日蓮ってver.60
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
前スレ日蓮ってver.59
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1626100543/
「日蓮って」過去ログ
http://hyakkimaru.nukenin.jp/
創価学会の教義と日蓮仏法について、真面目に語るスレッドです。
創価学会擁護の論客もふるってご参加下さい。
コテハン推奨。sage推奨。「荒らし」は無視で。
スレが荒れる原因になりますので、暴言や挑発、嘲笑、語尾のwwwはNGです。
スレ違いの話題はほどほどにして下さい。
初心者の方も教義についての質問があればお気軽に書きこんでください。
「日蓮って」過去ログ
http://hyakkimaru.nukenin.jp/
創価学会の教義と日蓮仏法について、真面目に語るスレッドです。
創価学会擁護の論客もふるってご参加下さい。
コテハン推奨。sage推奨。「荒らし」は無視で。
スレが荒れる原因になりますので、暴言や挑発、嘲笑、語尾のwwwはNGです。
スレ違いの話題はほどほどにして下さい。
初心者の方も教義についての質問があればお気軽に書きこんでください。 釈迦の生誕は諸説あるが、大雑把に紀元前5世紀頃である。
釈迦の言葉は伝承され、パーリ経典・阿含経典に繋がった。
一方、大乗経典の登場は紀元前後。大乗経典は釈迦の時代からの伝承ではない。
当時は、釈迦の言葉は初期経典であり、大乗経典は創作同人だというのは常識であり、さすがの大乗も釈迦の時代からの伝承だというデマは捏造できなかったのだろう。
大乗経典は口伝伝承を前提としていないため暗記を容易にするような、単純な文を反復するという構成ではなく、その内容も哲学的なものも多く、明らかに文伝を前提とする文章構造になっている。文献学的観点からは文伝を前提としているのが大乗で、口伝を前提としているのが小乗である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
釈迦と繋がっているのは初期経典であり、大乗は釈迦には繋がっていないというのは学会、仏教界の常識であり、これに反対する現代の学者はいない。 日蓮自体が他の宗派に攻撃的だし、自分を釈迦の生まれ変わりと勘違いしたり、もうどうしようもない人でした。
法華経の要点である「自分を愛し、他人も愛し、世界を認める」 を実践出来なかったのが日蓮
日蓮は文鮮明や麻原彰晃みたいに半島系のDNAではないかと思います。
「南無妙法蓮華経」と題目を唱えたって無駄です法華経を読みましょう。 釈迦の教えでは、悪しき者、愚かな者は覚ることができず、救われない。また、覚りは個人の問題であり、他者に縋ることはできない。釈迦の教えは、理論的に正しい反面、厳しい教えでもある。
そこで、愚鈍な大衆向けに、誰でも簡単に救われる低俗・低脳な宗教をでっちあげた。それが大乗である。 >>6 KEYWORDが布施なのです。
佛法僧は仏教を構成する三大要素で一つとして欠かせません。
其れを維持する、維持させる為に一般大衆に布施を勧進し行わさせます。
その功徳を得て、施主は成仏への途が開きます。
創価学会が、「正宗寺の僧は偽物」とキャンペーンを打つ理由が上に示されます。
そんな創価は「会員全員が僧です」と持論を盛ってます。
其の真相は、信濃町に生える黒い茂みが黒々と隠し好く見えません。
とはいうモノの、幸福になった無名の者が勝利と言えるでしょう。 釈迦は神仏を崇拝しなかったのに、大乗は神仏を崇拝する。だから、大乗仏教の教義は釈迦の教えとは違う。
当時(初期)の仏教は無神教(むしんきょう)といったほうがよく、神の崇拝や釈尊仏陀自身を仏として崇拝することを許しませんでした。
弘法大師・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、仏教の中でも比較的中期から後期にかけて展開された「密教」であるといわれます。
https://www.koyasan.or.jp/shingonshu/ >>8 お釈迦様は、神仏を他者にみせるように崇拝しなかったかもしれませんが。
然し存在を認め、礼儀を以て接します。
梵天勧請,ムチャリンダ大龍神などの記録は無視できません。
畢竟、成仏とは生き乍ら肉身を保ち「神と同等の存在に化す」と云えましょう。
凡俗の目に見えぬ存在である霊的な神仏と「お仲間に成る」わけですから。
事改めて、今更に説く必要性は薄いのでしょう。
如何ですか?此れは空海の即身成仏とホントに似て居ませんか? 大乗の次の問題は、個人の問題である覚りと「一切衆生の救済」との連携である。
本来的には覚ったとしても、他者を救済することはできない。覚りは個人の欲望や執着から解放されることによって達成されるのだから、他者の救済とは無関係である。
釈迦が説いた慈悲は、正しい教えを伝えることであった。覚りへの正しい道を教えてあげることが、その人の覚りに繋がったのであり、釈迦の弟子達は自身の覚りに達していた。
ところが、愚民の救済を謳う大乗はそれでは足りなかった。そこで覚りを神秘的奇跡としてオカルトパワーの源にした。覚りは宇宙レベルの歳月が必要な巨大プロジェクトとなった。
さらに、ヒンズーから神仏を借りてきて、神仏のオカルトパワーを追加した。マントラを繰り返すことでオカルトパワーが生まれるとの教義もヒンズーの影響である。
つまり、神秘化された覚り+神格化した諸仏やヒンズーの神々によるオカルトパワーによって、「一切衆生の救済」が可能になるとした。
これは、神仏やアートマンなどのオカルトを排除した理性的教義を構築した釈迦の教えの対極にある。 現代の人間が
釈迦はどういう人だったか?を解明するのは不可能
残された文献でもどれが1番近いか?と言ってもだあれだけ詩篇的に表されている以上
著者の審美性が関与している事が読み取れる。つまり釈迦の言葉では無い。
それを踏まえた上で
どの経典にも共通する哲学がある。
「世界は存在しない」
ただコレだけが釈迦の言った事だと信じるしか無い。 >>4
>法華経の要点である「自分を愛し、他人も愛し、世界を認める」 を実践出来なかったのが日蓮
日蓮は仏法だけで無く
政治にも野心を持ってたからね
ここを見逃しては、真実の日蓮を見誤るかもね
日蓮「政治、政治、政治、政治、政治、、、、政治も仏法だろ?、、、違うか?、、、、」
これが日蓮 公正世界仮説に生きる人に私の母親が乳がんになった時
団体に入らないからそういう病気になるんだと直接言われました(実話)
彼らの救済というのはこれです >>13
日蓮に言われたの?
君のお母さんは鎌倉時代に亡くなったのか?
君は今いったい何歳なんだ? ゴーギャン・俺はフランスを去ってタヒチに行く
ゴッホ・日本じゃ無いのか?
ゴーギャン・タヒチだ
ゴッホ・君は日本へ行くべきだ!
ゴーギャン・日本が芸術的に素晴らしいと思っているのは君の方だ。なぜ他人に日本を勧めるんだ。僕は日本なんかに全く興味など無いのに >>14
団体名は言えません、2018年頃
私の母親は抗がん剤のおかげか回復して生きてます
年齢は20代ということで >>10 密乗の加持祈祷は神仏に祈り祈願をして
祈りを叶えようとする。
貴君の持論によるとお釈迦さんは救済の祈りを出来ない無能な宗教人。
というお姿になってしまうが、お釈迦さんがアレ程までにインドの宗教界を
席巻支配と言えば少し大げさだが、制圧した理由は祈願に応えた奇跡の人であった故と
私は思うのだ、人は故無くして布施を出さないし弟子にもならない。 >>17
日本で読めるだけの仏典(岩波文庫だけでもよい)を読むと
釈尊はオカルト全否定の人だよ
加持祈祷や功徳なんて全く問題にしていない哲学者として描かれている。
たとえ話方便は、例えば法華経の方便品の冒頭にある釈尊の挫折から生じた
嘘話として読む姿勢がないと、釈尊の哲学を読み取れないよ。
満月の夜、三才の幼女と月を眺める。
「ほら、お月さんにはウサギが餅をついてるんだよ」
もし幼女が知性的な女性に育てば
太陽の光は真実ゆえ直視出来ない、でも月は太陽の光を反射させて
優しい光によって私達に照らす。わかりやすい。
その優しい光も太陽の光で無いのと同時に、わかりやすい例え話にもなり得る。 大乗はまず、「一切衆生の救済」を前面に出した。信じる者、縋る者は救われると謳った。
しかし、この教義の問題は、現実の民衆の苦しみに対して、大乗の神仏は何もしてくれないということである。コロナや紛争で苦しむ民衆は大勢いるが、放置されたままである。
そこで、現世ではなく、浄土で救われるといったシステムも使用されるようになった。こうすれば、現世で民衆が救われない問題から逃げることができる。
これは、キリスト教からのパクリだろう。極楽浄土は天国だし、弥勒はメシアである。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto02.htm
もっとも、「一切衆生」を救うと謳う以上は、信者である必要もなくなるし、覚る必要もなくなるという問題は依然残っている。本来、覚りを目指していた釈迦の教えと乖離している。
つまり、土台である仏教と増改築部分で不整合が生じている。 >>18 岩波文庫が参考書であろうと、無かろうと
釈尊が実地に救済をする現場を見て弟子に成った人が多数。
この人は「真に仏陀であるとの実効と共通認識」を示した。
其れを見聞きし、其れなら俺も人生を賭けてみようと入門する
空手の大山倍達氏の荒業と実力を見、入門するのと同様じゃないですか。
お釈迦様の説く方法を実行してみようと、思わなければ当時の宗教界を
揺り動かすことは在り得ません。
成仏はオカルトですかね? >>19
>しかし、この教義の問題は、現実の民衆の苦しみに対して、大乗の神仏は何もしてくれないというこ
結局、自分を救うのは気づきと自発的実存の発動でしかない。
それへの気づきのヒントを与えるのが大乗仏教。
そのヒントである「月ではウサギが餅をついている」を
レトリック・修辞・たとえ話・方便として理解出来ず
ヒント自体が仏法だと思い込む人が多過ぎる。
だから様々な日本の宗教はスーパーナチュラルでオカルト的教条が形成され
順応主義者にしかなれない、知性の低い大多数によって
別物の大乗仏教が出来てしまう。 >>20
>この人は「真に仏陀であるとの実効と共通認識」を示した
それは、あなたが、そう思っているだけです。
占い師・あなたには優しい奥さんと2人のお子さんと郊外に住んでますね
相談者・いえ、、、わたしには3人の子供がいますけど?
占い師・それは、あなたが、そう思っているだけです。
(わからない人へ・これは托卵ジョークです。さあ誰が托卵仏法を振りまいたのでしょうか?) >>22 貴方が信ずる仏陀の無力さ、その程度の宗教では過酷なインドの風土では
名前が残りませんよ。 大乗仏教を理解する為に、精緻なる哲学が必要。
大乗仏教を大乗仏教という対象を視野に入れず、実質大乗仏教の本質を語った
マルクス・ガブリエルを仏教徒は読む必要がある。「なぜ世界は存在しないのか?」だけでも良い。
皆んなが思い込んでいる事は、「それは、あなたが、そう考えてるだけです」という
個々の事物とそれを認識するこべつの存在者が存在するだけだと精緻な論理でマルクスガブリエルは語る。
まず個々の事物に関して認識が生じるのは「個々の世界」という「場」を論理的に要請しようとする。
これはハイデッカーの言う所の「存在の地平」と同値率を結ぶものとも言える。
東京スカイツリーを見ている人が、そこ(見ている場所)が認識が生ずる「場」なだけであって
東京スカイツリーを、そこから見ているという事実・経験がある事が認識の根拠だ。
また想像上で東京スカイツリーを思い浮かべる人がいたとしても
かつて何か・何処か・で東京スカイツリーを見たという経験があるからこそ
東京スカイツリーを思い浮かべる事が出来るのだ。
また、カントの「純粋理性批判」で説いた先天性悟性概念を備えていなければ
東京スカイツリーは、どこからどう見ても、東京スカイツリーとしての知覚は生じる事は無い。
現在の(2021年の)天才哲学者マルクス・ガブリエル自身も
「私は認識論では無く、認識論以外の認識論なのだと思う」と発言する。
仏教徒や哲学徒が1番驚くのはココだ。
Blow by blow
彼は豊富な例を挙げて新実在論を説いた。そして
その豊富な事例はますます増え続ける。
過去の実存主義とは違い、21世紀の新実存主義は歩みを止めない。
何処かで止まってしまったら、それは「新実在論・新実存主義」では無くなるから。
21世紀の天才哲学者はスタティックな哲学に動きを与えた。(無限軌道)
これほど大乗仏教との親和性の高い哲学があるだろうか?
日本の西田幾多郎がカントやヘーゲルやベルクソンと禅宗との所説を勘案した。
しかし、西田幾多郎には走り続ける精神的体力・胆力は無かった。(続く) (続き)
東京スカイツリーを大乗仏教と置き換えて、マルクスガブリエルと法華経を読んで欲しい。
なぜ法華経の釈尊役の人は方便品で「挫折宣言」から始めなければならなかったのか?
これへの気づきが、大乗仏教への気づきと理解になる。 大乗仏教が日本の主流と云うのは認めるべきだ。
さてその祖師たちが夫々申されることに共通点が見られる。
「私の見出す此の教えは、釈尊と直に繋がって居ます」なのだ。
当然現代の我々は、明治以降の新資料を入手し、祖師方の主張を(日蓮もだよ)
検討する事になる。
彼らの主張が其れで善いのか、これからの未来に於いても在り得るのか、
斯くして俎上に上げられる。
話は少し飛ぶが、考慮すべき実例もある。
チベット仏教の形態である、この仏教は初期の仏教から大乗、金剛乗の歴史経過を
其の儘に最終段階の印度仏教を主流にして今も尚存する。
日本では如何だろうか?インドの歴史発展経過をほゞの様に無視し、インドでは昔に
棄てられた初期大乗仏教が主流になっている。
詰まり歴史から逆戻りし古代の遺跡が今なお利用されていると表現しても
然程誤りでもなかろう。
仏教史に関し、全く無知であろう鎌倉時代の祖師方をどのように扱うべきか。
人文学の今後の発展は不要と申されるなら、仏教の学術論文は無価値。 チベット仏教を一括りにするのは危険。
パドマサンババやツォンカパやドルジェタクなど様々なチベット仏教があり
それぞれが皆違う。 人や教団をベースに仏教をみると混乱する
それはその土地、その時代を知らなさすぎるせい
妙法蓮華経という哲学に触れて人々がどのように感じて
どのような行動をしてどんな社会を作ってきたかに刮目したい。
そして権力や戦争によっていとも簡単に善良なる社会は壊されてしまう。
同じ轍を踏まないためには何をなすべきか
日蓮は法華経の兵法をもちいよといってるね。 >>28
>日蓮は法華経の兵法をもちいよといってるね。
それがもし
日蓮の
意図的なメタファーやレトリックだったらどうする?
それを決定するアンダーライナーって法華経の何処に在るのかな?
人から、こういう風に聞いた。とか
勧められた本に、そう書いてあった。とか
もう、そういう自己欺瞞は止めよう。
自分を信じろ。 システムにちょっとした不都合があって、どうしたら良いか?と
コンピュータに強そうな20代に聞く。彼らは解決策が浮かばない。
それを横で見ていた60代の上司がエディター開いて16進でパッチコードを作る
あっさり解決。
これは何処の会社でも見かける風景だ。
ユニットはフラグメントでは無いし、クラスターもフラグメントでは無い。
人間はいつから、忘れてしまったのか? 仏法も同じく 何も考えがない君より、劣る人は居ない。
しかも条件付きで君は該当しないから心配無用
日蓮は「法華経の兵法」とはいかなるものかを説明してない
この文を見た人たちがそれぞれの立場で思慮深く考え行動する >>30
>それを横で見ていた60代の上司がエディター開いて16進でパッチコードを作る
>あっさり解決。
>これは何処の会社でも見かける風景だ。
今時、そんな事している会社なんか無いぞww
昭和50年代ではあったかもしれんがww >>27 このスレでそこ迄、詳細に
金剛各流派名を上げる必要性がない。
小生はこんな見解を持つが如何か?
チベットに直輸入された金剛派の供養法の成立は、インドの土着信仰である
バラモン僧侶と仏教僧は密接な交流があり、敵対関係ではなく極めて友好的でなければ
あのように煩雑極まる法会式次第は、習得できなかろう。つまりバラモン制作が先に在り
其れを仏教側が理論付けを行う手直しをして導入したとみるのだ。
これは法華経の陀羅尼品にも共通している。 >>31
>何も考えがない君より、劣る人は居ない。
もう、こう考える事が大乗仏教じゃ無いよね?
まるで、宗教団体同士が喧嘩してるみたいじゃ無いか? >>33
なるほど、了解しました。
私にはチベット仏教においての不思議なカウンター・リバースを感じます
ここは法華経のメタフォリカルなキャラクタリゼーションに似ているようで似ていないようで
以下のよう
1・ナーガールジュナとツォンカパで中観の解釈が違うのでは無いのか?
2・何故ダライ・ラマは来世「金髪おてんば娘」に生まれ変わるのか?
パンチェンラマと中国共産党を相手にしているとしても、何故(少なくともゲルク派は)それを受け入れてしまったのか? 平安時代の仏像と鎌倉時代の仏像では、何故あれだけ表情が違うのかな?
と前々から不思議だった。
色々なお寺さんを回って住職さんに、その事を聞いて回った。
誰も答えを持っていなかった。
私はそこに鎌倉新仏教のre・birth 感を感じる アルカイック・スマイルが消えたと言うよりも
何故、日本に入って来た仏達は「笑顔」を携えて来たのだろう?
鎌倉仏教では何故、笑顔を切り捨てたのだろう?
鎌倉以降の仏教にはメメントモリが無くなって無いんじゃ無いか?
どうもここに、今現存する日本の大乗仏教のコアがあるように感じる。 >>38は書き間違え
アルカイック・スマイルが消えたと言うよりも
何故、日本に入って来た仏達は「笑顔」を携えて来たのだろう?
鎌倉仏教では何故、笑顔を切り捨てたのだろう?
鎌倉以降の仏教には「メメントモリが無くなってしまったんじゃ無いか?」
どうもここに、今現存する日本の大乗仏教のコアがあるように感じる。 大乗仏教を考える時、大乗仏教と仏像発祥の地アフガニスタン・パキンスタンに
関して私達は知らな過ぎじゃないだろうか?
大乗仏教大ブームを巻き起こした訳だが、私達の親しみのある大乗仏教では無いのと同時に
それが本物の大乗仏教だった。大乗仏教が始まった地だから。
何故ガンダーラの仏像にはアレグザンダーやエルメスの仏像まであるのか?
何故クシャン人の神様も仏像になっているのか?
それらを全て含めて大乗仏教だと言う。
バーミヤンの洞窟に埋まっていた六波羅蜜(今の所最古の大乗仏典・リチャード・ソロモン)
このミクスチャー自体が、構造化では無く、ゲシュタルトを崩壊させ
消滅させ、空にしているのじゃ無いかな?
空と言うのは何も無いように見えて
何も無いものとして存在する。
どうしてもマルクス・ガブリエルになってしまうな ああ、アレグザンダーじゃ無くてアレキサンダー大王だね
アレグザンダーってNYの百貨店だw >>39
佛と共に微笑む、三毒を離れる人間になる為に空海は曼荼羅を持ち帰る。
嘘だと思うなら金剛界、胎蔵界を見てごらんなさい、憤怒相以外の
佛菩薩は皆さん笑顔をしていらっしゃる、見る此方も笑顔になる。
鎌倉以降は礼拝救済の対象に据えたって事ですよ。 >>6
出鱈目もいいとこ。大乗の発生はそんな単純な話ではない。日蓮の起業動機ならわかるが。
>>8
大乗が神仏を崇拝するとは妄言もいいとこ。逆に神仏が仏を崇拝讃美し守護している。 >>10
これまた出鱈目もいいとこ。オカルトパワーなどに頼ったなど貴殿の脳内にしかない妄想の類だ。
>>19
阿弥陀思想はそんな低俗な発想からはないよ。日蓮や創価の話ならわかるが。 >>26
大乗仏教が釈尊につながっているのは疑問の余地がない。そうでなければ仏教とはいえない。
日蓮教が仏教でないのはこの点からも明らかである。 >>46 そのつながり方を論じる意味は、現代に生きる
人間(貴方も私も皆含めて)幸福実現に仏教は寄与するのか?でしょう。
日蓮の思想はそのまんまで通用が在るべきか❓も当然入ります 四法印の一つに「一切皆苦」とありますが、ブッダはまずその苦についての真理を覚ったのだと言われます。
全ては苦しみであり、その原因は執着を持つこと。だから菩提を得て無執着の心境に達すれば滅諦の実性を悟る事が出来る。
それが四諦説法の核心だと思います。かき乱された心を平安な状態 即ち涅槃に近付けて行くには、まず執着を捨てよと。
欲望に動かされる利己的な志向性を内包する五蘊を
道諦の実践によって (五蘊を超えた)真我=ブッダの智慧が支配権を握り、五蘊を統御可能になった状態
を目指しているとも言い得るかもしれません(でも、あまりそういう表現は聞かれませんね) 初期経典が釈尊の原姿を伝えるものであるにせよ、釈尊の教説が必ずしもそれにとどまると考えることはできない。
しかしそれらを元にしてアビダルマといわれる詳細な教学体系が構築され、部派仏教は僧院における哲学論議に明け暮れる。
なかでも説一切有部の学派はもっとも精緻な理論体系を誇った。
しかしそもそも宗祖の釈尊はどうであったか?閉ざされた僧院にこもって観念的な修行に耽っていたか?そうではない。
入滅にいたるまで弟子たちとともにインド各地を遊行し、在家信者の供養を受けながら彼らのために法を説いたのではなかったか?
だとすれば釈尊の教えを奉ずる修行者は、まずその修行の功徳をあまねく民衆に及ぼすのでなければならないのではないか。
同時に説一切有部の「すべては存在する」という実念論に対し、「すべては空である」との般若思想がこの運動の理論的骨格を為した。
ここに菩薩が主役となる大乗運動が興った。つまり大乗仏教はこの意味で、釈尊の姿に帰り利他を実践せんとする修行者の運動だったのである。 >>49
>初期経典が釈尊の原姿を伝えるものであるにせよ、釈尊の教説が必ずしもそれにとどまると考えるこ
釈尊がどういう人だったのか?モデルは誰だったのか?は決して分からないけど
それを理解した上で、様々な仏典を読んでみなよ
様々なお経同士で必ずリテラル・ロジックの対立が存在するんだよ。
そこを見ようよ。
ここまでリテラシーに時間をかけている所で釈尊の真実の姿は完全にフィルターをかけられた。
誰かさんに教えて貰った釈尊は実はsnowだったりするかも知れない。
それでもお釈迦さんなんだよ。そのお経の中の役者としてのお釈迦さん。
部派仏教も初めから前情報を貰っちゃうから批判的に読む人や読まない人もいるけど
部派仏教のメタファーって強烈だぞw 読み物としては優れた作品だ。
もう、お釈迦さんがどういう人だったか?という話は無理で、学究達からして
様々な文化的、社会的、経済的時代背景を考察しても難解と言われている。
例えばお経の中でも腹抱えて笑うコメディ仏典の「維摩経」
あの維摩爺さんが釈尊の弟子やら菩薩やらを次々に論破して呵々大笑している。
読んでて痛快だ。そういう仏法なのだろうと楽しんで見たけど
これって説一切有部を批判する為のお経だと聞かされる。
ここで初めて、大乗の人の中にもテクスト論的・表層批判的ダメ人間がいて
そいつらも一緒に批判してたと最後に分かる。
こういうリテラシーの妙味を味わうのも、お経の重要な部分だよ。 >>50
貴兄の投稿はいつもやたらに冗長なだけで内容が皆無だ。毒にも薬にもならない。
したがって貴兄にいうことは何もない。 >>51
>貴兄の投稿はいつもやたらに冗長なだけで内容が皆無だ。毒にも薬にもならない。
>したがって貴兄にいうことは何もない。
それは貴方が「こう言って欲しい」と言う貴方自身の価値観と期待ハズレだったから?
ただ貴方は同調が欲しかったから?
修辞と文脈を解読出来ないと、仏典なんて読めませんよ。
ただ、貴方のような人の為に宗教団体が存在する事だけは否定しません。
人間というのは弱い者です。
それで良いのです。
同調・共感出来る仲間と一緒に居るのも決して悪くはありません。 「一切衆生の救済」という目的について大乗の論理は破綻してしまった。この点を整理しておこう。
紛争やコロナで苦しみ、死ぬ民衆がいるにも関わらず、神仏は実質的には放置したままである。
大乗の言い訳@
コロナのワクチンができたのは大乗あるいはその思想のお蔭。
←ワクチンを開発したのは欧米の製薬会社。他者へのいたわりはキリスト教にもあるし、宗教に関係なく道徳的美徳とされている。
慈悲自体、大乗がキリスト教からパクった疑いも強い。
大乗の言い訳A
来世で救済される。
←実証不能なオカルト。論理的回答ではない。
大乗の言い訳B
信者以外は救わない。
←一部の人間しか救わないのでは、「一切衆生」の救済のお題目に反する。慈悲が浅い。
大乗の言い訳C
救いとは病気や死から回避させることではなく、正しい教えを知らせることである。
←これ自体は正しいが、それは伝統仏教の教え。「一切衆生の救済」だの、「大乗」だの、偉そうに言ってたのは何?
以上のように、「慈悲」「一切衆生の救済」をキリスト教からパクって大乗の教義にしたものの、破綻している。
神仏には慈悲の心があるとしたため、神仏には人間を救う義務が生じ、神仏を人間の下僕に貶めることになった。 しかし、神仏は人間のために奉仕してはくれず、現実にはコロナや紛争で多くの民衆が死んでも、神仏は何もしてくれない。
なお、釈迦の教えでは、紛争や病気で死ぬのはこの世の理。
もちろん、戦争なんてする自分勝手な心は批判するし戦争反対。医療の向上だって支持するだろう。
しかし、根本的なところで、人がいずれ死ぬ。
したがって、釈迦の教えでは何の問題も生じない。 大乗仏教を、何か功徳が貰えるオカルト宗教だと思ってる人は多いとおもうぜ
本当のお釈迦さんの教えかどうかは、ともかく
現代人は仏教は、、、何と言うかなあ
「死の舞踏」とか「メメントモリ」とか「バルド」と真逆な方向を向いて
それを仏教と呼んでいるんだよな。
そういう人達はイングマール・ベルイマンの「第七の封印」も見ても観れない人なんだろうな。 印度で、仏教がほゞ消えたにも拘らず、仏陀釈尊とほぼ同時期に
現れた宗教のジャイナ教が存続している理由は何なのだろうか?
この宗教は僧侶、僧院、教典の三部がきちんと保持されている。
何処で大差が付いたか知りたいと思いませんか。
己は大乗仏教と自ら称する、我が国の教界も危うい可能性が無きにしも非ず。
大乗仏教経典とは、世間に出ては消え、出ては消えるを繰り返す流行歌みたいな様相であると
印度の歴史は教えます。 >>55
>現れた宗教のジャイナ教が存続している理由は何なのだろうか?
クシャン王朝時代からマトゥーラ周辺では今で言う創価学会経済圏みたいに
ジャイナ教経済圏が上層1パーセントの人達に支持されていて
カニシカ王の時代からご当地宗教を尊重しないと帝国は作れないって政策なんだから
ジャイナ教も大乗仏教に含まれたんだよ。
ガンダーラやバーミヤンと言った大乗仏教の発祥の地にはガンダーラ美術で
キリスト教・ハリストス教・ゾロアスター教・ギリシャ神話・仏教・ジャイナ教など
様々な宗教をクシャん王朝はミックスした。それが大乗仏教。
だけどこれ、日本の仏教の授業であまり時間かけないですっ飛ばすんだよな。
ここが1番大切なところなのにね。
有名だから知ってるだろうけど、釈尊とヘラクレスが一緒に座ってる仏像もあるぐらいだからw >>55
>大乗仏教経典とは、世間に出ては消え、出ては消えるを繰り返す流行歌みたいな様相であると
埋蔵経ね。
「時代がその仏法を必要とする時に発見される」と言うけどさ
それもレトリックじゃ無いか?
チベットの人達は埋蔵経のバルド・トドル(パドマサンババが書いた事になってる)
をありがたがって毎日ポアの修行をしてるらしいけど
あれをエヴァンス・ベンツがバザールで購入して研究して、どうもパドマサンババ説は否定的だったらしい。
でも作者がパドマサンババじゃ無くても、内容は面白い。
仏法とか仏典ってそういうものじゃ無いかな?
お釈迦さんの本当の言葉は?とか
パドマサンババの本当の言葉は?と考える事自体が、ちょっと本質からズレてると思いません?
仏教徒の前で輪を描いてはいけない。とか、キリスト教徒の前で魚の絵を描いてはいけない。
という時代じゃ無いんですからw 「大日如来(梵:マハーヴァイローチャナ)」は大乗仏教(密教)の尊格。
真言宗の本尊。
大乗仏教が発展していく中で古代インド神話やヴェーダ、漢字圏の陰陽思想を巻き込みつつ成立していった密教(秘密仏教)の最高位の仏である。
我が国には弘法大師により齎されたが、他ならぬ弘法大師自身が結縁灌頂を結んだ仏でもある。
古代の太陽神信仰を源流とするとされる尊格であり、仏法の示す“宇宙”その物であるとされる事から法身仏と呼ばれる。
このため、SF的に云えば太陽神どころか宇宙神と呼べる存在であり、思想的にはそれをも越えた概念であると云える。
華厳経の主であり、根源仏(※智慧の光により釈迦を生み出した仏)として考え出された(毘)盧遮那仏(奈良の大仏として有名)の概念を更に発展させた存在と考えられているが、
大日如来へと繋がる系譜は仏教の黎明期より存在しているとの説もある。 >>58
真言宗ではセックスしている大日如来の秘仏を、どう解釈しているんですか?
これが昔から気になっていました。
秘仏だから直接見た事はありませんけど、美術書で大乗・密教・ヒンドゥー美術として
写真としては見ています。更に女の子に人気のインド雑貨屋さんに行くと
かなり際どいミニチュア像が売ってますよね?(あれ、良いのかな?秘仏なのに)
一般的には大日如来(男性役)は対面座位で観自在菩薩(女性役)とセックスしています。
また他にも後背位や大日さんが観音様の片足を持ち上げた立ちバック対位とか
ガジュラホでは何と大日如来さんが4Pまでしてます。
仏像とはアイコニックな存在ですが、何のメタファーか?何の為のキャラクタリゼーションなのか?
調べてみると、出るわ出るわ、様々な多種多様な解釈が。
・セックスを終えた後の(いわゆる賢者タイム)静寂が仏法に入る入り口説
・セックスで生み出す天地創造説
・見てはいけない仏像を見たのだから功徳がある説(超越性無し)
・見てはいけない仏像を見たのだから祈念を辞めると人生破綻させる説(超越性無し)
・仏のセックスを見て対立二元論的な分別知を粉砕しろ!説(超越性有り)などなど、、、
この「超越性」というのはベンヤミンが言う所の「気散じ」からの私の主観。
それぞれの説に展延性は無いが「既成概念と獲得概念」や「マルチモーダル」を私は感じてしまう。
ブチギレた旦那が息子の首をはね、嫁に怒られて息子の首を探しに行くが見つけられず
代わりに像の顔を持ってきて「この顔で勘弁してくれよぉ」と嫁に謝る所からガネーシャは誕生したと言うが
それが大乗の仏になったり隠れキリシタンのデウス様(大日さま)になったり
衆生の需要予測に答えてくれる優しい汎用型仏なのかも知れない。大日様は。 >>59 私は坊さん身分じゃないですが、宗の方では無関係で終わりじゃないかな。 >>60
>私は坊さん身分じゃないですが、宗の方では無関係で終わりじゃないかな。
面白い話がありましてね。そのお寺さんに迷惑はかけたく無いので詳細は省きますが
地方のお寺さんに秘仏と半秘仏が祀られていて半秘仏は紹介状があれば拝観できるとの事で
行ってみたのですが、大日如来像が幾つかありその中にはガネーシャも大日如来として
二体の仏像が祀られていました。
さて、セックス秘仏なのですが大きな部屋があってクローズド。茶室の様なにじり口が付いています。
これは完全な秘仏で見る事は出来ません。
代々、住職になるまで拝す事は出来ない決まりだそうです。
その住職も、あまりにも恐れ多いので足だけしか見た事がない。と語っていました。
もう、この話自体が「牛の首」です。
そのお寺さんにおいてケツ持ち団体の様な
超常的な力を持つ形而上学的存在が何のメタファーなのか?レトリックなのか?
才人は、誰も射る事の無い的を射る。
天才は、誰にも見えない的を射る。 >>61 多分、聖天様でしょうね。
寺院繁栄を祈る住職が個人的に供養する事も有ります。
知人が浄土系の寺の本堂の隅に厨子を見、住職にその旨を確認して居ます。
この様になると、秘仏として拝むべきは一人のみになります。
今は如何か知りませんが、作法、口伝の儀軌解説書のあさば抄を見ると
双身ではない、珍しい単身の聖天様の解説図、文章が記載されてます。
日々のお祀りが極めて厳重になるそうです。
所定の供養式次第が流派に伝わっている可能性はこの辺が限度かも。
もう一つの可能性、双頭愛染明王ですがこの実作が、今もありますかねぇ。
日本の密教諸派では、性信仰の立川流は駆逐された様子で山伏系でわずかに残存している可能性が在る程度でしょう。
いわば絶滅したらしき、ニホンオオカミみたいな状況と思われます。
日蓮スレですから書きますが、彼の残した文字曼陀羅の梵字の種字は明らかに
真言立川流の影響が伺えます、其れこそ当時大流行の新宗教でした。 性の宗教というと、代表的に2つの説が推されていますね
・親鸞の六角堂の夢説
・性的快感性の宗教というと、代表的に2つの説が推されていますね
・親鸞の六角堂の夢説
・性的快感で悟りに導こう説
オウム信者の末端信者を、ほとんど洗脳解除した苫米地英人氏(国家公安委員会からの要請)
彼によると、オウム真理教の「修行」と言うのはクンダリーニを応用した物で
信者に性的快楽を与えて依存させる戦略だったそうです。(教団内ではセックス禁止だったので効果的だと)
当時の映像を覚えていますか?男性信者は坐禅でマントラを唱えていきなりピョンピョン飛ぶ映像。
それに反して女性信者は座ったまま脚を広げて前屈している映像がありましたよね?
あれって男性は前立腺を、女性はクリトリスに意識を持って行かせる為だそうです。
しかもマントラを唱え続けるので脳内動脈血中酸素飽和度が低下しハッピー脳になる。
首絞めオナニーと同じで、ドアノブで首をタオルで締めながらオナニーすると気持ち良いという
男がいて(日本では柔道部員がお風呂で亡くなった例や、有名人ではデヴィッド・キャラダインがそれで亡くなったと)
この快感を悟りに近づく行為だと洗脳されてたそうです
あのピョンピョン坐禅のまま飛んでいく信者は射精のリズムだそうです、そうとう強い快感だったと元信者が告白(苫米地英人の本によると)
オウムの話は、ここで一旦離れて、宗教には普遍的に何らかの変性意識・臨場空間を作り出すテクニックを持っています。去年VICE TVにてで悟りに導こう説
(続く) >>60
>私は坊さん身分じゃないですが、宗の方では無関係で終わりじゃないかな。
面白い話がありましてね。そのお寺さんに迷惑はかけたく無いので詳細は省きますが
地方のお寺さんに秘仏と半秘仏が祀られていて半秘仏は紹介状があれば拝観できるとの事で
行ってみたのですが、大日如来像が幾つかありその中にはガネーシャも大日如来として
二体の仏像が祀られていました。
さて、セックス秘仏なのですが大きな部屋があってクローズド。茶室の様なにじり口が付いています。
これは完全な秘仏で見る事は出来ません。
代々、住職になるまで拝す事は出来ない決まりだそうです。
その住職も、あまりにも恐れ多いので足だけしか見た事がない。と語っていました。
もう、この話自体が「牛の首」です。
そのお寺さんにおいてケツ持ち団体の様な
超常的な力を持つ形而上学的存在が何のメタファーなのか?レトリックなのか?
才人は、誰も射る事の無い的を射る。
天才は、誰にも見えない的を射る。 >>58
真言宗ではセックスしている大日如来の秘仏を、どう解釈しているんですか?
これが昔から気になっていました。
秘仏だから直接見た事はありませんけど、美術書で大乗・密教・ヒンドゥー美術として
写真としては見ています。更に女の子に人気のインド雑貨屋さんに行くと
かなり際どいミニチュア像が売ってますよね?(あれ、良いのかな?秘仏なのに)
一般的には大日如来(男性役)は対面座位で観自在菩薩(女性役)とセックスしています。
また他にも後背位や大日さんが観音様の片足を持ち上げた立ちバック対位とか
ガジュラホでは何と大日如来さんが4Pまでしてます。
仏像とはアイコニックな存在ですが、何のメタファーか?何の為のキャラクタリゼーションなのか?
調べてみると、出るわ出るわ、様々な多種多様な解釈が。
・セックスを終えた後の(いわゆる賢者タイム)静寂が仏法に入る入り口説
・セックスで生み出す天地創造説
・見てはいけない仏像を見たのだから功徳がある説(超越性無し)
・見てはいけない仏像を見たのだから祈念を辞めると人生破綻させる説(超越性無し)
・仏のセックスを見て対立二元論的な分別知を粉砕しろ!説(超越性有り)などなど、、、
この「超越性」というのはベンヤミンが言う所の「気散じ」からの私の主観。
それぞれの説に展延性は無いが「既成概念と獲得概念」や「マルチモーダル」を私は感じてしまう。
ブチギレた旦那が息子の首をはね、嫁に怒られて息子の首を探しに行くが見つけられず
代わりに像の顔を持ってきて「この顔で勘弁してくれよぉ」と嫁に謝る所からガネーシャは誕生したと言うが
それが大乗の仏になったり隠れキリシタンのデウス様(大日さま)になったり
衆生の需要予測に答えてくれる優しい汎用型仏なのかも知れない。大日様は。 何かNGワードか、どこぞの団体にとって都合の悪い話なのか?
