【8月13日 AFP】フィリピンの首都マニラの荒れた街角の宴会ホールで、アル・エンリケスさんはまるで脱皮するように、擦り切れた露天商の服を脱ぎ捨てた。次にまとったのは、紗のガウン。ブロンドのカールのかつらをかぶると、きらめく流行の最先端といった雰囲気が醸し出された。高齢の貧しいゲイたちのためのビューティーショー。出演者の中で、82歳のエンリケスさんはスターの1人だ。
だがこれは低俗なやじの飛ぶ観光客向けの女装ショーではない。彼のような同性愛者の男性たちの共同体が、自活していくために数十年間続けている取り組みの一環だ。彼らは自分たちを「ゴールデン・ゲイ(黄金のゲイ)」と称しているが、それは本当だ。
エンリケスさんはAFPの取材に「こうした装いをすると恍惚とした気分になり、自分の内側に悲しみなど何もないように感じる」と語る。「自分はゲイだし、ゲイであることを恥じていない」
フィリピンは同性愛に対してオープンだと言われているが、事情通によると法的な保護は不十分で、この国の脆弱(ぜいじゃく)な社会的セーフティネットは、特に高齢の同性愛者の役には立っていない。
そこでゴールデン・ゲイでは企業や個人のスポンサーを募り、ビューティーショーを月1回以上、開催している。そのスポンサー料で、メンバーたちはきちんとした昼食や数日分の食料品を入手する。グループの主催者であるラモン・ブサ氏(68)は「ショーは、われわれの感謝を表現する方法の一つなだけ」だと説明する。
■「母は怒った」
メンバー48人のうち大半は60代で、他の数百万人のフィリピン人と同様、1日5ドル(約560円)以下で暮らしている。普段のなりわいは皿洗いや街角での行商、街路の清掃などだが、午後になると現実の生活の扉は閉じられる。
ショーの前の舞台裏には、香水と昼食に出される揚げ物の匂いが立ち込める。男たちはドレスのすそを手繰り寄せ、手鏡をのぞいて入念に化粧をチェックする。使い古したスピーカーから鳴り響くひずんだ音楽とともにショーが始まると、出演者18人がジャズダンスを踊りながらステージを歩き、ポーズを決める。観客の中の友人やサポーターたちの膝の上に座る出演者もいる。
ショーを行っているのはここ数年だが、ゴールデン・ゲイのルーツはさらに深いところにある。
1970年代半ばにホームレスや貧しい高齢のゲイ男性が一夜を過ごせる家として、マニラ郊外にゴールデン・ゲイのホームが創設された。だが、ホームを創設し、所有者でもあった活動家でコラムニストのフスト・フスト(Justo Justo)氏が2012年に死去すると、遺族は数日のうちにゲイたちのグループを追い出しにかかった。だが、彼らは離散せずに踏ん張り、メンバーの多くが実生活では持っていない「家族」同士として残った。
ゴールデン・ゲイの古参メンバー、フェデリコ・ラマサミさん(60)は、自分がゲイであることを知った両親から拒絶されてマニラに向かい、二度と家には戻らなかった。「私は1950年代の終わりに生まれたから、家族観がとても重かった」とラマサミさん。「母親は私がゲイだと知って、とても、とても怒った。私は追い出された」
■「その日暮らし」
ゴールデン・ゲイがラマサミさんの家族となり、また実生活からの避難場所となった。仕事は皿洗いとして1日15時間のシフトで働き、日給約2ドル(約220円)の稼ぎだ。「でも気分はいい。特に今日みたいに、ゴールデン・ゲイの皆が集まった時は」とラマサミさんはショーの後で語った。
人類学者のマイケル・タン(Michael Tan)氏によると、先進国と比べて年金制度や医療制度などが脆弱なフィリピンでは、高齢者の暮らしは全般的に楽ではない。さらにゲイの男性の場合は、おいやめいを支援したり、養子を迎えている人が多いにもかかわらず、頼れる実子はおらず、立場がいっそう厳しい。
フィリピン人口1億500万人の多数を信者とするカトリック教会は現在も、この国の社会の一大勢力であり、同性愛者に対する差別反対法に抵抗している。
ゴールデン・ゲイのブサ氏は、自分たちは定住できる新たな家を必要としていて、できれば寛大な寄付者が支援してくれればと述べた。だが自分たちの家があってもなくても、ゴールデン・ゲイは生き続けるとブサ氏。「こうやって私たちは生きてきた。その日暮らしだが、気持ちを平静に保ち、生きる意欲を維持しなければならない」「それは実に困難だけれど、そうするしかない」
2018年8月13日 10:41 AFP
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