嬢さんも「お帰り」と坐っ
たままで挨拶しました。私には気のせいかその簡単な挨拶が少し硬かたいように聞こえました。どこかで
0742山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:21:44.83ID:7/Y09tcf0
自然を踏み外はずしているような調子として、私の鼓膜こまくに響いたのです。私はお嬢さんに、奥さん
はと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひっそりしてい
たから聞いて見ただけの事です。
0743山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:22:00.82ID:7/Y09tcf0
 奥さんははたして留守でした。下女げじょも奥さんといっしょに出たのでした。だから家うちに残って
いるのは、Kとお嬢さんだけだったのです。私はちょっと首を傾けました。今まで長い間世話になってい
たけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、宅うちを空けた例ためしはまだなかったので
0744山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:22:16.83ID:7/Y09tcf0
すから。私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。お嬢さんはただ笑っているのです。
私はこんな時に笑う女が嫌いでした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さん
も下らない事によく笑いたがる女でした。しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断ふだんの表情に帰
0745山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:22:32.84ID:7/Y09tcf0
りました。急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと真面目まじめに答えました。下宿人の私には
それ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。
 私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて晩食ばんめしの
0746山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:22:48.83ID:7/Y09tcf0
食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女
が膳ぜんを運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、飯時めしどきには向うへ呼ばれて行
く習慣になっていたのです。Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる
0747山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:23:04.83ID:7/Y09tcf0
事に極きめました。その代り私は薄い板で造った足の畳たたみ込める華奢きゃしゃな食卓を奥さんに寄附
きふしました。今ではどこの宅うちでも使っているようですが、その頃ころそんな卓の周囲に並んで飯を
食う家族はほとんどなかったのです。私はわざわざ御茶おちゃの水みずの家具屋へ行って、私の工夫通り
0748山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:23:20.85ID:7/Y09tcf0
にそれを造り上あげさせたのです。
 私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に肴屋さかなやが来なかったので、私たちに食わせるも
のを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。なるほど客を置いている以
0751山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:24:08.95ID:7/Y09tcf0
の時お嬢さんは私の顔を見るや否いなや笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったの
でしょう。それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰った
かと声を掛ける事ができなくなりました。お嬢さんはすぐ障子しょうじを開けて茶の間へ入ったようでし
0752山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:24:24.86ID:7/Y09tcf0
た。
 夕飯ゆうめしの時、お嬢さんは私を変な人だといいました。私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまい
ました。ただ奥さんが睨にらめるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。
0753山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:24:40.87ID:7/Y09tcf0
 私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院でんずういんの裏手から植物園の通りをぐるりと廻
まわってまた富坂とみざかの下へ出ました。散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間あいだ
に話した事は極きわめて少なかったのです。性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。私も多弁な
0754山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:24:56.99ID:7/Y09tcf0
方ではなかったのです。しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に仕掛しかけてみました。私の問題は
おもに二人の下宿している家族についてでした。私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかっ
たのです。ところが彼は海のものとも山のものとも見分みわけの付かないような返事ばかりするのです。
0755山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:25:12.89ID:7/Y09tcf0
しかもその返事は要領を得ないくせに、極めて簡単でした。彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の
方に多くの注意を払っているように見えました。もっともそれは二学年目の試験が目の前に逼せまってい
る頃ころでしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。その上彼
0756山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:25:28.89ID:7/Y09tcf0
はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。
 我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう後あと一年だといって奥さんは喜んでくれました
。そういう奥さんの唯一ゆいいつの誇ほこりとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になってい
0757山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:25:44.92ID:7/Y09tcf0
たのです。Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。Kはお嬢さ
んが学問以外に稽古けいこしている縫針ぬいはりだの琴だの活花いけばなだのを、まるで眼中に置いてい
ないようでした。私は彼の迂闊うかつを笑ってやりました。そうして女の価値はそんな所にあるものでな
0758山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:26:00.90ID:7/Y09tcf0
いという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。彼は別段反駁はんばくもしませんでした。その代りな
るほどという様子も見せませんでした。私にはそこが愉快でした。彼のふんといったような調子が、依然
として女を軽蔑けいべつしているように見えたからです。女の代表者として私の知っているお嬢さんを、
0759山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:26:16.92ID:7/Y09tcf0
物の数かずとも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する嫉妬しっとは、そ
の時にもう充分萌きざしていたのです。
 私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。Kは行きたくないような口振くちぶりを見せまし
0760山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:26:33.01ID:7/Y09tcf0
た。無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける身体からだではありませんが、私が誘いさえすれば、また
どこへ行っても差支さしつかえない身体だったのです。私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました
。彼は理由も何にもないというのです。宅うちで書物を読んだ方が自分の勝手だというのです。私が避暑
0761山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:26:48.92ID:7/Y09tcf0
地へ行って涼しい所で勉強した方が、身体のためだと主張すると、それなら私一人行ったらよかろうとい
うのです。しかし私はK一人をここに残して行く気にはなれないのです。私はただでさえKと宅のものが
段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好いい心持ではなかったのです。私が最初希望した通りに
0762山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:27:04.93ID:7/Y09tcf0
なるのが、何で私の心持を悪くするのかといわれればそれまでです。私は馬鹿に違いないのです。果はて
しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。二人はとうとういっしょに房州ぼう
しゅうへ行く事になりました。
0764山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:27:36.94ID:7/Y09tcf0
「Kはあまり旅へ出ない男でした。私わたくしにも房州ぼうしゅうは始めてでした。二人は何にも知らな
いで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田ほたとかいいました。今ではどんなに変っ
ているか知りませんが、その頃ころはひどい漁村でした。第一だいちどこもかしこも腥なまぐさいのです
0765山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:27:52.96ID:7/Y09tcf0
。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦すり剥むくのです。拳こぶしのような
大きな石が打ち寄せる波に揉もまれて、始終ごろごろしているのです。
 私はすぐ厭いやになりました。しかしKは好いいとも悪いともいいません。少なくとも顔付かおつきだ
0766山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:28:08.99ID:7/Y09tcf0
けは平気なものでした。そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに怪我けがをしない事はなかったのです。
私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦とみうらに行きました。富浦からまた那古なこに移りました
。すべてこの沿岸はその時分から重おもに学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃て
0767山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:28:24.93ID:7/Y09tcf0
ごろの海水浴場だったのです。Kと私はよく海岸の岩の上に坐すわって、遠い海の色や、近い水の底を眺
ながめました。岩の上から見下みおろす水は、また特別に綺麗きれいなものでした。赤い色だの藍あいの
色だの、普通市場しじょうに上のぼらないような色をした小魚こうおが、透き通る波の中をあちらこちら
0768山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:28:40.97ID:7/Y09tcf0
と泳いでいるのが鮮やかに指さされました。
 私はそこに坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私には
それが考えに耽ふけっているのか、景色に見惚みとれているのか、もしくは好きな想像を描えがいている
0769山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:28:56.96ID:7/Y09tcf0
のか、全く解わからなかったのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何
もしていないと一口ひとくち答えるだけでした。私は自分の傍そばにこうじっとして坐っているものが、
Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。それだけならまだいいので
0770山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:29:12.96ID:7/Y09tcf0
すが、時にはKの方でも私と同じような希望を抱いだいて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然こ
つぜん疑い出すのです。すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。私は不意に
立ち上あがります。そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴どなります。纏まとまった詩だの歌だのを
0771山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:29:28.99ID:7/Y09tcf0
面白そうに吟ぎんずるような手緩てぬるい事はできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。あ
る時私は突然彼の襟頸えりくびを後ろからぐいと攫つかみました。こうして海の中へ突き落したらどうす
るといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど好いい、やってくれと答
0772山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:29:44.97ID:7/Y09tcf0
えました。私はすぐ首筋を抑おさえた手を放しました。
 Kの神経衰弱はこの時もう大分だいぶよくなっていたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過
敏になって来ていたのです。私は自分より落ち付いているKを見て、羨うらやましがりました。また憎ら