わかりませんけど
「続き」を書き込み事が出来なくなりました。
ですので
「続き」はまた次の機会にでも。 今あらためて見てみると
私が書き込んだ>>63もセンテンスが削除されたり、同じ文章が2回繰り返されたり。
>>64 >>65においては私が以前書き込んだものを同じIDで書き込まれてるじゃ無いですか!
怖いですねえw このスレの創価信者は日蓮の話題を避けるために無意味な連投を繰り返している。 >>68
>このスレの創価信者は日蓮の話題を避けるために無意味な連投を繰り返している。
その「日蓮の話題」自体が下に脱するから、視野を広める為に、皆が色々と書き込んでるんだよ。
御書の解釈が違ってる!とか、こっちの方が正しい!となんのかんのやる人が出てくるだろ?
そう人達は「通過性の原理」と「権威の後ろ盾」によって、誰かから教えて貰った事を
「対立二元論的相対主義主張」と信じ込んでしまう。それで大乗仏教の平等思想・平和思想と真逆の行動を取ってしまう。
たとえば宗教団体なら団体で、指導的立場の人や末端のベテラン達の「私はコレだけ頑張ってます〜!」という頑張ってますアピールを行う事によって
その団体の理念と真逆なゲシュタルト崩壊を他の信者達に与えてしまい、本来の団体の
平和思想・平等思想が「喧嘩こそ正義だ!」という新左翼の暴力革命と捻じ曲げてしまう。
行動・思想・感情・情報のコントロールに毒されている仏教学習者がいれば
「生半可な」姿勢で「日蓮」語るよりも
仏教 ・ 大乗仏教 の原初からの生成過程の『現在においての』集合知を表す事が先立つ。
これは子供の家庭内での教育問題に含まれてるのと同じ。
・知性的な親は、様々な視座を子供に教えられる
・知性的で無いと自覚出来た親は、自分が知性的だと思う友人知人と話をして横で子供に聞かせるという教育を行う。
・無知性であるがソノ事にも気づかない親は、「世の中ってねコレが常識なんだよ!」と言うしか出来ない。そして子どもは社会に出る時、自分の親の知性の低さに失望する。
他の宗教団体の信者さん達と、御書の解釈の違いについて喧嘩をしたい人には
今のスレの流れは不満だとは思う。
でも、ここで一旦、仏教はどのように始まりどのように伝わったのか?の集合知が
現在、どの様な知見として普遍性を持っているのか、を学んで欲しい。
で、なければ
いつまでも修羅界の如く、「他者を言い負かす事」だけが唯一の楽しみとする
地獄の住民として生きていかなければならない。
反発や怒り感情を持ったまま生きていっても、どんどん仏教哲学から離れるし
それよりも、何よりも
自分の心が穏やかじゃ無いよね? それって幸せじゃ無いよね? >>70 南北朝の御所が二分した時代にも、宮中には真言院が付属している
殊更に言う事でもない。 修羅界の如くて創価や消臭の人なんじゃないの?
このスレで必死な人てあんまり見かけないよね 日蓮さんという人は、生い立ちが貧しくしばしば「センダラが子」と自称する。
センダラは印度の階級で下層階級カーストの意味とご存じだろう。
其れを咎めるべきでないにしても、日蓮氏にとり、不幸の元凶が実家の貧困にある。
彼が小僧になり、寺住まいをし乍ら、修学の機会を得られなかったのは貧の為だ。
同年齢の朋輩が、密乗の加行を習得し、阿闍梨灌頂迄、受けるのを見聞きし彼は寺を
出奔し私度僧になっているのだ。
加行から始まり阿闍梨の灌頂を受ける迄の諸費用は、現代なら米国ハーバード大学留学
に相当すると思えば間違いがない。
その社会的地位は、宮中に参内が叶う公家に匹敵する。
袈裟の下に着こむ衣装は、公家装束と言えば御分かりだろうか。
日蓮は己よりも才能、頭脳の劣る同輩の出世を身を切る思いで見たに違いあるまい。
次も在ります 智の見解では華厳経は釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。
「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。
華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている。
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。
これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
「六十華厳」の中で特に重要なのは、最も古層に属する「十地品」と「入法界品」の章とされている。 >>74
だから
それが
メタファーやレトリックだったら、どうするの?
様々な仏典を熟読すれば
そちらの方の可能性が高いと分かるはずだが?
文字の上部の字面だけ信じるの?
誰かが教えてくれた事だけを信じるの?
もし、そういう性格なら宗教団体に入信した方が良いですよ。
それで、心が救われる人もいるんですから。
私は、そのような自己偽満までも批判はいたしません。 何故、メタファーやレトリックで仏法を伝える必要があるのか?
天台宗の僧侶が脳科学的に面白い話をしてくれた。
重要なものを選び取る関数が自我。
自我が消えればスコトーマも消える。
すべてのスコトーマが消えている状態が悟りである。 >>74さんには
スコトーマ(心理学的・脳科学的・盲点)がある。
それは>>74さんに限らない。
これへの気づきを持たなければ、仏法は学べない。 私は古い映画を観るのが趣味。
ピアシネマブックや別冊映画秘宝、そしてアートシアター系で知り合ったおじ様から話を聞く。
皆「エマニエル夫人」シリーズを高く評価し、勧めてくれた。
全シリーズを見てみた。
クンダリーニから密教から大乗仏教に関する、素晴らしい宗教的テーマの映画だった。
さて
お正月に親族が集まって「エマニエル夫人」の素晴らしさを語った。
親族は全員こまった表情だった。
特に仲の良い叔母が言った
「エマニエル夫人ってエッチな映画でしょ?」
観れない人は観れない。
読めない人は読めない。
こう言う人の方が世間に多いのだと確信した。
仏典も同じく。 >>74 華厳経も法華経と同じく自画自賛、ホントに素晴らしいお経デス
宣伝臭たっぷり煮込みます〜との意見が有ります。
「一切衆生の救済」という目的について大乗の論理は破綻してしまった。この点を整理しておこう。
紛争やコロナで苦しみ、死ぬ民衆がいるにも関わらず、神仏は実質的には放置したままである。
大乗の言い訳@
コロナのワクチンができたのは大乗あるいはその思想のお蔭。
←ワクチンを開発したのは欧米の製薬会社。他者へのいたわりはキリスト教にもあるし、宗教に関係なく道徳的美徳とされている。
慈悲自体、大乗がキリスト教からパクった疑いも強い。
大乗の言い訳A
来世で救済される。
←実証不能なオカルト。論理的回答ではない。
大乗の言い訳B
信者以外は救わない。
←一部の人間しか救わないのでは、「一切衆生」の救済のお題目に反する。慈悲が浅い。
大乗の言い訳C
救いとは病気や死から回避させることではなく、正しい教えを知らせることである。
←これ自体は正しいが、それは伝統仏教の教え。「一切衆生の救済」だの、「大乗」だの、偉そうに言ってたのは何?
以上のように、「慈悲」「一切衆生の救済」をキリスト教からパクって大乗の教義にしたものの、破綻している。
神仏には慈悲の心があるとしたため、神仏には人間を救う義務が生じ、神仏を人間の下僕に貶めることになった。 しかし、神仏は人間のために奉仕してはくれず、現実にはコロナや紛争で多くの民衆が死んでも、神仏は何もしてくれない。
なお、釈迦の教えでは、紛争や病気で死ぬのはこの世の理。
もちろん、戦争なんてする自分勝手な心は批判するし戦争反対。医療の向上だって支持するだろう。
しかし、根本的なところで、人がいずれ死ぬ。
したがって、釈迦の教えでは何の問題も生じない。 大乗仏教について
詳しく学びたい人は
東京国立博物館へ行って
マトゥーラやガンダーラ、バーミヤンについて
様々な展示物を見て
東京国立博物館のキュレーター(学芸員さん)に尋ねれば
大変、丁寧に解説してくれる。
大変、丁寧に質問に受け答えしていただけます。
学芸員さんは、学術的専門教育をうけて
現在の
集合知
を示してくれます。
「わたしは、なんとな〜く、、そう思いま〜す♪」なんて無責任な事は言いません。
後学のためにもオススメします。 仏教を学ぶ上で
東京国立博物館の巡り方には順番があります。
東京国立博物館の東洋館(アジアン・ギャラリー)の
2階・3号室から始めて
次に1回の1号室を見ると
今、日本に伝わっている仏教の構造が見えやすいです。
ちょいと、アドバイスを。 もう1つ
アフガニスタンやパキスタンの仏教が日本に伝わる背景
(高校の世界史で習いましたよね?)
その流れと、思想史の流れを見てみれば
現在、日本に存在する仏法の全てがレーゼ・ドラマである事が分かる。
独り言・問わず語りでも、誰かに聞かれる事を目論んだレーゼは
レトリックがふんだんに盛り込まれるものだ。
「自分に近い、親しい人が『こう言った』と言ってたもん!」
それに権威を与えてしまう人間は、知性的では無い。
ただ、知性的では無い人間の存在自体は罪でも無いし、だれも批難してはいけない。
お互い、社会の中で尊重すべきだ。
「自分でそう思いいてるだけだよ!」という事は誰にでもある。それ自体は許される。
ただ他者に対して主張し(これさえも許される)
他者の心を何らかの形で乱す事は、許されざる行為である。unforgiving である.。
それは、仏法でする無い。
ただし
独善的仏法を個人または、特定の集団内で楽しむ自由は保証されている。 また、誤字、書き換え
文脈を分裂させ、センテンスを入れ替えがされている。
このスレで書き込みを操作する主体は一体誰なんだ?
宗教団体の金で活動する外郭団体か? >>53
そこでいう「大乗」は「日蓮教」に当てはまる。が、日蓮教はそもそも仏教ではないので無意味な命題になる。
>>55
仏教、とりわけ大乗化した仏教は本質的に、非和解的にカースト制とは相いれないからである。
しかし現在、インドでカースト制がビルトインされたヒンズー教から仏教に改宗する動きが強まっていることは知っておくべきだろう。 このスレで日蓮について新たに知ることは色々あった。
特に、以前週末によく書き込みをしていた人は日蓮遺文と日蓮教に詳しく、学ぶことが多かった。
史実のように言われる話、例えば、日蓮による立正安国論の提出や元寇の予言なども極めて疑わしいことが分かった。
他の書き込みでも、忍性との祈雨対決、由比ガ浜で斬首されそうなところを火の玉の出現で沙汰闇になった等々も同様。
さらには経典や論書の引用における捏造などなど。日蓮と日蓮教の実像に迫る指摘は説得力があり、興味深いものが多かった。
このスレでは日蓮と日蓮教について詳しい人にこそ日蓮を語ってもらいたい。 南無本因妙の教主・一身即三身・三身即一身・三世常恒の御利益・主師親三徳・大慈大悲・宗祖日蓮大聖人、御威光倍搆范傴u廣大御報恩感謝徳の御為に 南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境智冥合・久遠元初・自受用報身如来の御当體・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・獨一本門戒壇の大御本尊、御威光倍搆范傴u廣大御報恩感謝徳の御為に 埼玉県戸田市に伝わる伝説
日蓮大聖人様が佐渡流罪の道中、現在の戸田のあたりにさしかかった時、芋を作っている農家の前を通りかかりました。
芋をふかしているにおいがしたので、日蓮大聖人様は「どうか一つ芋をください」と農家の人に頼みました。
しかし農家の人は「おらの家の芋はみんな石芋だから食えねえよ」と言って芋を差し上げる事はしませんでした。
日蓮大聖人様が立ち去るのをみて、「へん、あんな落ちぶれた坊さんに、こんなうまい芋をやるもんか」と、
ふかしたての芋を口の中に入れた所、ガチガチと音がしました。
なんと、ほんとうに石の芋になっていたのです。
急いで畑の芋を掘ってみますと、ぜんぶ石芋になっていました。
それからは、畑でつくる芋はすべて石芋しかできませんでした。
同じ伝説が弘法大師にもありますが、こちらは後に弘法大師を祀った所、
石芋から芽が出て畑の作物がよく取れるようになったとの事です。
※日蓮大聖人は佐渡流罪の時、鎌倉街道を通ったと思われるので、戸田のあたりは通っていないのではないか? >>85
>インドでカースト制がビルトインされたヒンズー教から仏教に改宗する動きが強まっていることは知っておくべきだろう。
アウト・カーストね。
今はシェードラ以下の絶対付き合ってもいけない、話してもいけないアウトカーストの
人達がIT系からブレイクスルー状態が続いていて
カリフォルニア州に映画会社やピクサーとCG製作会社の幹部はほとんどインド人で
そのインド人が全員仏教徒に改宗してるんだよな。
これは先祖代々、差別されたカースト制から脱藩するのに1番救われるのが仏教だからだ。
スティーブ・ジョブズが禅宗に入信したのもアップル・ピクサー・ディズニー関係と
深く関わってた。と言うのが本当の話だそうだ。(MITとイェール大学にて) >>88
ぜーんぶ幼稚な言葉遊び
1億劫繰り返しても何の意味もない >>89
>※日蓮大聖人は佐渡流罪の時、鎌倉街道を通ったと思われるので、戸田のあたりは通っていないのでは
宗教の逸話は盛られたり、創作イマジネーションが生み出したものが多いんだよw
ナザレのイエスも、4福音書だけでも矛盾しているのに
福音書外伝(例えばマグダラのマリアによる福音書とかさ)
一体誰が調子ブッこいて感動ポルノ・涙のファシズムを書いたのかわからないw
それぐらい「神話というものは後世の人々によって命を吹き込まれる」(アルベール・カミュ)
宗教の話は、おおかたこの様な物なんだよ。
方便を仏法だと見間違えると、仏教哲学が見えにくくなるよw 義経は丹波街道から鵯越まで、各地に伝説が残る。その伝説が多過ぎる。
筒井康隆氏は短編小説「こちら一ノ谷」で
たった2日間で、全ての伝説の地を駆け抜ける義経一行の小説を書いた。
全てを回っていては予定日に鵯越にたどり着けない。
義経一行はトライアスロンの様に走りまくるw
最後に万策尽き果て、終了時間前に六甲山ロープウェイに馬と一緒にのり
目的を達するが、六甲山の義経看板に引っかかり義経は大激怒!
伝説というのは、こういう物だが、それでもソレを信じる人がいる。
神聖なる緑の大地、アメリカをでかい斧で街を作ったポール・バニアン(巨人のフォークロア)を
信じているアメリカ人って、今でもいるんだよw >>81
はい放下著
集合知なるものを神聖不可侵の御神体として保持するエセインテリの考えと仏教は両立しない 集合知というが、そんな如才の無い俗物と天才は相いれないものだろうな。 集合知って変化するものだよ。
集合知を批判するという行為そのものが、集合知を理解する知性がない事と同じだ。
例えば、1番分かりやすい例だと
昭和の人は鎌倉幕府の成立の年号の語呂合わせは
「いい国作ろう鎌倉幕府1192年」だった。
しかし、私たち平成育ちは
「いい箱作ろう鎌倉幕府 1185年」と公教育で習った。
この様な流れ・リレーションシップはそのまま「今・此処・主体」を表している。
集合知と言うのは、内容(議論・コンセンサス・エビデンス・ヒポシーシス等)
にはフレキシビリティが『確実に』存在する。
それが無ければ『集合知』ではない。
様々な意味での信仰は認めるが、学究たちが学術的に仮説を立てては潰され、また誰かの仮説の破綻を示したり
この様にして出来たのが『集合知』なのです。いいですか?
1番大切なのは『どこかの誰か、権威を持つ人が勝手に決めた事では無いという事』なんです。
普遍性を要する『性格の』議論から雑談に至るまでこの『集合知』を踏まずに自分の意見・感想は言えないのです。
この『集合知』までは自由は無くても、『集合知』を把握した段階から次の段階からは、自分の意見や感想を言える自由はあるのです。
誰か権威者と呼ばれる人への共依存が強い人ほど、これは見失いがちです。大学のシラバスの最初の方にそういう講義・単位ってありませんでした?理系の人は知らんけど 集合知の論題の非共有
「桐島、部活やめるってよ!」を見た人達
「桐島ってなんで何時も帽子被ってるの?」
「桐島って本当は金持ちだったんだぁ、実家は、、」
「桐島って何でアレだけ女にモテるの?」
占い師・あなたは美しい奥様と2人の可愛い子供と一緒に郊外で生活していますね?
おとこ・いや、、、私の子供は3人ですけど?
占い師・それは、あなたが、そう、思 っ て い る だ け で す ! 謎!! 私は宗教団体は批判はしない。けれども理解出来ないテーゼを目の当たりにした過去の客観的事実は持っている。これに関しては対立二元論が出る話では無い事を示す。
小学校の同窓生から電話があった。大抵こういう場合はマルチ商法や宗教の勧誘だと構えて会いに行った。
案の定、宗教の勧誘で大きな会館へ一緒に行こうと勧める。
元々おもしろい体験に飢え、ブログで体験を記述するのが好きな私だ。当然よろこんで付いて行った。
会館に着くと何十人もの信者さんが集まっていて、そこで彼らの行動を観察していると
高校生もいれば、幼児を連れてきた若いご婦人やら、圧倒的に多いのは高齢者だった。
私は観察を続けた、不思議な事を発見した会館内はもとより駐車場に置いても
彼らは挨拶や会釈を互いにしあってはいるが、ほとんど会話はしていないのである!!!
私はソノ事を彼に聞いた。恐らく「この信者さん達、風通し悪くねぇ?」みたいな事を言ったんだと思う。他にも色々言ったけど。
また組織の相関から、今ここにいる信者さんたち対する(会館の教学的)ステイトメントの責任編集者は誰なのか?とか何処の部署なのか?という質問もした。
すると小学校の同窓生(ほとんど友達でも無く顔と名前だけ覚えてる、友達では無くただの知り合い)
彼のスマホがバイブで震えている。彼は何かLINEでもチェックしていたのだろう?
おもむろに
「今日はもう、帰りましょう、、、」と退出を促した。
私はますます面白くなって来て、彼を家へ車で送って行く間中、様々な質問を車内で2人っきりの状態で
マシンガンのように質問を浴びせた。
ここで最大の驚き !!!!
彼は、何1つ返答は出来なかった。「何故?」と聞くと「それは組織の中で禁止されてるからだよ。内容は聞かないでくれ」
そういうと少し悲しそうな顔をした。彼にはアンパンマン好きの3歳の娘がいる。アンパンマンミュージアムのノベルティを「娘さんにあげてよ!喜んでくれるかな?」と私は彼に渡して別れた。
それ以降、彼は私に連絡を取らない。もともと、親しくも無いし、友人関係でも無い奴だった。
もしも彼が、私のかつての親友であったなら。私は彼と何時間でも何十時間でも話し合いをする覚悟だった。 >>96>>97
お前さんのくだらない能書きは要らない。勝手に自分のブログででもやれ。 >>99
>お前さんのくだらない能書きは要らない。勝手に自分のブログででもやれ
私の書き込みのコンセプションを、もう一度説明しましょう。
日蓮ー御書ー法華経ー大乗仏教
というリレーションシップから外れないようにかきこんでいます。
換言すれば、臭いの問題と同じです。
なぜ嗅覚が鋭い人と、鈍い人がいるのか?
ここで表層批判的に「その人、個人」について語るよりも
臭いを知覚する感覚器である、鼻と感覚受容器
その感覚受容器に存在する嗅覚上皮
その嗅覚上皮に存在する嗅覚細胞
その嗅覚細胞から情報を伝達するディスティネーションとしての嗅覚中枢
これらは全て「匂いの問題」に包括される事象なのです。
人間には、感覚的な「なんとな〜く」という好き嫌いの感覚があります。
それは否定しません。
でも、一旦システマチックに分析しようと思えば
ソレを避けて通る事は出来ません。
ただ、他者の意見が理解出来ない・好みでは無い
という自由は誰にでも持って良い自由の権利でもあります。
「自分の意思決定が、世界の意思決定である」という『自己欺瞞が無ければ』
ソレらは個人の感想としては、認めましょう。 日蓮て現在に置き換えると集団ストーカーの被害者だよな
ターゲットにされその苦難の荒波に揉まれながら闘っていたという像が妥当だろう
ま、孤高の戦士といったところか 日本で大乗仏教、鎌倉新仏教について語ると、中国の訳者や伝来の話になりがちだが
大乗仏教が生まれたアフガニスタン・パキスタンを学ぶと
日本で議論される大乗仏教とは全く別のヘレニズムが中心になっているのが分かる。
長阿含経第13と増一阿含経第22においてヤクシャとグヒャカの表現に矛盾がある。
たくさんのキャラクタリゼーションにおいて無数の存在が出現し
最終的には(ガンダーラやマトゥーラという大乗仏教の中心地においてだけ見れば)
執金剛神として集約された。
クシャーナ朝以前から
ローマ・ギリシャ・ヘレニズム(プトレマイオス朝が絶滅するまでの文化)の影響が既にあった文化圏で
大乗仏教は生まれた。という事は仏法を理解する上で、とても大切な事なんだよ。 >>101
>日蓮て現在に置き換えると集団ストーカーの被害者だよな
君は桐島君に会った事があるのか?
司馬遼太郎、山岡荘八、吉川英治を読んで
「私は織田信長も宮本武蔵も諸葛孔明の事なら何でもしっているんだよ!えっへっへー♪」
「だってわたしは司馬遼太郎、山岡荘八、吉川英治の本は全部読んだも〜ん♪」
と言えるのかな? >>103
それを言い出したら何も言えなくなるぞ
君こそ何を知っているんだい?
究極的には日蓮の書き残したものすべては日蓮の主観なんだよ 念の為ここでもう一度確認しておきます。
大日如来の名前にある「大日」という言葉は、「大いなる日輪」という意味です。
日輪とは太陽を指す言葉なので大日如来は太陽よりも偉大な存在であり、
宇宙そのものだと捉えられているのです。
釈迦如来、阿弥陀如来などの諸仏はもちろん、世界のすべてのものが、
大日如来から生まれたと考えられているのです。 >>104
>究極的には日蓮の書き残したものすべては日蓮の主観なんだよ
その日蓮が主観で書き残した遺文自体が
日蓮の主観で在る事は認めてるの。
ただ、その日蓮大聖人の主観を
1・表層的テクスト論として読んで、字面をそのまま信じてしまうか?
2・日蓮大聖人が使用したアナロジーを分析して、何を言おうとしていたのか?分析するのか?
この点において、人々は全く違う認識・認知心理を持ってしまう。
という、事を言いたいだけ。
別にモーゼが海を真っ二つに割ったり
ナザレのイエスが3日後に復活したと、信じたい人は信じて良いんだよ。 心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり >>107
>心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり
六波羅蜜に関する最も古く言及されてるのってバーミヤンの埋蔵経だよね
パラマウント映画のパラマウントは般若心経の波羅蜜多からとった社名だそうだけど
一方でラテン語説もあったりする。
クシャーナ朝のアフガニスタン・パキスタンから大乗仏教は始まってるから
バーミヤンやガンダーラでミングルされた造語かもしれない、との説もある。
色々な人の思いで現在の大乗仏教は成り立ってるって事だけは分かる。 変革者、刷新主張などは本部や本山からは出現せず、遠方の周辺地から
発せられるという原則が在り、108氏の記事はまさしくその様な資料にあたる。
その革新情報も、その数百年後はナーランダの佛教大学に吸収,消化された。
是も印度仏教史の動きである。 ナーランダーとバイシャーリーにおいて既に付け足し、書き足しが行われてる説もありますね。
色々読んでるうちに思ったのですが
これはストゥーパ信仰や法輪信仰の元の行動原理は何だったのか?
という所が、何か匂うんですよね。
とにかく仏教と言うのは釈尊が作ったのでは無く
皆んなで仏法を作ったのでしょう。 釈尊をアイコニックな偶像として拝んでしまうと仏教哲学的には間違い
なのは、分かるのですが
アフガニスタン・パキスタンは宗教のルツボで、多神教も一神教も仲良くやってたようですが
一神教の偶像崇拝禁止宗教にもカニシカの時代から寛容に受け入れた結果なのか?
それとも何らかの変遷があったのでしょうか?こういう不思議が面白いんですよね仏法って。
一般的に多くの人が尋ねてくるのが「お釈迦さんってアーリア系インド人なのに何故、仏教はアフガニスタンから生まれたの?」
高校の世界史・教科書では「バーミヤンは当時の西と東をつなぐ国際貿易都市だった」
というしか無いのかな?
親日の外国人が日本食で好きな物で必ずあげます
「カレーとラーメンとトンカツ!」
カリーと、ラウメンと、カットレットがそれらの起源なのか?わかりませんよね?
トリビアやクイズ番組などバラエティでは「真偽よりも作品が先!」となりますけどね。
何十人もの方々から、様々な宗教団体の勧誘を受けました。私はホイホイついて行きます。
社会学的視座と哲学的視座から、「何が飛び出してくるのだろう?」と観察するのが好きだからです。
ある某・宗教団体の複数の信者さんに囲まれて話をしました
彼らは言いました。簡潔な言葉に訳します。
「この信心の論拠や論証よりも、この信仰の理念が先なんです!」 釈迦の言葉を伝承したのは初期経典の中でも古いもの。残念ながら、その後の数世紀の間に、釈迦の言葉以外も追加されてしまった。
最古層の原始仏典として、『阿含経』※1の小部(クッダカ・ニカーヤ)の経典※2が注目されています。そこには、
『スッタニパータ』
『ダンマパダ』 (『法句経』)
『テーラガータ』
『テーリーガータ』
などがあり、また、
『サンユッタ・ニカーヤ』 (『阿含経』相応部)
『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』 (南伝 『大般涅槃経』)
も特に古い経典であるそうです。
https://www.kosaiji.org/Buddhism/early.htm 口伝承から文字起こしまでかなり時間が経っていて
西暦一世紀以上を遡る事は出来ない。とは中村元先生、大森老師、鈴木大拙さんも
強調していましたね。
大乗非仏説でもあり原始仏教非仏説でもありますね。
お釈迦さんが何を言ったのか?は正確には分からないと言うのが集合知ですが
多くの人達によって仏教という文化が継承された事自体を見つめたいですね。
人間は何をしたか?よりも
何の為にしたのか?の方が大切な事だと思います。 >>112 此処に挙げられる資料の殆どが岩波文庫に収録され、手軽に購入可能。
長老の告白テーラガータ、長老尼の告白テーリガータは、素朴に修行体験と
其の得たる果を語る記録。
一応、日本では中村元先生(東方学院)の岩波文庫版がリファンレンスになってますね。
法華経に関して現在50歳以上の高齢者の方々には岩本版で育ったという方々も多いでしょう。
若い世代だと法華経・石原慎太郎版を読まれた方も多いでしょう。
仏典を読む時には「伏せてる開く」というような
グノーシス主義的なハイパー・テクスト・エディター(お経を編纂した人達)
を意識して読むべきなのかも? テーリガーターに関しては岩波の中村元先生版よりも
角川の植木雅俊版の方が
『文脈を捉えやすい、補足、が付いている』ので
こちらの方が読みやすいという人もいるでしょう。
とにかく最初の一歩で何でも読み始めれば良いんですけどね。
それから私は、日蓮大聖人から法華経を広布する事を仰せつかっております。
皆さま、法華経も完読・熟読してくださいますよう、お願いします。 東京の街って都会もあれば明治時代みたいな住宅地もあって
散歩をするのが好きなんだけど
東京(23区)によく歌舞伎の目のシールがあちこちに貼られているいるでしょ(防犯用だと思うけど)
また歌舞伎隈取りシールかよ?と思ってみると、時々
スワヤンブナートのシールが貼られている所があってビックリする
お寺さんみたいな建物で無く、それこそ町の調剤薬局見たいなお店がスワヤンブナートの
寺院になってるんだけど、あれは何なんだろう?
興味があるから入っては見るんだけど金色の仏像が鎮座していて、カッマンズー(ネパール人)の
僧侶らしき人はいるんだけど、何を尋ねても教えてくれない。パンフレットを下さいと言っても
無視される。「出てけ!」とは言われないけど、日本語が喋れるのに何も語らない。
あれは一体何?カレー屋さんでは無いのは確か。
杉並区・中野区・新宿区・港区あたりに有るんだよな。 以前、テーラワーダのスマナサーラ長老の話を聞いたけど
彼は徹頭徹尾
「仏教は宗教や信仰では無い。ましてや信心でも無い!」
と、言い切ってました。
更に
「日本の仏教では禅宗が1番哲学に近いけれでも、それでも禅宗は、まだまだ語り過ぎなのです」と。
釈尊が難行苦行を行なっても全然悟れない。遂に「修行なんて意味ねえじゃん」と
釈尊の敗北宣言後に忽然として悟ったという話は、よく出来ている。
おそらく作り話なんだろうけどさ。いや、方便ですね。 俺は作り話じゃないと思うよ。
要約すれば、「努力している自分がいる限り、いくら頑張ったって悟れない」ということ。
何故ならば、自分なんてものはいないんだから。
自分なんてものは、肉体を自分と思い込むために生じる、肉体への同化が引き起こす自我という幻想。
悟りへの努力ってのは、言い換えれば頑張っている自我を維持するための努力となんらかわりない。
修行をやめるでも諦めるでもなんでもいいけど、それっていうのはサレンダー、あけ渡し、自己放棄。
自己放棄してあけわたしちゃえば、努力している自分は消え去る。
そうすればどこを探しても、自分はどこにもいない。
自分がいなければ、全てが自分。
このパラドックスに気づくことが悟り。
自分がいなくなれば、見るものと見られるものが同化する。
見る感じるなどの認知の本体は気づき。
それゆえに、自己が消え去った後に生じる気づきのみの状態に気づくようになる。
気づきに気づくとは、認知の最後方に下がること。
それは、気づかれるものと気づきの境界が消え去り、気づきのみになることを意味する。
この気づきそのものとなると、それは主体と客体の完全消滅に至り、対象を失うゆえに気づきも消え去る。
そして、あらゆる主客や気づきを生み出す無限性、つまり対象を持たない空、言い換えれば西田幾多郎が説くところの絶対無へと溶け込む。 >>119
>俺は作り話じゃないと思うよ。
そう。レトリックとしては作り話では無いよね。
でもそれを字面で信じたらダメだよw
♪僕は海。 君は月。
君は僕を引き寄せたり、突き放したり、、、(state of heart)
僕が本当に液体なのか?
君が本当にクレーターのある月なのか?
それから西田幾多郎の実在論とマルクスガブリエルの実在論の違いが
そのまま仏教の様な気がする。
Wheels are turning ! >>119
>そして、あらゆる主客や気づきを生み出す無限性
そこが人間には難しいんだよね。
仏法を学ぶ前に、哲学を概論だけでも学ぶ方が、仏法の本質的な理解が出来るのかもね。
ほら、教師は一旦社会に出て、社会人経験して大人にならないと子供を教育できない。と
批判する人がいるみたいにね。
数年前、ジル・ドゥルーズ生誕100年だったかな?
書店にドゥルーズ本がたくさん並んだ。
差異と反復やリゾームなどの解説本もあり、誤読指摘本も並んだ。
その中で異様な、異なる雰囲気の本があった。浅田彰のドゥルーズ本だ。
彼は過去のポストモダニズムを恣意的に(意図的と反対の意味の方)分断し
独特な論というか、もはや宗教と言わざるを得ない言葉の羅列を行なっていた。
彼には何かが欠けていると直感した。
それは公教育の教師に必要なソレと同じ物なのかもしれない。
仏教・仏法への理解を阻害するのは
実は宗教団体の存在なのかも知れない。
ただ「自己が無ければ、全てが自己!」
「天地ひた一枚になって三昧境で遊べ」
「鉄鈷。三台を舞う!」
伝わる人には伝わる。私にも伝わる。
でも、言葉にした途端に酸化が始まる。いっその事、維摩の様に黙るか?黙るより多くを語るか?多くを語って、何も語らない状態を目指すか?
「宇宙に存在する物は、物質以外も全てが生じた時から酸化していく」(カート・ボネガット) 仏教に近しい所から、仏教を学ぶ事は、実は出来ないのでは?
映画好きの人で、「シン・レッド・ライン」(カンヌ・パルムドール受賞)
を観るつもりの人にアドバイス。
あの映画はテレンス・マリック監督が(本職はMITの哲学科教授)
大般涅槃経をガダルカナル壊滅作戦で表した作品。
最初に出てくるワニと、最後に出て来る土は、重要な意味がある。
あの映画は全てが大般涅槃経になっている。
こういう所から入っていった方が、仏法の理解は容易なのかも知れない。 エドワード・コンツェが指摘した
「仏教は反知性主義を本質とする」
この言葉は、少し危険だ。
2つの解釈が出来てしまうからだ。
読者によって、意味が真逆になってしまう。
そして、仏教全般において、内在する「分からない奴は置いてくぞ〜!」
という自主独立性を促す仏教哲学を誤解させる
トラップにもなり得る。 アフガニスタン・パキスタン起源の話は別にして
ハイパー・テキスト・エディター(お経を書いた人達)の点から見てみると
中村元先生と中村恵学先生が言うように
人間には様々環境や人との出会い、事件との出会いというリレーションがあって
そこから生じる変調(何も無いところから何かが生まれてくる)関係性、リレーションシップ・縁起
が生じてしまう道理を理解して、楽に生きていける事を釈尊は語ったいたようだ。
仏教という特殊な信仰を作ったのは、釈尊では無く
後世のお経製作者だ!(ハイパー・テクスト・エディターだ!)
仏教宗教団体でも新左翼ブントでも、組織理念やイデオロギー自体を私は否定はしないが
上に書いたような核の理解がまず必要なのではないんじゃないか?
(中村元『ゴータマ・ブッダ─釈尊の生涯─』春秋社、1988 年版)
(前田恵学『原始佛教聖典の成立史研究』山喜房佛書林、1975 年版) 人間革命してキチガイになりました
現証でしょうか? >>126
こらこら、他人の信心をバカにするなよ。
創価学会も日蓮宗も日蓮正宗も立正佼成会も顕正会も
信者さん達は、それぞれ価値があると思うからこそ、それぞれの信心を持っているんだから。
だいたい、宗教団体を批判する姿勢自体が、既に仏教じゃない。 家族馬鹿にされてるので徹底的に馬鹿にします
仏教徒じゃないんで >>128
>仏教徒じゃないんで
宗教は関係無いのか?
他人の家庭の事だから、詳細も文脈も知らないとことわった上で。
民事で提訴までは自分で出来るだろ?
誰かが助けてくれるのを待っているのはダメ人間。
幸せを求めて頑張っているいる人間は、自分で行動するんだよ。
ただ、宗教団体に関してはスレ違いだ。
ここは大乗仏教から認識して、日蓮を理解するスレだ。
老婆心ながら市役所の市議会局へ行って、誰も良いから好みの市議会議員さんに相談できる
議員さんに名刺を切って貰ってから
市民相談室・法務省法務局人権対策の弁護士さんや
警察の生活安全課または警務課の市民相談室へ相談へ行く。
まず、記録を取ってもらう事。そしてコチラも録音と出来るところまで動画をとっておく事。
弁護士がもしも反訳書を作成する時の法的根拠として地裁は認めてくれる。
ここまで考えて、普通の社会人は行動するんだよ。
泣き寝入りしてブツブツ言ってる奴は、社会的視座と知性が無い事を自分で証明してるのと同じ。
もう二度と、このスレで愚痴を書き込むな。
誰かが、構ってくれるのを期待しているのか? >>131
もしも暴走する創価学会員に出会ったら(2020年代にも若干残っているらしい)
法律扶助制度の弁護士さん署名の上
信濃町・創価学会・第1庶務局へ内容証明郵便を送り
文末に「責任ある回答を望む」と書いとけば(あなたと弁護士連盟で)
その地区のお偉いさんが、該当学会員を指導してくれます。
よく録音テープや動画を週刊ダイヤモンドや東洋経済・週刊金曜日の編集部に送る人がいますが
いかに反創価学会系雑誌だとしても、ゲラ自体は創価学会にチェックされますし
逆に提訴されたりしてややこしいのでオススメしません。
金銭的損失や暴力などなら刑事事件として訴訟を起こせます。 仏法にはレトリックやメタフィクションが含まれるのは当然だが
龍樹が13歳の少女をレイプしては殺しまくってた
ロリコン連続殺人者だったという記述は一体何を示そうとしているのだろう?
やはり
ブレヒト的な「伏せてる閉じる」というドラマツルギーだろうか? 行動がおかしいしありゃ廃人だろもう治らんて無駄
なんのため生きてん? 信心家というあまり使われなくなった用語、
あの人は信心家だから云々とそっと評判したものだ。
信心と云う熟語は曖昧過ぎ、坊さんまでがお宅は信心が有るの足りないのと
言い出す始末で捉え処がない。お盆時期に仏壇に、佛華、お線香を用意してると
信心深いですねと大安売りするのが世間一般の風潮である。
信心なるこの熟語は、白浄信心という密教の見解が最も的中すると私は思う。
自身の胸底には、お釈迦様と何一つ変わらない白く浄い心が具わると信ずるを云う。
この説明が最も善いと思うが如何か、他人の信心と自分の信心を(ガタピシ)我他比此
するような見苦しさは一片の欠片も在りはしない。 真言宗の空海は東寺を与えられ大日如来が祀られているが(仏像)
降三世明王像が、大日如来の両親を踏み潰しているのは、どういう理由なのだ?
