■交通の要衝に
山から下ってきた高谷川の流れは水分(みわか)れ公園で分岐する。右の流れは由良川を経て日本海へ約70キロ、左の流れは加古川を経て瀬戸内海へ約70キロ。本州で最も低い中央分水界はさらに下流の石生(いそう)交差点付近にある。
北海道から九州まで約4500キロある中央分水界は標高3000メートル超の乗鞍岳など山岳地帯を多く通り、平たんな谷にある谷中(こくちゅう)分水界は珍しい。どうしてこんな地形ができたのか、兵庫県立人と自然の博物館(同県三田市)の加藤茂弘・主任研究員に尋ねた。
もともと近畿周辺はプレート運動によって東西方向に圧縮力が働き、山地と低地が交互に連なる「うねり構造」をしている。由良川と加古川の流域は低地帯にあたる。50万年ほど前は加古川水系が現在よりも北に広がっており、京都府の福知山盆地あたりに分水界があったようだ。
しかし、50万〜60万年前に六甲山地の隆起が激しくなり、氷上地域は相対的に低下して福知山盆地にかけて湖や湿地が広がった。福知山付近の湖が由良川のほうにあふれ、由良川水系が加古川水系の上流部を奪う「河川争奪」が10万〜15万年前に起きた。「戦国時代の下克上のようなことが河川同士でもあった」と加藤氏は説明する。
いまの地形になったのは高谷川の扇状地ができた1万〜1万5000年前以降と推定される。仮に地球温暖化などで海水面が100メートル上昇したら、由良川と加古川の流域は海峡となり、本州がこのラインで東西2つに分断されるという。
自然がつくった氷上回廊は旧石器時代から貴重な交通路だった。周辺の七日市遺跡からはナウマン象など大型の獣を解体したとみられる石器が出土している。古代山陰道は氷上を通り、奈良時代の条里制の跡も発掘されている。
交通の要衝だけに、戦国時代は明智光秀の丹波攻めなど戦乱の地にもなった。江戸時代の1710年には大坂の廻船(かいせん)問屋の岡村善八が氷上の峠道を拡張し、加古川と由良川の舟運を結ぶ輸送ルートの計画を幕府に願い出たものの、実現しなかった。丹波市文化財保護審議会委員の大木辰史さんは「丹後と播磨が最もつながりやすい地域として、両方の文化が流入した」と語る。
■生態系にも影響
独特の地形は生物にも影響を与えた。両水系の上流部の氾濫により、日本海側の河川にすむ「ヤマメ」と瀬戸内海側の「アマゴ」など魚類の混在が確認されている。同市教育委員会の菊川裕幸・教育普及専門員は「氷期と間氷期が繰り返した時代に、北方系のブナや南方系のヤマモモなどが回廊を越えて移動した。現在も混在する珍しい植生が見られる」と話す。
日本海側と瀬戸内海側の気候もこのあたりでぶつかり、秋から冬に「丹波霧」が発生する。丹波栗や黒大豆など特産品の生育に寄与しているともいわれる。
丹波市は水分れ公園の資料館を改修中で、2021年3月をめどに「氷上回廊水分れフィールドミュージアム」(仮称)として開館する予定。分水界や河川争奪といった地学分野から、往来・交流の歴史、独特の生態系や生物多様性まで幅広く学べる施設になる。
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