0773山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:30:00.98ID:7/Y09tcf0
しがりました。彼はどうしても私に取り合う気色けしきを見せなかったからです。私にはそれが一種の自
信のごとく映りました。しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。私
の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を明あきらめたがりました。彼は学問なり事業なりについて、これ
0774山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:30:30.01ID:7/Y09tcf0
から自分の進んで行くべき前途の光明こうみょうを再び取り返した心持になったのだろうか。単にそれだ
けならば、Kと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。私はかえって世話のし甲斐がいがあったの
を嬉うれしく思うくらいなものです。けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決
0775山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:30:33.09ID:7/Y09tcf0
して彼を許す事ができなくなるのです。不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振そぶりに全く気が
付いていないように見えました。無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでした
けれども。Kは元来そういう点にかけると鈍にぶい人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心
0777山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:31:04.99ID:7/Y09tcf0
「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれはその時に始まった訳でもなか
ったのです。旅に出ない前から、私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつら
0778山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:31:21.09ID:7/Y09tcf0
まえる事も、その機会を作り出す事も、私の手際てぎわでは旨うまくゆかなかったのです。今から思うと
、その頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをするものは一人もありま
せんでした。中には話す種たねをもたないのも大分だいぶいたでしょうが、たといもっていても黙ってい
0779山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:31:37.00ID:7/Y09tcf0
るのが普通のようでした。比較的自由な空気を呼吸している今のあなたがたから見たら、定めし変に思わ
れるでしょう。それが道学どうがくの余習よしゅうなのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなた
の理解に任せておきます。
0780山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:31:53.10ID:7/Y09tcf0
 Kと私は何でも話し合える中でした。偶たまには愛とか恋とかいう問題も、口に上のぼらないではあり
ませんでしたが、いつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。それも滅多めったには話題にならな
かったのです。大抵は書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話ぐらいで持ち切っていた
0781山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:32:09.00ID:7/Y09tcf0
のです。いくら親しくってもこう堅くなった日には、突然調子を崩くずせるものではありません。二人は
ただ堅いなりに親しくなるだけです。私はお嬢さんの事をKに打ち明けようと思い立ってから、何遍なん
べん歯がゆい不快に悩まされたか知れません。私はKの頭のどこか一カ所を突き破って、そこから柔らか
0782山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:32:25.03ID:7/Y09tcf0
い空気を吹き込んでやりたい気がしました。
 あなたがたから見て笑止千万しょうしせんばんな事もその時の私には実際大困難だったのです。私は旅
先でも宅うちにいた時と同じように卑怯ひきょうでした。私は始終機会を捕える気でKを観察していなが
0783山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:32:41.02ID:7/Y09tcf0
ら、変に高踏的な彼の態度をどうする事もできなかったのです。私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い
漆うるしで重あつく塗り固められたのも同然でした。私の注そそぎ懸けようとする血潮は、一滴もその心
臓の中へは入らないで、悉ことごとく弾はじき返されてしまうのです。
0784山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:32:57.00ID:7/Y09tcf0
 或ある時はあまりKの様子が強くて高いので、私はかえって安心した事もあります。そうして自分の疑
いを腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに詫わびました。詫びながら自分が非常に下等な人間の
ように見えて、急に厭いやな心持になるのです。しかし少時しばらくすると、以前の疑いがまた逆戻りを
0785山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:33:13.03ID:7/Y09tcf0
して、強く打ち返して来ます。すべてが疑いから割り出されるのですから、すべてが私には不利益でした
。容貌ようぼうもKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところ
が、異性には気に入るだろうと思われました。どこか間まが抜けていて、それでどこかに確しっかりした
0786山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:33:29.40ID:7/Y09tcf0
男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。学力がくりきになれば専門こそ違いますが、私
は無論Kの敵でないと自覚していました。――すべて向うの好いいところだけがこう一度に眼先めさきへ
散らつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
0787山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:33:45.07ID:7/Y09tcf0
 Kは落ち付かない私の様子を見て、厭いやならひとまず東京へ帰ってもいいといったのですが、そうい
われると、私は急に帰りたくなくなりました。実はKを東京へ帰したくなかったのかも知れません。二人
は房州ぼうしゅうの鼻を廻まわって向う側へ出ました。我々は暑い日に射いられながら、苦しい思いをし
0788山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:34:01.04ID:7/Y09tcf0
て、上総かずさのそこ一里いちりに騙だまされながら、うんうん歩きました。私にはそうして歩いている
意味がまるで解わからなかったくらいです。私は冗談じょうだん半分Kにそういいました。するとKは足
があるから歩くのだと答えました。そうして暑くなると、海に入って行こうといって、どこでも構わず潮
0791山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:34:49.08ID:7/Y09tcf0
とも病気とは違います。急に他ひとの身体の中へ、自分の霊魂が宿替やどがえをしたような気分になるの
です。私わたくしは平生へいぜいの通りKと口を利ききながら、どこかで平生の心持と離れるようになり
ました。彼に対する親しみも憎しみも、旅中りょちゅう限かぎりという特別な性質を帯おびる風になった
0792山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:35:05.19ID:7/Y09tcf0
のです。つまり二人は暑さのため、潮しおのため、また歩行のため、在来と異なった新しい関係に入る事
ができたのでしょう。その時の我々はあたかも道づれになった行商ぎょうしょうのようなものでした。い
くら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。
0793山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:35:21.08ID:7/Y09tcf0
 我々はこの調子でとうとう銚子ちょうしまで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今に
忘れる事ができないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊こみなとという所で、鯛たいの浦うらを
見物しました。もう年数ねんすうもよほど経たっていますし、それに私にはそれほど興味のない事ですか
0794山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:35:37.08ID:7/Y09tcf0
ら、判然はんぜんとは覚えていませんが、何でもそこは日蓮にちれんの生れた村だとかいう話でした。日
蓮の生れた日に、鯛が二尾び磯いそに打ち上げられていたとかいう言伝いいつたえになっているのです。
それ以来村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至ったのだから、浦には鯛が沢山いるのです。我々は小舟
0795山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:35:53.09ID:7/Y09tcf0
を傭やとって、その鯛をわざわざ見に出掛けたのです。
 その時私はただ一図いちずに波を見ていました。そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、
面白い現象の一つとして飽かず眺めました。しかしKは私ほどそれに興味をもち得なかったものとみえま
0796山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:36:09.09ID:7/Y09tcf0
す。彼は鯛よりもかえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。ちょうどそこに誕生寺たんじ
ょうじという寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、立派な伽藍
がらんでした。Kはその寺に行って住持じゅうじに会ってみるといい出しました。実をいうと、我々はず
0797山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:36:25.10ID:7/Y09tcf0
いぶん変な服装なりをしていたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠すげ
がさを買って被かぶっていました。着物は固もとより双方とも垢あかじみた上に汗で臭くさくなっていま
した。私は坊さんなどに会うのは止よそうといいました。Kは強情ごうじょうだから聞きません。厭いや
0798山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:36:41.10ID:7/Y09tcf0
なら私だけ外に待っていろというのです。私は仕方がないからいっしょに玄関にかかりましたが、心のう
ちではきっと断られるに違いないと思っていました。ところが坊さんというものは案外丁寧ていねいなも
ので、広い立派な座敷へ私たちを通して、すぐ会ってくれました。その時分の私はKと大分だいぶ考えが
0799山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:36:57.09ID:7/Y09tcf0
違っていましたから、坊さんとKの談話にそれほど耳を傾ける気も起りませんでしたが、Kはしきりに日
蓮の事を聞いていたようです。日蓮は草日蓮そうにちれんといわれるくらいで、草書そうしょが大変上手
であったと坊さんがいった時、字の拙まずいKは、何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えていま
0800山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:37:13.12ID:7/Y09tcf0
す。Kはそんな事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。坊さんがその点でKを満足
させたかどうかは疑問ですが、彼は寺の境内けいだいを出ると、しきりに私に向って日蓮の事を云々うん
ぬんし出しました。私は暑くて草臥くたびれて、それどころではありませんでしたから、ただ口の先で好
0801山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:37:29.21ID:7/Y09tcf0
いい加減な挨拶あいさつをしていました。それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。
 たしかその翌あくる晩の事だと思いますが、二人は宿へ着いて飯めしを食って、もう寝ようという少し
前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。Kは昨日きのう自分の方から話しかけた日
0802山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:37:45.14ID:7/Y09tcf0
蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。精神的に向上心がないもの
は馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。ところが私の胸にはお嬢さんの
事が蟠わだかまっていますから、彼の侮蔑ぶべつに近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。私は
0804山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:38:17.13ID:7/Y09tcf0
「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私
が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しか
0805山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:38:33.25ID:7/Y09tcf0
し人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点しゅったつてんがす
でに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおの事自説を主張しました。す
るとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――
0806山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:38:49.14ID:7/Y09tcf0
君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくな
いような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。