あの明王と言うのはゾロアスター教からの影響だと言われるけど
アフガニスタン・ギリシャ・ヘレニズムにおいて
あの様な表現方法が既に存在していたのかな?
美術書では一度も見た事無いけど、、、
東大寺のお水取りはゾロアスター教の神事の真似なんだけど
あのシバやウマーが踏みつぶされてるのが「パラドクスじゃね?」って、、w >>135
>信心と云う熟語は曖昧過ぎ、坊さんまでがお宅は信心が有るの足りないのと
宗教団体活動に生きがいを見出してる人達は批判はしないけど
認知心理学的また行動心理学的に
「信心!」 「信心を持ってます!」 という言質・文言と自分自身への宣言は
『全てでは無いけれども』
人間の「もう、これ以上努力しなくていいんだ!社会の中で戦わなくても良いんだ!」
という
『自分が努力しなくても良い、という自分にとって都合の良い理由』にしてしまう人もいると思うんだ。
これは、難しい。「幽霊と話が出来るし、他人には見えない幽霊が見えるんだ!」
と、語る覚醒剤中毒者や統合失調症患者に対しては、何を言っても無駄だし
逆に、何かを言う事自体が間違えなのかもしれない。
菊池寛の「屋上の狂人」のように周りに迷惑をかけないまま、屋根の上で観音様が飛んでいるのを
眺めている兄を許す弟・主人公の様に、そっとしておいてあげよう。 >>137 神仏への信心を強調する宗教の意見は、早晩消えるべきでしょう。
但し信という心構えは成功するためには大事です。
かの大谷選手が、此処はストライクを取る!と信じて一球に心を込めて投球する
彼は己の投じる条件を満たし、信じるからこそ出来るのです。
お金だってそうですね、通用すると信じるから無造作に会計時に支払う。
受け取り側も信じて受け取る。
似た様な場面があります、己の早起き自慢を含めアドバイスをしたがる人が居ます。
ゴルフなんか多いんじゃないですか?成程と聴いているうちは好いんですが、
質問をすると怒り出す「俺のいう事を嘘と思うか?」そんな人が居ますでしょ?
詰まり、彼の信条を疑ったらしいので怒り出した、誠に子供っぽい場面です。
そんな人に、ストレッチと柔軟体操を教えたら逃げられた経験が有ります。
其処迄も熱心に俺はやらなくても良いのだと理屈を並べたりしますね。
是も集合知の範囲ですか?トーゼン冗談ですけども 法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を 法華経のみを信ずる人は冬にあらず、春にあらず、夏にあらず、秋にあらず
法華経のみを信ずる人は仏教の春夏秋冬を終に知らず
いまだきかず法華経のみを信ずる人の如来・菩薩となる事を >>138
私が言っている「信」は
believeじゃ無くて
trustでも無くて
faith の事だよ。
日本語って難しいなw >>138 貴方の意味する信は、英語を翻訳したところ信仰ですね。
其れでは、信仰って何かの条件を満たすとその様に言えるか?と成ります。
日蓮信仰、稲荷信仰、阿弥陀信仰、キリスト侵攻、不動信仰、大日信仰、アッラーアクバル!
弘法大師信仰、観音信仰、現金信仰、日銀信仰、創価学会信仰は良いが寺はダメ!
勝手な信仰しやがってこの野郎!ロリコン信仰、白米信仰、天狗信仰、土俗信仰、先祖信仰とか何とか色々あり必ず信者が付いてます。
改めて言うと、「神仏に人が祈願をする、交流する其れを信仰と云う」となります。 143の投稿者ですがアンカーミス >>141に訂正 創価学会仏ってなんですのん?
ソーシャルこそ仏的な? >>142
>実際お前日本語苦手そうだよな
そう、日本語に慣れてる気でいるけど実は苦手
頭は英語で考えて、それを日本語に翻訳する作業を大人になってもしている。
帰国子女でも頭の良い人は日本語で考えられるんだけどね。
もしも、ここに合衆国生まれ、合衆国育ちの日本人がいたら教えて欲しんだけど
Floppy(発音・フローピー)に対応する日本語ってある?
これ帰国子女同士で話すと皆んな「この言葉の意味を適切に表す日本語って無いよね?」
という話題に必ずなる。
日本人はフロッピーディスクのフロッピーのイメージを持ってるんだけど
合衆国では、全然違う意味なんだよな。
ここに合衆国育ちの帰国子女はいないと思うけど、同じ感覚の人がいたら共感出来て嬉しいんだけどな。 >>143
>其れでは、信仰って何かの条件を満たすとその様に言えるか?と成ります。
FAITHって言うのは、理由も無く論証も無く、反知性主義的に信じる意味になるんだよ。
ただ、これもオックスフォードやウェブスターの辞書的な解釈だけどな。
一切の条件を無視して信じるという意味が近いかな?
デカルトもウィトゲンシュタインも
二元論の限界を示しながら、また言語という記号はゲームでしか無く思惟を構成する要素では無い!
と言ってた哲学者も、哲学の仕事とは別に
あれだけキリスト教福音派を否定してたのに
プライベートでは熱心な福音派教会の信者だった。という話と同じ。 >>143
>改めて言うと、「神仏に人が祈願をする、交流する其れを信仰と云う」となります。
あのキルケゴールでさえ
形而上学的な概念の存在論的・認識論的証明が不可な理由として
最後に言いました。
Take a Leap Of Faith
と。
そしてキルケゴールはキリスト教福音派の信者として死ぬまで行きました。
西洋哲学でも仏教哲学でも、問題点とソリューションは1つです。
コミットメント自体を、どう判断するのか?
そして、それは他者の言葉や信仰の押し付けを跳ね除けた
自我・es・超自我だけが答えを持っている。
という事です。 私の身近な1つの例です。
私は、この様なBBSやSNSや動画配信サイトで書き込んだり、動画配信をしています。
その私の言質・文言に対して、こう言う人が多いのです。
「こんな平日の昼間に書き込んでる奴だから、どうせ仕事してないんだろ?無職やニート・ヒキコモリだろwww」
こんな事を書き込む人が実に多いのですが
これを分析すると、このような発言をしている人は
「仕事」という概念は「労働所得を得る事」だけだと思っている訳です。
彼らの頭の中には「資産所得を得る仕事」という概念が無いのです。
これは、ある意味「知ってるか?知らないか?というタダの問題じゃないの?」
と、言う人もいますが、それ以上の重要な意味を持ています。
その「知らない!」という人の
出自・生育環境、教育環境、労働環境・社会人としての人間関係の貧弱さ
国内の経済や国際金融に関する情報のパブリックアクセス権の放棄をする性格
などを表している、(本人が気づかずに)意味を受け取れる(観察出来る)のです。 「日蓮仏教における祈りの構造と展開」
(国立国会図書館書誌ID・026094529/請求番号・HM183-L23)
の中のディーパンカラシュリージャニーナに関する部分は
(私は仏教哲学の学究では無いので、論評する資格は無いが)
日蓮においての、「あまり語られる事がない」シークエンスが含まれている。
もし日蓮に多大なる興味のある方は、一読を勧める。 カローシュティーから、なんちゃってサンスクリット、ブラフミーへと
記述言語の変遷が存在したのは確か。
でも、その流れの中に「失われた物」と「つけ加えられたら物」との存在証明は不可。
文IIIの仏教概論を指導してくれた恩師は
「欠損性、脆弱性、フラジャイル性、差別、スティグマ、喪失、境界をまたぐ第三者の介入
それこそが、仏や神を疑い続けてきた人間が、最後にたどり着いた行動原理として
それらは、個人個人によって、ひとりひとりのコミットメントとしての
思想様相を形作られた。その様なもう1つの世界(表に現れない裏の世界)となった事が
宗教が減衰しない理由だ」
と、語られていた。
多数の人間の共同幻想は、たまたま偶然に
「個人の独善的審美的価値観と同値である!」
という話だ。
低次元の話に例えると、宗教団体に属する熱心な信者は
それぞれが帰属社会規範・規約・団体会則とは別な視座を
無意識に持ち続け、他の信者との乖離を感じても
それに関しての論拠を求めないようにしている。という事だ。理由を考えてみよう。2つ。
1・自身の信条と、それへのコミットメントという構造が変性される危機を避けたい。
2・宗教団体という帰属意識の中で「余計な事・誤解される事」を言ってパージされる事を避ける為。 >>145
>創価学会仏ってなんですのん? ソーシャルこそ仏的な?
まあ、それに近い認識を持っても良いのだけれど、現在の創価学会は宗教だけの団体では無く
調べる限り創共協定の時代から岸さんとの勧告を、どう受けるか?
あの問題以降、創価学会は政治と経済に軸足をずらし始めた。
詳細は図書館で調べて欲しいけど、極端に言うと戦後の戦災孤児や戦争未亡人、集団就職と人身売買
労働問題、特に高度経済成長時代に日本最大の格差社会が出来て、そこで苦しむ人達の
1つの救済として創価学会は宗教団体として支持を集めた。のだけれども
時代は変わり日本国は稀に見る社会福祉国家になった。
次に創価学会が社会的包摂を行おうとすれば政治と経済のタクティクスにシフトせざるを得ない。
ここでだ
50年代60年代からの学会員さんの中には「創価学会はダメになった!池田先生の思想と違う!」
と不満を持つ人達が増えた。
先ほどの私の書き込みに対して「キルケゴールって英語喋れるんだ 知らなかったー」というレスの書き手の様に
話が出来る相手では無い人も信者さんの中にいる。特に池田氏のカリスマ性にインセプションされた
昭和学会員は「立ち止まる事」を望む。
創価学会が進化すること自体を望まない人達だ。その人達に人間の実存を如何に教えたら良いのか?
その戦術は難しい。相手が相手だけに「語るに堕ちる」という状況も幹部は危惧する。
今の所、まだ安全圏内の実存の教育は
「創価学会員ひとりひとりが仏なんです。その仏が集まった創価学会が創価学会仏なのです」と言うしか無かった。
これは仏教の「悉有仏性」に反していないパブリック・リレーションだ。
いずれ創価学会は
「仏と言うのは学会というマスでは無く、学会員ひとりひとりの実存を哲学する自主独立性なのです」
と言うようになるのでは無いだろうか?
現在は、書籍やネットでの言論人や学究のオピニオンに容易に仏教アクセシビリティが当たり前になっている。
言い方は悪いが、創価学会は(あくまで思想的な意味で。お金や時間の事は私には興味は無い)
昭和学会原理主義の高齢者の扱いに困っているのでは無いか? >>154
若悩乱者頭破七分って
それも仏典作劇上のメタファーとレトリックだけどね。
バラモン教では脅しの言葉。
仏教では無明が避けて悟れるという励ましの言葉。(祝福の言葉)
(中村元著・ブッダの言葉・岩波文庫1984年版)
梅原猛氏の「地獄の思想」にて、日本人は小さい時からバチが当たるとか、功徳があるとか
大人達の道徳を受けて育ってしまう。それが全てを二元論的に観る認知の不協和を
引き起こすと言ってたね。NHK放送ライブラリーでは
「何故、日本において仏教がオカルトになってしまったか?は、ここに原因があるんじゃないですか?」
と語っていたな。
法華経を読んだからと言って功徳とかご褒美とかオカルト取り引き契約も無いけど
法華経を読まなくても、軽んじても、罰が当たるという恐怖政治的全体主義も無い。
「じゃあ法華経は読む価値は無いの?」と問われても
「法華経を宗教的指導者以外の人について貰って読んで、そして興味が沸けば読めばいいだけ」
としか、答えようがないよね。
文学・哲学・映画・演劇に親しんでいた人が「法華経の構成力とアナロジーは凄ぇ!」
と、言っても、それはその人の教養や知識や知性に依存している個人的価値観。
ただね
メロンを初めて食べて「うわー!メロンってメロンソーダみたいな味がして美味しい!」
とか
BBQを初めて食べて「うわー!BBQってサッポロ・ポテトBBQ味みたいに美味しいねえ!」
という人達を見て
私は、彼らに本物のメロンとメロンソーダ。BBQとサッポロ・ポテトBBQ味を同時に食べさせてあげたい。
私はね。 「だって!フツーはそうでしょ?」というパートのババア。
ヴィッテンべルクの教会に
「95ヶ条の論題」
(正確には『贖宥の効力を明らかにするための討論』4年にて集合知が変わった)
を張り出し
カトリック教会の持つオカルト信仰を非難した。
カトリック教会のオカルト宗教を非難したルター自身の論題(旧名)自体が
オカルト的な文面が並ぶw
そして、更に、このルターの公開質問状自体がルターが書いたのか?
いつ、どこで張り出されたのか?決定的証拠は1つもない。
と、これもまたオカルト。宗教改革のオーパーツw
「集合的な知では無いが多くの学者は否定的で書簡説が有力」だとの事(深井智朗氏)
それでもパートのババアは
「だって!フツーはそうでしょ?」と言い続ける。
私達は、そういう方々を敵視してはいけない。近寄ってもいけない。
私達は、彼らを山の麓に残すべきなのだ。 最重要な所を間違えた訂正しとくよ
(正確には『贖宥の効力を明らかにするための討論』4年前の 2 0 1 7 年 にて集合知が変わった) なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし(中略)ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候 >>159 日蓮師自身が人に説く信心とは?
題目有れば大丈夫!と炊き付けて居ませんか?と思うような信心を薦める。
信心という熟語の持つ曖昧さ、曰く君の思う信心と日蓮さんの指示する信心は違う。
そのように寸法が好き勝手に伸び縮みする、得手勝手さを此の言葉から感じます。
悟りと信心、二つの言葉は曖昧さが満載され便利遣の結果、死語じゃないでしょうか。 >>160
森本達夫氏は鎌倉新仏教の根底にあるのは
バァガヴァト・ギーターの影響が見られると述べている。
特に法然・親鸞、日蓮においては。
仏や経に他力で頼って、自己自らが悟りを自力で獲得する事を放棄していると。
その理由は、知識や行為という煩瑣な手続きが、一般に浸透し難い事を
前にして、仏法を広める唯一の解決策だと。
これは大衆信仰の台頭という時代の流れに沿った方法論だと語っている。
しかし、これらはメタ的な視線が無ければ見えないし
メタ的視線を持たない人々に対する易行道だと言う。 >>161 題目、念仏が易行と評されるのは当然だが、
これなくして仏教と縁がない衆生が殆どを占める。
文字が在るのはほんの一部の特権者、そういう時代に生れた
信仰形態が今も尚、日本の仏教界で、我らが主流の位置と大きな顔をするが、
一般人の檀家の方が世間智に富み、坊さんこそ世間知らずと逆転している。
諸行無常の影は題目、念仏にも射して居まいか?永遠とは戯言の言い換えと知るべし 1年365日昼夜逆転w
あほな妄想でイライラ昨夜も眠れませんでしたww
あんた意味あんの?w >>162
現在の日本の仏教が善光寺と同じコンセプトを持っている、という事に関しては納得するけど
でも、善光寺さんはシッカリしたソリューションを示しているじゃん?
その、大方のコンセンサスを得られらだけのソリューションを示さない宗教が大方で
そのソリューションの存在証明不可の理由では無く
ソリューションを示さない事の理由を
独自の形而上学的概念に丸投げするよな。
そして、ソレを皆んなは「宗教」と呼ぶ。 以前、院からシステム言語系でメガバンクへ出向した。
社員はみな当然のように高学歴で、もともと地頭・地金が良いので話もスムーズで話しやすい。
1ヶ月ほど皆と過ごしたが面白い事件が起こった。
某家電量販店からリストラされて入行した人がいた。年齢は50代。
性格的に悪い人では無いように見受けられた。
ちょうど参院選の頃だろうか?銀行内で投票のお願い。だけで無く署名も求め始めた。
皆は紳士的に穏やかに、それぞれ程の良い言い回しで逃げ切れたのだが
えらいもんで、、、、経緯はちょっと面白いんだけど省略(コンプライアンス)
遂に「職場内での宗教の勧誘・選挙活動は禁止です」と勧告がでた。(1回目)
「労働契約書に記載された労働規範を遵守して下さい」(2回目)
「まだ宗教活動を行なっているようですが、本店総務部の方へお話し合いして下さい」(3回目)
彼は銀行を辞め、全国展開する家具店に転職した。
その時、彼が居酒屋で言った言葉が忘れられない。
「なぜ職場で宗教の話しをしてはいけないんだろう?信教の自由は認められてるのに!
ね?そう思いません?」
ずっと年下の私には「そうですねぇー」と、言うしか無かった。
もちろん私の本心とは違う。でも、もし私が本心で客観的な分析と抽出を口に出して仕舞えば
彼の内的世界が破壊されてしまうかもしれない。
彼は高齢者になるまで、ソレが正しい物だと信じて生きて来た。それが彼の精神のエネルギーだった。 菊池寛の「屋上の狂人」に出て来る知性的な弟の言う様に
今さら兄にオマエは精神病だ!と分からせたとしても、それは
兄にとってかえって良くない事になるとは思いませんか?
兄は私達に見えない者と語って、それで毎日笑顔で幸せそうに生きてるじゃないですか!
もし兄が真実を理解してしまったら、兄はもう幸せに生きてく事は出来なくなるかもしれない
今までの自分を否定せざるを得ない総括が始まったら、兄は少なくとも今より幸せでは無い。
宗教団体も信者さんの心を救う幾ばくかの社会的機能は持っている。
それを承服できない人もいるだろうけど、彼らには彼らの世界がある。屋根の上で天狗さんや金毘羅さんが踊ってても良いでは無いか?
避けられるものは、そういう人達を傷つけず避けて
宗教団体や信者さんを批判するのはやめましょうね。 >>165 職場で宗教の話、立場が違う人が語る内容に反論すると不幸が起きる。
早い話が、部長が朝礼で折伏をしちゃうと如何よ?ってことですよね。
此の部長が社長の息子だったりするともう大変でしょう。
逆らえない弱い立場の勤労者への抑圧、苛め、事業内容の指示に関わらない
事柄を部下に対して暗黙の裡に指令を発する。←ネチネチ言い募るバカ上司。
逆らう部下への勤務査定は点数をわざと上げ下げする可能性在り。
こんな事は社会常識ですよ、集合知かもな。
聖教新聞社の中で宗教活動やったらどうなるのだろう?十念の功徳を課長が
訓示で説くとかね。 >>167
それもこれも宗教団体や信者さんの問題と言うよりも
経営者や物申す株主の人間性・知性の問題だと思うよ。
大学で理論計算化学の教授が熱心な創価学会員だと公言してたけど
一度も折伏された事無いし、他者への折伏を見かけたり噂を聞いた事も無かった。
独立行政法人としての大学自治や評価が理由では無く
教授自身の信条だそうだ。
頭の良い人は、話が出来るんだよな。 「カモシカの様な脚は、グロテスクな足?」
日本では馴染みのある鳩摩羅什の法華経の中での
ディーバダッタ品 第十二の『漢語訳』
これと岩波版(サンスクリット語からの現代語と、漢語と書き下し文)を比較すると
変成男子のくだりで
シャーリープトラを始め仏弟子達の前で
少女が裸になりワレメからニョキニョキとペニスが生えて来る描写がある。
さて、これをグロテスクと見るか?
方便・メタファー・レトリックとして見るか? 精神病のアピールがやばい
ぶん殴ったら消えるかな
たかが精神病ごときになめられたもんだ 韓愈は仏教の社会的システムに来よるのか?いや、そうでは無いだろうと表文を提出。
陛下!仏教が単に後漢のとき以来、中国に浸透してきた夷狄の習慣の1つに過ぎない
という事実を申し上げます!
わが国には古来より、その様な信仰はありませんでした!
その当時は国中みな平和で、人々は満足し、幸せに暮らし、充実した日々を送っておりました。
その仏教の教えは、まだ中国に到着しておりませんでしたから
これは仏に使えたお陰ではありません!
(西暦819年・仏教国策事業に対する韓愈の批判文)
2つの論題が混ぜこぜになっている。
1・政治や行政のシステムに関するイデオロギー問題の主張。
2・何らかの形而上学的な権威よりも、ひとりひとりの自由意志による実存主義への重要さ。
「いまだにiPhone 6を使ってるの?」
「電話にネット、youtube、Twitterしか使ってないからこれで十分」
「でもiOSがアップしてアプリが使えなくなる日が来るかもよ?」
「それは、その日が来てから考えます」 >>170 そりゃ、法華経たらいうもんは、丸ごとおしゃかさんの金口やで
古い話やが、皆の視てる前でやな
娘さんの隠し処から、通天閣にも劣らん立派なホンマのおちんこ其の物
が生えて来たんやおまへんの?ワシャそないに思ってんのやな。 さあ、修行僧たちよ。私はいまお前たちに告げよう。もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい。久しからずして修行完成者は亡くなるだろう。これから三ヶ月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう(大パリニッバーナ経,第三章 51) つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない(スッタニパータ) 神々も人間も、ものを欲しがり執着に囚われている。
この執着を超えよ。
わずかの時をも空しく過ごすことなかれ
(スッタニパータ) >>175
その死や、死の王とは何をキャラクタライズしてるのかなあ?
同じスッタニパータ上で、弟子に死の事を尋ねられて
今、生きている実存だけが全てなのだから死については考えるな!と言っているし
頭破作七分も、煩悩の元になる無明を壊すという意味だから本当は良い事だよ。
バラモンに、そういう悪口を言われても気にするな!と弟子を慰めてるし(スッタニパータ)
スッタニパータって詩句という様式美で書かれているぶん
読み手にパラドキシカルな、かまし芸をパブリシティしてるんじゃ無いかと思う。
「第七の封印」のラストの死の舞踏を観た芸人と、なにオカルトの作り話をしてるのよ!と説諭する芸人の若い妻。
「市民ケーン」のザナドゥーから初めてラストの遺品焼却のソリの名「バラの蕾」
みたいな、また「タイタンの妖女」のラストの泥人形や
「鬼滅の刃」のラストのクレームの電話を受ける炭次郎のママと目の前の集合写真みたいに
恣意的分断で読んではいけない経典だと思うよ。
合衆国人や英国人の高齢者は何かというとマクベス第五幕のセリフを引用するけど
そういう人ほど、マクベスを完読・熟読・観劇していない。
法華経もスッタニパータもマハーパリニッバーナも
他者に対しては「完読・熟読」を勧めるようにした方が良い。
部分的な
フラグメントやクラスターの丁寧な説明は
聞き手を
丁寧に誤解させるかもしれない諸刃の剣。 >>173
>娘さんの隠し処から、通天閣にも劣らん立派なホンマのおちんこ其の物
鳩摩羅什は何故この部分をわざと訳さなかったのだろう?
姚興からのディレクションだったのか?
鳩摩羅什の信条からだろうか?
確かに少女のツルマンからデカマラが出てきた話を読めば
多くの人は
宗教的意味を考え始めるより先に
嫌悪感を持って、そこで法華経を閉じてしまうかもな。
マジョリティとは、そういうものだ。
いつも悪い事ばっかりやっている人が、ちょっと人に優しくすると
「あれ?この人ほんとうは善い人なんじゃないの?」とか
いつも優しい善人が、たまたま道徳に反する事をウッカリしてしまうと
「あれ?この人ほんとうは悪い人なんじゃないの?」と考えるバカが多いもんな。
大学の認知心理学の講義で大昔にあった「一杯のかけそば事件」の市井の人々のクレーム事件を例にしてもらった。 あと末法思想に関して誤解してる人が多いけど
中国の南北朝時代に何度も廃仏・仏教弾圧が行われた事から
仏教徒の士気を高める為の、中国初のレトリック。
アフガニスタン・パキスタン発祥の大乗仏教には元々そんな思想は無かった。
ここ、テストに出るからな。(山川出版社) オズって刑務所ドラマ面白い
製作者はオセローの引用を語ってるけど本当の所そこじゃないと思ってる 「パルプフィクション」(カンヌ映画祭パルムドール受賞)タランティーノ監督。
あの中でジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)が人を殺す前に言う。
お前は聖書を読んだ事があるか?エゼキエル書の25章17節だ!
正しき者の道は、悪しき者の不埒な偏見と暴虐によって行く手を阻まれる。
暗闇の谷に迷う弱き者を、愛と善意によって導く者に幸いあれ。
なぜならその者は、仲間の守り人であり、迷い子たちを救う者なり。
そして我は仲間たちを汚し破滅をもたらす汝らを、大いなる復讐心と激しい怒りをもって打ち倒すであろう。
そして復讐が遂げられしとき、汝らは我が名が主であることを知るであろう。
正しき者の道は、悪しき者の不埒な偏見と暴虐によって行く手を阻まれる。
暗闇の谷に迷う弱き者を、愛と善意によって導く者に幸いあれ。
なぜならその者は、仲間の守り人であり、迷い子たちを救う者なり。
そして我は仲間たちを汚し破滅をもたらす汝らを、大いなる復讐心と激しい怒りをもって打ち倒すであろう。
そして復讐が遂げられしとき、汝らは我が名が主であることを知るであろう。
多くの人が観た大ヒット映画だった。カトリック信者も当然観ている。
何も問題は無かった。様に見えたのだったが
日本の映画秘宝のウェイン町山とガース柳下がタランティーノ監督に直接聞いた。
「エゼキエル書の何処を探しても、そんな言葉は見つけられませんでした」
「思い出したらアレは影の軍団のソニー千葉(千葉真一)の決めゼリフじゃありませんか!」
タランティーノは監督は喜んで
「初めて、そのレトリックを理解してくれる人に出会えたよ!ヨシキ高橋にもよろしく言っといてくれ!」とタランティーノはご機嫌だったそうだ。
法華経の編纂者も遺文・往復書簡を書いた日蓮も
もしかしたら、レトリックに気づいて欲しかったのかも知れない。
多くの法華系日蓮系の信者はエゼキエル書説を信じ続け
信者以外の哲学的、史学的、文学的視座を持つ者しか
法華経も御書も読めないのかも知れない。
私が、たった1人だけで、法華経を読む事を勧めているのは
それが理由なんだ。 もういいわ『ば』の話なんか!(伊達みきお)
伝えられる所を信じれ『ば』。
なかなか悟れないアーナンダに、ヴェーサリーの町で語った。
アーナンダよ今も私の死後も他を頼りとせず
誰もが実存と哲学のみを拠り所としなければならない。
ヴェサリーは美しい。この世はなんと美しく
人間の命は何と甘美なものなのだろう。
アーナンダはそれでも悟れなかった。伝えるところを信じれ『ば』の話だが。
『ば』から離れて、この話の本質を理解出来る有名な作品がある。
ゲーテの「ファウスト」だ。
ファウスト博士の最後の言葉は何を示していたのか?
メフィストフェレスの最後の地団駄は何を示したいたのか?
仏教・仏法・仏典は、常に誰か天才的表現者によってアップデートされていく。
ベナレス・霊鷲山・サールナート・竹林精舎・祇園精舎・前正覚山・ナーランダー
ラージャグリハ・ヴィクラマシーラで
『誰』が『何の為』に『どのような方法論』で、マルチモーダル性を仏教にぶち込んだのか?
誰にも分からない。人によっては考古学や比較文献学や文化圏の構造主義的地政学でわかるんじゃない?
という人もいるが、それは違っている。なぜなら
分断されたフラグメントでゲシュタルトを積分は絶対出来ないからだ。
「ゴータミー」の話しは良く出来ている。死後の世界や功徳とか罰を完全に否定する。
このスレに集まる人々の今やるべき事は
犀の角のように『ただ1人で』法華経を読め。 伝えるところによれ『ば』
世界中に存在する仏舎利を集めると
お釈迦さん三人分の骨が集まるらしい。
でも仏舎利信仰は止まらない。
なぜなら
誰も仏舎利を、本当のお釈迦さんの骨だとは思っていなかったから。
骨が本物!ーーーー宗教の人
骨はアイコン!ーー人文系の人 >>185
>なんで日蓮については話したがらないの???
犀の角のように、ただひとり日蓮を理解する。事が1番大事。
なぜ、人間・日蓮を中心に据えた話をしないのか?簡単に説明しよう。
1番中立な状態から日蓮を理解し始めようとするなら、テクスト論的に
日蓮遺文を読む事が重要だが、ここに2つの問題が先行して存在する。
1・日蓮遺文は誰かに読まれる事を意識して日蓮が書いた意味では作品。
そこには当然、メタファー・アレゴリー・レトリック・アナロジー・トポロジーが介在してしまう。
子供を家庭で教育する時、純粋な原理では無く譬え話で皆んな子供を説諭するのと同じ。
この読めなさ。文字は存在するが不可知性も存在する。誰にも読めるが誰にも読めない文章。
文章の底にある(文章というアナロジーという服を剥ぎ取った)原理の読みにくさが生じている。
2・日蓮を学ぼうとすると既に存在している先導者・指導者のミスリーディングの問題。
良い悪いでは無いが、今の宗教のほとんどが電通のようなオーガナイズされたマネタイズシステム。
商業主義が介入しまくった現在の日本の宗教というパラダイムや『枠組み』の中での
学びの難しさ。というか、学びを阻害しようとする同調や、知ってもらっては困る!という圧力も存在する。
(続く) >>185
>なんで日蓮については話したがらないの???
(続き)
犀の角のように、ただひとり日蓮を理解する。事が1番大事。
この2点において、1番大切な事は「第三者の介入」を徹頭徹尾、自分の中に入れない事だ。
2・やたらとノイズを出して近寄って来る人を跳ね除け、1人で法華経を読む。
1・法華経を熟読出来る所まできたら、御書に示された日蓮のアナロジーやドラマツルギーの行動原理が見えて来る。法華系日蓮系的に言えば「文底秘沈」だ。
ここまで、の自主独立性とそれを行使できる元となる自由意志があって、ここまで達成出来れば
誰でも日蓮御書を誤解せず日蓮を理解する事が出来る。
これは、誰かが(特に私が)それぞれのチャプターやパラグラフを説明してもダメなんです。
1・それは私自身の自己言及のパラドクスになるから
2・人間は何らかの感情・情動を持ってしかコミュニケーションが出来ない存在なので
自分自身が、そこまで実行して自分で心の底から納得するしか、本物の理解なんて出来ないのです。
私は宗教団体を批判もしないし、御書の理解について宗教団体同士が喧嘩してても
私のランドスケープには全く入ってきません。そういう方々は、そういう方々として尊重はします。
それらは彼らなりの自由の権利の行使なのですから。 念の為、ここで再確認します。
大日如来の智慧の光は、全ての人々に平等に及んでいます。
これは「除闇遍明(じょあんへんみょう)」と言われています。
自分の心の中にある無明という暗をこの光で取り除いてくれるのです。 法華経を読むと言っても、何を読むか?最初の本との出会いは重要である。
行動心理学のハロー効果や初頭効果のように、バイアスを生じてしまうかもしれない。
仏法に対して真剣に興味がある人なら手当たり次第読んで貰いたいが、それは無理だろう。
日本では南条訳や岩本訳が、どういう訳か権威を持っているような文化ができてしまったが
これらの漢文読み下し文の堅苦しさに辟易する人は、読みやすい理解しやすい物を
まず見つける努力をして欲しい。
私には推薦したい書籍があるのだが、それも明らかにはしたく無い。
法華系日蓮系の宗教団体が出版する法華経本のおおかたに、意図のカーソルが存在する。
しかし
その様な書籍を出し続けている某宗教団体の中に一冊だけ目からウロコの法華経現代語訳がある。
多数の我田引水的な本を発行しているのに、その一冊だけは宗教団体の思想が変わったかのように
分析哲学的な現代語訳だった。
本当は紹介したいが、このような5ちゃんねるにおいて某宗教団体が出している
という点だけ捕まえて、どうのこうの元気よく書き込みを始める人が出現するのを
私は見たくない。し、それが(宗教団体を批判する事)が法華経の平等思想なのか?
と、思う人の存在を私は確認したくない。 東哲は漢文読めないトーシロしかいないから、
デタラメな翻訳もどき本しかないと思うが…。 東哲に限らず潮や聖教新聞社、第三文明も、また
創価学会コングロマリットに限らず他の宗教団体の出版社は
法華経について語る時
「中国に流入した仏教が日本に伝わり、、ブラブラブラ、、、」という
書き出しで始まる物が多い。
「法華経を知るには日本仏教の源流であるアフガニスタンやパキスタンの当時の情勢が、、、」
と、書き出す物が本当に多い。
現在の日本仏教の生誕の地はアフガニスタンとパキスタンなのに。
これがしっかり描かれているかどうか?
これが書籍を選ぶヒントかな。 大変な書き間違えをした。謝罪と訂正。
「法華経を知るには日本仏教の源流であるアフガニスタンやパキスタンの当時の情勢が、、、」
♯ と、書き出す物が本当に『少ない』
現在の日本仏教の生誕の地はアフガニスタンとパキスタンなのに。
これがしっかり描かれているかどうか?
これが書籍を選ぶヒントかな。
ーーーーーーーーーーーー
本当に、少ない 日蓮、日蓮系統の教義について語らないなら
法華経ってスレ立てればいいんじゃないの >>73の継続文です。
日蓮さんは、実家貧苦によって天台宗に席を置きながら四度加行、阿闍梨灌頂、等々を
得られずに寺を逃げ出す。
何時まで此処にとどまっても修せの見込み全く皆無、水汲み、清掃要員の寺男で終わる。
彼の願望は、天台宗から密教を差し引く法華経のみ尊崇する一宗を認可させる。
其のためにいろいろと運動したわけだが、結局は叶わないで終わる。
総括するなら、日蓮は自欲、怨恨を克服して居ない人と認めるべきだろう。
もう少し仏教意的な表現ならば「離欲の境に至らず」と云える。
青少年期の貧困経験、それにより物事が叶わない恨み悲しみが彼をして「離欲の心」を
得させなかった。
其れだけなら、日蓮個人で済む。
然し日蓮を尊崇する人たちの心境に対して、日蓮の願望を叶えさせたくなる。
其れが「日蓮が成し遂げなかった離欲の境地」信者の運命的反復なのだ。
日蓮を拝むと日蓮の、哀しき心境が伝染すると言えば御分かりかもしれない。 >>194 離欲の心境を確定した人のみが宗教を説くべし。
オウムの麻原尊師が、運営に失敗し絞首刑にまでに大失敗をした根本原因は
離欲が為って居なかった為とわたくしは思います。
各宗の祖師方の出自を検分すると、皆高貴な家柄と云える。
その様な家で育つ人は「ひもじい、つらいつらい思いをして居ない」為に素直に離欲を為せる。
今更、金や屋敷が要ると思って居ない人たちが出家し、諸人救済の願に生きる。
日蓮氏は残念ながら、離欲に至る生い立ちが無い。
その為にか何としてでも形になる寺領などを欲しがる。
大聖人様と尊崇礼拝し、その彼の願望が伝染した事例を、我々は多々見て来ているではないか?
日蓮氏は神仏に非ず、怨念、悲哀に満ちる御仁なのだ。
>>194 然し日蓮を尊崇する人たちの心境に対して、日蓮の願望を叶えさせたくなる。
日蓮個人の存在に対する瑣末な部分においての認識は今のところ不可。
日蓮は書簡を残したが、それさえも書を書くという事は表現者である以上
その文面に日蓮の人間性を読み解く事は出来ない構成とアナロジーが存在する。
多くの日蓮信者さんは御書にこう書いてあるから日蓮大聖人は、こういう人だったんだ!
という人が多い。(これは釈迦やナザレのイエスや孔子など本人が書いてない物と同じ)
熱心な信者や、宗教団体が上から教える日蓮像は論拠を上げられるのか?それはただ
御書の文言原理主義(それも蓮實重彦や町山智浩が言うような表層批判の問題でもある)なんだよ。
謎が多い日蓮ではあるが
日蓮大聖人の現在での存在意義は、21世紀になってまでも
「法華経」を残した事だ。言い換えれば「法華経」を様々な仏教徒や哲学徒の身近に置いてしまった事だ。
これだけが事実として認識出来る人は、「法華経」を皆がその人なりに広宣流布したくなる。
それは、宗教団体の教義教条とは関係なく、フーコーが言う「知の考古学」として
語るという意味だ。
そして、その前提条件として御書を理解する事が必要であり。
その前提条件として法華経を理解する事が必要であり。
その前提条件として大乗仏教が生まれたアフガニスタン・パキスタンの当時の状況を理解する必要がある。
(続く) (続き)
自分の本棚に入っている安易に選択・購入した本だけを読む人は、言い換えれば「安易に理解できる日蓮トンデモ本」によって
認知の不協和と論題の非共有を生じて、それで満足してしまう、常に楽をしたい人だ。
図書館や大学教授のオープン講義、哲学者の論文や仮設を読んだり
特に大乗仏教の知見を広める為には、意外に思うかもしれないが、美術館や美術書を
読むと、大乗仏教がどのようして出来たのか?そしてそれらの編纂にどの様に影響を与えたのか?
