また、壁には「ムンミア “Mummia”」という女性名の落書きがあった。落書きは地面から4.5フィート(約1.39メートル)の高さにあり、まだ幼い少女が自分の名前を壁に書いたものだとみられる。また、当時、女性の名前は一族の姓の女性形を名付けることが一般的であったことから、古代ローマ時代の名族ムンミウス(Mummius)一族であった可能性が高い。
https://call-of-history.com/wp-content/uploads/2020/06/Civita-Giuliana-4-1200x803-1024x685.jpg
発掘プロジェクトを率いる考古学者マッシモ・オザンナ(Massimo Osanna)氏によれば「落書きは女性形のファーストネームで、地面からわずか1.39メートル(4.5フィート)しか離れていないため、小さな女の子が残したものだと思う。この非常に重要なローマの一族がローマに財産を持っていたことは知っていたが、ポンペイにも別荘を持っていたとは考えていなかった」と語っている(注3)。
ムンミウス一族で特に知られているのが紀元前二世紀頃に活躍した将軍ルキウス・ムンミウス(Lucius Mummius)である。前146年、反旗を翻したギリシア諸都市同盟「アカイア同盟」を討つため軍を率いてペロポネソス半島へ侵攻、コリントスの戦いで同盟軍を撃破してギリシアを征服し属州化した。この功績で彼はアカイクス(Achaicus)と呼ばれた。同じ年にカルタゴを滅ぼした将軍スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)と並んで、前142年、ケンソルに選出され国政をリードした。
ムンミアの名を持つムンミウス一族の女性で史料に名を遺すのが、ローマ皇帝セルウィウス・スルピキウス・ガルバ(在位68-69年)の母ムンミア・アカイカ(Mummia Achaica,注4)である。スエトニウス「ローマ皇帝伝」によれば、彼女はルキウス・ムンミウスの曾孫にあたるという(注5)。
チヴィタ・ジュリアーナは古代ポンペイ時代の城壁の北西約700メートルに位置する邸宅跡で、西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火で埋没していた。また噴火に先立つ地震で建物の一部が崩れていた。1907〜08年に住居跡が発見されて以降、違法なトンネルが掘られるなど盗掘が繰り返されて埋蔵物の散逸が見られていたが、これらの犯罪行為を抑止するため、2018年より地元のトッレ・アンヌンツィアータ検察庁と協力して発掘調査が行われ、同年、馬小屋や使用人の居住施設などを含む大規模な建物のほか、噴火で埋もれた馬の遺骸などが発見されていた
https://call-of-history.com/wp-content/uploads/2020/06/Civita-Giuliana-3-1200x788-1024x672.jpg
https://call-of-history.com/archives/23475