 私がこういった時、彼はただ自分の修養が足りないから、他ひとにはそう見えるかも知れないと答えた
0807山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:39:05.16ID:7/Y09tcf0
だけで、一向いっこう私を反駁はんばくしようとしませんでした。私は張合いが抜けたというよりも、か
えって気の毒になりました。私はすぐ議論をそこで切り上げました。彼の調子もだんだん沈んで来ました
。もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうといって悵然ちょうぜん
0808山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:39:21.28ID:7/Y09tcf0
としていました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。霊のために肉を
虐しいたげたり、道のために体たいを鞭むちうったりしたいわゆる難行苦行なんぎょうくぎょうの人を指
すのです。Kは私に、彼がどのくらいそのために苦しんでいるか解わからないのが、いかにも残念だと明
0809山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:39:37.16ID:7/Y09tcf0
言しました。
 Kと私とはそれぎり寝てしまいました。そうしてその翌あくる日からまた普通の行商ぎょうしょうの態
度に返って、うんうん汗を流しながら歩き出したのです。しかし私は路々みちみちその晩の事をひょいひ
0810山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:39:53.16ID:7/Y09tcf0
ょいと思い出しました。私にはこの上もない好いい機会が与えられたのに、知らない振ふりをしてなぜそ
れをやり過ごしたのだろうという悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる
代りに、もっと直截ちょくせつで簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。実を
0811山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:40:09.17ID:7/Y09tcf0
いうと、私がそんな言葉を創造したのも、お嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから、事
実を蒸溜じょうりゅうして拵こしらえた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原もとの形かたちそのまま
を彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だったでしょう。私にそれができなかったのは、学問
0812山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:40:25.17ID:7/Y09tcf0
の交際が基調を構成している二人の親しみに、自おのずから一種の惰性があったため、思い切ってそれを
突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。気取り過ぎたといっても、虚栄
心が祟たたったといっても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違
0813山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:40:41.42ID:7/Y09tcf0
います。それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。
 我々は真黒になって東京へ帰りました。帰った時は私の気分がまた変っていました。人間らしいとか、
人間らしくないとかいう小理屈こりくつはほとんど頭の中に残っていませんでした。Kにも宗教家らしい
0814山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:40:57.18ID:7/Y09tcf0
様子が全く見えなくなりました。おそらく彼の心のどこにも霊がどうの肉がどうのという問題は、その時
宿っていなかったでしょう。二人は異人種のような顔をして、忙しそうに見える東京をぐるぐる眺ながめ
ました。それから両国りょうごくへ来て、暑いのに軍鶏しゃもを食いました。Kはその勢いきおいで小石
0815山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:41:13.18ID:7/Y09tcf0
川こいしかわまで歩いて帰ろうというのです。体力からいえばKよりも私の方が強いのですから、私はす
ぐ応じました。
 宅うちへ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚きました。二人はただ色が黒くなったばかりでなく、む
0816山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:41:29.19ID:7/Y09tcf0
やみに歩いていたうちに大変瘠やせてしまったのです。奥さんはそれでも丈夫そうになったといって賞ほ
めてくれるのです。お嬢さんは奥さんの矛盾がおかしいといってまた笑い出しました。旅行前時々腹の立
った私も、その時だけは愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久しぶりに聞いたせいでしょう。
0818山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:42:01.20ID:7/Y09tcf0
「それのみならず私わたくしはお嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。久しぶりで旅
から帰った私たちが平生へいぜいの通り落ち付くまでには、万事について女の手が必要だったのですが、
その世話をしてくれる奥さんはとにかく、お嬢さんがすべて私の方を先にして、Kを後廻あとまわしにす
0819山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:42:17.22ID:7/Y09tcf0
るように見えたのです。それを露骨にやられては、私も迷惑したかもしれません。場合によってはかえっ
て不快の念さえ起しかねなかったろうと思うのですが、お嬢さんの所作しょさはその点で甚だ要領を得て
いたから、私は嬉うれしかったのです。つまりお嬢さんは私だけに解わかるように、持前もちまえの親切
0820山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:42:33.33ID:7/Y09tcf0
を余分に私の方へ割り宛あててくれたのです。だからKは別に厭いやな顔もせずに平気でいました。私は
心の中うちでひそかに彼に対する※(「りっしんべん+豈」、第3水準1-84-59)歌がいかを奏し
ました。
0821山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:42:49.21ID:7/Y09tcf0
 やがて夏も過ぎて九月の中頃なかごろから我々はまた学校の課業に出席しなければならない事になりま
した。Kと私とは各自てんでんの時間の都合で出入りの刻限にまた遅速ができてきました。私がKより後
おくれて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの影をKの室へやに認める事はな
0822山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:43:05.24ID:7/Y09tcf0
いようになりました。Kは例の眼を私の方に向けて、「今帰ったのか」を規則のごとく繰り返しました。
私の会釈もほとんど器械のごとく簡単でかつ無意味でした。
 たしか十月の中頃と思います。私は寝坊ねぼうをした結果、日本服にほんふくのまま急いで学校へ出た
0823山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:43:21.23ID:7/Y09tcf0
事があります。穿物はきものも編上あみあげなどを結んでいる時間が惜しいので、草履ぞうりを突っかけ
たなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました
。私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子こうしをがらりと開けたのです。するといないと思ってい
0824山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:43:37.21ID:7/Y09tcf0
たKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように
手数てかずのかかる靴を穿はいていないから、すぐ玄関に上がって仕切しきりの襖ふすまを開けました。
私は例の通り机の前に坐すわっているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。
0825山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:43:53.23ID:7/Y09tcf0
私はあたかもKの室へやから逃のがれ出るように去るその後姿うしろすがたをちらりと認めただけでした
。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自
分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さ
0826山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:44:09.36ID:7/Y09tcf0
んは始めてお帰りといって私に挨拶あいさつをしました。私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞
けるような捌さばけた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だ
ったのです。お嬢さんはすぐ座を立って縁側伝えんがわづたいに向うへ行ってしまいました。しかしKの
0827山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:44:25.23ID:7/Y09tcf0
室の前に立ち留まって、二言ふたこと三言みこと内と外とで話をしていました。それは先刻さっきの続き
らしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。
 そのうちお嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。Kと私がいっしょに宅うちにいる時でも、
0828山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:44:41.25ID:7/Y09tcf0
よくKの室へやの縁側へ来て彼の名を呼びました。そうしてそこへ入って、ゆっくりしていました。無論
郵便を持って来る事もあるし、洗濯物を置いてゆく事もあるのですから、そのくらいの交通は同じ宅にい
る二人の関係上、当然と見なければならないのでしょうが、ぜひお嬢さんを専有したいという強烈な一念
0829山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:44:57.25ID:7/Y09tcf0
に動かされている私には、どうしてもそれが当然以上に見えたのです。ある時はお嬢さんがわざわざ私の
室へ来るのを回避して、Kの方ばかりへ行くように思われる事さえあったくらいです。それならなぜKに
宅を出てもらわないのかとあなたは聞くでしょう。しかしそうすれば私がKを無理に引張ひっぱって来た
0831山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:45:29.27ID:7/Y09tcf0
「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私わたくしは外套がいとうを濡ぬらして例の通り蒟蒻閻魔こんに
ゃくえんまを抜けて細い坂路さかみちを上あがって宅うちへ帰りました。Kの室は空虚がらんどうでした
0832山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:45:45.27ID:7/Y09tcf0
けれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳かざ
そうと思って、急いで自分の室の仕切しきりを開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く残ってい
るだけで、火種ひだねさえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。
0833山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:46:01.28ID:7/Y09tcf0
 その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て
、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。それから私が寒いというの
を聞いて、すぐ次の間まからKの火鉢を持って来てくれました。私がKはもう帰ったのかと聞きましたら
0834山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:46:17.29ID:7/Y09tcf0
、奥さんは帰ってまた出たと答えました。その日もKは私より後おくれて帰る時間割だったのですから、
私はどうした訳かと思いました。奥さんは大方おおかた用事でもできたのだろうといっていました。
 私はしばらくそこに坐すわったまま書見しょけんをしました。宅の中がしんと静まって、誰だれの話し
0835山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:46:33.30ID:7/Y09tcf0
声も聞こえないうちに、初冬はつふゆの寒さと佗わびしさとが、私の身体からだに食い込むような感じが
しました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私はふと賑にぎやかな所へ行きたくなったのです。雨
はやっと歇あがったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、蛇じゃの
0836山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:46:49.30ID:7/Y09tcf0
目めを肩に担かついで、砲兵ほうへい工廠こうしょうの裏手の土塀どべいについて東へ坂を下おりました
。その時分はまだ道路の改正ができない頃ころなので、坂の勾配こうばいが今よりもずっと急でした。道
幅も狭くて、ああ真直まっすぐではなかったのです。その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞ふさが
0837山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:47:05.29ID:7/Y09tcf0
っているのと、放水みずはきがよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに細い石橋を渡って柳町や
なぎちょうの通りへ出る間が非道ひどかったのです。足駄あしだでも長靴でもむやみに歩く訳にはゆきま
せん。誰でも路みちの真中に自然と細長く泥が掻かき分けられた所を、後生ごしょう大事だいじに辿たど
0838山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:47:21.30ID:7/Y09tcf0
って行かなければならないのです。その幅は僅わずか一、二尺しゃくしかないのですから、手もなく往来
に敷いてある帯の上を踏んで向うへ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜け
ます。私はこの細帯の上で、はたりとKに出合いました。足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向