が(アフガニスタン・パキスタンの文化の変遷から大乗仏教は生まれた)理解しやすくなる。
そこまで遡って学ばないと日蓮大聖人の御書は読めない。
御書が読めなければ日蓮理解を挫折する事になる。
各論だけ語っても、総論・概論を知らなければ、それこそ何時迄も重箱の隅で井戸端会議をしているようなものだ。
男「君の瞳に美しいバラが見える!」
女「ありがとう!私もあなたを愛しているわ、、、」
宗教の人「人間の目にバラ?カラコンか何か?女の目の中にバラが見えるなんで統失じゃんwww」
こういう宗教の人は、敵視したり、批判する事なく
私たち自身が、宗教の人から距離を置こう。
距離を置いて、それとは違うステージ・フェーズで仏法を学んでいこう。 >>195
> オウムの麻原尊師が、運営に失敗し絞首刑にまでに大失敗をした根本原因は
> 離欲が為って居なかった為とわたくしは思います。
村上春樹や苫米地英人や森達也や篠田編集長・花田編集長・勝谷誠彦などが
暗に主張しているのがオウムの教条はダンテスダイジや中沢新一「虹の階梯」・「チベットのモーツァルト」
というのは有名だが
例の国家転覆を企てる不逞なテロ行為においては
ドルジェタクと同じ思想なのだと思う。
尊師が持っていた欲は「俺は覚者になりたい!そして皆んなに認めさせたい!」というオカルト的自己顕示欲だけなのだと思う。
新しい独立国家を作る為の暴力革命思想では無く
単に「俺を認めてくれよー!今まで何やってもバカにされる人生だったから、もう悟った聖人になるしか作戦は無いんだよー!」
という様な、アンパンマンやプリキュアの人形を買って貰えなくて駄々をこねる幼女のようだ。
最後に死刑というのは「死を持って罪を償う刑」なので、現在は元・死刑囚として
亡くなられた後の松本智津夫氏の人権は日本国の法曹によって保証されている。
現在、松本智津夫氏を今でも犯罪者・死刑囚(元・死刑囚では無く)と語るのは法治国家である主権国家日本国の憲法違反にもなり得る。
松本智津夫氏の三女、松本麗華さんの「止まった時間」出版時に
ロフトプラスワンだったか?紀伊国屋ホールだったか?
私は三女・松本麗華さん(旧ホーリーネーム・アーチャリー)と直接質問をさせて頂いた。
松本麗華さんは、既に彼女なりの総括と自己批判を持っていた。
ただ、その総括と自己批判は決して社会に受け入れられないだろうとも語っていた。
これは元・連合赤軍の植垣さん(革命ネーム・元バロンさん)が言っていたことと同じだった。 >>198 日蓮遺文、其れを御書と呼び慣わすのは周知の”集合知?”
誠に名文章、名文句が多く織り込まれる作品群と云える、然し乍ら傾倒すると
日蓮の毒気が読者を蝕み、遂には国立戒壇を有する総本堂を建立したくなる。
なぜかと言うと、日蓮の願望を現代に実現するのが正義と結論を得てしまう所為だ。
離欲を知らぬ日蓮の会得した仏法とは、有の仏法と判ずる。
彼に影響された者たちは、日蓮上人の御意思を実現するべし!と企図し走り回る。
禅の目的に自己放擲が先ず在ろうかと存ずる、不要な欲心、邪心、習気、自己愛心
などの境から遠ざかりを為さんと座すのだが、日蓮師は智大師の書を引用するも座禅をまるで修さず、僧侶として一大事の離欲を得ずに文を記していることは後世への
影響を見ると判明可能だ。
>>200
> 誠に名文章、名文句が多く織り込まれる作品群と云える
具体例を教えていただけますか?私には日蓮の名文章や名文句は何一つ思い浮かべることができません。
それとも名文章や名文句というのは内容の是非や表現の優劣とは無関係に、
例えば「真言亡国 念仏無間 云々」のように単なる有名なセリフということでしょうか? >>200 日蓮遺文、其れを御書と呼び慣わすのは周知の”集合知?”
(先ず、宗教団体において熱心な信心を持つ人は、以下は絶対読まないで下さい。批判されてると誤解してしまわないように)
テセウスの船を「テセウスの」船と呼ぶのも、『テセウス以外の人の』船と呼ぶのも自由。
同一性に関する思考実験は関係無い。
それから、貴方は集合知の理解が足りてないと思いますよ。
例えば古文の試験で和歌の解釈問題が出た。
まず表層のテクスト(和歌自体)は絶対に否定は出来ない。これは表面上の意味。(事実というものは先ずある)
ここから始まるのが作者の心理(その表現者の処女作は?今までどういう作品を作ってきた?という文脈により)
また歴史的背景や文学的背景。これらの認識を表層批評的に認識する事が要求される。
よく「国語って数学と違って答えは無いんじゃないの?だって人の感じ方はそれぞれなんだし」
これが集合知を理解してない人であって、この様な(凡庸な人達)が増えてしまえば
人々の知の低下と教養の崩壊、そして学問自体が崩壊してしまいます。
この本文と歴史的・文化的・学問的背景を無視して「でも俺は、こう思うんだもん!それは自由だろ?」
という人がいるが、実はその人が自由の権利を行使出来る場はそれ以外に無いのです。
集合知の場の中で、自分自身の独立裁量でソリューションを出したとしても、それは個人的な感想にしかならない。
これで最後にしますが「集合知」というのは何処かの権威者が勝手に作った集合的な知ではありません。
学究・学術・学会・大学・研究所において普遍的存在論的・認識論的・言語論理演算的に量子物理学的に、、などなど
においてコンセンサスを示せるような人々は様々な学者や専門家が集まる学会で
自分の仮説を潰されたり、他者の論文の微小な論理性の欠如を指摘したり
喧嘩にはならず(知性的な人たちだから当然)真面目に議論に議論を重ね
ようやくたどり着いた『今・現在での共通認識が出来た概念』を
『今・現在の集合知』と呼ぶのです。真面目に論を呈するにはコレを理解しているという前提が要求されます。
それでもバカな事を勝手に言ってる一般人はいますが、それは論では無く、ただの感想です。
(続く) >>200 日蓮遺文、其れを御書と呼び慣わすのは周知の”集合知?”
(続き)
(先ず、宗教団体において熱心な信心を持つ人は、以下は絶対読まないで下さい。批判されてると誤解してしまわないように)
「人の1番小さい骨は耳小骨と言って、それはあぶみ骨きぬた骨つち骨で構成されてるんだ」と真実を語ります。
でも多くの一般人は一度もあぶみ骨を見た事も無ければ、意識した事も無い。
多くの凡庸なる一般人は、凡庸なる結末を深層心理で求めている。それが正しいと相手に認めさせる事を論拠も無しに目論む。
解剖学の教科書・参考資料写真集を見せても、見なかった事にする人もいる。
そういう人達は、無意識に「知」や「教養」に反発したがる行動心理がある。
そういう人達は、スルーしておきましょう。 >>204
>日蓮の教義については?
法華経を読み、何故この様な大乗仏教が作られたのであろうか?と
アフガニスタン・パキスタン・ガンダーラ美術・バーミヤン・ナーランダーやクシャーナ朝の文化を調べて
御書を読め。
恣意的な分断である各論らしきものを語っても
それは日蓮の教義では無い。
牛車は、どこをもって、牛車の牛車である確からしさを見つけられるのか?と
部品ごとに探そうとするバカと同じと考えればわかるでしょ? >>201 法事で坊さんが日蓮の遺文を読み上げて
説教に変える、日蓮の文章は上手いですよ。 寺の坊主の説教で面白いのは臨済宗と浄土真宗。数は少ないけど
強烈なパンチライン・オチで笑わせながら仏教を語る坊主がいるんだよな。
特に浄土真宗のお寺の掲示板はサブカルな言葉が多いよ。
お寺の掲示板大賞 2018年 大賞受賞。これが凄い!
https://www.bdk.or.jp/kagayake2018/publication.html 本当に神仏を拝んでいますか
欲望を拝んでいませんか
(清立寺)
これも凄いw >これで最後にしますが「集合知」というのは何処かの権威者が勝手に作った集合的な知ではありません。
でも文系のそれは単なる妄想の集積で有り得るよね。
文系の集合知と理系の集合知をこっそり並べて正当化を図るとは姑息だなw >この本文と歴史的・文化的・学問的背景を無視して「でも俺は、こう思うんだもん!それは自由だろ?」
>という人がいるが、実はその人が自由の権利を行使出来る場はそれ以外に無いのです。
日蓮さんに是非教えてあげてくださいw
>集合知の場の中で、自分自身の独立裁量でソリューションを出したとしても、それは個人的な感想にしかならない。
まさに御書は日蓮さんが自身の独立裁量でソリューションを出したもので
それは日蓮さんの個人的な感想にしかなりませんねw
既存の諸仏典が示す集合知を無視して「でも俺は、こう思うんだもん!それは自由だろ?」
と言ってるだけなんだから。 もうひとつ余計なことを言うと
アホみたいに集合知集合知言ってアホみたいにカタカナ言葉使いたがるアホも
先行する諸仏典が示す集合知には全く留意してなくてそれを自覚してもいないよなw
エセインテリでないなら天台で読まれる主要経典くらい全部読んだら? 日蓮の願いは実に具体的である。
法華のみの宗旨を建てさせろ、初代座主は我である。
当然寺領、弟子口分(得度者人数を云う)を認めさせる。
彼の脳裏には平安時代、弘法大師空海の事跡を踏襲する意いが認められる。
我が何ぞ弘法に劣らんや!勝れりと信じているらしい。
「日蓮の風景」とでも題名を付けると有名作家の某作品を想起するがまあ宜しい。
貧なる家に生れる、此れはよくある人の生涯の範疇で全く運命的な事柄に属する。
このような家庭に育つと欲求の範囲が自然と物欲、金銭欲に向かい立志伝中の人物と
評される方々も多い、何方でも数人の実例をご存じだろう。
本題の日蓮師は宗教に目標を向けず、実業家として身を建てるなら大成功を納めたと
信ずる。
実物、現物を活かすのが実業の世界である。
端折るが、日蓮師は宗教を説くべき富裕な育ちをして居ないがために「離欲の境涯」を
とうとう知らずに一生を過ごした人物、とわたくしは思うのだ。 前すれでやってた、題目には文証がない、のつづきで、
これは大聖人さまが、文証ないとダメと仰ってんであって、
でも題目行こそが、まさに文証ゼロのあやしげな行法もどきで、、。
(真言見聞)
玄(法華玄義)の三に云く「文証無き者は悉く是れ邪偽彼の外道に同じ」文
※※文証がないと、邪(ヨコシマ?)なニセモノでインド外道と同じことらしい、、。
(撰時抄)
唯真言法中の肝心の文あやまりなり其の故は文証現証ある
法華経の即身成仏をばなきになして文証も現証もあとかたもなき
真言経に即身成仏を立て
※※仮に法華経に文証があったとしても、題目には文証がないわけで、
なに真言でハナシゴマかしてんだろか、この嘘つきなおっさんは?
題目行法こそ文証も現証もあとかたもなき(木っ端みじん行法)、となるのでは?
(持妙法華問答抄)
天台は「若し深く所以有り復修多羅と合せるをば録して
之を用ゆ無文無義は信受す可からず」と判じ給へり、
※※最澄さんが深い真理は、経典解説とあわせて使いなさい、、
とホントに言ったかどうかはしらんけど、無文無義はまさに題目行のことだから、
題目を信受してはイケないと、最澄さんが言ったことになんのかね?
又云く「文証無きは悉く是れ邪の謂い」とも云へり、いかが心得べきや。
※※だから文証のない題目は、ヨコシマなもの言い、ってことらしいですよ。
結局常にブーメランが返ってくるだけで、文証主義は日蓮仏法の根本教義である
題目行にUターンして帰って来て、ど真ん中に突き刺さるわけなんだよな…。 >>213
結局ブーメランじゃんね、しかも先っぽを鋭く削ってあって、
それが一回りして帰ってきて、自分の心臓をえぐって深く突き刺さってる感じ。
で、何度でも指摘しますが、四十余年未顕真実は法華経こそが、
いままで隠していた、お釈迦さまの本当の秘伝であり、
五時八教はあのちょー有名な中国の大師さまである天台智が、
いろいろ経典を比べてみたけど、やっぱ法華経がダントツで、
他の経典の追随を許さない圧倒的なナンバーワンですう〜、
いやあーマイッタマイッタと、言ったとかなんとか…。
お釈迦さまも天台智大師も、法華経こそがこの世界を支配する、
圧倒的ナンバーワンかつ、オンリーワンな経典であると保証してる、
そういう文証があるよ、というのが日蓮教団の主張だろ?
ところがさっ、ハイハイたいへんよく分かりました、
法華経さまがサイコー経典なんですね、といいたいんだけれど、
そんじゃあ、法華経の功徳をあらわすためにですよ?
ナムナムの七文字題目の漢字を唱えなさいと、
どの文献や経典に書いてあるんでしょうかね?
法華経には題目のことなんかなにも書いてありませんからね。
…という最終クエスチョンに進むわけで、
でも題目やれという文証はこの世界の仏教史のどこにも存在してなくて、
そうすると、いままで文献引用の学者気取りだった連中は、
みんな誰もいなくなって「…」という無言が帰ってくるだけで、
これのいったいどこが、法論だとか、三証である文証なんかね?
と聞きたいけど、その答えも風の中に舞ってるだけだよな…。 >>194 これは日蓮師匠が天台僧侶であると、自分で御書に書いた、
そういう記述がないわけよ。
比叡山については、二つの御書に高野山や三井寺と一緒に、、
あらあら(粗々)習い回る、。
としか書いてなくて、バスツアーで有名寺の観光巡りでもしたんか?
一泊宿坊体験みたいな? というアホな内容でしかなくて、
これが致命的なのは当時、比叡山と高野山は絶縁状態で、
僧侶の交流が禁じられてますから、
叡山と高野は両方行くことは不可能なのよ。
だからまた、しょーもない嘘ついてんな、このニセ坊さんは。
とカンタンにわかるわけで、
…でもそれじゃあ、営業的に困る人たちが出てくるわけでしょ?
日蓮教こそが仏教の本流で他宗はぜんぶダメダメと、
ワルクチを言いながら、自分たちはがっつり大金を懐に入れてるわけで、
もし日蓮教の宗祖さまが、仏教の流れと縁もゆかりもない、
ただのニセ坊主であることがバレたりしたら、
ブランドが棄損されて、売り上げの大幅な減収にでもなったら、
生活にかかわるわけじゃん?メシ食えなくなるかもだし…。
そこで実名でいえば、M寺のT橋さんみたいな、
真偽を巧妙に混ぜてシャッフルして、日蓮仏法という、
あらたなフィクション小説を創作する人たちがいっぱい登場するわけで、
でもあらためて御書と比べると、そんなこと大聖人は書いてないよなー、
となって、またふりだしに戻るわけですが…。 >>209
>でも文系のそれは単なる妄想の集積で有り得るよね。
>文系の集合知と理系の集合知をこっそり並べて正当化を図るとは姑息だなw
あなたは蓮實重彦や落合陽一やマルクス・ガブリエルの本など読まない人なのでしょう。
反発するなら
自分で徹底的に調べて、私がグーの音も出ないほどの論拠を出せばいいだけじゃ無いですか?
文系と理系の比較に関わる問題ではありません。
思い出してください。
「いい箱作ろう鎌倉幕府 1185年鎌倉幕府成立」というと
私達は必ず大人達に言われましたよね?
「ヘェ〜、、平成育ちはいい国作ろじゃないんだw」と
これは、何処かの権威者の誰かが
1人で決めた事ではありません。
いい箱作ろう。になるまで多くの学者・学究・学術者が議論に議論を重ねてたどり着いた
集合知なんです。
自分が知らないことを語られると、多くの人間は感情の充填した言葉で反発しようとします。
それが人間ですから
私はあなたの書き込みを見なかった事にしてあげます。 >>215 天台僧侶じゃないという疑問点はいっぱいあって、
〇 天台僧侶は、叡山が官製寺でもり公的な身分なんで、
天台座主が発行する、菩薩戒蝶なる身分証を持ち歩かないといけなくて、
でも御書にその記述はなく、現在日蓮さんの菩薩戒蝶を、
保管してある寺は、どこにも存在していません…。
〇 そもそも比叡山で修行したとは、日蓮さん本人は言ってなくて、
だいたい習ったことあるよ(粗々習い) のちょー胡散臭い記述のみ。
〇 日蓮師匠の葬式の場の、日興と五老僧の大げんかで、
日興は師匠が本門法華宗だと突然主張し始めて、五老僧は、
安国論表書きの、天台沙門はちょっと言い過ぎで、
嘘ついててスイマセンでした、と天台余流?? と言い直してますw
これ日興も五老僧も、どちらも師匠は天台僧じゃないと告白してんのよ。
〇 これが一番モンダイかな? 天台僧を名乗るんだったら、
その資格をもらった、師匠としての天台座主の名前はいったいダレか?
日蓮御書は比叡山天台のワルクチが延々と書かれている、
誹謗中傷のエレクトリカルパレード状態ですけど、
叡山の師匠の名前は書かれていなくて、誰だかわからんね。
そこでまた嘘の作り話をはじめるんだけど、天台学頭の俊範ですう〜、
とか言ってて、でも師匠は天台座主じゃないとダメで、また嘘がバレるわけで、
外部に対してはめちゃめちゃ厳しい態度で望む比叡山ですから、
もし本山の悪口を連呼する、所属僧侶がいたとしたら、
とーぜん破門で、身分はく奪のはずだけど、伊豆と佐渡の流罪でも、
同じことで、はくだつする身分を持ち合わせていない
坊さんもどきだったのが、カンタンにわかりますね…。 >>211
>エセインテリでないなら天台で読まれる主要経典くらい全部読んだら?
テクスト論的表層批判は、学問の初めではあるが
そこで停止して原理主義的に考えると
大変大きなバイアスが生じるという事を言いつづけてたのですが、気づきませんでしたか?
それから、「集合知やカタカナ」といいますけど
法人・社内での企画会議やビジョン会議で、この程度のカタカナさえ禁止されれば
会議は成立しない事は、あなたも社会人としてご存知でしょう?
上司や部下が案件に対してカタカナを使ったら
「カタカナを使うのはやめなさい!」と、でも言えるのでしょうか?
そんな事をしたら、法人・会社から戦力外通知されますよ。
社会人として失格の烙印を押されますよ。
(何らかの障害を持って社会参画出来ない人は別。また高齢親に甘え続けるヒキコモリも別の話だ) >>217
こう見ると日興もなかなかのリトル日連ですねw >>214
>法華経には題目のことなんかなにも書いてありませんからね。
なんで、そのようなアレゴリーを日蓮は使ったか?
は
アフガニスタン・パキスタンから後漢までの文化的移行を学べば見えるのですがね。
「仏教はお釈迦さんが作ったから日本にはインドから伝わったんだよ」というバカがいますよね?
それは
「生活保護は俺たちの税金から保護費・扶助費が払われてるんだぜ!腹が立つー!」というバカと同じです。
何も調べないから生活保護費自体が国民の税金使ってない事を知らないだけなんです。
疑問が起きても自分で調べようとせず、「だって皆んなも、そう言ってるもーん」と
とにかく努力が嫌いなメンドくさがりが、多いという事です。
自身で調べる事が大切です。日蓮においても。
(日蓮は御書の表層テクストには現れてはきません。私達が掘り起こして、ようやく御書は読めるのです。
それは自分自身で調べなければ絶対にダメです。自分で調べたら物しか人は納得出来ないのです
第三者が教えてあげようか?と近づいて来る物をそのまま信じる事の欺瞞を意識しましょう
友人知人であれ、宗教団体であれ、youtuberであれ)
自分が調べて、調べて努力をしなければ本物の納得は出来ないのです(宗教団体は批判しない)
エセインテリだとかスノップやディレッタントと批判する人は基礎ができてないので
子供でも読める「ソフィーの世界」(ヨースタイン・ゴルデル)でも先ず読んでみては如何でしょう?
世界中の哲学者から、子ども向けの哲学(当然、観察・分析・抽出・方法論解読含む)の本として
評価を受け、世界的大ベストセラーになった本です。これが読めれば「どこが問題か?」が見えて来るようになると思いますよ。
(宗教団体は私は否定も批判もしない。あくまで個人の実存と思惟についての分析哲学としての話) 御書に関して不満を言いたい人や
日蓮に関して不満を言いたい人は、今うずうずしている。
何故なら何らかの言質をあげるタイミングでは無いからだ。
私は先月から
弟子A「この犬にも仏性は在りますか?」
師匠 「ある!」
弟子B「悉有仏性というのですから、この犬にも仏性は在りますよね?」
師匠 「ない!」
さて、なぜ弟子Aと弟子Bとで、師匠の言う事は違っていたのでしょう?
あなたの言葉で教えて下さい。
と、質問を何度か書かせて貰った。
でも
1つも見解(けんげ)や回答はいただけなかった。
彼らには答えられないからだ。
この仏法のコアとレトリックを理解してないから、自分の言葉で書けないんだ。
この難問を突きつけられた人達のレスを観察して来た。
皆「仏法の根本哲学と修辞に対して考えなくても良い理由」ばかり考えて
肝心な仏法を考える努力を代償規制や自分にとって都合の良いイドラを設定して
「議論らしき単なる愚痴」を曝け出すしか出来ないのだろう。
そしてこの弟子AとB公案の回答を待っている私がいる限り
このスレで、「日蓮の解釈がー」とか「御書の何処にぃ〜?」とか「本尊がどうのこうの、曼荼羅がどうのこうの」
と語りたい人達がウズウズして書き込みのチャンスを伺っている。
あらためて問います。
それは仏教ですか? >>211
>エセインテリでないなら天台で読まれる主要経典くらい全部読んだら?
あなたこそ天台宗ハワイ別院の国際部長の書籍でも読まれたらどうでしょう?
ただし、ことえるや、ピンホールTVの話は無しの方向で。
オウムの残されたインテリ信者をほとんど洗脳解除したのは
天台宗ハワイ別院の国際部長(国家公安委員会から要請された)です。
でも、インテリは話が出来るから洗脳解除出来たけど
国際部長「言語論理演算が脳内で描けない?wwwこう言っちゃアレだけどwwバカには無理な所があったなww」
宮崎哲弥「天才宗教家でもダメだったんだぁwww」
国際部長「真面目に言うと物理空間と情報空間にインセプションされるのはいつの時代もバカで、その変性意識はパワフルだわwwwフォレスト出版で今度発行する内容を無料で教えてやったんだぜw今ww」 言い忘れた(音声入力で書いてます)
コンテクストの逸脱を生じるのは、他者のせいでは無く
他者が存在した上での(縁起)、自分自身のスティグマから湧き上がった
論証不可の(空)自己バイアス原理主義者になってしまうからですよ(仮)。
という、意味において下記のような事を書きました。
>>211
>エセインテリでないなら天台で読まれる主要経典くらい全部読んだら?
あなたこそ天台宗ハワイ別院の国際部長の書籍でも読まれたらどうでしょう? >>87
>家が貧乏だから猛勉強して国立に行ってもこれだからな
猛勉強して国立に入った後に鬱がやって来るんだよ。
東京大学なんて新入生の半数が鬱や不登校、自殺念慮持ってるよ
一流大学へは猛勉強しないで入れる人が行くべき。世の中には勉強しないでも頭の良い奴が居る事を知って自己否定感が強くなる。
文IIIに入った女の子は毎日占いばかりしていちいち報告するようなメンヘラになっちまったぞ。 >>212からの継続
いわゆる信仰って何だ?其の行為と意味について考える。
例えば、観音様を信じる人は、観音様は慈悲を本体としていらっしゃるお方だ、
信者は現在困難な状況に在らねば観音様の心境と一つに成ろうと祈る。
祈りの源底に在るべきは,自性清浄という清らかな心を持たせてくださいと願う。
この様な正当な祈りと祈願実現は、時間がかかるかも知れぬが神仏は嘉祥される。
では日蓮上人に祈ると如何か?わたくしは彼に何方も指摘されぬ欠を見出した。
彼は離欲の境涯に居たらなかった、仏教者である。
彼に祈って感応したところで欲心が増加するばかりで、己に清浄身心を得させ給えと
祈願する文言はあるまい。
強い欲心は得ても観音様から得られるような感応と慈悲心は考え難い。
日蓮は信仰の対象から失格と見做すべき也。 >>206
>法事で坊さんが日蓮の遺文を読み上げて説教に変える、日蓮の文章は上手いですよ。
ですから具体例を教えてくださいと言っているのです。
名文章、名文句が多いと言ったのはあなたですよ。ひとつふたつ挙げられないはずはないでしょう。 >>211
集合知馬鹿は相手にするな。毎度毎度、書き込みは多いが中身が皆無で論評に値しない。 >>227 「日蓮は泣かねど、涙ひまなし」 此れもそのひとつ
当家の書庫に日蓮の文は在れども態々、引用する気は無い。
四箇格言もそうだよなぁ、ありゃ上手すぎ。
日蓮宗の坊さんで説教が下手、法事の時にさっさと切り上げるためにか
日蓮の遺文なるものを聴いた事が有る、ツボを得る上手な文章でしたね。
宗教家は筆が立たねば残らない、此れは本当の実話。
一遍上人の遺文も上手い、理論がこれほど精密にあるとは思っても居なかった。
藤沢の遊行寺が今尚あるのも、遺文の功績。 神仏に祈り、実際の救済を得る効験を何度か身近に知る。
安気に日常生活を続けて、死ねるなら是に越した事は無いのが殆どの人生。
然し一寸先に未来は誰にも不可知、溺れて縋る物が目前に在るなら大助かりとなる。
その様な経験を長年続けて実地に見るとき、日蓮信仰者の奇妙な違和感の出所を
かなり長い間、考え探り、得る結論は、日蓮上人に呼びかけると日蓮が霊的に感応する。
然し乍ら、日蓮氏は離欲が成就せず終いご逝去の坊さんであった。
その為に日蓮を祈る信者は、日蓮の影響を受けて俗欲の達成祈願をする。
60年程前は
他人の家に押し掛け、仏壇神棚をひっくり返す乱暴狼藉をやらかしたりする事例アリ、
他人の信仰する礼拝対象を損じる、などは犯罪行為だが、日蓮の名により容認されると信じる。
大建築物件建設を始め、マスコミ迄牛耳り、自らを大衆の王と迄豪語する御仁も現れる。
40年間未顕真実も結構だが、日蓮の没後 740年間未顕真実心底暴露となる次第。
仏者には、離欲心成就が必須である実例を知る。 >>232 可哀そうな君の妄想を申してごらんなさい >>230
>「日蓮は泣かねど、涙ひまなし」 此れもそのひとつ
レスありがとうございます。
以前、やはりこのスレで日蓮が名文家だと主張する人がいたので同じ質問をしたところ、同じ引用をされました。
これは鳥や虫が「鳴く」のを人が「泣く」ことに掛けた駄洒落にすぎず、私は感心しませんが。あなたのいう名文や名文句がどんなものかは良くわかりました。 君達の様にに仏教の実践もしないで頭だけで理解しようとする愚かな仏教マニアによって、
仏の教えは大きく歪められ様々な宗派が出来ちゃたんだよ 日蓮の善行について探し出したら凄い
本当に何もない、何もせず他宗の悪口ばかり >>236
>君達の様にに仏教の実践もしないで頭だけで理解しようとする愚かな仏教マニアによって、 仏の教えは大きく歪められ様々な宗派が出来ちゃたんだよ
小学6年時の思い出。頭が悪い癖に良い子と褒められたい女子がいた。成績はいつも100点満点。
頭が悪いのだから素直に教育指導要領・担任裁量の学級経営にしっかりついていけた。
自分の意見を持てない子供だから、出来る芸当だ。学校自治と担任の先生が人生の師匠のようにコミットしていた。
その少女はただ成績が良い、先生の受けが良いというだけで推薦されて生徒会長になった。
ある日、体育館で全校生徒会が行われた。
携帯・GPS・防犯ブザー・スプレー・登下校時の名札外し、について管理職(校長と教頭)に対しての意見書で盛り上がった。
様々な意見が飛び交う中、生徒会長はマルチタスクに弱いらしく、こう言った
「皆さん!誰にでも分かりやすい言葉で喋れるのが、本当に頭の良い人なんですよ」
一瞬、会場は静まり、数秒後に後方に座っていた6年生男子が叫んだ。
「出たー!出ましたー! バカがよく使う言い回しーー!」
体育館の中でドッカーンと爆笑をかっさらった。
生徒会長の女子は顔を真っ赤にして何か反論している。しかし言語論理は破綻して反論にすらなってない。
感情が何よりも先立っていた。
生徒会長としての道義と責任を彼女は完全に喪失していた。
彼女は論題よりも、そこでは論題を扱う分析と審議の困難さを主張すべきだった。でもその生徒会長はタダのバカだから無理だった。
(言っても、都内の優秀な子供が集まる名門私立小学校ではあったのだ) さて
「君達の様にに仏教の実践もしないで頭だけで理解しようとする愚かな仏教マニア」
と語られる、その「仏教の実践」とは何なのか?
その「仏教の実践」というシニフィアンは示せても
あなたの言う「仏教の実践」のシニフィエ・仏教的社会的道義を論証出来るだけの
論拠を合わせて示せるのだろうか?
私が多くの書を読め! と言っているのはそういう意味で
認知の不全、スティグマ、正常性バイアス、アフォーダンスなどなど心理学的に
自分の実存だと思っている事が、実は全く実存では無く、ただの同調や共感になってないか?
という事を主張したいのだ。
法華経をはじめ大乗仏教が主張する平和・平等思想とは「バカな人間の仲良しゴッコ」では無い。
多くの書を読み、論や説をインプットし今最新の仮説にはどういうものがあるのか?
を確認したのちに文底秘沈として存在する根源的な「平和・平等」を見つけるフェーズに気づけ!
という事なんだ。
いつまでも御書だけを読んで、あーだこーだ言っていたら、そこで試合は終了する。
60年代70年代の映画ばかり見てる人が、今ハドソン川やアッパーイーストサイドやブルックリンハイツ
へ旅行したら「あのアメリカは、自分の頭の中にしか存在しないアメリカだったのだ」と驚く筈だ。歩みを止めてしまったから。 >>239 七佛通戒偈の自浄其意を実人生において成就する。
此れを実践と云うなり >>240
> 七佛通戒偈の自浄其意を実人生において成就する。 此れを実践と云うなり
と、言うのを何かの本や誰かの言葉でインプットした訳ですよね?
釈尊もプラトンもアリストテレスもショーペンハウアーもウィトゲンシュタインも
シェークスピアもオスカーワイルドも村上春紀も三島由紀夫もカミュもゴダールも
マルクスガブリエルもカールマルクスも天台宗ハワイ別院国際部長も
中村元も鈴木大拙もスティーブ・ジョブズもザッカーバーグもダライ・ラマ14世も
人類の英知を考えられる人たちは皆
「言語化」された物には論理演算子やシニフィエは無く、字面で信じてしまったら
人間の知性はそこで止まると、皆、異口同音に語っています。
あなたは何故、オウム真理教の存在について社会的道義があった!と言えるのでしょうか?
「え?俺そんなこと言ってないよ?」じゃありません。
あなたにも、あなたなりの文脈と比喩暗喩と修辞があると思って発言しているのでしょうが
そのアナロジーに対して普遍性を示せるような記号・言語も一緒にあげて下さい。
「だってウチのママがそう言ってたもーん!」は、大人の世界では通用しません。 >>241 他人からの借言に非ず、要点は洗濯の遣り方なり。
君に苦行って何の意味を持つのだろう、ご存じか?お尋ねしてみよう。
>>242
正直に、真面目に答えます。
私にとっては、コレだけです。
弟子A「この犬にも仏性は在りますか?」
師匠 「ある!」
弟子B「悉有仏性というのですから、この犬にも仏性は在りますよね?」
師匠 「ない!」
さて、なぜ弟子Aと弟子Bとで、師匠の言う事は違っていたのでしょう?
もしも、反論が有るのなら上記の文脈や暗喩や修辞を取り上げて
論拠を示して下さい。 日蓮大聖人は
どんなに大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、
法華経の敵を責めなければ、成仏できない
と仰せです。 つーか、実人生って何よ。
そんなもん無いから
というか、あっても自分の価値観で構築した主観的な幻想世界でしかないよ。
つーか、存在するものは無境界の可能性でしかない。
その可能性というのは、空想や現実が生み出される前の状態というか、ビックバン以前というか、絶対無というか、絶対有というか、境界が引かれる前の境界なき純粋なポテンシャル。
そのポテンシャルは、地水火風空から始まって、嵐をつくれば、静穏を作り、噴火をつくれば、停滞を作り、個別の生命をつくれば、個別の生命を通じて原爆を作りさえする。
それは誕生でありながら破滅である。
部分でありながら全体である。
それは全てを包括するゆえに、つくれないものは何もなく、またそれに含まれないものは何もない。
言い換えれば、無境界に境界を引くことによって、物事が誕生するように見える。
言い換えれば、境界を無境界に戻すことによって物事は全体に帰一するように見える。
しかし、元をただせば何も起こっていない。
起こっていたように見えただけで、物事を起こすように見える当体は、ひたすら自分の可能性が生み出すあらゆるドラマを創造し維持し破壊し、自分自身の可能性の全てを表現することをリーラとして繰り返している。
その理由はミステリーであり、そのミステリーの正体は私達自身だ。
何故ならば、あらゆる可能性というパンドラの箱は、蓋を開けてみなければどのような展開を行うか本人でさえ全くわからない。 実人生がどーたらは、何かに境界を引くことによって生じる。
実人生と、それとは異なる何かというという相対する価値観を境界を設けて作り出すことによって、実人生とそれと相対する何かという幻想が生じる。
それは言い換えればあなたと私。
あなたと私という境界分けにより、生命が分離しているという錯覚を引き起こす。
何らかの価値付け、言い換えれば分別をすれば、犬という現れは相対的な価値体系にからめとられて全体から分離する。それゆえに仏性ではなくなる。
これは、西田幾多郎が絶対無の自己限定、井筒俊彦が絶対有の自己限定と表現した状態。両者表現は違えど意味は同じ。
価値付けという分別が消えれば、犬という現れは価値を失い相対から全体へと移行し仏性そのものとなる。
それは自己限定の限定が外れるゆえに、自己が絶対無に復帰する状態。
しかし、元をただせば移行も復帰もなく包括内の変化なき見かけ上の変化。
日蓮という人は、相対的な価値体系に生きた人だ。
それゆえに、結局相対的な価値体系の幻想から逃れることが出来なかった。
法華経を通してあらゆるものに仏性を見たつもりになってはいたが、その肝心の法華経を他の教えと相対化して、包括全体に優劣という境界を張り巡らせた。
日蓮は犬に仏性を見たと心の中で思い込んでいただけで、本音の部分では正邪を信じる、それゆえに常時敵をつくらねばいられなかった。
つまり絶対無の自己限定状態のままで、絶対無に復帰することなく、本音では犬の仏性を認めるに至れなかった人。 おやすみポンコツ
あ、おはようかな 笑w
妄想お疲れw >>246日蓮は、実家貧困な為、天台僧侶の阿闍梨に成れず寺を逃避。
その恨みつらみが、彼の心中に解けぬしこりとなって苦しめた。
これが因となり彼は「離欲の心境に住せぬ」僧侶として生涯を閉じる。
頭脳明晰な人物と裕福な誰かが認め、支援したならすんなりと阿闍梨と成り
公家と同席する程の身分を得られた筈だ。
「離欲の心境に住せぬ日蓮」この在り方を発見するのに私は数年を要したらしい。 The Weightは日蓮がしたかったことかな
違うと思うな >>248 わたくしが得た日蓮観『心境が離欲の境涯に至らず」という同趣旨の
見解に至った方の著作があるならば、何方か教えて頂きたいと思うのです。 お会式(おえしき)は、日蓮門下の諸派で日蓮の命日の10月13日等にあわせて行われる法要である。
数十万人の参拝者が訪れる祭りとして、特に東京都大田区の池上本門寺が知られている。起源は定かではないが、浮世絵師の歌川広重(二代)の作品『江戸自慢三十六興』、『江戸名勝図会』で描かれていることから、江戸時代末期までには始まっていたと考えられる。
日蓮の命日の前夜(10月12日)はお逮夜(おたいや)と呼ばれ、各地から集まった講(信徒団体の集まり)が、行列し万灯や提灯を掲げ、纏を振り、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら境内や寺の近辺を練り歩く。
古来は、提灯に蝋燭を灯し、団扇太鼓を叩きながら参詣する簡素なものだった。纏を振るようになったのは、一説によると明治時代に町火消たちが参詣に訪れた事によるという。
近年は万灯の明かりとして、蝋燭の替わりに発電機を利用、電球やLEDなどで装飾している。これは単に万灯を目立たせる、豪華さを演出する等の演出の意味合いもあるが、これら万灯や提灯等の仏具は個人保有が大半であり、また、仏具補修費用が高額のため、蝋燭使用の場合に起こる万灯や提灯への煤けや延焼被害を防ぐ意図の方が強い。
Wikipediaより >>245
それが正解ですね。
天台宗の有名な僧侶が言ってます。
紙の上に点が書けるなら、点を描いてみて下さい。
だれも描けませんよ。
線と線が交わった所が点ですけど、その線に幅や質量は存在するでしょうか?
そんな線と線との交点に生じる点は描ける訳がありません。
あるのは「点」という概念だけなのです。
それが分からない人は、仏法は絶対理解出来ないのです。
この天台宗僧侶は信用出来る。 >>245
>言い換えれば、境界を無境界に戻すことによって物事は全体に帰一するように見える。
>しかし、元をただせば何も起こっていない。
その哲学的視座が大切ですよね。その哲学的視座が無ければ仏教は理解出来ないんです。
なぜマルクス・ガブリエルは「なぜ世界は存在しないのか?」と訴えたのか?
何故、ジルドゥルーズやフェリックス・ガタリは差異と反復、リゾームに着眼したのか?
何故ミシェル・フーコーはベラスケスの「侍女たち」を脱構築したあと再構築を皆に示したのか?