0839山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:47:37.29ID:7/Y09tcf0
き合うまで、彼の存在にまるで気が付かずにいたのです。私は不意に自分の前が塞ふさがったので偶然眼
を上げた時、始めてそこに立っているKを認めたのです。私はKにどこへ行ったのかと聞きました。Kは
ちょっとそこまでといったぎりでした。彼の答えはいつもの通りふんという調子でした。Kと私は細い帯
0840山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:47:53.32ID:7/Y09tcf0
の上で身体を替かわせました。するとKのすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。近眼の
私には、今までそれがよく分らなかったのですが、Kをやり越した後あとで、その女の顔を見ると、それ
が宅うちのお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。お嬢さんは心持薄赤い顔をして、私に挨拶
0841山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:48:09.31ID:7/Y09tcf0
あいさつをしました。その時分の束髪そくはつは今と違って廂ひさしが出ていないのです、そうして頭の
真中まんなかに蛇へびのようにぐるぐる巻きつけてあったものです。私はぼんやりお嬢さんの頭を見てい
ましたが、次の瞬間に、どっちか路みちを譲らなければならないのだという事に気が付きました。私は思
0842山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:48:25.32ID:7/Y09tcf0
い切ってどろどろの中へ片足踏ふん込ごみました。そうして比較的通りやすい所を空あけて、お嬢さんを
渡してやりました。
 それから柳町の通りへ出た私はどこへ行って好いいか自分にも分らなくなりました。どこへ行っても面
0843山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:48:41.43ID:7/Y09tcf0
白くないような心持がするのです。私は飛泥はねの上がるのも構わずに、糠ぬかる海みの中を自暴やけに
どしどし歩きました。それから直すぐ宅へ帰って来ました。
0845山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:49:13.44ID:7/Y09tcf0
まさごちょうで偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った
質問を控えなければなりませんでした。しかし食事の時、またお嬢さんに向って、同じ問いを掛けたくな
りました。するとお嬢さんは私の嫌いな例の笑い方をするのです。そうしてどこへ行ったか中あててみろ
0846山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:49:29.34ID:7/Y09tcf0
としまいにいうのです。その頃ころの私はまだ癇癪かんしゃく持もちでしたから、そう不真面目ふまじめ
に若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところがそこに気の付くのは、同じ食卓に着いているもの
のうちで奥さん一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやる
0847山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:49:45.36ID:7/Y09tcf0
のか、知らないで無邪気むじゃきにやるのか、そこの区別がちょっと判然はんぜんしない点がありました
。若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方ほうでしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも
、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私
0848山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:50:01.34ID:7/Y09tcf0
の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬しっとに帰きしていいものか、または私に対す
るお嬢さんの技巧と見傚みなしてしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。私は今でも決してその
時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面りめんにこの感情の
0849山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:50:17.36ID:7/Y09tcf0
働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍はたのものから見ると、ほとんど取るに足りない瑣事
さじに、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事よじですが、こういう嫉妬しっ
とは愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しまし
0850山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:50:33.38ID:7/Y09tcf0
た。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。
 私はそれまで躊躇ちゅうちょしていた自分の心を、一思ひとおもいに相手の胸へ擲たたき付けようかと
考え出しました。私の相手というのはお嬢さんではありません、奥さんの事です。奥さんにお嬢さんを呉
0851山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:50:49.38ID:7/Y09tcf0
くれろと明白な談判を開こうかと考えたのです。しかしそう決心しながら、一日一日と私は断行の日を延
ばして行ったのです。そういうと私はいかにも優柔ゆうじゅうな男のように見えます、また見えても構い
ませんが、実際私の進みかねたのは、意志の力に不足があったためではありません。Kの来ないうちは、
0852山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:51:05.40ID:7/Y09tcf0
他ひとの手に乗るのが厭いやだという我慢が私を抑おさえ付けて、一歩も動けないようにしていました。
Kの来た後のちは、もしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を
制するようになったのです。はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい
0853山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:51:21.42ID:7/Y09tcf0
出す価値のないものと私は決心していたのです。恥を掻かかせられるのが辛つらいなどというのとは少し
訳が違います。こっちでいくら思っても、向うが内心他ほかの人に愛の眼まなこを注そそいでいるならば
、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。世の中では否応いやおうなしに自分の好いた女を嫁に
0854山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:51:37.44ID:7/Y09tcf0
貰もらって嬉うれしがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもな
ければ愛の心理がよく呑のみ込めない鈍物どんぶつのする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰っ
てしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらい私は熱していま
0855山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:51:53.44ID:7/Y09tcf0
した。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも迂遠うえんな愛の実際家だった
のです。
 肝心かんじんのお嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには
0856山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:52:09.56ID:7/Y09tcf0
時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、そういう事は許されていない
のだという自覚が、その頃の私には強くありました。しかし決してそればかりが私を束縛したとはいえま
せん。日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に気兼きがねなく自分の思った通りを遠慮せ
0858山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:52:41.47ID:7/Y09tcf0
「こんな訳で私わたくしはどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ち竦すくんでいました。身体から
だの悪い時に午睡ひるねなどをすると、眼だけ覚さめて周囲のものが判然はっきり見えるのに、どうして
0859山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:52:57.49ID:7/Y09tcf0
も手足の動かせない場合がありましょう。私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。
 その内うち年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多かるたをやるから誰だれか友達を連
れて来ないかといった事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚い
0860山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:53:13.49ID:7/Y09tcf0
てしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。往来で会った時挨拶あい
さつをするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決して歌留多かるたなどを取る柄がらではな
かったのです。奥さんはそれじゃ私の知ったものでも呼んで来たらどうかといい直しましたが、私も生憎
0861山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:53:29.52ID:7/Y09tcf0
あいにくそんな陽気な遊びをする心持になれないので、好いい加減な生返事なまへんじをしたなり、打ち
やっておきました。ところが晩になってKと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。客
も誰も来ないのに、内々うちうちの小人数こにんずだけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなも
0862山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:53:45.53ID:7/Y09tcf0
のでした。その上こういう遊技をやり付けないKは、まるで懐手ふところでをしている人と同様でした。
私はKに一体百人一首ひゃくにんいっしゅの歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答え
ました。私の言葉を聞いたお嬢さんは、大方おおかたKを軽蔑けいべつするとでも取ったのでしょう。そ
0863山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:54:01.52ID:7/Y09tcf0
れから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有
様になって来ました。私は相手次第では喧嘩けんかを始めたかも知れなかったのです。幸いにKの態度は
少しも最初と変りませんでした。彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り
0864山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:54:17.51ID:7/Y09tcf0
上げる事ができました。
 それから二、三日経たった後のちの事でしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ
行くといって宅うちを出ました。Kも私もまだ学校の始まらない頃ころでしたから、留守居同様あとに残
0865山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:54:33.53ID:7/Y09tcf0
っていました。私は書物を読むのも散歩に出るのも厭いやだったので、ただ漠然と火鉢の縁ふちに肱ひじ
を載せて凝じっと顋あごを支えたなり考えていました。隣となりの室へやにいるKも一向いっこう音を立
てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、
0866山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:54:49.52ID:7/Y09tcf0
二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。
 十時頃になって、Kは不意に仕切りの襖ふすまを開けて私と顔を見合みあわせました。彼は敷居の上に
立ったまま、私に何を考えていると聞きました。私はもとより何も考えていなかったのです。もし考えて
0867山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:55:05.64ID:7/Y09tcf0
いたとすれば、いつもの通りお嬢さんが問題だったかも知れません。そのお嬢さんには無論奥さんも食っ
付いていますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐる回めぐって、
この問題を複雑にしているのです。Kと顔を見合せた私は、今まで朧気おぼろげに彼を一種の邪魔ものの
0868山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:55:21.53ID:7/Y09tcf0
如く意識していながら、明らかにそうと答える訳にいかなかったのです。私は依然として彼の顔を見て黙
っていました。するとKの方からつかつかと私の座敷へ入って来て、私のあたっている火鉢の前に坐すわ
りました。私はすぐ両肱りょうひじを火鉢の縁から取り除のけて、心持それをKの方へ押しやるようにし
0869山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:55:37.54ID:7/Y09tcf0
ました。
 Kはいつもに似合わない話を始めました。奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうというの
です。私は大方叔母おばさんの所だろうと答えました。Kはその叔母さんは何だとまた聞きます。私はや
0870山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:55:53.68ID:7/Y09tcf0
はり軍人の細君さいくんだと教えてやりました。すると女の年始は大抵十五日過すぎだのに、なぜそんな
に早く出掛けたのだろうと質問するのです。私はなぜだか知らないと挨拶するより外ほかに仕方がありま
せんでした。
0872山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:56:25.56ID:7/Y09tcf0
「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話を已やめませんでした。しまいには私わたくしも答えられないよう
な立ち入った事まで聞くのです。私は面倒よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題
にして話しかけた時の彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変っているところに気が付かずにはい
0873山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:56:41.67ID:7/Y09tcf0
られないのです。私はとうとうなぜ今日に限ってそんな事ばかりいうのかと彼に尋ねました。その時彼は
突然黙りました。しかし私は彼の結んだ口元の肉が顫ふるえるように動いているのを注視しました。彼は
元来無口な男でした。平生へいぜいから何かいおうとすると、いう前によく口のあたりをもぐもぐさせる
0874山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:56:57.58ID:7/Y09tcf0
癖くせがありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易たやすく開あかないところに、彼の
言葉の重みも籠こもっていたのでしょう。一旦いったん声が口を破って出るとなると、その声には普通の
人よりも倍の強い力がありました。
0875山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:57:13.57ID:7/Y09tcf0
 彼の口元をちょっと眺ながめた時、私はまた何か出て来るなとすぐ疳付かんづいたのですが、それがは
たして何なんの準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口か
ら、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。私は彼の魔法棒のた
0876山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:57:29.59ID:7/Y09tcf0
めに一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです

 その時の私は恐ろしさの塊かたまりといいましょうか、または苦しさの塊りといいましょうか、何しろ
0877山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:57:45.58ID:7/Y09tcf0
一つの塊りでした。石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。呼吸をする弾力性さえ失
われたくらいに堅くなったのです。幸いな事にその状態は長く続きませんでした。私は一瞬間の後のちに
、また人間らしい気分を取り戻しました。そうして、すぐ失策しまったと思いました。先せんを越された
0878山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:58:01.59ID:7/Y09tcf0
なと思いました。
 しかしその先さきをどうしようという分別はまるで起りません。恐らく起るだけの余裕がなかったので
しょう。私は腋わきの下から出る気味のわるい汗が襯衣シャツに滲しみ透とおるのを凝じっと我慢して動
0879山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:58:17.71ID:7/Y09tcf0
かずにいました。Kはその間あいだいつもの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明け
てゆきます。私は苦しくって堪たまりませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の
顔の上に判然はっきりした字で貼はり付けられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気の
0880山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:58:33.70ID:7/Y09tcf0
付かないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分の事に一切いっさいを集中しているから、私の表情な
どに注意する暇がなかったのでしょう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。重くて
鈍のろい代りに、とても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。私の心は半分その自白
0881山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:58:49.61ID:7/Y09tcf0
を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えず掻かき乱されていましたから、細こまか
い点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響
きました。そのために私は前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったの
0882山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:59:05.61ID:7/Y09tcf0
です。つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌きざし始めたのです。
 Kの話が一通り済んだ時、私は何ともいう事ができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白を
したものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたの
0883山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:59:21.72ID:7/Y09tcf0
ではありません。ただ何事もいえなかったのです。またいう気にもならなかったのです。
 午食ひるめしの時、Kと私は向い合せに席を占めました。下女げじょに給仕をしてもらって、私はいつ
にない不味まずい飯めしを済ませました。二人は食事中もほとんど口を利ききませんでした。奥さんとお
0885山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 19:59:53.64ID:7/Y09tcf0
「二人は各自めいめいの室へやに引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かな事は朝と同じでし
た。私わたくしも凝じっと考え込んでいました。
0886山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:00:09.62ID:7/Y09tcf0
 私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が後おくれてし
まったという気も起りました。なぜ先刻さっきKの言葉を遮さえぎって、こっちから逆襲しなかったのか
、そこが非常な手落てぬかりのように見えて来ました。せめてKの後あとに続いて、自分は自分の思う通
0887山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:00:25.62ID:7/Y09tcf0
りをその場で話してしまったら、まだ好かったろうにとも考えました。Kの自白に一段落が付いた今とな
って、こっちからまた同じ事を切り出すのは、どう思案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝つ方法
を知らなかったのです。私の頭は悔恨に揺ゆられてぐらぐらしました。
0888山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:00:41.64ID:7/Y09tcf0
 私はKが再び仕切しきりの襖ふすまを開あけて向うから突進してきてくれれば好いいと思いました。私
にいわせれば、先刻はまるで不意撃ふいうちに会ったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかっ
たのです。私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心したごころを持っていました。それで
0889山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:00:57.65ID:7/Y09tcf0
時々眼を上げて、襖を眺ながめました。しかしその襖はいつまで経たっても開あきません。そうしてKは
永久に静かなのです。
 その内うち私の頭は段々この静かさに掻かき乱されるようになって来ました。Kは今襖の向うで何を考
0890山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:01:13.63ID:7/Y09tcf0
えているだろうと思うと、それが気になって堪たまらないのです。不断もこんな風ふうにお互いが仕切一
枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を
忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりま
0891山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:01:29.67ID:7/Y09tcf0
せん。それでいて私はこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。一旦いったんいいそびれた
私は、また向うから働き掛けられる時機を待つより外ほかに仕方がなかったのです。
 しまいに私は凝じっとしておられなくなりました。無理に凝としていれば、Kの部屋へ飛び込みたくな
0892山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:01:45.76ID:7/Y09tcf0
るのです。私は仕方なしに立って縁側へ出ました。そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄瓶て
つびんの湯を湯呑ゆのみに注ついで一杯呑みました。それから玄関へ出ました。私はわざとKの室を回避
するようにして、こんな風に自分を往来の真中に見出みいだしたのです。私には無論どこへ行くという的
0893山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:02:01.66ID:7/Y09tcf0
あてもありません。ただ凝じっとしていられないだけでした。それで方角も何も構わずに、正月の町を、
むやみに歩き廻まわったのです。私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。私もKを
振ふるい落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼そしゃくしながら
0894山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:02:17.69ID:7/Y09tcf0
うろついていたのです。
 私には第一に彼が解かいしがたい男のように見えました。どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか
、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募つのって来たのか、そうして平生の彼は
0895山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:02:33.68ID:7/Y09tcf0
どこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。私は彼の強い事を知っていま
した。また彼の真面目まじめな事を知っていました。私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼に
ついて聞かなければならない多くをもっていると信じました。同時にこれからさき彼を相手にするのが変
0896山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:02:49.69ID:7/Y09tcf0
に気味が悪かったのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室に凝じっと坐すわっている彼の容貌
ようぼうを始終眼の前に描えがき出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底できないの
だという声がどこかで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は
0897山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:03:05.70ID:7/Y09tcf0
永久彼に祟たたられたのではなかろうかという気さえしました。
 私が疲れて宅うちへ帰った時、彼の室は依然として人気ひとけのないように静かでした。
0899山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:03:37.80ID:7/Y09tcf0
ら、がらがらいう厭いやな響ひびきがかなりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました

 私が夕飯ゆうめしに呼び出されたのは、それから三十分ばかり経たった後あとの事でしたが、まだ奥さ
0900山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:03:53.71ID:7/Y09tcf0
んとお嬢さんの晴着はれぎが脱ぎ棄すてられたまま、次の室を乱雑に彩いろどっていました。二人は遅く
なると私たちに済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。しか
し奥さんの親切はKと私とに取ってほとんど無効も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しが
0901山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:04:09.70ID:7/Y09tcf0
る人のように、素気そっけない挨拶あいさつばかりしていました。Kは私よりもなお寡言かげんでした。
たまに親子連おやこづれで外出した女二人の気分が、また平生へいぜいよりは勝すぐれて晴れやかだった
ので、我々の態度はなおの事眼に付きます。奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。私は少し心持が
0902山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:04:25.70ID:7/Y09tcf0
悪いと答えました。実際私は心持が悪かったのです。すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました
。Kは私のように心持が悪いとは答えません。ただ口が利ききたくないからだといいました。お嬢さんは
なぜ口が利きたくないのかと追窮ついきゅうしました。私はその時ふと重たい瞼まぶたを上げてKの顔を
0903山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:04:41.72ID:7/Y09tcf0
見ました。私にはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。Kの唇は例のように少し顫ふる
えていました。それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。お嬢さ
んは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。Kの顔は心持薄赤くなりまし