親・先生・カリスマ・師匠と言うのは怖い存在だ。
自由意志と自主独立性を取り上げ、他者の実存を取り上げてしまう存在だからだ。
特に「自分自身が哲学しなくても良い理由」を与えてしまう事がだ。
だから私は、多くの人に仏教から始めて、日本仏教の生誕地・アフガニスタン・パキスタン
からクシャーナ朝・アーリア人・ギリシャ・北アフリカ・ペルシャ・ローマ教会・ネストリウス派教会
正教会・そして神話や叙事詩まで遡り、たとえクローゼット・書斎の社会学と言えども
現在の日本で仏教に興味がある人は、フレイザーの「金枝篇」のような
(それはポスト構造主義哲学者が様々な脱構築と再構築を行なった事と同じ哲学的運動)
脱構築する際のフラグメントの冷徹なる分析と(解体と)
再構築の有機的な接着性のアルゴリズムとプロトコールを、自分自身を批判しながら
新しいゲシュタルトを、個人それぞれが、それぞれとしての作らなければならない。と言っているのだ。
この実体・表象の事では無く、この運動に向かう意思の大切さを
仏教は語り続けて来た。
「実践」という言葉を認めるとするならば
この様な意識の運動だけが「実践」なのだと言わねばならない。仏教哲学は理解されにくかったが
言っているのは、ただコレだけだったのだから。 仏教のマルチモーダル性とマルチタスク性とマルチプラットフォームについて
弟子A「この犬にも仏性は在りますか?」
師匠 「ある!」
弟子B「悉有仏性というのですから、この犬にも仏性は在りますよね?」
師匠 「ない!」
さて、なぜ弟子Aと弟子Bとで、師匠の言う事は違っていたのでしょう?
一見してコレは禅宗の公案・禅問答なのだろうとは分かりやすい。
これをネットで調べてみると上州無実やら教外別伝などを解説するサイトが99パーセントである。
そんなサイトが語るのは
1・悉有仏性なのだから犬にも仏性がある
2・その悉有仏性も分別知なので、弟子Bに対しては分別知を破壊する為に、仏性は無いと言った。
せいぜい、この程度解説しか無い。
書き手が禅宗の僧侶、老師であって禅に関する本を多く出版していようと
これらを最終的ソリューションとして理解してしまえば、この犬の公案・禅問答は意味が無くなる。
禅は基本的に自分自身が悟る事を目的にしている。
これを前提に古くからの祖師や現在老師と呼ばれている人は言葉で最終的ソリューションを
絶対に示さない。ここを理解しない人達は「偉い仏教学者や老師が行った事が、そのまま仏法なのだろう」
と誤解をしてしまう。
祖師も老師も「自分自身で悟る喜びを与えるために」あえて途中で道案内を辞めてしまう。
この山の頂上まで同行してくれない老婆心が理解出来なければ仏教哲学は理解出来ない。
禅の「疑団」を与えて指導者はすたこら逃亡する事。
親鸞の「唯円よ!俺もこれが正解かどうかわからねえんだよなあ!」と言いながらも念仏の空観と仮観の移行を強調した事。
日蓮の「テクスト論原理主義」の姿勢をとりながらもエニグマのようなアナロジー解析を信者に強いる事。
これらは何の為に、彼らが作った事なのか?まで遡って分析し解読しなければ
鎌倉新仏教6は、ディフィニティブなゴールは見えない。
「人間は何をしたか?よりも、 何の為にしたのか? の方が大事なんだよ」 人類最古の文学と言われるギルガメッシュ叙事詩の編纂者も(高校世界史・山川出版)
旧約聖書のヨブ記の編纂者も
いにしえの時代から、この視座を持ち続けようとした人達がいた。 >>247
>あ、おはようかな 笑w 妄想お疲れw
NYSEやNSDACが終了してから3時間ほど爆睡して今度は日本ん証券取引所
2019年から証券・債権の動きから目を離したら大変な事になる。
社員や、その社員の家族の生活もあるから、睡眠不足でやりたくないけど
でも、やるんだよ。
既に自分は自分の為だけに生きる生き方を出来なくなった。
それが自分の居場所なんだと思った。
宿命転換なんて私はいらない。
私は自分の人生を生きるよ。仏教を学んでいて良かったと感謝する。
とにかく
でも、やるんだよ! お会式(おえしき)は、日蓮門下の諸派で日蓮の命日の10月13日等にあわせて行われる法要である。
数十万人の参拝者が訪れる祭りとして、特に東京都大田区の池上本門寺が知られている。起源は定かではないが、浮世絵師の歌川広重(二代)の作品『江戸自慢三十六興』、『江戸名勝図会』で描かれていることから、江戸時代末期までには始まっていたと考えられる。
日蓮の命日の前夜(10月12日)はお逮夜(おたいや)と呼ばれ、各地から集まった講(信徒団体の集まり)が、行列し万灯や提灯を掲げ、纏を振り、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら境内や寺の近辺を練り歩く。
古来は、提灯に蝋燭を灯し、団扇太鼓を叩きながら参詣する簡素なものだった。纏を振るようになったのは、一説によると明治時代に町火消たちが参詣に訪れた事によるという。
近年は万灯の明かりとして、蝋燭の替わりに発電機を利用、電球やLEDなどで装飾している。これは単に万灯を目立たせる、豪華さを演出する等の演出の意味合いもあるが、これら万灯や提灯等の仏具は個人保有が大半であり、また、仏具補修費用が高額のため、蝋燭使用の場合に起こる万灯や提灯への煤けや延焼被害を防ぐ意図の方が強い。
Wikipediaより お会式・毎歳忌・成道会・花祭り・施餓鬼・懺法式は
子供の頃の楽しい思い出だ。
おそらく思想教育をされなかったから楽しかったのだと思う。
宗教を抜きにしたお寺のイベントってなんであんなに楽しかったんだろう?
子供の笑顔が集まっていた。
何の意味も分からなかったけど。
そして、あの子達も今では仏教に無関心。楽しい思い出だけが残った。
これって、凄く良い事だと思う。
オラクル「ネオ!選択の意味を知らない人が多いのよ。あなたは選択の意味を考えないさい」
これが仏教なんだろうな。 グプタ朝時代、ナーランダーやパータリプトラから
サンスクリット語文学やアジャンタ美術が隆盛したという説があるが
ここでシーラバドラの唯識派や、パドマサンババの密教や
ナーガールジュナの中観思想も、ここからアジア全域に飛び出したという説があるでしょ?
(芸術新潮ムック・駿台予備校参考資料集・山川出版世界史資料集で洗脳されたけど)
日本仏教ー大乗仏教ー後漢ーアフガニスタン・パキスタン伝来説と
南伝ルート説を主著する学者もいる。
ここについて詳しく一次資料を元に論述出来る人に出会った事がない。私はね。他の人には何かの発見があるかもしれない。
個人的に、この問題について私個人的な猜疑心としては
近藤治氏はわざと語るのを拒んでいるのではないだろうか?と言うわだかまりが有る。
だれか資料や分析ができている人がいたらアドバイスお願いします。 >>254 其れは”正しい”見解と私も同意しますが、実人生で苦しむ人に対し
人達に何のお役に立つでしょうか。
そういえば日蓮氏の苦悩は求得不得、求めても得られぬ苦しみでした。
真に徳が具わると、誰かが供えて下さるのですが、徳が足りませんでしたね。 オープン大学講義に参加させて貰っって、教授(著書を出しているそこそこ学級として権威がある教授)
立正大学・駒沢大学・創価大学・佛教大学・龍谷大学の教授も
また幸福の科学・大川隆法総裁への質問状や
光の輪の上祐史浩氏にも手紙を送ったが(お二方には特に、配達証明の書留で質問を送った)
大川隆法総裁または幸福の科学からの回答は無し。
光の輪は、返事こそあれ、論題を上座部について語っている。
そんなに謎のままにしなければならないタブーなのだろうか? <法華経勧持品第十三>
多くの阿羅漢や菩薩が、末法に於ける法華経の流布を誓願するが、釈尊は「止みね善男子」と悉く退けられ
唯一「地湧の菩薩」(地湧の菩薩は無数にいる。)にそれを託される。その地湧の菩薩のリーダを「上首上行菩薩」という。
末法に於いて法華経を説けば「三類の強敵」による迫害を受けると明確に記されてある。
しかも、六難九易を通して、末法の衆生に難信難解の法華経を理解させる事は「難事中の難事」と説かれてある。
最初に末法の法華経すなわち「南無妙法蓮華経」(妙法)を説かれるのは「上首上行菩薩」であられる。
その妙法を後世に伝え流布していくのが無数の地湧の菩薩となる。
一般的に「法華経の行者」とは地湧の菩薩を指す。
@法華経の行者は法を弘めるうえで、経文通り必ず迫害に遭う。
日蓮大聖人曰く「この妙法を語っていけば、必ず魔があらわれる。魔が競い起こらなければ、正法であると知ることはできない」と。
※「魔」とは正法流布を阻害する働きを示す。
Aまた、法華経の行者は、必ず諸天善神が守ると説かれてある。
※「諸天善神」とは守護する働きを示す
Bそしてさまざまな仏・菩薩が「法華経の行者の教えが皆真実であると証明するであろう」と説かれてある。
※多宝如来
法華経が仏の真実の教えであるならば、上記に説かれたことは必ず皆真実であるはずである。
そこで、日蓮大聖人の生き様を検証してみると、すべて寸分の狂いも無く符合する。
これは逆に法華経が真実の教えである事を日蓮大聖人が証明しているとも言える。
@とAは大聖人自身が証明され、@A及びBは日蓮仏法を正しく受け継ぐ創価学会が証明している。
よって、日蓮大聖人は法華経に説かれる「上首上行菩薩」と言える、そして法華経を説く資格のあるのは「仏」だけなので
日蓮大聖人を「末法の御本仏」という。 >>262
>徳が足りませんでしたね
徳が足りないというと日蓮に多少は徳があったかのように聞こえますが、
具体的に多少は徳があったとみなす根拠はあるのでしょうか? >>264
あなたはそれを信じているのですか?
つまみ食いの法華経のテクストだけにコミットメントを置いていませんか?
>一般的に「法華経の行者」とは地湧の菩薩を指す。
法華経を完読・熟読すると
その地涌の菩薩は、実は存在しないと
法華経の中の釈尊は言っているんですよ?
そこまで、読み込まれましたか?
地涌の菩薩よりも、ずっと尊い存在があるのだ!と法華経の中の釈尊は語っています。
さあ、法華経の何処にその様なレトリックがあるのか?
自分で法華経を徹底的に読んで探して下さい。
人に聞くのはダメなのです。
なぜなら、聴く前からバイアスとスティグマをもってしまっているのですから。
自分で納得する以外、心の底から、文底秘沈が見えないのです。
法華経についてディテールを語りかけて来る人を
ひとまず避けて下さい。
法華経を自分で読む事を勧める人を信頼して下さい。 >>265
アレキサンダー大王は権力でアルプスの氷を一年中保冷出来る氷室を持っていました。
アレキサンダー大王はアイスクリームが大好物だったのです。
さて、アレキサンダー大王のアイスクリームと
ハーゲンダッツのアイスクリームでは、どちらが美味しいか分かるものでしょうか?
ゾウが卵から生まれるなら重さは10キロか?いや25キロはあるはずだよ!
あなたが言っているのは、そういう事ですよ。
この>>262氏が言っている「徳」という言葉の凡庸なるラベリング・レッテル、バイアスで
あなたは勝手に話を進めているだけです。
何故、意図をもって書かれた文言を、比喩暗喩や修辞を無視して読もうとするのでしょうか?
何故、凡庸な人達は安易に凡庸な答えを期待するのでしょうか? ゆいしん‐えんぎ【唯心縁起】
仏語。一切の諸法は一心の縁起によって顕現したものであるということ。
一心
宇宙の事象の基本にある絶対的な真実。真如 (しんにょ) のこと。
また,仏陀の救済を信じる心は,その本質が仏陀の心そのものであって,このような信仰を得た人は,凡夫でありながら仏陀の心をそなえているので,このような心を仏凡一体の一心と呼ぶ。
仏語。あらゆる現象の根源にある心。
唯一絶対の心。すべての現象の根源としての心。真如。
絶対なる全を表す。すなわち、万有の事象の基底にある絶対的真実。
仏教の最初期の文献には、このような意味の一心はなかったが、大乗仏教の文献に頻繁にみられるようになった。そこでは、あらゆる現象の根源に存在する心とか、衆生に内在する真実なる心識の意味で用いられた。
『華厳経(けごんきょう)』に「現象界は虚妄であり、それはただ一心のつくりたるものである」と述べられているが、この一心の実体について後世の学僧は、如来蔵(にょらいぞう)とか仏性といい、
さらに阿頼耶識(あらやしき)とも考えた。また、一心は禅定(ぜんじょう)と同義にも用いられる。この場合の一心は心を一つにすること、一つの対象に心を向ける意味である。したがって心の動揺を静めることをいい、
坐禅(ざぜん)時の精神統一を一心で表したり、念仏時に阿弥陀(あみだ)一仏を念じ、他の仏を念じないことを一心で表したりする。 本日も妄想書き込みのポンコツな1日でしたね
お疲れw >>270>>269 君にペンネームを進呈する 埋草伸一が宜しい 伸一は大作に因み
埋草は堆肥にもならない阿保臭さ。
日蓮崇拝、日蓮信仰、日蓮尊崇の在り方は終了したと思いなさい、諦めが肝心。 最近、あらためて思ったんだけど
仏教を学ぶには現在哲学の世界で議論されてる
「意識のハードプロブレム」に対する視座が無いと
仏教の根本原理は理解出来ないよな。
ただ本を読むだけの人は概論で止まる危険性があるし
宗教コミュニティに帰属してしまうと正常性バイアスが発生する危険性があるし
何れにしても論理演算としての仏教・意識の流れは理解出来なくなってしまう。
何らヒューリスティックでも無く単純に
「仏法って理屈じゃないんですよ」と、誰かに教えてもらった切り返しをする人に出会ったら
スルーしよう。
1番仏教から遠い人達だから。 >坐禅(ざぜん)時の精神統一を一心で表したり、念仏時に阿弥陀(あみだ)一仏を念じ、他の仏を念じないことを一心で表したりする。
不動心という語は誤解されている。
断崖絶壁に立つ。怖い。怖がる心的作用が起こる。これがそのまま普遍的な事なのか?
怖い気持ちを初めから怖がらないのが不動心では無い。
怖いけど「それがどうした?」(ただの縁起によって生じた感覚ではないか!)と
すぐに心が素早く動く心が、本当の不動心。
不動心は止まる心ではなく、自由にコロコロ変える柔軟性がある心の事を不動心という。
「一心」
これらを論理演算や共分散構造分析的に表すと、一心というのは貴方の言う通り
パラメータ・自動変数がその時その時で変わっても、その関数・論理演算式自体は
変わらない。ここを見て取れるか?が仏法理解の重要な部分であり
マルクス・ガブリエルの哲学の重要な部分である。
「一心」についての貴方の意見は間違ってない。いや、間違っていない分析の1つである。
しかし何故、世の中には意識そのものと意識の論理演算を凡庸な言葉としてインテグレート
しタギングし論証でき得ぬオブジェクトとしたがる「凡庸な人が多い」のだろうか?
哲学なら精緻な分析と論理が示されるから、諦めて哲学から去って行く人は多い。
しかし宗教は、権威主義的であるだけに、自己の思惟をあきらめるからこそ、宗教を諦めきれない人が多いのだと思う。 とにかく
このスレに集う人達は
誰の意見にも左右されず
ただ1人で
法華経を
読んでいただきたい。
答えは其処に在る。
(真言宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗に関しては他スレにて意見をのべている。日蓮と法華経の話は一切していない) >>273 諸行無常をご自分の言葉で長々と説いてますね。
瞑想の深まりに(心の固着を抜かす)があります
瞑想は己の心の機能を発見し、統合失調を治癒させる作業でもあります
壁に行き当たったら、上の文を思い出して下さい。
私が、日蓮とは何者だろうか?有名だが彼に感じる仏教徒に有るまじき違和感
その正体<日蓮は離欲を得ず>を気付かせてくれたのが、瞑想でしょう。
長年の疑問を解き安堵する、此れも一つの悟りじゃないですかね。
『法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死(ころ)す』 等云云、文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども法華の心に背きぬれば還つて釈尊・十方の諸仏を殺すに成りぬと申す意なり >>275
仏法のオーセンティックさを表すには維摩の一黙が帰結なのだが
そこまでたどり着けない人への道案内として法華経や禅の公案が存在する。
しかも法華経や大乗経典や公案や正師の喝も鈴の音も
最後まで同行してくれない。
これを理解せずに、仏教を学ぼうとするのは地図もナビゲーターも持たずに
目的地へ車を走らす事と同じである。
優秀な指導者や教育者や教祖はヒューリスティックに目的地の近くまで誘う
そこから先はほっとくのだ。これが仏法上の慈悲・愛情だ。
最終目的地を見つけるのは自分だ!という悟りの喜びを取り上げない為の目的があってこそだ。
あなたの失敗の決定的な根拠を私は見た。
あなたは対立二言論をもってして、仏法に臨もうとしている。
東京で「だいたいあの辺りが天の川だよ」と教えてもらうより
北海道・美唄で夜空を眺めて見える「天の川」は東京とは違う「天の川」!と思うようなものだ。
リッツ・カールトン東京から見える天の川も
宮崎県小林市で見える天の川も、同じ天の川だと教えるのが大乗仏教のアナロジーだ。
「概念的には同じじゃん」というような縁起と空の理解の無い人には別の話だ。
無情・無我・空・縁起さえ理解できない人は、絶対に仏法を理解出来ない人だ。
「じゃあググって調べてみようか?」と思う人も絶対に仏法を理解出来ない人だ。
既に失敗している土台から始まっているからだ。
生半可に仏法をかじると、このような危険性がある。それはオウム真理教と大同小異である。 >>277 やって見なきゃ判らない、最初から大物を狙わずとも良い。
そーいう心がけですな、足下から改善ををしましょう。
修行をしたくない人は、百も千も理由を探し申します。
貴方も其の同類なり、貴方の嫌な修行は他人に見せずコツコツと進める。
>>278
なにか誤解してるというか、初めからバイアスありきで語っていますね
哲学的視座を持ち続けられる人は最初から大物を狙える。
それ以外の大多数。つまり凡庸な人は
凡庸な導き方で凡庸な人を導かなければならない。という話だよ。
「ウィトゲンシュタインの論理哲学論考を読みましたが、どこが凄いのかわかりません」という人や
「マルクスガブリエルの、なぜ世界は存在しないのか、を読みましたのか何が凄いのかわかりません」
という人達に初めから「大物を目指せ!」と言っても仏法を理解する事が出来ません。
せいぜい哲学の学術用語の見慣れない難解さを指摘して
「そんなに難しく考えなくては良いのでは?」という論題のズレた結論を自分自身で作り出し
「哲学って難解な言葉は使った衒学で賢くなった気分を味わう趣味だねw」と誤解してしまうのです。
これは仏法もそうです。
「本来、仏法はそんなに難しい物では無いのです」と、仏法を導く方法論自体を
仏法だと見誤る事と同じなんです。
人間ひとりひとりには知らない事はたくさんあります。
ただ、自分が知らないという事だけで、安易に否定する人は、そこまでの人なのです。 >>279 おしゃかさんが、弟子に君が説く、難解な教えを聴かせたと思うか?
素朴な行為を先ず教え、純朴に遣らせて人格の変容を齎したと私は信じる >>281
それは、あなたの感想ですよね。
よく考えて見て下さい。
お釈迦さんは対機説法を重要なコンセプトとしていたようです。ここは異論ありませよね?
ここで、よく考えて見て下さい。
作家が本を書く。それは読者に読まれる事を期待して書かれはしますが
その読者がどういう人か?分かった上で書いている訳では無いのです。
お釈迦さんが伝えられるように徹頭徹尾、対機説法を繰り返していたとしたなら
不特定多数の読者に対して語っているはずが無いのです。
今、目の前に居る人に対してお釈迦さんは語っているのです。
つまりお釈迦さんは語る相手が、どのような人であって、どのような悩みがあって
どのくらいの知性があるのか?をちゃんと分かった上で
「その人に合わせて、お釈迦さんは語っていた」に違いありません。
それは、あなたや私に対してお釈迦さんが語る内容では無かった筈です。
お釈迦さんが対機説法という方法論を使っていたらしい、という事をを信じればです。
言ってる意味。
わかりますか? 智の見解では華厳経は釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。
「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。
華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている。
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。
これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
「六十華厳」の中で特に重要なのは、最も古層に属する「十地品」と「入法界品」の章とされている。 >>282 私はお釈迦さんの実地
の事を語って居ます。
当時の民衆は釈迦を招聘したがり、多くの集落は伝手を求め釈迦の一同を
招待をしました。
その土地で釈迦は、村民、住民から供養物を受けとり
供養に応える、祈りを即座に返し利益を与えています。(家内安全、夫婦円満、五穀豊穣
難病治癒等々)
これが在って、仏教の利益は広大であると信が起き、仏教は
印度に広がりました。
最大の功徳を受けた人たちとは,直弟子となり釈迦に従い遊行し有余依涅槃を得た者です。
この話は、故中村元博士著作による。 >>285 本題を日蓮に戻します
求めて得られぬ苦しみは、常に人生につき纏う事です。
物欲が叶わない、異性から愛し愛されたい、善き進路を得たい、暇が欲しい、金が要るとか
睡眠、排泄の欲等々この欲は生命に関わる根源、満たされねば死。
生きてる限り日々刻々、欲求が途絶えるものでは在りません。
さて日蓮氏は、少年期、青年期に天台僧侶となる路を断念し寺を逃避しました。
断念の理由は実家からの金銭支援が無く、師範の地位である阿闍梨位を望めないと
身に滲みて思い知る故です。
例えて言うならば、一級クラスの頭脳明晰でありながら貧困の為に進学を諦めるような
ものと思います。
其れが日蓮、生涯の痛恨事となり解けません(所謂強いトラウマ状態)。
その為日蓮は「離欲の心境に住す」人格を得られず終いでした。
彼は目に見える宗旨、寺領、弟子口分、己が初代座主を得るべしと
上の事業を残そうとして奮闘しますが資格がない。
日蓮師に共鳴される信徒は、日蓮の遺志を実現したくなる誠に奇妙と思います。 >>262
それで日蓮が多少は徳があったという根拠は見つかりましたか?
ちなみに私見では日蓮に徳は全く無く、むしろマイナスの徳、つまり悪徳は容易に指摘できる と思います。
思い込みより蓋然性、知ったかぶりの基地害ではなく、まともな思考者と議論したいのです。 >>287 寺を寄進して下さ有徳人は無し。
信を寄せてくれる人が居なかった。
此れ以上の表現は無理でしょう、
君の読み方と要望は変。 >>290 この程度の反応しかない、昔はバリ活が全国各ブロックに
涌くようにいたもんじゃがなぁ。
創価の大事は我が一大事!選挙は法戦!先生と息を合せて!とかね
あの勢いって、何だったんだろか。
近所で有名なP違い信者と言われるKさんも活動停止だもんなぁ。
※昔が善かったわけでは御座いません、現在の方が改善されてます 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし(中略)ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」
さぁ、Fを取ってはお題目、Fを取ってはお題目をスローガンに今回の法戦を断固勝ち抜いていこうではありませんか! 法華経に於いて初めて「事の一念三千」の法門が顕され仏の生命(仏界)も一人ひとりの胸中に備わるものであり九界の生命もまた、仏の生命に備わるということを明かされた >>293 訳文の相違
チベット版法華経では、十如是ではなく五如是が記述される。
これから、一念三千の理は生じない。
原典は河口慧海師の報告。 本日もポンコツ妄想書き込みとポンコツ徘徊(笑)のお仕事お疲れ
おやすみ 妄想とイライラで眠れませんでした笑
妄想書き込みのポンコツな1日でしたね
お疲れw 祈禱抄に曰く
大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず
今回の法戦を法華経の行者の祈りで断固勝利して参ります。( ・`д・´) 「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つまったく差別無しと解りて南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」 投稿298と299は、時代が進み、こうなって来ると「褒め殺し」みたいなもの。 結局、今現在では「真に正しい仏法」は存在しないのだな
創価の本尊は捏造したエセ本尊だし、宗門の「戒壇の大御本尊」は
後世の偽作で全くの紛い物らしいから。
日蓮大聖人が執筆した真の御本尊は複数あって、各所で退蔵されて
眠っているが、1体は宗教法人・佛所護念会に本部御本尊として
安置されている。 「一念に億刧の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」
勝利の一念で今回の法戦にて、多くの友へ語るに語り切り、勝利して参ります。
( ・`д・´) おはよう
昨夜は妄想連続ポンコツ書き込みお疲れさん(爆笑)
ウケる 創価学会の古参会員は文章を記すと、何故か爆笑する癖を有する人物多し。 ふと思ったのだが、こんな疑問。
日蓮の臨終を看取る、五ろうそう達の前歴だが
他所の寺からの落ちこぼれ、私度僧、どこかの穏坊、
何にせよ度牒は有せぬと思うが、知る人居ますか? 「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」
現状がどんなに厳しくとも、それを乗り越えて今回の法戦を絶対に勝利します
( ・`д・´) >>306
亡くなったのは東京大田区に今もある池上本門寺
その後亡骸は身延に送られたのかな
御書に大事なことはもう明かしてあると名指しで書かれていた記憶がある
ウィキペディアで日向 (日蓮宗)を探すとごたごたとした人間関係が垣間見れる
いづれにせよ法華経とは関係のない第三者の視点で本になってるようです
日蓮と弟子たちは法華経の行者らしく人の死というものを通過点としか考えておらず
それぞれの思うように弘教第一に六老僧たちは奔走したようですね
もちろん先人の報恩に感謝すれど今生きてる人たちを仏に目覚めさせる事が
最重要かと思います。 ここで確認しておきます。
摩訶毘盧遮那(マカビルシャナ)
サンスクリット語ではマハーヴァイローチャナ、すなわち「偉大な光照者」。空海の開いた真言宗において、最も重要なブッダです。
弘法大師(空海)によると、あらゆる宗教における神や悪魔は、すべて大日如来の現れであり、大日如来の身体は宇宙そのものだといいます。
同時に、1粒の微塵の中にも大日如来は存在すると考えられており、大日如来は、白蓮華に坐して瞑想を行っている姿で、マンダラの中心に描かれます。
大日如来は、真言密教において一切諸仏諸尊の根本仏として帰依し観想されている本尊です。
大日如来の名前は、大日の智恵の光が、昼と夜とで状態が変化する太陽の光とは比較にならないほど大きく、この世の全てのものに智恵の光をおよぼして、あまねく一切を照らし出し、
また慈悲の活動が活発で不滅永遠であるところから、特に太陽である「日」に「大」を加えて「大日」と名づけられています。 >>306
日蓮自身が私度僧なんだから弟子が度牒をもってる道理がないでしょ。 >>309 何方かの引き写しは無意味なのでやめましょう。
貴君には何故、日蓮仏法で、一切衆生が成仏不可能な理由を記して頂きたい。 「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
信心の血脈は創価学会員の中で受け継がれているのです。 >>311
日蓮のは仏教ならぬ日蓮教なので「日蓮仏法」などというのは語義矛盾であって意味をなさない。
したがって日蓮教で成仏不可能なのははじめから明らかであって証明を要しない。 >>313そこんとこを、もう少し詳しくお願いします
日蓮仏法と言い出した個人は誰ですとかね 詐欺師は何の根拠もない宣伝文句を繰り返して、
愚かな人を騙し続けるだけ。 お疲れw
今夜もイライラと妄想書き込みとオーバードーズで眠れないですね 笑
おやすみ 某宗教団体の機関紙で「異体同心」という言葉を見かけるが、この言葉、ちょっと危険である。
真面目に書くよ。
部分対象と器官なき異体の多数多様体問題だ。
スピノザが言っているように現実界を対象フィールドにする言質である限り
この内在的実質と部分対象は最終的な属性。
そして「異体同心」がこの実質に所属するのは、まさしく
それらが現実に区別され、互いに排除せず、対立し合わない限りにおいて成立すべき概念だ。
この点において詳細なる補足が必要である。
見方によって若い女性に見える絵が、別の味方によっては老婆に見える絵の様に
初見者に対して責任を持つ必要がある。 異体同心は日本に蔓延している同調圧力の根源
もちろん誤用であるけれども
学会人が好む「桜梅桃李」と「異体同心」の解釈に本来は矛盾が生じない
これを壊してるのは低俗な組織論
馬鹿が上に立つと担ぐ連中が道理を曲げていくこれが創価の各階層で起きている
ゆえに創価学会が壊れていくわけなんですが(笑
政府の批判はしてないよ一応選挙で国民が選ぶわけだからでも統計改竄や恐怖政治は怖いね
池田の師匠の戸田会長は「青年は政治を監視せよ」と言葉を残している
公明党にこの心は残ってるか疑問を感じている昨今。 >>318
創価とかさ、新興宗教だし、乙な部分あるよな。
なんで、創価学会同士でrapeするん?
反吐出るよなー笑 我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
今回の法戦で、どんな諸難に遭おうとも、題目を上げきって勝利して参ります。
( ・`д・´) >>318
>もちろん誤用であるけれども
ここが問題なんだ。
集団的無知を認めさせてしまう組織論問題だね。
確信犯
姑息な手段
恣意的
この3っつの言葉は誤解されたまま、何十年も皆んなが使っている。
常用されるのは文化の変容として認める事は出来る。
1番問題なのは
「正確な意味で」確信犯や姑息な手段や恣意的、という語を使う人に出会って
「あの人、日本語もわからないんだぁw ろくな教育受けてないねwww 」
と言う
ろくな教育を受けて来ないまま生きて来た人が、シッカリした教育を受けた人達を
排除する事だ。 >我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし
日蓮も法華経に疑いを持ったのかな?
まこのときに忘れちゃいかんでしょう
法華経の行者たる日蓮の御書とは思えない。
法華経130ページに如我等無異=「我が如く等しくして異なること無からしめん」
とは仏の誓願。
仏の願いが叶わないことがあってはならない
即ち、この文章で仏として生きなければならないと自覚できない人は信心がない
さて、仏として生きるにはと悩みぬいて50余年
君はどう生きたのかと己に問われる日が必ず来る
創価で選挙ごっこしてる暇などないぞ
公明が作ってるのはコネ社会、平等な自由競争などなく
公明が与党いりして今にいたるまで格差拡大している現在を注視せよ
勉強しない子供たちは勉強してもまともに就職できなかった親を持つ
生きる為には何でもありの腐った社会が広がりつつあるように感じてるが
君の間近で見かけないか?幹部とか言ってる人たちに特に多い笑 >>314
私は日蓮その人にそもそも批判的ですが、私が日蓮教と呼ぶのは日蓮本仏論を本義とする宗派です。
つまり日蓮正宗およびそれから派生した創価や顕正会など新宗教は日蓮教と総称し、これらは仏教と認めません。
また私は法華経そのものも評価しませんが、これが一応大乗仏教経典であることは認めます。
したがって法華経の教主釈尊を本仏とする日蓮宗は崖っぷちで仏教に踏みとどまっていると考えます。
同時にそれから派生した霊友会や立正佼成会など新宗教も仏教団体と考えます。
日蓮本仏論をだれが言い出したか私は知りません。以前は日蓮教の主張を元に日興だと思っていました
その後、日蓮教に詳しい方から日興以降だとの指摘がありましたから、多分そうなのでしょう。
しかし誰が言い出したかはともかく、日蓮の教説は仏教ではないため、仏教を否定せざるを得ない矛盾を孕んでいると考えます。
私としては日蓮教が仏教を詐称せず、日蓮教と名乗れば何の問題もないと思います。 日蓮正宗やらその分派は社会情勢に呼応して栄えた、宗教色が薄い宗教団体とも言える。
戦後の闇市や朝鮮警察、人身売買など生きるのも大変だった社会を考えないと
見えて来ない部分がある。それこそ「パンが無ければケーキを食べれば良かったのに!ばかだねえ!」
と、同じで
宗教団体は言わば、記述体(エクリチュール)が一個の「外」の名において作られたものであり
実はこれでは不十分なのだ。
つまり世界の比喩像として二分法的、回転軸的も否定しなければならない当体であるべきなのだ。
宗教団体について語ると、比喩像も意味作用も主体『観』作用も
本来、「可変的諸次元」を表すという、組織自体が方便にならなければならない。
これが見えない人が多いからこそ、終戦後の新宗教が流行ったり
1920年代から1930年代の大恐慌時代、アメリカのエヴァンジェリカル教会に入信する人達が増えた。
ニューディル政策が機能するまで、信心よりも一切れのパンとスープの為にNYやシカゴの
人達は教会に通った。 此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。
日蓮大聖人様は上行菩薩として末法での法華経の流布を釈迦牟尼世尊から付嘱されたのです。 胡散臭い詐欺師が湧いて出てきたね
このノリは大石寺だろw 未来で法華経を流布する人達こそ菩薩という大乗釈迦からの応援歌についてまあしょーもない
この解釈も分派が出るにつれ社会仏などというのを造り出した
団体というものは実に下らない つまり、「日蓮正宗」って仏教の教義をかなり取り込んで派生した
仏教とは異なる宗教で開祖は日蓮の弟子であった日興(日蓮正宗第2世)
強いて言えば、「日興教(にっこうきょう)」
仏教の1宗派とはみなされないので、日興宗とは言わない。 日蓮正宗系の分派も含めて
現在の人間が語る事は、ほとんど不可能。
よほどの知性のある人以外は。
説明しよう。
知的で無い人や、このスレ住民のような人の批判的言質・文言は
類似と記号(シーニュ)の区別がつかないところで
自分にとって「こうであって欲しい」という標識やミラージュを作り出し
その自分で作ったアイコンに対して信仰心を持ってしまう。
類似と記号の関係性を冷徹に見れない者は、流動性の中の関係性が見えない。
テクスト、ランガージュ、複写の交錯しか見えない。それはスタティックな関係性しか見えないという事だ。
それは
目に見える物、読まれるもの、語られる物
に対して諸存在と類似していない事を理解出来ないからであり
理解する事を拒むからである。
宗教団体を語る問題は全てここに収束する。
地に潜んでいた底流を顕在化できなければ
分水嶺を確定する事は出来ず
だれも、宗教団体に対して
経験的にも
先見的にも
何も語る事は出来ない
(悪口や愚痴を言う権利は当然ある。自分の言葉に最後まで責任さえ取れれば) 三大秘法稟承事
「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初そのかみより以来このかた、
此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり」
釈迦牟尼如来を本尊とすべきとの仰せです。 >>324
キリスト教に例えると、ジーザスオンリー、ワンネスみたいなもんですかね。
異端。
いや、日蓮はそれ以下ですけれど。 >>335
ちょっと気になったので書かせてもらう。
日本で「キリスト教」と言うと、なんとな〜くの認識を持ってキリスト教を分かってるつもりの人が多くなってしまう。
335氏はニカエア公会議やエフェソス公会議、エヴァンゲリズムとエキュメニズムや
トリニティ問題についての知識がある人かも知れないが
多くの日本人の前で「キリスト教」と言ってしまうと
それぞれがキリスト教というアウフヘーベン・止揚を自分勝手に作り出し納得した気でいる
人達を生成してしまう。
私はキリスト教について語っているのでは無い。
大乗仏教の独善的ミラージュの生成と、ソレを信仰対象としてしまう誤謬の話をしているのだ。 >>326
そこなんだ。仏祖に連なる相承のない仏教はない。
しかしまともな修学も修行も受戒もしていない 日蓮には当然ながら相承がない。
そこで仏教らしい体裁をあつらえるためには日蓮が釈尊から直接付嘱を受けたか、あるいは日蓮がそれまでと独立した末法の本仏だという立て付けにせざるを得ない。
そこで数多の偽書が次々と製作されてきた。日蓮教が偽書を必要とし、偽書製作者は日蓮が本仏という擬制を必要とした。
しかし日蓮自身は自分が本仏で あるとは考えていなかったと思われる。 御本尊に自行化他の題目を唱え、御書根本に戦うならば、「教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき」と仰せの如く、願った通りに功徳爛漫の勝利の人生を開いていけるのです。 病膏肓というと何だが、こういう人がいるないと本スレは面白くならない。 全く法華経を勉強しない創価は
池田が良く口にしていた「仏法は道理」すら理解しようとしない(笑 >>213,214
そんで、このスレ的にはサラッと流されてますが、
日蓮題目には文証がない。
◎も・ん・し・ょ・う・が・な・い。
というハナシで、日蓮仏法の根幹を成している、
ちょー重要な、ダイモンダイなんですけど、
この件ダレもなんも言ってこないのなw
で、べつに文証なくてもどこがいったい悪いの?
とも思うわけで、外部の無宗教人間としてはあまり興味ないんだけど、
でも文証なきゃダメダメっ!
と言ってんのは、大聖人さま本人なんだからね。
他の宗派を口汚くののしるために、
文証なければ功徳がないし、それはインド外道と同じ、
と主張してるわけよ、このくそバカブタ坊主さまは…。
でさあ、四十余年未顕真実と五時教判が文証だと言ってるけど、
それらのへんなこじつけによると、それらしき文献の記述も実際にあって、
法華経経典を宇宙サイコーの唯一無二な聖典であると、
お釈迦さまも天台大師もホメ讃えてますよ、という話を百万歩ゆずって、
ハイハイそうですよね、と認めてあげたとしてもだよ?
そっから次の一歩先の話ですよ、たとえ法華経が宇宙サイコーであったとしても、
◎その法華経の功徳をあらわすために、五文字題目を唱えなさい…。
↑これはいったいどの経典や文献に、文証として書かれているんですか?
というファイナル・クエッションに進むわけだよね…。 >>341
肝心なとこはちゃっかり逃げてしまうサギ集団が日蓮仏法なんだよな。
他宗派との法論とやらで、連戦連勝の負け知らずだったはずでわ?
いっつも上から目線で、経典やら古文漢文の原稿持ち出して、
シロートさんをダマらせてる、知ったかぶりの、
日蓮教学者さんたちなんですけど、
なんで題目には文証がないムジュンを、ダレも説明してくんないのか?