0904山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:04:57.72ID:7/Y09tcf0
た。
 その晩私はいつもより早く床とこへ入りました。私が食事の時気分が悪いといったのを気にして、奥さ
んは十時頃蕎麦湯そばゆを持って来てくれました。しかし私の室へやはもう真暗まっくらでした。奥さん
0905山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:05:13.72ID:7/Y09tcf0
はおやおやといって、仕切りの襖ふすまを細目に開けました。洋燈ランプの光がKの机から斜ななめにぼ
んやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きていたものとみえます。奥さんは枕元まくらもとに坐っ
て、大方おおかた風邪かぜを引いたのだろうから身体からだを暖あっためるがいいといって、湯呑ゆのみ
0906山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:05:29.72ID:7/Y09tcf0
を顔の傍そばへ突き付けるのです。私はやむをえず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みま
した。
 私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。無論一つ問題をぐるぐる廻転かいてんさせるだけで、外
0907山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:05:45.73ID:7/Y09tcf0
ほかに何の効力もなかったのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私
は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたので
す。私はまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶あいさつがありました。何を
0908山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:06:01.75ID:7/Y09tcf0
しているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。その代り五、六分経ったと思う頃
に、押入おしいれをがらりと開けて、床とこを延べる音が手に取るように聞こえました。私はもう何時な
んじかとまた尋ねました。Kは一時二十分だと答えました。やがて洋燈ランプをふっと吹き消す音がして
0909山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:06:17.85ID:7/Y09tcf0
、家中うちじゅうが真暗なうちに、しんと静まりました。
 しかし私の眼はその暗いなかでいよいよ冴さえて来るばかりです。私はまた半ば無意識な状態で、おい
とKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は今朝けさ彼から聞いた事
0910山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:06:33.75ID:7/Y09tcf0
について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は
無論襖越ふすまごしにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と
考えたのです。ところがKは先刻さっきから二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直すなおな
0912山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:07:05.86ID:7/Y09tcf0
「Kの生返事なまへんじは翌日よくじつになっても、その翌日になっても、彼の態度によく現われていま
した。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気色けしきを決して見せませんでした。もっとも機
0913山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:07:21.76ID:7/Y09tcf0
会もなかったのです。奥さんとお嬢さんが揃そろって一日宅うちを空あけでもしなければ、二人はゆっく
り落ち付いて、そういう事を話し合う訳にも行かないのですから。私わたくしはそれをよく心得ていまし
た。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果始めは向うから来るのを待つつもりで、暗あ
0914山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:07:37.76ID:7/Y09tcf0
んに用意をしていた私が、折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。
 同時に私は黙って家うちのものの様子を観察して見ました。しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振そ
ぶりにも、別に平生へいぜいと変った点はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動
0915山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:07:53.80ID:7/Y09tcf0
にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、肝心かんじんの本人にも
、またその監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのは慥たしかでした。そう考えた時私は少し安心し
ました。それで無理に機会を拵こしらえて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるもの
0916山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:08:09.77ID:7/Y09tcf0
を取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事
にしました。
 こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、潮しおの満干みちひと同じよう
0917山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:08:25.79ID:7/Y09tcf0
に、色々の高低たかびくがあったのです。私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加
えました。奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだ
ろうかと疑うたがってもみました。そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように
0918山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:08:41.82ID:7/Y09tcf0
、明瞭めいりょうに偽いつわりなく、盤上ばんじょうの数字を指し得うるものだろうかと考えました。要
するに私は同じ事をこうも取り、ああも取りした揚句あげく、漸ようやくここに落ち付いたものと思って
下さい。更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのか
0919山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:08:57.78ID:7/Y09tcf0
も知れません。
 その内うち学校がまた始まりました。私たちは時間の同じ日には連れ立って宅うちを出ます。都合がよ
ければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。外部から見たKと私は、何にも前と違ったところがない
0920山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:09:13.82ID:7/Y09tcf0
ように親しくなったのです。けれども腹の中では、各自てんでんに各自てんでんの事を勝手に考えていた
に違いありません。ある日私は突然往来でKに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、この間の自白が私
だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。私のこれから取
0921山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:09:29.80ID:7/Y09tcf0
るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で極きめなければならないと、私は思ったのです。すると
彼は外ほかの人にはまだ誰だれにも打ち明けていないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだった
ので、内心嬉うれしがりました。私はKの私より横着なのをよく知っていました。彼の度胸にも敵かなわ
0922山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:09:45.93ID:7/Y09tcf0
ないという自覚があったのです。けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。学資の事で養家ようか
を三年も欺あざむいていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。私
はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹
0923山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:10:01.81ID:7/Y09tcf0
の中で否定する気は起りようがなかったのです。
 私はまた彼に向って、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか
、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。しかるに彼はそこになる
0924山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:10:17.81ID:7/Y09tcf0
と、何にも答えません。黙って下を向いて歩き出します。私は彼に隠かくし立てをしてくれるな、すべて
思った通りを話してくれと頼みました。彼は何も私に隠す必要はないと判然はっきり断言しました。しか
し私の知ろうとする点には、一言いちごんの返事も与えないのです。私も往来だからわざわざ立ち留まっ
0926山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:10:49.84ID:7/Y09tcf0
「ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けな
がら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと引ひっ繰くり返して見ていました。私は担任教師から専攻の学
0927山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:11:05.93ID:7/Y09tcf0
科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか
見付からないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分
に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声
0928山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:11:21.97ID:7/Y09tcf0
で私の名を呼ぶものがあります。私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を
机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近付けました。ご承知の通り図書館では他ほかの人の邪魔
になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの所作しょさは誰でもやる普通の事な
0929山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:11:37.84ID:7/Y09tcf0
のですが、私はその時に限って、一種変な心持がしました。
 Kは低い声で勉強かと聞きました。私はちょっと調べものがあるのだと答えました。それでもKはまだ
その顔を私から放しません。同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。私は少し待ってい
0930山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:11:53.85ID:7/Y09tcf0
ればしてもいいと答えました。彼は待っているといったまま、すぐ私の前の空席に腰をおろしました。す
ると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。何だかKの胸に一物いちもつがあって、談判でもし
に来られたように思われて仕方がないのです。私はやむをえず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうと
0931山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:12:09.96ID:7/Y09tcf0
しました。Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返す
と共に、Kと図書館を出ました。
 二人は別に行く所もなかったので、竜岡町たつおかちょうから池いけの端はたへ出て、上野うえのの公
0932山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:12:25.86ID:7/Y09tcf0
園の中へ入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。前後の様子を綜合そ
うごうして考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引ひっ張ぱり出だしたらしいのです。けれども
彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。彼は私に向って、ただ漠然と、ど
0933山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:12:41.86ID:7/Y09tcf0
う思うというのです。どう思うというのは、そうした恋愛の淵ふちに陥おちいった彼を、どんな眼で私が
眺ながめるかという質問なのです。一言いちごんでいうと、彼は現在の自分について、私の批判を求めた
いようなのです。そこに私は彼の平生へいぜいと異なる点を確かに認める事ができたと思いました。たび
0934山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:12:57.97ID:7/Y09tcf0
たび繰り返すようですが、彼の天性は他ひとの思わくを憚はばかるほど弱くでき上ってはいなかったので
す。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。養家ようか事件
でその特色を強く胸の裏うちに彫ほり付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の
0935山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:13:13.87ID:7/Y09tcf0