じっさいはただの学者さんごっこで、幼稚園児レベルなんかなああ。。
とにかく文証なければ功徳はないと大聖人さまが仰ってるわけで、
そんならナムナム題目には、功徳がなくてインド外道と同じこと、
という大聖人さまの説明で間違いないんだろうかね?
相変わらず都合が悪くなると「…」ダンマリがつづく日蓮仏法ですが…。
※※
そんで結局さあ、題目には功徳なんてダレが見ても存在しないから、
だから文証みたいな、シロートが指摘しづらい古文漢文を持ち出して、
目くらましの猫だましみたいなことをやってるに過ぎなくて、
たとえば、こんな呪文があったとして、
水道の蛇口をひねれば、キレイな水が出てきます。
↑↑この呪文にはじっさいの功徳あるのが、誰にでもすぐにわかって、
そんなの当たり前だもんね、唱える必要さえなくて、
蛇口をひねるだけでしかない…。
でも題目には功徳なんてないから、仏教&古文漢文という、
すぐにはわからない、昔の権威を引っぱり出して世間をゴマかして…。 >>215,217
そしてこの、日蓮師匠が天台僧侶ではない話は、
題目に文証がないのと並ぶ、日蓮仏法の二大致命傷な
アキレス腱といってもいいんだけど、
これも相変わらずダレもなんも言ってこないですな。
でね、みんなあまりよく分かってないかもだけど、
日蓮は天台僧侶でない → 鎌倉当時の基準ではニセ坊主である
→ 日蓮は仏教の相承を受けていない → 日蓮は仏教ではない
→ 宗祖日蓮以降の日蓮教は、すべて仏教ではない外道である。
ということになるんですよ、だからモンダイにしてて、
日蓮さんが相承を受けた天台座主のお名前は?
または日蓮が天台僧侶だと主張するのなら、
天台座主発行の菩薩戒蝶と呼ばれる身分証を、
常に身に着けていなくてはダメなんだけど、
菩薩戒蝶は御書にはまったく書いとらんわな、
そして菩薩戒蝶がどこかの寺に保管されてないと、
それは完全にオカシイことで、日蓮教団がウソついてることになるよね。
でもじっさいには聞かんもんね、身延にも池上にもなさそうで、
この質問の答えは、いまだにダレも関係者から出てきませんが、
まあ都合よく、明治初めの身延の書庫蔵火災で燃えたことにすんのかな
鎌倉時代は原始時代だから、身分証がないと思ってるわけ?
それが日蓮教のみなさんの歴史認識なんか? といまここに問いたいわ…。 >>342 スペース足りなくてなかなか書ききれないけど、日蓮教の主張する文証が、
法華経経典をサイコーレベルと言ってる話を、
ハイハイごもっともですね、さすが日蓮教はグレード高いわ…、。
と認めたとしてもですよ、その次のステップとして、
法華経経典さまの功徳を最大限に抽出する方法は、
五文字題目にナムナム帰依しなさい、なんてことはどこにも書いてなくて、
これは法華経にもないし、他のどの経典・文献にも存在しません。
んじゃあ、法華経さまの功徳を現すためにはどうすればいいか?
といえば、受持讀誦の4文字がめちゃめちゃいっぱい書いてあるじゃん。
法華経の経巻を両手で押しいただいて、それを押し開き、
おもむろに文章にリズムをつけて読むことで、
いわゆる読経ってことでしょ。
そうするとさ、方便品と寿量品の二つだけ勤行しろというのも、
なんの根拠もなくて、ブタ坊主さまが主張するこの件の文証は、
いったいどこにあるんですか? とまた聞きたくなる。
さらに次は安楽行品ですよ、文証のないインチキな題目行法とは違い、
これはれっきとした法華経経典の一部なのではないですか?
菩薩の四つの行いに従い、俗世間と縁を切って、
静かな場所で座禅をしましょー、と具体的な行法が
指示されていませんか? 日蓮教信者には見えないのかもしれませんが。
結局、法華経にハッキリと書かれている受持読誦、
安楽行品、菩薩の四つの親近処と、静かな場所での座禅の瞑想、
こちらこそが文証のある、法華経の功徳を引き出す正しい行法ですよ。
てことで行法もインチキしてすり替えてるのが、日蓮題目なんですけど…。 >>344
> 結局、法華経にハッキリと書かれている受持読誦、
>安楽行品、菩薩の四つの親近処と、静かな場所での座禅の瞑想、
>こちらこそが文証のある、法華経の功徳を引き出す正しい行法ですよ。
法華経を理解されてますね。特に軸展開として重要な安楽行品に注目出来るのも仏教センスがあるからでしょう。
あなたの仰る「何故?法華経の誤読が生じるか?」ここには大きな問題があり、しかし無視される問題が元々あるのですよ。
だから知性的な人でない限り法華経は読めないのです。読んでもそれは文字を目に入れているだけです。
ちょっと哲学的に説明しましょうか?
法華経はトートロジーの叙述で構成されています。「本を読み進める」という表現がありますが
法華経においてはforward や backward が同時に存在する同義反復がテクニックとして多様されています。
それへの解釈は非常にエソテリックなもので、しょうがないのでアリストテレス的な
類比関係の復活に丸投げし、それを喧伝する仏教指導者が現れたのです。
これらは「恒常的媒概念」として役立つだろうと考える指導者たちによって
可視的な最小限の同一性すらもない諸要素の総体を
相互に関係ずける事が可能だという意志を実質、喧伝しています。
元々の元凶は、様々な宗教団体(仏教以外にも)が聖書や経典、教義・教条を
機能的等質性と考え(論証無し)思考の秩序ずけを、後出しジャンケンのように後から作るのです。
そこを指摘すると「論証が必要無いのが宗教なのです!」とドヤ顔で反発してきます。
>>344氏の書き込みの根元にある行動原理は私にはハッキリ見えます。
言葉は荒い部分もありますが、リプレゼンテーションにおいて
このような形になるのは仕方が無いとは思いますが。
あなたの言っている上位概念は間違ってはいません。 紙切れをナームホケキョッ!ナームホケキョっ!と言いながら安置するときは笑ったなぁ
日蓮のお絵かきにお祈りとかもどこから来てんだか
法華経に文証ありますか? 戸田先生の講義より
「四つの安楽行というのがあるのだよ。なかなかヤカマシイのだよ(中略)それを大聖人様は、型を破っちゃった。『南無妙法蓮華経といえば、みな安楽になるから、それでいいんじゃないか』と」。
「釈迦仏法の安楽行品からいけば、『心ではこう思え。口ではこういえ。体ではこうやれ。願いはこう立てろ』と、いろいろな条件をつけたけれども、大聖人様の安楽行品は楽なんだよ。『困ったら、御本尊様に、南無妙法蓮華経といえ』というのです。そうすれば、安楽になってしまうじゃないか、他はないでしょう」。 >>347 鎌倉当時の民衆向けに説いた「安易な教え」ですね。
現今の教養ある人たち(新聞、週刊誌を読み理解できる程度で充分)
には従えない低級さじゃないですか?肝心を抜かし教えてOKって何だ?
廃れるべき宗教と思われますね。 >>349
教養のある人達wwww
教養のある人達は5ちゃんなど見ませんよww >>350 昔の庶民と今の庶民では教育条件が違うという話題、君は人物が捻じ曲がっています
日蓮が天台の四度加行を修して居ないと断言できる。
理由は、彼が残す文字による曼陀羅にある、子細に検分すると梵字が誤字表記である。
この字は不動明王の種字と宗門に伝承され、後世の法華宗の僧侶も日蓮伝の書式を記す。
不動真言の慈求呪の最後にカンマンと唱える。
このカン字が不動の種字である。
四度加行を済ませているほどの人なら絶対に間違いっこない文字と云える。
平仮名のかきくけこを正しく筆記出来ない程のレベルなのだ。
昔は、供養の儀軌次第を師匠からは拝借し、書き写すので梵字も正確を期す。 >>350
いいね、その姿勢
安楽行品にも戯言は控えろよ書かれている
美しい水で育ったロータスよ!咲き誇れ! >>347
ワロタw
それじゃ安楽行品でなくお気楽行品だよ。
しかし戸田の説明は日蓮教としてはその通りと言える。 宗教の存在。自体を否定する事は出来ないけど
宗教的目的論は主観的格率にすぎず
その適用範囲は狭い
例えば、いま雨が降っている。
雨にうたれている自分がいる。
いま自分がいる所で雨が降っているかどうか?で自分にとって気象の全貌を知る事は出来ない。
と言うカントやヘーゲルが言う目的論批判が語る(上記の引用はウィトゲンシュタインの論理哲学論考より)
「手段にとっては、どうでも良い。という形式」が宗教から強めに出てくると信者は迷ってしまう。
手段は形式的推理の形式的媒辞。だからだ。
哲学徒が宗教を持ちたがらない原因はココにある。 >>351 継続的説明
不動法と云われる、不動明王への供養法が在り少しだけ解説したい。
十四布字観が省略形、詳細には十九布字観である
供養法を修する、行者は自己の身体に不動明王の真言に由来する梵字を
十四字、または十九字を配置するように観想する。
其の時に字形を間違っては台無し。
其れを日蓮は全く習って居ない、その証明は法華の題目曼陀羅の誤字の梵字にある。 >>355
いや、だから日蓮の無知無学は隠しようもないのだよ。
なのに必死で知ったかぶりをする姿勢に後世の創価信者を彷彿とさせるところがある。
このスレにもいるように。 南無本因妙の教主・一身即三身・三身即一身・三世常恒の御利益・主師親三徳・大慈大悲・宗祖日蓮大聖人、御威光倍搆范傴u廣大御報恩感謝徳の御為に 日蓮のロールモデルは空也上人かな
空也上人は善行エピソード山ほどあるけど日蓮は全くない、探しても探してもない 憎んだ忍性もそうだった日蓮は何もしてない、口だけ
極楽寺の火事を喜ぶ人間性、蒙古撤退に対しての恥ずかしい言い訳 >>359
同意。坊さん以前に、そもそも人としてどうよってレベルなんだよなあ。 >>357 変な文句が並んでいると思うでしょうが、これって
日蓮氏が仏様であると思い込んだ坊さんが書き連ねた文章で御座います。
一身即三身とは日蓮が生きて居ながらにして、法、報、応の三つを具備なさると
賛嘆するデコレーションなので御座います。←嘘だけどさ〜〜 日蓮は法華経を決して信じておらず、商材として重宝していただけのように思われる。 >>363
法華経もソレ言ってたね
法華経の中の釈尊役の登場人物が
お経やら宗教指導者の言葉は
メタフィクションとしての道具や商材見たいな物だから
それについて、アレは間違ってる!だの、コレの方が正しい!
という人達とは関わるなと言ってる。法華経の凄さってココだよな。
法華経って誤解されるけどみんな仲良く信じましょうね〜、という仏法を否定してる
日蓮があえて自己言及のパラドクス自体を方便にしているのかどうかは今となっては結論を得ない
がアフガニスタン・パキスタンに誕生した大乗仏教は
個別的な意思と表象は皆それぞれ違うし、その違いを持ってても良いのだけれど
そんな、ひとりひとり違いを持つ人達が違ったままで人生を見つめる(必ずしも信心と呼ばなくても良い)
そして対立する事なく、1つの組織論的な全体主義なんか作らずに生きていけという物。
日本では「大乗」というオムニバスに乗れるのは統制された大日本帝国軍人みたいな意志と表象を捨てた藁人形のように解釈されるけど。
本来は誰でも乗せてあげるよ!という乗り合いバス的な物なんだ。
そしてバスに乗せて貰う為の条件は一切ない。
それを法華経を語ってるんだけどね。ココが中々理解できないんだよな。
ただ、理解できないからダメなお経ということでは無くて
ごく少数だとしても
読める人にとっては、類稀なる文学性のある作品である事に違いは無い。
古の時代から、この様な人類の叡智とも言える作品が突如現れる。
ギルガメッシュ叙事詩やエルメスとプロメテウスの神話もそういう作品だ >>363 一つ覚えのお経が法華経しかなかった。
憶えた理由は,日課の勤行による。
其れだけの学習的事実と、躁病的な教祖性人格(誉め言葉に非ずしばしば狂気と同居する)と
文才がある故に後世に影響を残す。
そういう人でした、このスレッドは相当に日蓮の実像に迫るものと思います
後世の信奉者によるデコレーションを外し実像に迫る。 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」(一期弘法付嘱書) >>367 この文章は日蓮の真撰ですか?いかにも後付け臭いのです。
かの、弘法大師の御遺告が偽撰と証明され、その後も大師の遺言として
使用されるのと酷似。 少し目を離すと140まで落ちる弱い
日蓮って頑張れ! 遠慮なく応援しましょう! >>368
真撰もなにも内容からして、そういう問題じゃないと分かりそうなものだが。
貴兄は例えば墓碑銘も故人の手になるものかどうか気になるのか? >>370 「日蓮の真撰と丸ごと」信じていらしゃるのか?逆に「全部後世の誰かが日蓮の名を借用し造作した文」と判ずるのか?貴兄こそ何方と思われますか?
わたくしは、かなり嘘臭く感じます。 >>370 貴兄の如くに善く読み取るなら此の367投稿文は、後世の偽文と私は見ます。
御書と伝えられるもの、信憑性は何%でしょうか。 >>372
いや、捏造だと思うよ。しかし真偽論はあまり意味がない。
そもそも日蓮教というのは自己申告と捏造だらけなんだからな。 死に顔見て論評、他宗の寺の火事を喜ぶ
人間性ゴミすぎるだろw 仏教用語で仏教を偽装した安物のオカルトにすぎない。 昔の日蓮の行為と人生を美化する、その後継者を名乗る者達。
※某寺の歴史を語り、日蓮は此処で密教の習得を致しましたとサラリと申す。
此のサラリを嘘と論証する手間は莫大だが完了済、梵字の読み書きが出来ない阿闍梨が
居るか?それは阿闍梨と言われない者、阿闍梨とは師範の意味でもある。
日蓮が読誦したのは法華経のみ、あまりにも勉強と資料不足なのがお気の毒様。 釈尊の持言秘法の事 仰に云く持言の秘法の経文とは寿量品に云く、毎自作是念の文是なり、毎の字は三世常住なり、是念の念とは、わすれ給わずして内証に具足し給えり故に持言なり、秘法とは南無妙法蓮華経是なり秘す可し秘す可し云云。 >南無妙法蓮華経、是なり秘す可し秘す可し
隠すも何も題目として堂々と宣伝してますよw
妙法蓮華経を理解できると不条理な社会で
自分が進むべき道が開けるのは間違いない。
右に行こうと左に行こうと山を登ろうと穴掘って進もうとも
目的が同じなら異体同心なので争う必要は無い。
一本道で救える人は少ない多様な道があってこそ
「一切衆生皆成仏道」
最近は人の犠牲の下に富を得ようとする社会が危ない! >>378 一切衆生皆成仏道 誠に結構な御言葉を表明される
貴殿に若し、勇気と誠実と云うべき菩提心が在るならば他人に先んじ、
先ず成仏し、わたくしに叱咤激励される日を楽しみするもの也。 仏を他に求めるのは間違いじゃないだろうか
内に秘めた仏を育てなければ世間に流されてしまう
日蓮は鏡に例えて御書を残してる
社会で成功してる人も自分で気づかない愚かさを
露呈して自慢げに話すことがある
私は見逃さず指摘するのでどうも人付き合いが苦手だ
十界論を学んでからは常に自分の命がどこにあるか
自制しながら日々を過ごした
いつの日か他人の命も瞬時に見抜くような気がする
幼き頃「この信心は仏になれる」と母に言われて勤行をはじめた
母親は正直にいう「私はもっと楽に幸せになりたい」と「あなたお願いね」(笑 >>380 日蓮の「仏法」は菩薩に成れるのが限度の教えで御座いますよ。
他人の命を見抜くのは占い師に任せておけばOKで御座って、他人事ならぬ
自分の命を仏の境にまで高めるのが仏陀の教えで御座る筈。
十界論の出所を貴兄は知るや?
一念三千は中国人の発明にして仏説にあらずと証される、参考程度の御説也。 どこまでも他力本願で誰かが書いた言葉しか持たない人だね(笑 僧侶というものは一見立派なようで
宗派の守護という戒律から考えることを止めている
六道輪廻と言われれば六でしか割れない
相容れないものは無条件に批判するしかない人たち
法華経に帰依して仏道修行して社会の中で実践した日蓮や
地涌の菩薩と自負する者たちの生きた言葉を語れない。 >>384 他人の言葉の受け売りじゃないですか?
私自身は、色々と話した経験から貴兄の如き意見は持てませんでした。
これが体験的な実態調査なのです。
僧の日常は七佛通戒に極まり、それから派生するものと広く理解すべきでしょう。 >>380
新興宗教信者さんや既存の葬式仏教信者さんに見られる典型的な勘違いをされてますね。
仏を他に求めるとか、内に求めるとか、他と内という分離の存在を信じている。
そこが日蓮宗教の特徴であり、限界点でもある。
実際は、内も他も外も無いんです。
何故ならば全てが仏なんだから、全てが神なんだから、全てが自分なんだから、全ては一つなんだから。
分離は人間の意識が作り出している。
同じ地球でありながら、同じ人間でありながら、あんたの国は私と違う国、あんたはキリスト教徒で私は仏教徒、などと人間は勝手な価値観であらゆる物事を分離・細分化する。
人間がこういった分別や価値付けという意識行動を止めれば、地球から見ればあらゆる国は一つ、銀河から見れば太陽系は一つ、宇宙から見れば銀河は一つ、全体的な包括視点に立てば全ては一つでしかない。
こことあそこ、あなたと私といった分離なんてものは元々存在しない。
分離が存在するのは、分別という誤った価値付けを行う人間の心のみ。 あらゆる物事に仏性があるって言うでしょ?
これも真実に近い表現だがまだ足りない。
何故ならば、仏性があるという表現は、仏性以外のものもあることを意味してしまうから。
何か特定の物事があると考えるのは、自分の分離思考に囚われている。
全体的な視点に立てば、全ては同じ流れの中で生じている一繋がり。
特定の物事というのは存在しない。
教義だとか宗派だとか特定のお経に依存することをやめて、内と外がどうのこうの、出家と在家がどうのこうの、正宗と邪宗がどうのこうの、といった分離を生じさせている人間の分別意識を捨て去さるならば、古来悟りと称されてきた包括視点が生じる。
この悟りという全体の流れと同一化する純粋な状態に至った人にとっては、内と外といった分離は幻想でしかなくなる。
そうなると、あらゆる出来事に善悪、正邪などという分離感覚を投影することがなくなる。
何故ならば、それらは全体的な生命現象として川の流れのごとく一つの流れの中で必然的に生じている出来事。
そして、その流れによって傷つくことや滅びることは何も存在しない。
何故ならば、川の石が砕けるとか肉体が死ぬとか滅びるように見えるのは、物質や肉体といった仮に結合している物事が同じ状態を続けることが出来ない必然的な諸行無常現象。
その諸行無常を作り出している当体が、万物を創造する仏や神と名付けられてきた。
そしてそれらは、あるいは全てが我々自身でもある。
何故ならばあらゆるものは諸行無常の一つの流れゆえに、分離は存在しないんだから。 我々の分離感覚というのは、滅び行く肉体という一時的な物質の塊に強烈に自己同一化することにより生じる。
その肉体への自己同一化は自我現象と呼ばれる。
本来仏道修行というのは、この自我現象を解体するためのもの。
何故ならば、自我現象に囚われている限り、全ての同一事象に「自分とそれ以外」という分離意識を投影して、内と外、あなたと私といった分け隔てに基づく幻想世界、煩悩世界を創造してしまう。
日蓮さんは、この自我現象に囚われた状態のお坊さん。
自我現象に囚われた分離意識を正常と勘違いした状態で、釈迦仏教を解釈したお坊さん。
それゆえに、日蓮はあらゆるお経に優劣という細分化を行い、あらゆる宗派に正邪というレッテル付けを行い、あらゆる信者の精神に十界というランク付けを行った。
日蓮は、一繋がりの流れを細分化して、人間の間に区分けを行い、宗派間や信者間に優劣正邪付けを行い、十界により人間の階層上下ランク付けを行った。
この正邪付けやランク付けは、正しいものや上のものが下のものを強権的に教化する権利を有する、この実践が正義であるといった権力支配構造を創り出す。
人間が仏という包括性を忘れて自分の肉体に強く同化して、それを当たり前だと勘違いするとどうなるか?
その状態において釈迦仏教を解釈すると、仏教をどのように表現、実践することになるのか?
その実例を、特定のお経が唯一正しく他は間違いというという分離や権威を作り出し、その権威に基づき邪宗撲滅という人間の間の亀裂、争いを正当化をした日蓮が典型的に示している。 如来の願いは「誓願」という字を当てます。
願いを成し遂げることを誓うという字の如しです。
神に願うような含みが一切ありません。
この如来の誓願は叶って仏性を持って生まれてくる
この仏性を開くのが成仏です。
功徳は貰うものでなく施すものです。
施すといっても金品をばら撒くようなことはないです。
日蓮曰く
「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず
雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ
長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ
現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。」
これは突然現れるのではなく私たちが作る未来です。
既存宗教が仏教を捻じ曲げて広めておかしくなってます。
「南無妙法蓮華経と唱え」とは法華経に帰依して法華経の教えを広めることです。
人々が皆、他人の事を思い慈しみ心から尊敬しあえる社会は
「現世安穏」と暮らせるのではないでしょうか 書き方の曖昧さに少し疑念が生じる
南無妙法蓮華経と唱え、ここに文証は在りか 南無=帰依 語源はナマステ=ナマス+テ あなたを尊敬するという意味の挨拶の由来と同じ
南無+本尊が作法みたいなもので妙法蓮華経が本尊
本尊が経典なので本が大事でなく書かれてる教えが大事ですよね
この題目の意味合いから唱えるは「教えを唱える」が
お題目をただ唱えるよりもはるかに功徳があるのが道理
日蓮曰く
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、
我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、
力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
と合致する ハハッまさに自分がないお言葉だ
この教団何も無し、特定しないが何も無し >>384
>
法華経に帰依して仏道修行して社会の中で実践した日蓮や
日蓮はどんな仏道修行をしたのでしょうか?
また日蓮は社会で仏教各宗の誹謗中傷以外にどんな実践をしたのでしょうか? パウエル氏がなくなった。泥沼の地獄のような状況を引き起こしたイラク戦争を悔い続けた。一方で、イラク戦争に加担しながら、何の反省も悔いもないのが、自公の戦争政府。
それで仏道とか言っている性根の腐った偽善者ども。 >>389 輸入品のサプリメントの表示にシュガーフリーとある、
その意味は砂糖無添加、
フリーには拘束されない縛られないという意味もあると知る。
如何ですか?ここで日蓮フリー、法華経フリー、他宗フリー、という
思考に切り替えると人生は苦悩フリー >>394
自分一人で宗派を起こしてそれなりの信徒を抱えていた実績がある
日蓮の口の悪さを指摘する声が多いが説法の邪魔をされたり
命まで狙われたりし幕府まで動かして流罪になってる
流罪先で悪口の手紙も書きたくなるだろう笑
被害者顔でこのスレを荒らす宗派は何を考えてるか良くわからない(笑
当時からある宗派に潰されない実力は当然あったと思う
誰かが言ってたが今、鎌倉に残る寺は日蓮系のほうが多いそうだ 銭一貫五百文給び候い畢んぬ。焼亡の事委く承って候事悦び入って候。(王舎城事)
こんなクズ崇拝する馬鹿w >>381
>一念三千は中国人の発明にして仏説にあらずと証される、参考程度の御説也。
日本の仏教はアフガニスタンとパキスタンの仏教だからね。
後漢を通ってきたのは事実だが、中国でアフガニスタン・パキスタン仏教に
何らかの中国思想がアディティングされている。
誤解されっぱなしなのは
日本の仏教の元はインドだ!とか中国だ!という間違った認識。
カール・マルクスは共産主義的国家を作ろうとしていた、という誤解。
みんな調べる努力もせず、「だって他の人も、そう言ってるもーん、、」
という怠惰さが、仏教理解やマルクス理解を阻害する。
これは1つの例。
新実在論でも新古典主義でもセリーでも聖書もシェークスピアも村上春樹も全てが
人間の怠け心から、共同認識としての誤解が生き続けてる。 >>395
>それで仏道とか言っている性根の腐った偽善者ども。
創価学会員も、いつまでも昭和時代無知性人や心の弱い人のマンセー型順応主義者がマジョリティであるはずは無いけどな。
創価学会員もマインドセットは変わって来てるよ。
国際金融資本について知識の無い人なんて現在にはいないでしょ?
創価学会員のマインドセットは変わって来るよ。
ただ、変わらないのは
「創価学会は詐欺団体です!」と雄叫びを上げる人達だけ。彼らは今後も変わる事が無い。
何故かと言えば、自分の実存・確からしさを、現在において社会の中での機能性
社会的道義性を見出せない人達が
自身の実存らしきものを欲しいと願えば、過去をほじくり出して、自分を被害者にするしか無いから。
過去にとらわれず、そこからの再起を図れる人なら、そういう人を「強い人」と呼んであげられるのだが
常に被害者である事を望み、現在「努力をしなくて良い理由」を叫び続ける。
隣国の反日政策と同じ認知心理と行動心理である。 >>399パキスタンのアフガンの 薄味でも好いから、
成仏する法華信者が出てりゃ良かったのにな、所謂顕教と呼ばれて
効験が無いのによくも保ってきたのが法華経、君って全く以って密宗の機微に無知。
深く調べると中期から後期に掛けての印度直輸入密教が日本には今なお在る。
これを知るとチベット密宗の構造が理解可能。
空の理は顕教で学び、法の実修は密に活かす←この行い方は比叡山でも同様。
>>397
いえ、日蓮が仏道修行をしたというあなたに聞きたいのは、日蓮がどんな仏道修行をしたのか?
それと日蓮が社会で仏教各宗の誹謗中傷以外にどんな実践をしたのかということです。
ご存じなら教えていただきたいし、実はご存じないならご無理にはおよびません。 >>401
君は法華経を読んでいないでしょ?
法華経は自己の外に、何らかの善きしるしが現れる事は無く
自己の中に現れる。という事を強調している。
文章表現として修辞が誤解を生みやすいから
法華経を読めば現世利益的な「利益」を得られると誤読する人が多いが
この「誤読する人が増えてしまって仏法が破壊される」事を恐れて
方便品の最初に、釈尊役の登場人物に
シャーリープトラに何度でも、「教えてやらない」と言っているんだ。
この方便品の冒頭が無ければ、「後出しジャンケン」になってしまう。
法華経のコンセプトを初っ端から示しているんだよ。
あれはただの意味の無い「開会式の挨拶」じゃないんだよ。
悟りの心を持っていれば、あの方便品だけで法華経は終わっていても良い部分なんだ。
読む事に急がず
じっくり、法華経を読んで見なさい。
まだ、社会に出て働いた事がない若者だと思うけど
実際に社会的連関の上で人と人の繋がり、組織の中でアウフヘーベンを目指すという
社会人生活・経験をしなければ理解出来ないかも知れない。
そういう人がいても、批判は出来ない。
ジャン=ジャック・ルソーが言うように
「生まれてくるのは大人では無く、常に子どもである」これは真実だから。 >>400
相変わらずの全くの見当違い。
仏教とは無縁で、愚かな戦争と外道の道に転落している創価連中に、厳しい指摘をしているのが解らんか? >>401
密教について、以下について教えてくれ。
パドマサンババ。ツォンカパ。ドルジェタク。ナーガールジュナ
リンポチェとバルド。
これらの思想には乖離があるように思うのですが
説明していただけませんでしょうか?
何故、これらを全て含めて密教と言うのか?
構造改革左派と日本共産党神奈川委員会左派、中核派、革マル派
のマルクス・レーニン主義解釈
トロツキー主義解釈
第三インター・コミンテルン解釈
ヘゲモニーとオルタナティブ・スペースに関して、日本人というのは知っているようで
何も知らない国なのだ。
是非、ここで密教について教えてくれないか?
先ずは「パドマサンババ」からだ
はい!はじめ!
(君が間違った事を言ったら、1つ1つ指導してあげよう) >>401
霊的世襲で知られるダライ・ラマ14世は
なぜ
来世、金髪お転婆娘に生まれ変わる!
と、言った理由は? 分かりますか?
私は、ダライ・ラマ14世の話をしているのではありません。
法華経について語っているのです。
作麼生! 御聖訓
大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず いいかい?
君達はね
何らかの権威を与えられ済みの、誰かを自身の指導者として
初めから自由意志と実存を放棄する、心の弱さがある。
それ自体は、悪い事だと批判は出来ない。
しかし
一旦、生きている主体は何なのか?
考える主体は誰なのか?
選択の意味を獲得し、選択する自由の権利を行使出来るのは誰なのか?
に、気づいたときに
仏法の本当の意味がわかる。 御聖訓
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし 御聖訓
相構え相構えて・強盛の大信力を致して南無妙法蓮華・経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈・此れより外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり。信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり。 御聖訓
所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為 千仏授手 令不恐怖 不堕悪趣」と説かれて候。悦ばしい哉一仏二仏に非ず、百仏二百仏に非ず、千仏まで来迎し手を取り給はん事、歓喜の感涙押え難し。法華不信の者は「其人命終 入阿鼻獄」と説かれたれば、定めて獄卒迎えに来たつて手をや取り候はんずらん。浅猨(あさまし)浅猨。 御聖訓
妙は死、法は生なり。此の生死の二法が十界の当体なり。又此れを当体蓮華とも云うなり。天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云。 >>408
「信心第一」などと洗脳されて、疑うことを否定され、知性も主体性も放棄して、組織指導者と本尊紙切れに全てを託してしまうのが、創価。
外部からのウイルスに乗っ取られたスマホ状態。
後は財務だろうと選挙活動だろうと、好きなように操られる。 >>405就中、パドマサンババ 蓮華生は
実在の人物に非ず、数人の人物伝承が纏まって
一個人と為る。
まあそんなもんだな、ドルジェタク師は仏果を自ずと得る人。
龍樹様は、カシミールの仏教僧院で修行されて居られる。
これが、所謂塔寺ではなく提婆達多師の門流なのだ。
是だけ大きな材料を丸投げしてくれる人は居ない、感謝したまえ。 日蓮教徒のいう日蓮の国家諌暁とは幕府による事情聴取と精神鑑定のことでした。 御聖訓
されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし わたしは、以前日蓮スレッドで
日蓮大聖人の教義や日蓮大聖人の曼荼羅やお題目を強く批判したものだが
それは軽率な行為だった
いまでは反省している
日蓮大聖人の曼荼羅にお題目をあげることも再開した
理由はここでは述べないが、そういう者もいるということを
お知らせしておきたい
みなさまの今後のご探求の進展をお祈りしております >>415
何か誤解・誤読をしているようだが
その人物そのものを問うているのではない
ここがわからなかったかな?
思想のアイコニックな存在として尋ねているのだ。
まさか、どのアイコンが放つ空観・仮観・中観が同じだと思ってはいないだろ?
むしろ、「どれも同じだよ」という仏教初学者に対して
「いや全然違うんだよ」と言いたくなるだろ?
そういう事を聞いているのだ。
いい加減に仏教を学ぶ人より、まだ麻原彰晃の方が密教の本質を(座学だけとしても)理解しているとしたら
何か情けなくなるじゃないか。 >>419
日蓮は歴史の中で登場する偉人ではあるが
どの様な認知の変化が
あなたに有ったのか?
気になる。 >>409
>僕たち私たちは永遠の指導者として奉ります!
私を指導者として信仰の対象にされては困る。
それは間違っている。
あなたが信じるべき人は、他の誰でも無く
あなた自身なのだ。
仏教は繰り返し、この単純な事を伝えて来た。
しかし、単純ゆえ理解されにくかった
そして、方便を使って理解を促そうという人達が出てきた
ここで仏教は2つに別れた
テクスト理解のリテラシーを持つ者と、シンクレティズムを持つ者とに。 >>420 仏教(一応名称にして置きます)の要、自他の対立から抜ける。
生死という対立から抜ける、他も色々あり、貧富、父母、男女、怨憎と静謐、それを
実感体得し今までの人生を変化させ菩提を得る。
七佛通戒偈の三番目、自浄己意が課題。
此れはですね、口にする人は誠に安易、それにして実修の段階が在ります
無分別観、無心定を習い修めるのがその段、やってみて思う此れ精神科の
治療に等しい行為なり。
ここのスレッドでは此処迄しか書き様がない。
偉大なる多くの諸先達が居ますが、日蓮師は大外れの番外地。
『不動愛染感見記』(建長六年)に、日蓮大聖人は大日如来より二三代の相承を受けていると述べている。
「生身愛染明王拝見。正月一日日蝕之時。大日如来より日蓮にいたる二十三代嫡々相承」
また、金沢文庫に『理性院血脈』という古文書があるが、ここでは大日如来から二十五代目の相承を受けいる旨が記されている。 「大日如来(梵:マハーヴァイローチャナ)」は大乗仏教(密教)の尊格。
真言宗の本尊。
大乗仏教が発展していく中で古代インド神話やヴェーダ、漢字圏の陰陽思想を巻き込みつつ成立していった密教(秘密仏教)の最高位の仏である。
我が国には弘法大師により齎されたが、他ならぬ弘法大師自身が結縁灌頂を結んだ仏でもある。
古代の太陽神信仰を源流とするとされる尊格であり、仏法の示す“宇宙”その物であるとされる事から法身仏と呼ばれる。
このため、SF的に云えば太陽神どころか宇宙神と呼べる存在であり、思想的にはそれをも越えた概念であると云える。
華厳経の主であり、根源仏(※智慧の光により釈迦を生み出した仏)として考え出された(毘)盧遮那仏(奈良の大仏として有名)の概念を更に発展させた存在と考えられているが、
大日如来へと繋がる系譜は仏教の黎明期より存在しているとの説もある。 【相応部経典12-5】
「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」
「カッチャーシャよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。
カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。また、カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。
カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。だが、聖なる弟子たるものは、その心の依拠に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我(が)なのだ>ととらわれ、執著し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。これは一つの極端である。また、<すべては無である>という。これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中(ちゅう)によって法を説くのである。
【中論一五章】
七 カーティヤーヤナに教える【経】において、「有り」と「無し」という両者が、有に無とを説き給う尊師によって論破せられた。
八 もしも本性上、或るものが有であるならば、そのものが無はありえないであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しえないからである。
九 【物の】本性が無であるとき何物の変化することがあろうか。また本性が有なるとき何物の変化することがありえるであろうか。
一〇 <有り>というのは常住に執著する偏見であり、<無し>というのは断滅を執する偏見である。故に賢者は<有りということ>と<無しということ>に執着してはならない。
一一 <その本性上存在するものは、無いのではない>というのは常住を執する偏見である。<以前には存在したが、今は無し>というのは断滅を執する偏見となるであろう。 御聖訓
なにの兵法よりも 法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、
兵法 剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候 御聖訓
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。
我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ 御聖訓
一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし 御聖訓
此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり 御聖訓
南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり 心底嫌いなタイプ、いろんな意味で頭が悪い 精神病者 徘徊者 異常行動(言動)者 怠け者 不倫歴のある人物 = 気違いw 御聖訓
臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候 実力が無いもの即ち法華経の実践をして無いものが
いくら御書を書き連ねても広布は進まないのは
聖教新聞で結果が出ているからやめなさい(笑
御書=お手紙というものは受け取る相手が居て
その人の事を良く知ってるからこそ省かれる前提や
その人が置かれている立場がある
そのことを良く説明せずまたは自分が意味を把握できて
無いものを並べても駄目だし誤って伝えるのも謗法だ
注釈を加えず間違いを曝け出さなくとも読む人が誤解したら同じこと。 日蓮って「断言好き」ですよね。
見掛ける知人に居まして口癖のように
会話中に「絶対だ!」って台詞が飛び出す人なんですが、
聞いてみると実は空っぽみたいな事に彼は絶対だ!と仰る。
○○ラーメンより即席カップ○○緬の方が美味い、「絶対だ!」とこうなる
実に下らん。
日蓮の場合は、自分よりも知識に乏しい相手に向かい「断言しちゃう」らしき風情。
マウントを獲りたがるって最近は表現するアレですよアレ。
だからして、後世の我々が其れは辻褄が合いませんゾと指摘される破目に陥る。
まさか僕がそんな事に成るとは、と夢にも思わない、日蓮って事です。 ほらな〜!
長文のお手紙も1行で決め付ける人が出てくる(笑
またそういう命令系の言葉を選んで掲載して
嘘嘘を連ねて利用してきた聖教新聞の害悪が
まだまだ創価に蔓延してそうだ 人民寺院事件て憶えてますか?南米で起きた集団自殺でした。
アメリカから移住した信者多数と教祖が服毒自殺したのです。
何を言いたいか?というとこの団体の教祖は聖書を丸暗記していた。
聖書論議をすると誰も敵わない程の「知識人」であちこちの文句や文を繋ぎ合わせ
教えを説いていたが、自滅して完了。
細かい指摘は避けますが日蓮師と一脈通じると思われます。
まあそんな人じゃなかろうか、日蓮って です。 御聖訓
但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり 御聖訓
所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり 御聖訓
一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか >>437
犬作先生も「間違いない」が口癖でしたね。 御聖訓
法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善所とは是なり >>445 此れが断言癖でおまっせ。
自慰と変わりまへんな。 御聖訓
夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり >>447 ご自分の意見を述べなはれや、あんさんって産まれた甲斐ないお人やな 御聖訓
ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給え、苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなゑさえ給え、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給え 御聖訓
いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし >>449 思考放棄者の人生、言い換えましょうか。
人生の実現選択を他人任せにして楽ちんを選ぶ、横着者の姿なり。
色々あってからに終いには悲しい思いをしまっせ、あんさんはなぁ。 念の為ここでもう一度確認しておきます。
大日如来の名前にある「大日」という言葉は、「大いなる日輪」という意味です。
日輪とは太陽を指す言葉なので大日如来は太陽よりも偉大な存在であり、
宇宙そのものだと捉えられているのです。
釈迦如来、阿弥陀如来などの諸仏はもちろん、世界のすべてのものが、
大日如来から生まれたと考えられているのです。 >>452 だからなぁ、密教の本からの引き写しは要らんねって言うとるわけや。
十善戒の解説を以って日蓮さんを腑分けしてみなさい、是が宿題な。 心底嫌いなタイプ、いろんな意味で頭が悪い 精神病者 妄想癖のある者 徘徊者 異常行動(言動)者 怠け者 不倫歴のある人物 しょーもない糞女= 気違いw >>453
>十善戒の解説を以って日蓮さんを腑分けしてみなさい
目の付け所に見識の高さが窺われますな。 御聖訓
とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり 私の心に刻んだ御書
「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」 私の心に刻んだ御書の一節
南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さわりをなすべきや >>457 冬の次は春窮の身に成るやも知れず。
”しゅんぐう” と読む
意味、冬季間を過ごし春になるが、食い物が切れる春に差し掛かる不安。
中国は来春にその危機が必来。 冬は辛抱して春を待て!見たいな言葉は嫌いだった
苦労を押し付けるやつが良く使うw
冬(不遇な時)は春が訪れる時の為に準備を怠らずにね
学校が冬で卒業が春と思う人もいるかもしれないし
次のステップで何が必要になるかという意識は常に持とう 私の好きな御書の一節
つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし 御聖訓
忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。加様に心得て唱うる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし >>458
そのわりに本人は晩年、信者にもらった薬を飲んだり湯治に出かけたりしておます。 >>463
そのわりに法華講、創価、顕正会なと日蓮教徒らの誹謗中傷合戦が盛んなようですが。 心底嫌いなタイプ、いろんな意味で頭が悪い 精神病者 妄想癖のある者 徘徊者 異常行動(言動)者 怠け者 不倫歴のある人物 しょーもない糞女= 気違いw 私の心に刻んだ御書の一節
人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。 いつまでも無駄に生きてないでさっさと自死すれば良いのに。ばかなばばぁ 私の心に刻んだ御書の一節
受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり >>469 読んで関心しきりは結構ですが
御自身は待ってないで実行されては如何かな
上手い事ばっかり言って実行無しじゃねぇ 私の心に刻んだ御書の一節
受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり 私の心に刻んだ御書の一節
師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり 私の心に残った御書の一節
苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経
とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや
「四条金吾殿御返事」
「苦しい時も、楽しい時も、常に、題目を唱えきっていくなかに、崩れざる幸福の大道がある」
というご指導に心を打たれました。 日蓮の御言葉を羅列する、誉め殺しに見えて来たぞ、
誰が死ぬのか?よ〜く考えてみような。 >>471
無駄に長生きが必ずしもいいとは限らないから。
六十七世の日顕猊下は長寿の晩年までしっかりしてましたが、
某本尊偽造団体の犬作名誉会長はもう十年近くも重度の痴呆状態で
介護度5の生きる屍ですぞwww >>471 武道で云うなら、池田氏の生き様は
死中に活を求める、達人の境地なのだ。(注 忌中と間違わない様) 廃人は大変だねぇ碌に眠りもせず妄想書き込み
もう哀れw >>479 ローマ字で記すと、hijin 廃人 ijin偉人 Hの有無でドエライ相違
池田氏って偉人?廃人? 日蓮って狂人、巨人?
何にせよ、送って便りが無いのは御無事か御逝去 日蓮フリークって、偽か本物か、病か健康か、長寿か短命かといった物事の表層的な見かけの違いばかりに執着しているんだね。
あらゆる物事は諸行無常で全て移り変わる。
ゆえに、表層事象は常に消え去ってはまた新たに形を変えて生じる川面の波、あるいはうつろう夢のごとし。
そんな川面の一時的な変化に意識がとらわれて執着しているのは、表層意識でしか生きていない証拠。
本来宗教が探求する部分というのは、川面の奥の深い部分というか、あらゆる変化を傍観する永遠不滅の気付きとして、
自分の夢に気づいている覚めた意識として、それは信仰によって目覚めた信者の心の内奥とか、覚醒によって得た境地とかに顔を出す。
その顔がどんなものかというのを、目覚めた人は、空とか仏とか神とかヤハウェとか、様々な抽象表現として現そうとしてきた。
その表現は抽象にならざるを得ない。
何故ならば、具体というものは生まれては消えて常に形を変える夢幻ゆえに、永遠不滅のものを表現するには使えない材料だから。
ゆえに真実を探求する者は、自ずと矛先を心の表層から内奥に向け、具体を生み出す抽象、コスモスを生み出すカオス、色を生み出す空、プラクリティを生み出すプルシャ、アートマンを生み出すブラフマンなどに深く潜っていく。 その沈潜内容を語るのが本来の覚醒者の役割であり、また宗教探求者が追求すべき部分。
しかし日蓮フリークは、お互い自分の自慢の具体事象を取り上げて、どっちが優れているか、どっちが劣っているかを最重要とし、勝敗をつけなければ気が済まない。
具体事象というのは意識の川面。
物事の本体というのは、それらの川面を創造し続ける抽象。
それは万物創造とも例えられ、また我々自身の本当の姿でもある。
日蓮フリークは、宗教を名乗りながらあえてそこに辿り着かない具体への執着という反対行動をなぜかとってしまう。
もし、社会上の競争に勝つことや利益を得ること、日蓮用語に言い換えれば仏法は勝負、現世利益などといった具体への執着がなくなれば、維持できなくなってしまう現象というものがある。
自我という現象は、肉体を維持する要であり、他との競争において勝つことや利益を失えば、執着する先を失い滅んでしまう。
もし自我という現象が己の維持存続のために生きるとしたら、どのように人間に取り憑き、どのような信念や思想や宗教体型を編み出すか想像してみよう。
日蓮フリークは、瞑想や座禅といったあるがままを追求する修行形態を他力と蔑視し嫌悪し、勝つことや現世利益を自力と称してそれらを得る修行を好む。
なぜにあるがままを嫌い、具体という表層結果を得ることに執着し続けるのか、その根本原因を真摯に心に問うてみよう。 御聖訓
始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり 御聖訓
釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり 仏法を
何故テクスト論だけで理解しようとするのか?
何故、流動する当体の恣意的分断が信頼に足ると言うのだろうか?
仏法を理解出来ない人は、この迷妄に陥っているとしか言いようが無い。
何故、このスレには仏法を理解する人は、居ないのだろう?
以下の話の矛盾を正確に説明出来る人を、私は仏法を完全に理解した人だと認めよう。
仏法を理解出来ないからと、逃げにまわっては何も進歩しない。仏縁を結んだ意味が無い。
仏法を理解していると自負する者は、こちらがグーの音も出ないほどのレスを返してくれ。
弟子A・この犬にも仏性は在りますか?
師匠・在る!
弟子B・悉有仏性と言うのですから、この犬にも仏性は有りますよね?
師匠・無い!
自分の言葉で(自分が作り出した方便で)一決を与えられる者はおらんか?
「なになにの如し!」と拶所を得られる者はおらんか?
作麼生! 撰時抄の今現証あるべしとはじまる文章
いつ日蓮は真言宗に独り相撲を取って負けてるダサさ 御聖訓
臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候 >>482 引用
日蓮フリークは、宗教を名乗り名乗りながら
敢えてそこに辿りつかない具体への執着という反対行動を採ってしまう。
上は482氏の文の平仮名を漢字に やや直しました。
具体的行動の選択をする其れが何故かという疑問に私の考えを述べます。
日蓮自身が事物に執着心を起こしたまま、その願成就せずに物故した祖師であるから
自ずと信徒の人生は影響される。
そういうことなんですよ、御分かりかな。
この辺の消息を理解しているらしい、真言の日々の某勤行集の一節を引きます
懴悔文〜三帰〜三境(土偏無し)に至り途中に 帰依法離欲尊 と唱えます。
仏法の始祖、釈尊は離欲を成就し仏法を説くが故に帰依すーと意味が採れます。
日蓮師は仏法肝心の離欲が成就せずに教えを説く、其の影響力が今なお残る故に、信奉者は
欲から離れるという心境を得ない。
こういう深い事情と推測致します。 日蓮をテクスト論的に理解するのが正しい!思う人達の誤謬が気になる。
それは村上春樹の「騎士団長殺し」に少女の胸の発育に言及している部分を理由に
「村上春樹はロリコンだ!」と誤った認識を得るのと同じ認知。
少女の胸の発育も、カローラも、ABCのルック・オブ・ラブも
「騎士団長殺し」という作品を成立させる方便である事を見抜けない知性の無い人と同じだ。
ウラジミール・ナブコフの「ロリータ」やドメニコ・カタリニチの「小さな唇」も
バカは「ただのロリコン変態作品だろ!」と脊髄反射のように
流動する当体の恣意的分断だけを論拠にして「安易なるバカっぽい二元論」に落とし込もうとする。
これは日蓮だけでなくキリスト教カトリック系の公会議解釈や
福音派教会の意見の対立(エキュメニズムやヴァンゲリズ)
問題も同じなんだ。
人間は深く考える事を拒絶したがり
人間は深く知ろうとする努力を放棄する。そんな人が世界中に多いんだ。
日本の仏教は本質としてはクシャーナ朝時代のアフガニスタン・パキスタンが源流。
後漢を通過するときにTAOがプラグインされ
それを「インドから始まった仏教、中国からの大乗仏教なんだ」と誤解している
仏教徒・仏教学習者が多過ぎる。
日本の大乗仏教を徹底的に学びたいと想う人が
クシャーナ朝時代のアフガニスタン、パキスタンを無視すれば
日本の大乗仏教の源流とコンセプトは絶対に理解出来ない。 「ティファニーで朝食」は間違いだ!と言う人は(カポーティの方便を理解した人以外)流動する当体の恣意的分断にコミットする人だ。
少なくとも宝飾界、NYに興味がある人なら、ティファニーに新たにカフェがオープンした事を知らないのは
ティファニーや宝飾の世界を得意げに語る資格はない。
2017年、私は5rh Aveのティファニーで美味しいカプチーノとラズベリーパイで朝食をとった事がある。
私が言っているのは、流動する当体の恣意的分断はtotallyにもcomprehensive にも
Definitive なソリューションにはなりえない。という事を言っているのだ。
(日本語がまだまだ不得意。(頭は英語で考えている。話す時はそれを日本語に変換する)。そういう事で真剣に話すときは語義の正確性とニュアンスを損なわない様に変な日本語になってしまう。ここは考慮
いただきたい。仏法に関して真剣に考えている者として語法や従属節・修飾説の馴染みの無さに反発しないでくれ) 仏陀は語られた。「比丘たちよ、もし正しく説いたならば、聖住・天住・梵住・学住・無学住・如来住がある。学人で、いまだ得ていないものがあるならばまさに得るべきである。到っていないければ至るべきである。証していなければ証するべきである。無学人の現法楽住とは、安那般那念である。これが即ち正説である。その所以は何かと云えば、安那般那念とは、聖住・天住・梵住、乃至無学の現法楽住であるからである」。 仏陀は阿難に告げられた。「もし比丘が、身体について身観念に住し、念に住しおわって、念を結んで住して忘れることがなければ、その時、(その比丘は)勤めて念覚分を修する。念覚分を修習して、念覚分を満足する。念覚分を満足したならば、法を選択思量する。その時、勤めて択法覚分を修し、択法覚分を修習して、択法覚分を満足する。法を選択し分別思量したらなば、精勤方便を得る。その時、勤めて精進覚分を修する。精進覚分を修習して、精進覚分を満足する。精励精進すると、すなわち心歓喜する。その時、勤めて喜覚分を修する。喜覚分を修習して、喜覚分を満足する。(心が)歓喜すると、身体と心とが静止する。その時、勤めて猗覚分[軽安覚分]を修する。猗覚分を修習して、猗覚分を満足する。身体と心とが安楽となったならば、三昧を得る。その時、定覚分を修する。定覚分を修習して、定覚分を満足する。定覚分を満足して、貪欲と憂いが滅し、平等捨を得る。その時、勤めて捨覚分を修する。捨覚分を修習して、捨覚分を満足する。受・心・法の念処についてもまた同様に説く。これを、四念処を修習して七覚分を満足することと云う」。 >>493
>仏陀は語られた。「比丘たちよ、もし正しく説いたならば、聖住・天住・梵住・学住・無学住・如来
その仏陀と言うのがシンボリックな覚者の上位概念なのか?
お釈迦さんのアイコニックな形質なのか?
お経の中に出てくるフィクショナルなお釈迦さんの事なのかは分からないけど
実在したゴータマさんは、常に対機説法を行なっていたと言われる。
それは貴方に対して語った事では無いし、誰に対して何を語っていたのかはアーナンダの葉っぱメモ
を元にした心許ない言質・文言しか伝えらていない。
お経に登場するお釈迦さん役のセリフは、あくまでも再構成された仏教演劇であって
例えば、映画「グレンミラー物語」を見てグレンミラーを理解したと誤解する様な物。
「グレンミラー物語」を観たグレンミラーの奥さんは言った
「こんな映画の様な人格者では無かったです。残念ながら本当のグレンミラーという人間は私しか知らないのです」と
流動する当体の恣意的分断に権威を持たす人とは、一体どういう人なのだろう?
知性が低いのだろうか?
社会を、世の中を知らないのだろうか?
幅広い年代の知り合いと会話をした事がない人だろうか?
本を多読しない人なのだろうか?
When she cries
And she doesn't thing that I can hear
She trie to hide all the fear she feel inside
仏法ヒキコモリに対して言ってやる
「おーい!出てこーい!」
真実の光は眩しいかもしれない。
でも、それは君達が暗闇にこもっていたって事だけなんだ。
君達は真実の光の中で、仏法の視力を必ず取り戻せる。 >>496
理解できないからと、捨てセリフで逃げないで
仏法に真面目に対峙して下さい。
私は大乗仏教を広宣流布する為に書き込んでいるのです。
弟子A・この犬にも仏性は在りますか?
師匠・在る!
弟子B・悉有仏性と言うのですから、この犬にも仏性は有りますよね?
師匠・無い!
自分の言葉で(自分が作り出した方便で)一決を示ますか?
「なになにの如し!」と拶所を出せますか?
別に「今の私の仏教的視座では答えが見つからない」という敗北宣言でも良いのです。
その敗北宣言自体が「流動する当体」だと、先ず認識すれば良いのです。
人間というのは、どんなに年をとっても
成長を続ける者なのです。
私に何らかの批判をしたいなら
1番、私をやっつける効果的な方法があります。
最終兵器があります。
それは、弟子Aと弟子Bのエピソードを自分に内在する、または自分が作り出した方便で
回答する事です。
私も真剣に仏法を学んでおります。(それは知識だけで止まる物ではありません)
もし、誰かが私に「こんな回答をされたら、グーの音も出ないな!私より悟っている人がいるんだなぁ、、」
と言わせるようなレスが来たら、私はその人に対して正直に尊敬をし土下座をします。
なぜなら、私は真剣に仏法を学んでいるからです。
表面を取り繕う事や、功徳を求める事など、既に侮蔑しているからです。 生まれたものどもは、死を逃れる道がない。
老いに達しては、死ぬ。
実に生あるものどもの定めは、このとおりである
(スッタニパータ) 小乗知識で大乗を理解しようとしても難しく
法華一乗とはさらに噛み合わない
創価は南妙法蓮華経のお題目だけでいいという破綻思考
創価も大石寺も経典や御書を引用しながら解説し結びで
根拠も関連も無い独自の教義をさも釈迦や日蓮が言ったように装う
そういう視点で各宗出版物を読むと全く信用できない。
仏法が衰退する大きな原因ですね >>499
>そういう視点で各宗出版物を読むと全く信用できない。
各宗教団体について言及するのは好まないのだが
あなたが着目している点は(全文に表れる)には小膝を叩いて納得出来る。
日蓮系なら創価から日蓮宗や日蓮正宗、立正佼成会やら顕正会も全て、そして
ローマ教皇庁やイギリス国教やハリストス正教会や合衆国聖公会、そして
福音派のバプティスト教会や長老派教会、メソジスト教会、ペンテコステ教会
PTL教会、ホーリーランド教会など、、書き出すとキリが無いが
宗教団体の多くが、独自の教義のリプレゼンテーションをしている。
そして、私が1番、気になっているのは、それらの宗教団体・教会よりも
入信者自信が、論証も無く「受容」してしまう事である。
私が問題だと思うのは「宗教団体問題」よりも、その前の
「論証と構造分析無くツルンと宗教団体に入信知る人」の問題よりも、その前の
仏教を学ぶ真剣さがない人達が「誤った仏法を喧伝する事」だ。
「あの人がこう言ってました、、、あの本にそう書いてありました、、、」
仏教では1番やってはいけない、と言われている事なのに。 >>499 さん
私と一緒に、気長に確認しませんか?
このスレに、本当に仏法を底の底から理解出来ている人が現れるかどうか?を
では、例の問題です
弟子A・この犬にも仏性は在りますか?
師匠・在る!
弟子B・悉有仏性と言うのですから、この犬にも仏性は有りますよね?
師匠・無い!
この問題に独自の方便で真を示せるような大丈夫が現れるかどうか?を一緒に見守りましょうよ。 禅系も楽して仏に成ろうとしてなった気になるだけで人心を惑わす邪教
ダルマ(置物)に象徴されるように口だけ達者で手足が無い
手足が無いのは人のために働かない象徴で自己満足して一生を終わる
と、いう個人的な見立てで関わらないことにしている。 「大丈夫」と書いて「ますらお」と読む。 10代20代の若者へ。 >>502
禅に限らず
「楽して」とか「苦行して」とか
そういう対立二元論的相対的価値観を
仏教は、全て否定しています。
幸せもありませんし、不幸もありません。
良い事もありませんし、悪い事もありません。
死ぬという事はありませんし、死が無くなるという事もありません。
存在というものはありませんし、存在が無くなるという事もありません。
仏法とはこれだけ単純で純粋ゆえ
人々に理解されにくいのです。 >>494 君の申される、引用は後世の教義学者が纏めた御文章で
実際にはそんな詳細に、目前にテキストを置く必要は在りません。
「無分別観から無心定に至り、自己の深低にある自我「真我に調整を任す」なら
すんなり判る」ものです。
此れ、生きながら死人に成り果てるの境、自己の中に在った死にきれない魔と邪混じり合う、長尻で雑輩の無用人がさっさと死ぬる体験を致します。
まあここまで、親切に創価版で書くのも常識が無いような話し。
仏教は現物でやれって事です。
二項対立二元論的相対的価値観のインセプションが強いから
以下の問いに答えられる人がいないのです
問い
弟子A・この犬にも仏性は在りますか?
師匠・在る!
弟子B・悉有仏性と言うのですから、この犬にも仏性は有りますよね?
師匠・無い!
良いとか悪いとか、幸せだとか不幸だとか、功徳が有るとか無いとか
そのような執着があるから、誰も答えられないのです。
その二項対立的相対的価値観をぶっ壊して、脱出しなければ
仏法は理解出来ないのです。
特定の宗教団体について語るのは好まないのですが
現在の創価学会には進歩が見られます。
「創価学会仏」というシンボリック・アイコニックな記号を作り出した事についてです。
悉有仏性というのだから、人間一人ひとりが仏性を持ち、ひとりひとりが仏である。
創価学会員も人間なのだから仏である。
そんな仏である創価学会員が集まる創価学会という組織自体も仏である。
なかなか斬新な会則変更だと私は思いますよ。
そして、三大会長の事を「総称して全て先生と呼ぶ」という変更も
今の創価学会は個人崇拝宗教から脱却しました!という信濃町本部の宣言だったのです。
過去のイメージを払拭して、新しい組織に再誕しようとする姿は好感が持てます。
「創価学会も流動する当体なのだ」という事を、信者さん達に
少しづつ、少しづつ理解させていくのだと思いますよ。 御聖訓
師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり 御聖訓
鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき >>505
雪を担って井を埋む、道中の工夫も
口唇皮上に光を放つのも
私には、同じように尊い事だと思います。
未開の無人島へ宣教師が赴いた。人口3人の島民は自分勝手に神様を拝んでいる。
宣教師は「そんな祈り方ではダメ!」と、カトリックとしての正式な祈りの作法を教えた。
島民は喜んだ。しかし島民は記憶力が無く、何度も宣教師に教えてもらう。
島民がようやく理解した事を確認して宣教師は次なる未開の島に出航した。
宣教師は船から夕闇の彼方からやって来る3つの光が高速で近づいて来る不思議に遭遇する。
3つの光は船上に入り、例の3人の島民に姿を変えた。彼らは言った。
「神父様!せっかく教えてもらったお祈りの言葉を忘れてしまった。悪いけどもう一度教えてくれないか?」
宣教師は言った
「私の方こそ教えて欲しい」と3人の前に跪いた。 >>509 にちれんしは、よびかけられてもこんごは しんずるもののまえには
あらわれない ともうされる それがただしいせんたく ともうされる
きがぬけた ほっけしゅうになりもうす これがただしいとのおおせ >>510
現れる
現れない
という対立二元論と
存在論的な論証や認識論的論証が
必要となるような思惟が生じる事自体が
仏法では無い。
ただ、それを仏法だと信じたい人は、信じる自由はある。それを否定はしない。
私の叔母はフィレンツェ人なので、私が幼少の頃、聖ヨハネの祝日に
「良い子にしてれば聖ヨハネがプレゼントを贈ってくれるわよ」と言われて信じていた。
当然、それはウソだ。叔母が信心を持てるように仕向けた楽しい仕掛けだった。
でも毎年プレゼントをくれた叔母の思いは聖ヨハネをフィルターバブルにした
愛情だったのだと理解出来た。この時
1 + 1 = 2 では無く
1 + 1= 1 なのだと悟った
更に
1 + 1 + 1 + 1 + 1 = 1 なのだと悟った。
カトリック信者だった叔母から、奇遇にも仏法を学ばされていた事に気付いた時には
既に叔母は香気だけ残して、地上から消えていた。 御聖訓
総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり 御聖訓
蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧羅松頭に懸りて千尋を延ぶ >>511 にちれんがのべるげんなり これよりはげんせいに
かかわらず とのもうされよう あなかしこ あなかしこ 修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。灼熱した鉄丸で焼かれるときに「これは苦しい」といって泣き叫ぶな(ダンマパダ) >>515 欲を絶つ境の前に世俗欲の対象から
遠ざかる、離れるという戒を保ち行うべし。
比丘が決して一人で布施行に向かわず二人組に成る
理由は此処に在るのだ。 >>515 灼熱した鉄丸で焼かれる時云々以下は
後有つまり、個人の死後の存在を肯定する言葉である。 御聖訓
ただ一えんにおもい切れ・よからん は不思議わるからんは一定とをもへ 灼熱の鉄丸・鉄球って仏教では「悟り」を表すメタファーだよ。
悟りというのは灼熱の鉄球を飲み込んだもの
悟りを得ても、鉄球が(悟り・自灯明)が有る限り
他者に伝えたくても伝えられない。吐こうに吐けず、、、、
という方便品の冒頭と同じメタファーとアレゴリー
方便品でいう「仏と仏にしか、、、、」と同じ様に
仏法の上位概念である教義哲学は、本来インチュイションによって伝えられるもの。を解説する方便・寓意・修辞・暗喩。
「でもそれでは君達には無理だから以降、方便で教えてあげるよ」という知性的で無い人に対しても差別せず仏法を語り始めるのが法華経。
だから
法華経にこう書いてあったから
こうしなきゃダメとか
アレをしたらダメ。という読み方は間違っている。
そちらへ誘導するのが「俺 仏法についてよく知ってますけど? 教えてやろうか?」
と近ずいてくる第三者。彼らは害毒にしかならない。法華経の解説書もほとんどが有害図書。
仏法は1人で学びましょう。第三者からのノイズは全てキャンセリングして仏法を学びましょう。
灼熱の鉄球には、これだけの記号性・多面性が込められていて思考実験を促す(広布させる) 四箇格言
真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊
天台宗は何だろう? 天台は
天台アポトーシス
だと天台宗の国際部長が言ってたw >>521
伝教天台聖徳太子日蓮は法華経保守派(笑) >>520
>真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊
祖父母がバリ活の学会員だったので折伏教典が仏壇にしまってあってね
お婆ちゃんが「お爺ちゃんなあ、ようコレで折伏してはったでぇw」と笑っていた
お婆ちゃんも熱心な学会員なんだけど、私がお婆ちゃんに尋ねた
「で、お爺ちゃんは信者さんを増やしてたの?」 するとお婆ちゃんは
「そんなん増えるどころか、友達をようけ無くしはってたえww」
そしてお婆ちゃんは付け足した
「えらいもんで、お爺ちゃんは自分とこの事業関係、人脈には一切折伏は、せえへんだぁな、、、ほんまにw」
この爺ちゃんの政治力w ひっでえジジイだなこんなのがまた更に勧誘勧誘
最悪だ >>524
>ひっでえジジイだなこんなのがまた更に勧誘勧誘
>最悪だ
これ大昔(昭和時代)という、いにしえの頃の話だよw
大昔の終戦直後の人達の信仰って強かったらしいよ
60年安保とか学生運動も、終戦で洗脳が解けた人達が
二度と全体主義に飲み込まれないで日本国の平和を守ろうとしていたんだって。
過去映像だけ見ると過激な輩に見えるけど、当時の社会状況を知らないと
学生運動も新左翼ブントの本質は分からないんだよ。
高校の社会部(新聞部)に属していたんだけど杉並区議の中核派議員さんにインタビューを申し込んだ。
快諾してくれた。その議員さんはマルクスとレーニンとトロツキーとスターリン
そしてローザルクセンブルクまで、それぞれの思想の違いをキチンと説明してくれたよ。
宗教も思想も、社会という流動する当体との連関を把握しないと
何も理解できなのだなあ、と感想を持った。
ただ学校新聞の記事に対して厳しい学校自治としてのチェックが入ったのは心外だったよw >>524
>ひっでえジジイだなこんなのがまた更に勧誘勧誘
今は折伏よりも選挙に力を入れている創価学会だけど
お爺ちゃんは、言っても自分のお爺ちゃんだ。身内だし私を経済的に援助してくれた人だ。
それは、それで感謝してるんだけど
今思うとね
何故、友人知人との人間関係を崩壊させてまで折伏をしていたのか?が疑問だ。
だって合理性が全くない様な感じがするよね?
そして、爺ちゃんの会社へ発注してくれる旧財閥系コンツェルン企業の人達には
自分が創価学会員である事を隠し続けていた。
ここから考えると、爺ちゃんは先ず自身の経済圏の確立を目論んではいたのだろう。
では、何故それ以外の貧困で教育レベルの人達にだけ折伏をして、嫌われていたのか?
私の憶測だが、周りに集まって来る「生き方の下手なタカリとの関係性を切る」為だったのじゃ無いのかな?
爺ちゃんは経営者として、投資家として我が祖父ながら優秀な人だった。
全く意図が無く行った事では無いと思う。 幹部の人が貴方の家の宗教は?と聞いて念仏は根暗、真言は長男が立たない、禅は精神病になる、と言ってた。 >幹部の人が貴方の家の宗教は?と聞いて念仏は根暗、真言は長男が立たない、禅は精神病になる、と言ってた。
仏教を全く知らない人だね
仏教を勉強したくない人ほど
宗教団体に入っちまうんだけどね
でもさあ、何故自分で調べる自主独立性が無いのかな?
就職で労働契約書をよく読まないでサインとハンコを押しちゃうような感じだね。
仏教に興味が無いのかな?
なら宗教団体には入らない気もするけど
これは昔から不思議に思っていた。
結局「功徳」と言うワード・概念が形而下に留まらせる原因の様な気がする。
誰か指導者が
「仏教の功徳は、あなたが思っている形以外の形として存在するのです」
って教えてあげないとね。 >>528 根拠のない理屈を並べ恐怖を掻き立てて脅す、古い詐欺師の手口。
根底にある欲は何だろうか?布教者が教団内での位を上げるために
どんな手口でも使う、つまり名誉欲を満たす為なら何でも良いのだ。
>幹部の人が貴方の家の宗教は?と聞いて念仏は根暗、真言は長男が立たない、禅は精神病になる、と言ってた。
でも今は何処もやってないよな
ハルマゲ丼の人達ぐらいじゃないか?
21世紀にもなって、こんなの信じちゃう人って頭が月刊ムーww
頭がハッピーセット
心の病気の人はかわいそうだけど
そういえば高学歴エリートでオウム真理教に入って、その後
天台宗国際部長に洗脳解除された人達が答えてたのが
「けっきょく自尊欲求が強い人がエリートになっても、周りが皆エリートで、その中で別なる自尊欲求と承認欲求を得たがっただけだ」
と、さすが高学歴だけに彼らが言う構造分析には説得力がある w
承認欲求とかプライドとか権威なんて、いちばん仏法から遠いのにな w 今でもやってるよ、罪障という言葉も日常的によく使われる
仏罰という言葉の捉え方も日蓮系は独特
他宗教のお祭りの話をしてしまって会話が止まって焦ったの思い出す 若者はそういった話はしないけどな、多分だがネット文化を知っちゃってるから黙ってるんだろう
世界観に合わせるため共通のワードで言葉遊びする大人を尻目にどう思ってるんだろう >>532 わが市の某地区の元青年部副部長が語る詳細は忘却した、
「魔が出る」とある人の状況を指して評し、此れは「どうにもならない」と諦め状態
創価学会ってのは、たかが魔が差す人を改善しない、直ぐに諦めを説く宗教と読む。
記憶が曖昧なので、こういう人がこうなって魔が出るという場面を説明して貰いたい。
いかにも良さげな利益を説くが、肝心な具体的問題解決の
場面では逃げだす青年部副部長、ですから。 >>533
>世界観に合わせるため共通のワードで言葉遊びする大人を尻目にどう思ってるんだろう
この問題w 以前ウチに怒鳴り込んできた男子大学生がいたんだよw 面白い話だよw
私の祖父母は熱心な学会員で、私の両親は逆に冷ややかな目で見ている家庭なんだけど
私はお婆ちゃん子だから、お婆ちゃんに喜んでもらう為に信心なんて全く無いんだけど
形だけ創価学会員になってあげて会館へお婆ちゃんを連れて行き一緒に勤行をしてる。
お婆ちゃんは嬉しそうだ。それだけで私も嬉しい。ただそれだけ。
お爺ちゃんは聖教新聞を5部や4部とっている。強く否定しない人を選んで
そういう方々に無料で聖教新聞を配達している。金銭のやり取りは無いから
お互い穏やかな感じの付き合いだったのだが、その相手方・ご家族の息子さん男子大学生が
ある日わたしの家に怒鳴り込んできた。対応したのは私。
信仰心の無い大学生と私だから「広布がどうの、異体同心が、、勝利が、スクラムが」なんて話にはならない。当然。
その息子さんも学院から早大へ行った方で地頭は元々良い。彼は聖教新聞をたまたま読んで疑義を持ったと言う。
(続く) >>535の(続き1) その早大生の息子さんが怒っているのは、以下のよう
『読ませてもらいましたけど、アレは何ですか?まるで全体主義的コミンテルン思想で 世界同時共産主義革命思想の第3インターじゃないですか?
特に一面には(名字の言と寸鉄の事を指して)文脈を欠いたフラグメントに独善的な価値を押してつけてるじゃないですか?
学会員さんの家庭では購読してるようですが、まだ社会に出てないお子さんも読みますよね?
これ、社会的道義的にどうなんですか?』 と、物凄い剣幕と構造分析からの言語論理の破綻、社会言語学的破綻を長い事主張していた。
彼の義憤に感じる部分の1番分かりやすい所は、聖教新聞に 「正義の為なら人を殺しても良い。徹底的に攻め抜け」と受け取れるいう新左翼マルクス系過激派と 同じような文が掲載されていて
『こんな危険な文言を子供に読ませる学会員って頭が悪いんじゃないか!もっと子供の事を考えなさい!』
とまるで私が創価学会の代表者みたいに訴えていたw(実際には私には信心なんて皆無なのにw)
私は幽霊学会員である事を示した後、聖教新聞社(特に教学企画部)や組織総局 会員奉仕局、第一庶務局で、さらに第三文明社や潮出版や東哲社でも
それぞれ 微妙に解釈とパブリックリレーションのコンセプトが違う事を教えてあげた。
さすがに観察者として構造分析や問題点の抽出を語っているので、彼は穏やかな表情になって聞いてくれた。
その時はお互いが、相手を知性的な人だと相互理解出来たからに違いない。
私は『アメリカ
(更に続く) 創価学会員は、心霊写真を見てどう思うか?
一度試してみようと思って居る、手持ちで好いのが有るんだなこれがな!