結果なのです。
 私がKに向って、この際何なんで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然しょう
ぜんとした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。そうして迷っているから自
0936山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:13:29.89ID:7/Y09tcf0
分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外ほかに仕方がないといいました
。私は隙すかさず迷うという意味を聞き糺ただしました。彼は進んでいいか退しりぞいていいか、それに
迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きま
0937山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:13:45.91ID:7/Y09tcf0
した。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。彼はただ苦しいといっただけでした。実際彼の表
情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどん
なに彼に都合のいい返事を、その渇かわき切った顔の上に慈雨じうの如く注そそいでやったか分りません
0940山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:14:33.89ID:7/Y09tcf0
身体からだ、すべて私という名の付くものを五分ぶの隙間すきまもないように用意して、Kに向ったので
す。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼
自身の手から、彼の保管している要塞ようさいの地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺なが
0941山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:14:49.90ID:7/Y09tcf0
める事ができたも同じでした。
 Kが理想と現実の間に彷徨ほうこうしてふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ひとうちで彼を
倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚きょに付け込んだのです。
0942山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:15:05.90ID:7/Y09tcf0
私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。無論策略からですが、その態度に相応するく
らいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽こっけいだの羞恥しゅうちだのを感ずる余裕はあり
ませんでした。私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿ばかだ」といい放ちました。これは二人で房
0943山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:15:21.95ID:7/Y09tcf0
州ぼうしゅうを旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、彼と同じよう
な口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐ふくしゅうではありません。私は復讐以上に残
酷な意味をもっていたという事を自白します。私はその一言いちごんでKの前に横たわる恋の行手ゆくて
0944山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:15:37.89ID:7/Y09tcf0
を塞ふさごうとしたのです。
 Kは真宗寺しんしゅうでらに生れた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨しゅう
しに近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは
0945山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:15:53.91ID:7/Y09tcf0
承知していますが、私はただ男女なんにょに関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔か
ら精進しょうじんという言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲きんよくという意味も籠こもって
いるのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれ
0946山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:16:09.92ID:7/Y09tcf0
ているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なので
すから、摂欲せつよくや禁欲きんよくは無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害さまたげになる
のです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その頃ころか
0947山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:16:25.93ID:7/Y09tcf0
らお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると
、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑ぶべつの方が余計に現われていまし
た。
0948山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:16:41.93ID:7/Y09tcf0
 こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという
言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角せ
っかく積み上げた過去を蹴散けちらしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行
0949山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:16:57.95ID:7/Y09tcf0
かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活
の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でし
た。
0951山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:17:30.07ID:7/Y09tcf0
「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」
 Kはぴたりとそこへ立ち留どまったまま動きません。彼は地面の上を見詰めています。私は思わずぎょ
っとしました。私にはKがその刹那せつなに居直いなおり強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれに
0952山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:17:45.95ID:7/Y09tcf0
しては彼の声がいかにも力に乏しいという事に気が付きました。私は彼の眼遣めづかいを参考にしたかっ
たのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、徐々そろそろとまた歩き出しました。
0954山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:18:17.97ID:7/Y09tcf0
は待ち伏せといった方がまだ適当かも知れません。その時の私はたといKを騙だまし打ちにしても構わな
いくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はありますから、もし誰か私の傍そばへ来て
、お前は卑怯ひきょうだと一言ひとこと私語ささやいてくれるものがあったなら、私はその瞬間に、はっ
0955山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:18:33.96ID:7/Y09tcf0
と我に立ち帰ったかも知れません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょ
う。ただKは私を窘たしなめるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったので
す。目のくらんだ私は、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用し
0956山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:18:49.97ID:7/Y09tcf0
て彼を打ち倒そうとしたのです。
 Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。すると
Kも留まりました。私はその時やっとKの眼を真向まむきに見る事ができたのです。Kは私より背せいの
0957山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:19:06.09ID:7/Y09tcf0
高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。私はそうした態度で、狼お
おかみのごとき心を罪のない羊に向けたのです。
「もうその話は止やめよう」と彼がいいました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました
0958山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:19:21.98ID:7/Y09tcf0
。私はちょっと挨拶あいさつができなかったのです。するとKは、「止やめてくれ」と今度は頼むように
いい直しました。私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。狼おおかみが隙すきを見て羊の咽喉笛
のどぶえへ食くらい付くように。
0959山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:19:37.99ID:7/Y09tcf0
「止やめてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし
君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだ
けの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
0960山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:19:54.01ID:7/Y09tcf0
 私がこういった時、背せいの高い彼は自然と私の前に萎縮いしゅくして小さくなるような感じがしまし
た。彼はいつも話す通り頗すこぶる強情ごうじょうな男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者で
したから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない質たちだったのです。
0961山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:20:10.00ID:7/Y09tcf0
私は彼の様子を見てようやく安心しました。すると彼は卒然そつぜん「覚悟?」と聞きました。そうして
私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」と付け加えました。彼の調子は独言ひ
とりごとのようでした。また夢の中の言葉のようでした。
0962山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:20:26.11ID:7/Y09tcf0
 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川こいしかわの宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな
日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋さびしいものでした。ことに霜に打たれて蒼
味あおみを失った杉の木立こだちの茶褐色ちゃかっしょくが、薄黒い空の中に、梢こずえを並べて聳そび
0963山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:20:42.12ID:7/Y09tcf0
えているのを振り返って見た時は、寒さが背中へ噛かじり付いたような心持がしました。我々は夕暮の本
郷台ほんごうだいを急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向うの岡おかへ上のぼるべく小石川の谷へ下りた
のです。私はその頃ころになって、ようやく外套がいとうの下に体たいの温味あたたかみを感じ出したぐ
0964山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:20:58.03ID:7/Y09tcf0
らいです。
 急いだためでもありましょうが、我々は帰り路みちにはほとんど口を聞きませんでした。宅うちへ帰っ
て食卓に向った時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。私はKに誘われて上野うえのへ行っ
0965山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:21:14.13ID:7/Y09tcf0
たと答えました。奥さんはこの寒いのにといって驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があった
のかと聞きたがります。私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。平生へいぜ
いから無口なKは、いつもよりなお黙っていました。奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、碌ろ
0966山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:21:30.03ID:7/Y09tcf0
くな挨拶あいさつはしませんでした。それから飯めしを呑のみ込むように掻かき込んで、私がまだ席を立
たないうちに、自分の室へやへ引き取りました。
0968山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:22:02.04ID:7/Y09tcf0
自分をさらりと投げ出して、一意いちいに新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠け
ていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊たっとい過去があったからです。彼はそ
のために今日こんにちまで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に
0969山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:22:18.06ID:7/Y09tcf0
向って猛進しないといって、決してその愛の生温なまぬるい事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾
烈しれつな感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼
に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留とどまって自分の過去を振り返らなければならなかった
0970山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:22:34.06ID:7/Y09tcf0
のです。そうすると過去が指し示す路みちを今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には
現代人のもたない強情ごうじょうと我慢がありました。私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いて
いたつもりなのです。
0971山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:22:50.21ID:7/Y09tcf0
 上野うえのから帰った晩は、私に取って比較的安静な夜よでした。私はKが室へやへ引き上げたあとを
追い懸けて、彼の机の傍そばに坐すわり込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向け
ました。彼は迷惑そうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意
0972山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:23:06.05ID:7/Y09tcf0
の響きがあったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳かざした後あと、自分の室に帰りました。外
ほかの事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に
対してもっていたのです。
0973山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:23:22.08ID:7/Y09tcf0
 私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間
の襖ふすまが二尺しゃくばかり開あいて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵よい
の通りまだ燈火あかりが点ついているのです。急に世界の変った私は、少しの間あいだ口を利きく事もで
0974山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:23:38.08ID:7/Y09tcf0
きずに、ぼうっとして、その光景を眺ながめていました。
 その時Kはもう寝たのかと聞きました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師か
げぼうしのようなKに向って、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、ただもう寝たか、ま
0975山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:23:54.06ID:7/Y09tcf0
だ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。Kは洋燈ランプの灯ひ
を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の声は不断よ
りもかえって落ち付いていたくらいでした。
0976山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:24:10.18ID:7/Y09tcf0
 Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇くらやみに帰りました。私はそ
の暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。私はそれぎり何も知りません。しかし翌朝よくあさ
になって、昨夕ゆうべの事を考えてみると、何だか不思議でした。私はことによると、すべてが夢ではな
0977山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:24:26.09ID:7/Y09tcf0
いかと思いました。それで飯めしを食う時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだと
いいます。なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に判然はっきりした返事もしません。調子の抜けた頃
になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。私は何だか変に感じました。
0978山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:24:42.14ID:7/Y09tcf0
 その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに宅うちを出
ました。今朝けさから昨夕の事が気に掛かかっている私は、途中でまたKを追窮ついきゅうしました。け
れどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。私はあの事件について何か話すつもりではなか
0979山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:24:58.11ID:7/Y09tcf0
ったのかと念を押してみました。Kはそうではないと強い調子でいい切りました。昨日きのう上野で「そ
の話はもう止やめよう」といったではないかと注意するごとくにも聞こえました。Kはそういう点に掛け
て鋭い自尊心をもった男なのです。ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想
0982山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:25:46.11ID:7/Y09tcf0
な訳も私にはちゃんと呑のみ込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫
つらまえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭のなかで何遍なんべんも
咀嚼そしゃくしているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら揺うごき始めるよう
0983山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:26:02.13ID:7/Y09tcf0
になりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべ
ての疑惑、煩悶はんもん、懊悩おうのう、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに畳たたみ込ん
でいるのではなかろうかと疑うたぐり始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺ながめ返してみ
0984山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:26:18.12ID:7/Y09tcf0
た私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう一返いっぺん彼の口にした覚悟の
内容を公平に見廻みまわしたらば、まだよかったかも知れません。悲しい事に私は片眼めっかちでした。
私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格
0985山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:26:34.13ID:7/Y09tcf0
が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図いちずに思い込んでしまったのです。
 私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起
しました。私はKより先に、しかもKの知らない間まに、事を運ばなくてはならないと覚悟を極きめまし
0986山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:26:50.12ID:7/Y09tcf0
た。私は黙って機会を覘ねらっていました。しかし二日経たっても三日経っても、私はそれを捕つらまえ
る事ができません。私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考え
たのです。しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといった風ふうの日ばかり続いて、どうしても「
0987山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:27:06.15ID:7/Y09tcf0
今だ」と思う好都合が出て来てくれないのです。私はいらいらしました。
 一週間の後のち私はとうとう堪え切れなくなって仮病けびょうを遣つかいました。奥さんからもお嬢さ
んからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事なまへんじをしただけで、十時頃ごろ
0988山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:27:22.15ID:7/Y09tcf0
まで蒲団ふとんを被かぶって寝ていました。私はKもお嬢さんもいなくなって、家の内なかがひっそり静
まった頃を見計みはからって寝床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。
食物たべものは枕元まくらもとへ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。
0989山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:27:38.14ID:7/Y09tcf0
身体からだに異状のない私は、とても寝る気にはなれません。顔を洗っていつもの通り茶の間で飯めしを
食いました。その時奥さんは長火鉢ながひばちの向側むこうがわから給仕をしてくれたのです。私は朝飯
あさめしとも午飯ひるめしとも片付かない茶椀ちゃわんを手に持ったまま、どんな風に問題を切り出した
0990山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:27:54.14ID:7/Y09tcf0
ものだろうかと、そればかりに屈托くったくしていたから、外観からは実際気分の好よくない病人らしく
見えただろうと思います。
 私は飯を終しまって烟草タバコを吹かし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢の傍そばを離れる
0991山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:28:10.19ID:7/Y09tcf0
訳にゆきません。下女げじょを呼んで膳ぜんを下げさせた上、鉄瓶てつびんに水を注さしたり、火鉢の縁
ふちを拭ふいたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました
。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。私は実は少し話したい
0992山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:28:26.15ID:7/Y09tcf0
事があるのだといいました。奥さんは何ですかといって、私の顔を見ました。奥さんの調子はまるで私の
気分にはいり込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。
 私は仕方なしに言葉の上で、好いい加減にうろつき廻まわった末、Kが近頃ちかごろ何かいいはしなか
0993山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:28:42.17ID:7/Y09tcf0
ったかと奥さんに聞いてみました。奥さんは思いも寄らないという風をして、「何を?」とまた反問して
来ました。そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」とかえって向うで聞くの
です。
0995山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:29:14.29ID:7/Y09tcf0
「Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ」といってしまった後で
、すぐ自分の嘘うそを快こころよからず感じました。仕方がないから、別段何も頼まれた覚えはないのだ
から、Kに関する用件ではないのだといい直しました。奥さんは「そうですか」といって、後あとを待っ
0996山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:29:30.17ID:7/Y09tcf0
ています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私に下
さい」といいました。奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでも少
時しばらく返事ができなかったものと見えて、黙って私の顔を眺ながめていました。一度いい出した私は
0997山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:29:46.19ID:7/Y09tcf0
、いくら顔を見られても、それに頓着とんじゃくなどはしていられません。「下さい、ぜひ下さい」とい
いました。「私の妻としてぜひ下さい」といいました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと
落ち付いていました。「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。私が「急に貰も
0998山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:30:02.22ID:7/Y09tcf0
らいたいのだ」とすぐ答えたら笑い出しました。そうして「よく考えたのですか」と念を押すのです。私
はいい出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。
 それからまだ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。男のように判然はきは
0999山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:30:18.20ID:7/Y09tcf0
きしたところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話のできる人でした。「宜
よござんす、差し上げましょう」といいました。「差し上げるなんて威張いばった口の利きける境遇では
ありません。どうぞ貰って下さい。ご存じの通り父親のない憐あわれな子です」と後あとでは向うから頼
1000山師さん (ワッチョイ cf94-pPum [153.177.14.178])垢版2017/05/17(水) 20:30:34.19ID:7/Y09tcf0
みました。
 話は簡単でかつ明瞭めいりょうに片付いてしまいました。最初からしまいまでにおそらく十五分とは掛
かからなかったでしょう。奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、後
10011001垢版Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
life time: 117日 8時間 12分 3秒
10021002垢版Over 1000Thread
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