目前の魔に怯え、手にする心霊写真に慄く創価学会員の実態、日蓮大聖人様はその時、彼の心から所在不明。
こういうのをなまざとり と云うのです。 折伏の一例
貴方の家に女の子しか生まれないのは真言宗の害毒の為です。
邪宗の害毒による宿業はこの信心で絶ち切るしかありません。 妄想と徘徊が日増しに悪化、しかも一晩中眠れなくて昼夜逆転生活
クスリばかり増えていくのい(爆笑) >>538
浩宮:「うちは先祖代々、神道なんだが、男が生まれなかったので
弟家に家督を乗っ取られそうだ」 >>540皇室には日々、専門家が陛下、上皇陛下や他の方々にも御進講があって
日本のみならず世界中の情勢に至るまで幅広い、正確な知識と情報が寄せられる。
その様な結果、皇室の方々のご判断は真に正確極まり、自ずと予知的な判断もなさるそうだ。
(真子様はその場に列席されて居ない日々らしいのが残念な、なんだよな)
さて、創価学会の詳しい情報も当然在り過ぎるほど在って省略しますが、実は
〇程に〇悪されて居らっしゃるとのお噂あり。
春秋の園遊会に名指しの招待状が到着しないってことは、そんなもんだデスぞ。
ノーベルの前に園遊会が筋でしょうな。
日蓮曰く、我が弟子の誉は共に賀す なんてね。 今夜も眠れず妄想書き込みで優越感を味わえたなぃ(笑)
自分で書いててウケるw 平安京の大内裏には真言院という東密の道場があり天皇の身体安穏と国家の安泰を祈っていた。
日本は古来より大日如来へ祈りを捧げていたのである。 >>542
貴殿の御文章には、
推敲、添削、赤ペンが必須です。 >>536の続き2・最終話です。 レスを見失ってしまいましたw
私は『アメリカ合衆国が1つの国では無いのと同じように、創価学会も1つの教義・教条・ドグマが一致はしていない団体であって それゆえアイコニックな、シンボリックな存在を1人立てる方法論で生き残ったという歴史があるのです』と語った。
「お話を拝聴する限り貴方は大変知性的な方とお見受け致します。 そういう方は創価学会に入りませんし、創価学会に近付こうともせず、もらった聖教新聞も読まずに捨ててしまうんですよ」
つまり信教の自由は、自分という主体だけでなく、それぞれの人々、つまり様々な人々 (知性が低い人、社会生活で学べなかった人、資本主義での戦略を持てず貧しくなった人、脳内演算処理がオーバーフローして心の病気になってしまった人、親から洗脳され実存としての視座が無くなってしまった人) の実存を崩壊させない為の松葉杖でもあるのです
彼はそれこそギリシャイデア論から最新の哲学・新実在論まで出して彼自身の分析を語ってくれました。 最後は笑顔で別れました。ただ彼は私に「どうしても聞かせていただきたい事があります」と質問をしました。 「あなたは何故そこまで知性的なのに創価学会員なのですか?」と 。
私は答えました「私は祖父母が喜んでくれるから形だけ学会員なのです。
信仰や宗教なんかよりも 自分が存在する源流、1番近い先祖である祖父母に感謝の気持ちと愛情を持っているからです」
彼は 「そういうリレーションシップの論拠・論証を持っていながら学会員である人もいるんですね。私は一面だけを見てしまう確証バイアスとアフォーダンスがありました。すみませんでした。」 と言葉を残し、笑顔で去って行った。
その彼とはもう10年以上、親友である。 天皇は即位の際、大日如来と同一化する儀式を行っていた。
それを即位灌頂(そくいかんじょう)と言う。 蓮長の名前から大日如来の日の字を頂いて日蓮に改名したのでは? 蓮長のほうがキャラに合ってる。
口だけ蓮長みたいなw >>551蓮長を一見すると長く太い蓮根を想起し易いので
自分で改名されたのでしょう。 ネオ・方便品
大都会ゴッサム・シティを悪のジョーカーが暴れまくる。
付け焼き刃の解決だけで根本仏法を示さないバットマンに対して市民の不満は募る。
引き続きジョーカーは暴れまわる。 ジョーカーはバットマンに仏法の何たるか?を教えようとする。
ゴッサムから避難する2つのフェリー。1つは善良な市民。もう1つは重犯罪者の囚人を乗せている。
それぞれのフェリーには相手の船を爆破出来る起爆スイッチが置いてある。
「自分達が助かりたければ相手の船を爆破しろ。30分たってもお互いスイッチを押さなければお互いの船を爆破させるぞ」
「悪者」とされる人と「善人」とされる人、こんな対立二元論に人間は洗脳されている事を証明するゲームである事を船上の人達は悟る。
誰も、お互いの起爆スイッチを押さない。でも、船は全く爆破されなかった。
それを知ったジョーカーはバットマンの前で「腰抜けの奴らめ」となじるが
ジョーカーの顔は幸せそうに笑っていた。
これで正義、正義と叫びながら一向に社会を善くてくれなかったバットマンが1番の悪であると証明してみせた。
ジョーカーはバットマンに言う
「お前がいるから、俺は存在しなきゃならないんだw」
正義だの平和だの信仰だの、と二元論で人間達を納得させるバットマンがいる限り
俺はお前の為に、二項対立概念として存在してやってるんだw
それでもバットマンは自分自身を洗脳しているので理解出来ず、鬱病になったまま
暗黒の騎士としてゴッサムの街をバット・カーで逃げ出す。
舎利弗もバットマンも、ジョーカーや釈尊の悟りに導く慈悲に気づかない。 「ダーク・ナイト」(クリストファー・ノーラン監督) より 日本大学の学生のお金2億円以上を
裏金にして
逮捕された藪本は
大阪4区で立候補(自民党)している
中山泰秀の後援会長
https://www.asahi.com/sp/articles/ASPBQ6JXFPBQUTIL04B.html?iref=sptop_7_02
朝日新聞 2021/10/23 5:00
理事長の田中氏は、9月12日に検察側に診断書を提出し、入院。最近こんな不穏な言葉を口にしているという。
「俺が逮捕されるようなことがあれば、今まで政治家に渡した裏金のことも全部ぶちまけてやる」(田中理事長)
「籔本さんの飲み方はえらい汚くてなぁ
籔本に安倍総理をつないだのは中山泰秀
堂島三丁目のサロンや北新地で
よくいっしょに豪遊していたよ
https://news.yahoo.co.jp/articles/76563d979aaeb52a470aa3f6cd2e6e67042c1c6b 法華経の方便の応酬
それでもドラマとしての文脈をベタに出している故に、かえって理解できにくい人もいる。
この歌の歌詞を聴いて見て欲しい。
仏法って本来こういうものだと思う。
https://youtu.be/wKeI9ENaPf4 >>552
太く長い○根・・・ いいじゃねーか、特に女性の信者が増えそう。 私は、別のところ(獅子風蓮のつぶやきブログ)で対話ブログを読み返す作業を進めています。
対話ブログの管理人であるシニフィエさんからは、それは著作権の侵害であるといわれ、泥棒呼ばわりまでされました。
gooブログの事務局に通報して全て削除してやるとも言われましたが、その後事務局からは何の連絡もありません。
私は、公開された記事を、引用元を明示して引用するのは、何ら問題はないと考え、その旨過去の記事(シニフィエさんへ:対話をしましょう!)にも書きました。
ただ、本人が嫌がっているのにこのような連載を続けることには批判的な意見もいただき、いろいろ考えることもあります。
そうこうしているうちにシニフィエさんは対話ブログを非公開にしてしまいました。
10月10日のことです。
しばらくは、書きためた記事で連載を続けようと思うのですが、それがなくなれば、コメントを含めた対話ブログの正確な検証は不可能となります。
私としては残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを公開にしていただき、私と対話していただきたいと思います。
その上で、私がかねてから望んでいた、私をゆえなく誹謗中傷する記事の削除とHOPEさんの関連する個所の削除および、関係者に対する誠実な謝罪を要求します。
また、私の連載については、どこのどういうところが不愉快だったのか、直接言っていただければと思います。 さて、表題のように、「獅子風蓮のつぶやきブログ」の連載では、ちょうど対話ブログ・ステージTがカオスへ向かっています。
これまで、初期のブログ閉鎖の原因については、シニフィエさんの言うことを真に受けて、悪意の「荒らし」のせいだと思っていましたが、どうもそうではなかったようです。
対話ブログがカオスに向かうきっかけは、シニフィエさんの尊敬する希望さん(高倉教授)が、参加者から批判を受けたことでした。
また希望さんのブログの親衛隊のような立場にあったもも(ら)さんのコメントが過激で、創価学会員のコメントを揶揄したり侮辱するするような内容だったため、複数の良識派の参加者(創価学会非活あるいは脱会者)から非難を浴びることとなりました。
最初、良識派の意見がもっともだとシニフィエさんは考え、もも(ら)さんに自重を求め、さらには引導を渡すような発言もしたのです。
その後、希望さんからもも(ら)さんを庇うようなコメントがあり、シニフィエさんも態度がゆらぎ、もも(ら)さんには去ってほしくないというような発言をしたりします。
やがて、収拾がつかなくなり、対話ブログはカオスに向かい、やがて休止することになります。
結局、ブログが荒れて休止に追い込まれていったのは、悪意のある「荒らし」のせいなどではなく、シニフィエさんがどっちつかずの対応をしたため事態の収拾がつかなくなり、さらには管理人の責任を放置してブログを放ったらかしにしたため、誰が「荒らし」なのかわからないカオスの状態となったからではないでしょうか。
やがて、ブログから良識派の大人たちが去っていき、シニフィエさんも徐々に変質していき、彼の考えに沿わない意見は出しにくい雰囲気に変わっていったのではないかと思います。
このようなことが分かっただけでも、この連載を続けて良かったと思います。
シニフィエさん、反論があれば、対話ブログを公開に切り替えた上で正々堂々と対話しましょう。
獅子風蓮 >>552
日蓮房という房名の天台僧侶がいたようだから、僧籍のない日蓮がなりすましを図ったのではないだろうか。 仏法を
何故テクスト論だけで理解しようとするのか?
何故、流動する当体の恣意的分断が信頼に足ると言うのだろうか?
仏法を理解出来ない人は、この迷妄に陥っているとしか言いようが無い。
何故、このスレには仏法を理解する人は、居ないのだろう?
以下の話の矛盾を正確に説明出来る人を、私は仏法を完全に理解した人だと認めよう。
仏法を理解出来ないからと、逃げにまわっては何も進歩しない。仏縁を結んだ意味が無い。
仏法を理解していると自負する者は、こちらがグーの音も出ないほどのレスを返してくれ。
弟子A・この犬にも仏性は在りますか?
師匠・在る!
弟子B・悉有仏性と言うのですから、この犬にも仏性は有りますよね?
師匠・無い!
自分の言葉で(自分が作り出した方便で)一決を与えられる者はおらんか?
「なになにの如し!」と拶所を得られる者はおらんか?
作麼生! 仏法を
何故テクスト論だけで理解しようとするのか?
何故、流動する当体の恣意的分断が信頼に足ると言うのだろうか?
仏法を理解出来ない人は、この迷妄に陥っているとしか言いようが無い。
何故、このスレには仏法を理解する人は、居ないのだろう?
以下の話の矛盾を正確に説明出来る人を、私は仏法を完全に理解した人だと認めよう。
仏法を理解出来ないからと、逃げにまわっては何も進歩しない。仏縁を結んだ意味が無い。
仏法を理解していると自負する者は、こちらがグーの音も出ないほどのレスを返してくれ。
弟子A・この犬にも仏性は在りますか?
師匠・在る!
弟子B・悉有仏性と言うのですから、この犬にも仏性は有りますよね?
師匠・無い!
自分の言葉で(自分が作り出した方便で)一決を与えられる者はおらんか?
「なになにの如し!」と拶所を得られる者はおらんか?
作麼生! 仏法を
何故テクスト論だけで理解しようとするのか?
何故、流動する当体の恣意的分断が信頼に足ると言うのだろうか?
仏法を理解出来ない人は、この迷妄に陥っているとしか言いようが無い。
何故、このスレには仏法を理解する人は、居ないのだろう?
以下の話の矛盾を正確に説明出来る人を、私は仏法を完全に理解した人だと認めよう。
仏法を理解出来ないからと、逃げにまわっては何も進歩しない。仏縁を結んだ意味が無い。
仏法を理解していると自負する者は、こちらがグーの音も出ないほどのレスを返してくれ。
弟子A・この犬にも仏性は在りますか?
師匠・在る!
弟子B・悉有仏性と言うのですから、この犬にも仏性は有りますよね?
師匠・無い!
自分の言葉で(自分が作り出した方便で)一決を与えられる者はおらんか?
「なになにの如し!」と拶所を得られる者はおらんか?
作麼生! 日蓮は、薬師三尊の左備え、日光菩薩をイメージしてんでしょ、
蓮の葉の台座に乗ってるから、そんな感じよ。
あまり知られてないのは、
日蓮師匠は意外と謙虚なもの言いで、
自分が宇宙のご本尊だと言ってる御書の記述はなくて、
末法のご本尊に関しては、自分は平凡な坊さんに過ぎないけれど、
この世界に聖人が現れるまでの、露払いとして、
その法門についてすこしお話いたします。
というような控えめな記述は見えるけど、
富士山おバカ寺が主張するような、
自分が末法のご本仏さま、という記述が御書のどの部分かは、
いまだによくわからんな…。 >>520
天台マスター = 日蓮、の設定だから、天台はホメないといけなくて、
天台浄土、って感じだろ。
でもじっさいは比叡山の悪口を、延々と御書に連ねて書いてて、
その辺は二枚舌の板挟みになっていて、
けっこうムジュンしてるかな。
叡山泥船、みたいな印象で…。 >>519
灼熱の鉄丸、は隠喩ではなくて、ズバリの状況表現だな、
これは、無門関の序文にも書いてあって、
焼けただれた鉄球を飲み込むときい〜♪、みたいな表現で
さらに無門関のあとがきにも南宋の退役将軍が文を寄せてて、
そこには、揚げたてでアツアツの揚げパンを、
無理矢理に喉に押し込むといいのだ、
なんて書いてあって、当時の南宋では、
それを理解してる人がいっぱいいたみたい。
さらに無門関の序文には、もひとつあって、
言葉をしゃべれない(障害のある?)人に
昨日の夜の夢を聞くようなもの、ともあって、
3つとも同じことを言ってるだけで、それは、
言葉をしゃべれないときって、どんな感じ?
という設問にすぎない。
こういうたった一つの設問に絞って、
何年も、延々と考え続けるといいんだけど、
でもじっさいは他のいろいろな話にも手を広げ過ぎて、
結局、わけわからなくなってるヤツばっかで。
知識自慢したい人ほど、仏から遠ざかってしまうよな…。 正宗を形成していった人達って、基本的にユダヤ教徒的な精神傾向の持ち主じゃね?
自分を救ってくれるメシアがいつか現れるという予言を信じてる人達。
最後の審判や末法思想やオウムのハルマゲドンもそれに近い。
堕落した民は裁かれ地獄に堕ちるけど、真面目に正しい信仰に励んだ人は最期に救われるみたいな。
そういう願望の持ち主からすれば、悪を地獄に落とし正しい信仰の持ち主を救うという、究極の審判をくだす絶対者が必要なわけ。
それがユダヤ教ではエホバとか律法であり、仏教では本仏とか南無する帰依の対象であり、仏教系新興宗教が設定する宇宙の法則やリズムなるもの。
ゆえに、審判予言を待ち望む日蓮教徒にとっては、日蓮は本仏でなければならないわけ。
何故ならば、究極の審判をくだす、あるいは全人類の救済を可能するのは、ただの人間では不可能だからね。 >>561 卑俗なレベルで話を翻してみると判り易い
この犬にスケベ心有りますか?と師匠に問うと
答えて、如何だ其のお前にスケベ心有るだろうよ、
其れとも無い奴だろうか?自分で考えてみろ。
そうか創価、人生の何処から考えても俺はスケベ男だと認めるなら、大生命の実証かも知れん?
仏心もやや似てるので御座いまして、己が心中に存在と機能に精通し活用出来たら「貴方は仏様」
クイズの答えを知ったら其のクイズが終わるのと同様と云いたいが
仏心は活用しより始めて佛の境涯と申すべし。
狗子に佛性在りや否や?と問う僧侶の境涯によりお答えは相違するのが当たり前で
クイズではない現物、生身の応答にするもしないも君の発菩提心の次第による。
普段目にする、乗用車は走行してこその乗用車で在って、走らねば只の粗大な鉄くず。 これらのメシア到来願望や救世思想が生まれる源は、当然救済願望が強い信者の心。
救済願望がどこから生じるかといったら、信者が心に抱く今の生活に満足が出来ていない不満から生じる。
自分はこんなもんじゃない、今の自分は本当の自分じゃない、今のつまらない環境は自分にふさわしくない、自分は本当はもっと評価されるべき立派な人間だ、等々。
自分を救世してくれる本仏を作り上げ待ち望む正宗や顕正会や創価の人達、彼ら彼女らはウルトラマンに熱狂する子供達に似ている。
期待通りの生き方が出来ない自分、自分を信じてくれない大人や友達、そんな鬱屈状態にウルトラマンという救世の象徴が現れ、邪魔な怪物をやっつけて自分を救ってくれる。
ウルトラマンのような絶対神や本仏を信じて律法を守ったり正法を実践していれば、いつか自分は救われる。
お釈迦さんが説いた諸法無我という思想は、こういった救済願望に囚われた人間の煩悩を破壊するのに極めて有効な手段。
救われるべき個人などというものは存在していない。
人間の見返りを期待する心が、救済願望という煩悩に囚われた個人を生じさせる。
日蓮やそのフォロワーは、この諸法無我思想を意図的に無視していたり、また根本的に理解できていないように思います。 >>561
これ、趙州録だけど、千二百年前の中国は唐の時代。
この問答には、じっさいはまだつづきがあって、
質問した僧が、この世界のあらゆるものに仏性があるのに、
なぜ、犬には仏性がないと趙州和尚はいうのか?
そうすると趙州は、あの犬には、
わらわらと湧いてくる、忙しい意識 (業識) があるからだよ。
と、ズバリじゃなくて、寸止めくらいのとこまで、
答えを教えてくれてるから、
もうそれ以上答える必要なんてないのよ。
そして次のステップの最終アンサーも、
ここまでくれば、勘のいい人なら即座にわかるはずですが、
まあ、書かないけど…。
趙州録のつづきの原文はこれ↓、4行の内、下の3行が、
たぶん意味わからなくて、省略されてる。
問狗子還有佛性也無。師云無。
學云。上至諸佛下至&C0-EB63;子
皆有佛性。狗子為什麼無。
師云。為伊有業識性在。
よく持ち出されて、使われてるのは、
1行目のとこだけなんだよな…。 青年教学一級まで受かり、壮年部に行って教学部教授となったけど、それまでの教学試験で四法印を学んだ事は無かった。 >>570
全然違う。
目の付け所が違う。
趙州でも碧巌でも臨済でも、禅語に詳しい方なら分かるだろう。
例の弟子A弟子Bの禅語なんて無い。いくつかの禅語と実存主義哲学者のレトリックを再構成しただけだ。
禅語・公案を装った新実存主義について問いてるんだよ。
オリジナルな公案なんだ。今伝わる公案全てオリジナルだけどね、人真似を禅は厳しく禁止してるから。
それから>>561から>>563は私の過去の書き込みを誰かが勝手にコピペしたものだ。
IDやワッちょいでわかるだろう。きっと誰かが気に入ってくれたのだと思うけど
ならばコピペだけでなく、自分なりの見解(けんげ)で悟りの境涯を語って欲しかった。
カイエ・デュ・シネマから「ゴダールさん、あなたの映画には引用がたくさん出てきますが、時として
その出典が解らない引用があります」
ジャン=リュック・ゴダール
「出典が解らない引用は私が作ったものです。しかし私がさも引用しているように喋れば、それも引用なのです」
人真似では無い公案に対して、人真似では無い回答を与えられる者はおらんか? 日本大学の学生のお金2億円以上を
裏金にして
逮捕された藪本は
大阪4区で立候補(自民党)している
中山泰秀の後援会長
https://www.asahi.com/sp/articles/ASPBQ6JXFPBQUTIL04B.html?iref=sptop_7_02
朝日新聞 2021/10/23 5:00
理事長の田中氏は、9月12日に検察側に診断書を提出し、入院。最近こんな不穏な言葉を口にしているという。
「俺が逮捕されるようなことがあれば、今まで政治家に渡した裏金のことも全部ぶちまけてやる」(田中理事長)
籔本に安倍総理をつないだのは中山泰秀
堂島三丁目のサロンや北新地で
よくいっしょに豪遊していたよ
https://news.yahoo.co.jp/articles/76563d979aaeb52a470aa3f6cd2e6e67042c1c6b >>572 狗子に仏性有りや否や?此れ翻って観るに質問者、答える者共に
仏性に通達しているなら忽ちお答えが出る。
狗は借り物で主ではない、人が本命の御題。
他宗の話題を借りる、真言では五相成身観と表題される修行目標過程が有り
菩提心に通達する者が、仏であるとされる。
真相は伝説の彼方であるが、弘法大師が帝の御前で即身成仏の現生を表したのは
五相成身観による五字厳身観と伝わる。(詳細は小生不識、受け売りで御座います)
肝心な事柄は、菩提心を究竟に知り尽くし、方便に実践する者は仏様。
法華経は菩薩に成れと示すが、仏に成る法を説かず終いで完了し、
数百年後出現の密教経典ではその成仏方法を説く、一応の説明はこれに成る。
比叡山で顕密両立の理由を調べると尚一層理解が進むはずである。
調べると大きな穴が開いているのだが、見いだせるかな? >法華経は成仏を説いてるのに文盲だね
成仏を説いてはいない。
仏になったら六道の地獄へ降りて行って救う事は出来ないから。。
仏にならずに、いつまでも菩薩のままで人をすくい続けるのが大乗仏教。
I've been to Paradice, but I've never been to Me そんな事を言ってるから無駄に年取ってくだらん人生を送ってるように見受ける >そんな事を言ってるから無駄に年取ってくだらん人生を送ってるように見受ける
この歌の歌詞をよーく味わって聞いてみなよ。
幸せになる為に一生懸命生きた中年女性が若い女の子に語りかける。
あなたの目を見てると私の若い頃を思い出す。
中年女の説教だと立ち去らないで。もう少しだけ聞いて欲しい。
皆んなが幸せだと思い込んでる生活を送ってきた。
でも、その幸福ってただの幻想だったのだと年を取るたびにハッキリわかってきた。
天国の様な生活をしたけど、そこは天国じゃ無かった。
そして、すべての人も幸福を手に入れようと頑張るけど、、、、ただの幻想を追いかけているだけ。
これから人生の航海を始めるあなたに言っておきたかったの、、、
そうよ私は確かに天国の生活を手に入れたけど
それでも私は私自身の場所を見つけられなかった。
これだけ法華経や禅や広義の仏法を表している歌だ。
是非、一度言語で歌詞を読んでほしい。
文学的で哲学的で、仏教的な歌詞だよ。 言ってる意味が分からなくてもしょうがない。
それは理解出来る。
私は越えようとして超えられぬ大きな川の川岸で
皆んなが乗れる大きな船を持ってきた。
あちら岸に行きたい人は、私の船に乗れば良い。
私は責任を持って皆さんを彼岸に連れてってあげよう。
しかし私の大きな船に乗りたく無ければ乗らなくても良い。それは自由だ。
この川岸には私の船に乗って川を渡りたい人が、ただ居なかったという事だけだ。
私は、私の大きな船に乗りたい人が居る川岸に行く事にする。
何処かに大きな乗り物を必要としている人達は存在すると確信している。
私は救える人以外は救えない。
私が救える人達を救うのが広宣流布としての、私の仕事だからだ。
一切衆生の真の幸福を心より願う。 >>579
幸福にするために何をしたらいい笑
2000年ばかり遅いんだよ >>571
だから日蓮教は仏教ではないと何度言ったら。 >>581
実際中身がないしな。具なしの小麦粉を酸化した油で揚げた巨大なかき揚げみたいな経典だ。 「大日如来(梵:マハーヴァイローチャナ)」は大乗仏教(密教)の尊格。
真言宗の本尊。
大乗仏教が発展していく中で古代インド神話やヴェーダ、漢字圏の陰陽思想を巻き込みつつ成立していった密教(秘密仏教)の最高位の仏である。
我が国には弘法大師により齎されたが、他ならぬ弘法大師自身が結縁灌頂を結んだ仏でもある。
古代の太陽神信仰を源流とするとされる尊格であり、仏法の示す“宇宙”その物であるとされる事から法身仏と呼ばれる。
このため、SF的に云えば太陽神どころか宇宙神と呼べる存在であり、思想的にはそれをも越えた概念であると云える。
華厳経の主であり、根源仏(※智慧の光により釈迦を生み出した仏)として考え出された(毘)盧遮那仏(奈良の大仏として有名)の概念を更に発展させた存在と考えられているが、
大日如来へと繋がる系譜は仏教の黎明期より存在しているとの説もある。 岩波文庫で華厳経が刊行中です。文学的香気に満ちた本格的な大乗仏教の世界を知って欲しいと思います。 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 2021/10/16(土) 14:02:00.16 ID:AJSGPU1Q
2019年度参議院選挙比例代表の公明党投票数から創価学会人口を算出。
創価学会人口ランキング
http://soukagakkaihigaisyajp.com/soukajinkou-hiritu-ranking-2019
創価学会被害者jp
http://soukagakkaihigaisyajp.com/
前スレ【その2】
http://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1631258745/
本物の被害者達の立場を悪くする為に活動している創価学会員の偽被害者達が多くいます。騙されない様に要注意です。 日蓮遺文に心経について述べた箇所はあるのだろうか? >>587
知らないけど無いんじゃないかな。長いわりに中身のない法華経の、しかも漢約の題名だけを連呼すれば良しという全く仏教的に根拠のない 教義を立てた日蓮が、極度に短いながら深遠無辺な般若心経に関心を持つとは思えない。まあ誹謗中傷はしたかも知れんが、所詮無縁でしょう。 >>588
それは日蓮の弟子日興一派大石寺貫首9代目の日有が作った教義
富士門流の化儀方式を体系づけて26代目日寛が今の日蓮正宗の教義の
大幹を作ったと思われる。
日蓮系他宗派では題目だけで良いとは言ってないはずですよ
日蓮系宗派でも根本の妙法蓮華経の解釈が違っていたりで
ちょっと情けない所がありますね
なんかは創価が言ってる事はおかしい
あれ大石寺がそもそもおかしいとたどれば途中で信心が無くなるほどです。 >>589 この様な流派は枝葉末節と云う言葉の儘、存在している。
釈迦が説かない法華経を依経に据え(明治維新が来ていません)
何食わぬ顔で
日蓮師を本佛に引き上げて拝む、な〜にが大恩教主釈迦牟尼如来であるものか 日蓮と般若心経の関りを考察
考えても仕方が無いですね。
般若心経の肝心は無ケイゲに住するなのだが、離欲地を
達成すべしという課題を日蓮氏は通って居ない。
皮肉な事に通用する訳本は鳩摩羅什三蔵の天才的名訳と云える経文である。 無量義経説法品第2に『四十余年未顕真実』とある。
釈迦牟尼如来が法華経を説く以前の40年余りの間に説いてきた諸経の教えは、方便・仮の教え(権教)であり、いまだ真実を明かしていないので、般若心経や他の経典は読誦しないw
また法華経譬喩品には、
『不受余経一偈』
と説かれるように法華経以前の経典を用いてはならないのであるw その手の話は史的ブッダと切り離して五時八教説という伝説が前提条件
昔の人もその手の宣伝文句にに騙されたんだなぁw >>592
旧体制の思想、其れがなんと江戸時代だ、
その儘の旧態依然をこの宗派は後生大事にお守りする。
明治維新、開国以降の仏教とそれ以前の仏教に截然と教判すべきなのだが、
専門の僧侶は、知っているのにも関わらず
恥知らずと云っても差し支えないだろうが、信徒に正確な情報を伝えず徒食している。
読んで憤慨したがる創価信徒「五時教判はガセネタよとの真説」は日蓮を引きずり降ろす
確実な文証である。
五時教判及び四十年間ミケン真実もガセ、十如是も水増し済のガセ。
悔い改めよは、法華経を説く集団に聴かせるべきお言葉なり >>592
さらに
法華経方便品第二には
『正直捨方便・但説無上道』
とある。
法華以前に説いてきた方便である権経を正直に捨て、ただ真実無上の仏道である法華経をこれから説くのである、と釈迦牟尼如来は宣言している。
よって般若心経などの権経は直ぐ様、捨てなければいけないww 非仏説の法華経側が、勝手にそう言っているだけ。
詐欺師の言葉をそのまま信じる人ですか? みんなが成仏できる法華経だからそれぞれが仏なのだが
私は仏だというとそれは私は人間だと言ってるように
奇妙に聞こえるのが法華経を勉強した人の常識。
日蓮を唯一無二の仏として扱うのは仏教ですらないと思う ādibuddhaというのはコンセプトで如来常住は共同幻想
レトリックをそのままの意味で受け取る奴もいる、馬鹿馬鹿しい限りだな 題目を上げてる間は成仏してるけどねぇ、
座を降りたら凡夫に復帰。
是の意味はデスよ、その宗教の眼目が人に善い影響を
与えない証しです。 日蓮が今の日蓮系各宗派の有り様を予知して
題目に妙法蓮華経としてたとしたら天才的な閃きですね
このお題目がある限り法華経から離れられない 法華経の日本語ページひどない?
英語ページ翻訳したほうが新たな知見得られるわ 法華経とは、さらっと通読して置くと宜しい、という評価は
既に最高学府の国立大学での常識です。
大乗仏教にそんなお経も有りますと言う程度の扱い。
初心者向けのオムニバス教典なんですが首尾一貫しているため
これが完成形と思い込む人が多いのです。 法華経は宗教本として読むより道徳として読むほうが
理解が早いのは間違いないな
宗教的洗脳を受けてると今まで思ってきたことが嘘だった
信じたくないと言う思いが残り整合性をえるためには
さらに勉強して脳内を再構築しないといけない(笑 >>595
それが世の日蓮教徒の読み方な訳だが、天台大師も日蓮も梵語が全く読めなかったのは周知の通りだが、日蓮の場合、正統的な修学をしていないので漢語も覚束ないことは注意すべきだろう。
正直捨方便の「捨」の字義が日本語の通俗に引きずられている。この意味は「掴んでいたものを放す」という意味で、「捨てる」という意味ではない。後者の意味では「棄」という字を用いる。
つまり正直捨方便を意訳すれば、「これまで堅持してきた選れた方法を今しばらく置いて」というような意味なのだ。
羅什訳の経典名だけを連呼すれば修行・修学経験不問という日蓮教の都合通りにはいかないのだよ。 仮に正法華経の方が流通していたならば、「南無正法華経」と唱えたのかな? そういえばNHKBSで聖徳太子を6日に放送するみたいだが
また史実に無いことを付け加えて反日ドラマにするのかねNHK
仏教伝来から仏教文化の広がりを知りたいのだがw >>606 弘法大師著、十住心論中に天台と法華経を論釈、
梵語の経題名を正確に翻訳し「正法蓮華経」と導き出す。
次いで、この経は観世音菩薩に就き修行の根本として行えと指導する。
経題名を唱えろと弘法さんは仰らずですね。
因みに日蓮師は弘法大師著作を殆どお読みになって居ないと思います。 >>606
6文字だと「南無阿弥陀仏」と同じでリズム的に低調でアウト
7文字の「南無妙法蓮華経」「南無釈迦牟尼仏」は
宇宙の基本的波動と合うので体内リズムも活性化する。 >>609
宇宙の基本的波動と体内リズムについてバカでない人にも分かるように説明お願いします。 >>609 どんどん良くなる法華の太鼓‼と昔から景気付けにか知らんが
日蓮宗の葬儀、最後の出棺に団扇太鼓叩きを何枚集められるかで
亡者の格が相違する。
創価学会は団扇太鼓を叩かない、日蓮の宗派では不景気な部類ですね。
>>609
見た目の7文字w
リズムも何も関係ないだろw >>607
ほんと受信料クレクレのnhkは解体したほうが
いいな 氣功治療という技法があり、其れが出来る人、出来ない人は截然と別れる。
私は氣功を否定しないわけだが、>>609氏曰くの波動は判らんですね。
本人は好い気持ちで題目を上げる、此れが波動か?それって何だろうで。
共感して貰いたいらしいが、余りに漠然として居ませんか? 日蓮正宗も顕正会も創価も立正佼成会も、同じ7文字の「南無妙法蓮華経」を唱えている。
609さんの理論なら、それぞれの宗教団体は皆、宇宙の基本的波動と合って、体内リズムも活性化してるってことだよね。
もしそうならば、全ての南無妙法蓮華経を唱えている宗派は全て、お互い宇宙と一体化して仲良く和合する方向に向かわないとおかしいよね。
しかし実際は、正宗と創価に象徴されることだがお互い殺しあいに近いぐらいにいがみ合っている。
南無妙法蓮華経は色んな信者さんの体験談を読むに、確かに人間にポジティブな影響を与える素晴らしい面があると思う。
しかし、南無妙法蓮華経を唱える団体のお互いの仲の悪さの現実を見るに、ネガティブ面も極めて強く有している。
これらの傾向から、結局南無妙法蓮華経って、人間の内面にある感情を単に増幅させる装置にしか思えない。
ポジティブな感情はよりポジティブさが増し、ネガティブな感情はよりそのネガティブさを増す。
もし勇気が欲しければ勇気の実現を祈れば生命力が湧き出でて、よく撲滅唱題って呼ぶけど相手の撲滅を祈れば憎しみや怒りが無限に湧出する。
憎しみや怒りの感情は普通は時間の経過と共に弱くなるものだが、日蓮系の対立の基礎となっているお互いへの憎悪はいつまで経っても弱くならない。
この原因は、人間の特定の感情を増幅させることができる南無妙法蓮華経の特徴にあるんだろうね。
だから、南無妙法蓮華経なりオームなり強力なマントラを持っている信仰って危ないんだよ。
組織の支配層が信者をコントロールしたいと思ったら、マントラを使って信者の感情を支配層が誘導したい方向に強化することが出来てしまうから。
日蓮系宗派の対立の異常な激しさは、組織の支配層が持っていた独善や権力欲が強力なマントラにより増幅され、そして同じくマントラを使って信者を支配層の操り人形にしてしまった結果だと思う。 >>617
題目や称名念仏とマントラ(真言)とは全くの別物。味噌と糞とは区別しなければならない。 称名念仏も真言も仏教的根拠のある禅定(ヨーガ)だが、日蓮の称題は仏教的根拠のない単なるオカルト呪術にすぎない。 法華経に書いてない題目より書いてある安楽行品に書かれてる行のほうが重要じゃないの?
連呼系なら観音経
個人的には安楽行品の価値観好きじゃないけど笑 法華経をストーリーとして読んでない信者さん結構いるんだね
何か呪術的な波動とかオカルト的なそういう方向になっちゃう、比喩に釣られて本当にそのまんまの意味で捉えてしまう
まあ提婆達多品嘱累品最終章から陀羅尼品になんでもござれの法華経だから題目もアリなのかな >>571
センター試験に出題されるような、仏教の代表的教義。
四法印を知らなければ解けない。
※一九九九年・センター本試験 第1問・問3
問2 仏教の開祖ブッダ(ゴータマ)は、人生に不可避の苦として生老病死を挙げ、これらを苦とするあり方を離れることの重要さを説いている。この背景にある仏教の考え方の記述として最も適当なものを、次の❶〜❹のうちから一つ選べ。
❶苦の原因は、自分が何であるか知らないという点にあるが、自分といわれるものの本質は、この世界のものを存在させる原因や条件の相対的あり方を超越したものであると認識されなければならない。
❷苦の原因は、自分が何であるか知らないという点にあるが、すべて存在するものは原因や条件に依存する相対的なものであり、自分といわれるものも変化する相対的なものであると認識されなければならない。
❸苦の原因は、自分でないものを自分と思うところにあるが、自分といわれるものは、自他の区別を可能にする原因や条件の背後にある根源的なものであると認識されなければならない。
❹苦の原因は、自分でないものを自分と思うところにあるが、我々の本質をなす自分といわれるものは、存在するともしないとも言えない不可知的なものであると認識されなければならない。 三法印が小乗の法印であるのに対して、大乗の法華経では諸法実相を一法印とするので学ぶ必要が無いのです
キリッ( ・`д・´) >>623 三大秘法て何でしたっけね?
本門の戒壇、本門の題目、とあと一つですよ
教えてください「諸法実相様」 宗祖日蓮自身が受戒してないのに本門の戒壇も糞もないだろ。 宗祖が受戒って意味わかんないw
誰かのお墨付きが必要か?
日蓮は法華経の行者として筋が通っている
法華経片手に辻説法してその愛用の法華経が
本になって出版されている創価からだけどw >>624
623 諸法実相 です。
本門の本尊です。
キリッ( ・`д・´) >>626
あのね、受戒してないなら授戒もできないわけ。仏教では戒律を授けたり受けたりして相伝するわけ。
日蓮みたいに受戒してないなら授戒のしようもないから戒壇なんて無用の長物な訳よ。 大聖人のすごさは、煩悩即菩提、生死即涅槃の概念を現実化したところ
題目を唱え、御書を学び、一生懸命に働くことで幸せになれるのだから、こんなに有難い信心はない
仏法の魂は実践にあり
100年の思索も一日の実践には如かず
我々凡夫が考えるべきは、どうすれば目の前の仕事が上手くいくかという事だけだろう
考えては動き、動いては考える
人生とは、その試行錯誤の連続に過ぎない
おまえらは考えるだけで疲れて寝てしまうだろ?
だからいつまでたってもダメなんだよ >>629 新年には祈祷寺院で商売繫盛、学業優等のお札を頂く人も多い、
そのお札に記入される祈願の文字を仔細に見るに、「学業優等御修業」
「商売繁盛御修業」と記す。
此れ、人の願いを単純に欲や願いを叶えるのも結構だが、根本は
佛心を忘れず在るべき本業を務めよと教えている。
江戸期に鈴木正三という方が居られ、仏道と在家の在り方を深く考察される。
貴君も鈴木正三氏の著作に触れる、実に裨益されることと思います。
題目を唱え御書を学びって、それが出来ていないとダメなの?
それが出来なければ幸せになれないの?
ここが日蓮信者が自分の陥っている陥穽に気づいていない部分。
日蓮信者の全ての考え方は、相対という幻想を事実と思いたがる陥穽に陥っている。
題目を唱え御書を学ぶ幸せな人生と、題目を唱えず御書を学ばない不幸せな人生という、幸不幸という相対的感覚。
絶対無条件な幸不幸ではなく、もし何々をすればという条件付けに基づく幸不幸。
結論から言えば、幸せな人と不幸な人、美人やブスなどの相対は人間の脳が作り出している。
自分の肉体及び肉体の感覚器官に強く執着することにより、自分という物体と、自分という物体以外のものがあるという分離や違いの錯覚を引き起こす。
詳細な説明をするとキリがないので、強引に答えを出すならあらゆる事象は縁起。
物という現象は、全てのあらゆる現象との縁の関連により、その関連に人間が意味を見出だすことによって、初めて人間にとって物や違いとして立ち現れて見える。 高いがなければ低いはなく、速いがなければ遅いはなく、不幸がなければ幸はなく、女がなければ男はない。
これらは全て、人間がとある現象を他と切り離して意味付けを行い、その意味付けを他との意味付けとの関連を行い、それによって初めて◯◯は✕✕との架空の意味体型が作り出される。
このような意味の体型付けを行うことにより、初めて何らかの存在というものが人間にとって見出だされるようになる。
つまり唯識思想が言うように、全ての外界にあると思われる現象は、実際は人間の意識が作り出している内的事象。
よって上だとか下だとか、幸せと不幸せだとか、実践と思索だとか、それらはあらゆる一つの現象を、人間が勝手に分離基づいて意味付けして、勝手に別物として扱っている。
しかしお釈迦さんの言うように、本来あらゆるものは空。
よって特定の物や実態なんてものは存在しない。
実態がなければ当然相対も存在しない。
この状態に気づくとというか、自と他を分ける脳の錯覚を瞑想や座禅などで停止させると、全ての現象は妙なる一つの流れであり、それは諸行無常であり、自と他という境界が消える。
境界が消えるとは、あらゆるものが仏にあるいは神に包まれているというか、全ては一つの存在(神や仏)が変容しているバリエーション。
よって我々というのは常に仏や神のうちにある。
そしてそれを思い出せば、つまり無明が消えれば、我々は直ちに自分は単独の存在という幻想から醒めて、仏や神という全体性に帰還する。
仏や神、つまり一つの無常なる包括という我々自身の源に帰還すると、分離や相対は消えるゆえに、それらは夢や幻。
相対や条件付けに基づく幸不幸も夢幻でゆえに一つに吸収される。
その一つとは、マザーテレサもヒトラーも、あらゆるものを等しく受容する子宮のようなもの。そしてその子宮とは相対の存在しないあらゆるものを受容する光に包まれるような至福。 この理解に至れば、というか至らなくても、お釈迦さんは明白にこの事実を一番最初の説法にて解き明かしている。
その説法とは、人間が無明、つまり分離や相対意識により煩悩や輪廻を生じさせる12支縁起の仕組み。
我々は分離や相対という無明に陥りがちなゆえに、自分という幻想の個別性への執着を引き起こして、その執着がカルマを生じさせ、カルマが輪廻を引き起こす。
ここを理解していれば、間違っても分離意識や相対意識をリアルとして扱うことはない。
しかし日蓮や日蓮信徒は、なぜかあらゆる物事に分離意識や相対意識を持ち込む。
仏とそれ以外、優れた教えと劣った教え、地涌菩薩と邪教徒、正法を実践する幸福な者と実践できていない不幸な者などなど。
日蓮や日蓮信徒は、これらの分離や相対という幻想が、リアルとして存在していると思い込んでしまっている。
仏教を学ぶ上で、一番最初に学ぶべきは12支縁起の出発点になっている無明の意味。
この無明の意味を理解せずに無明に陥った状態で仏教を解釈しようとするならば、日蓮や日蓮に基づく新興宗教のように、仏教の教えを優劣という分離や相対に基く細分化、権威付けをしたがる。
何故ならば、人間は自分を他と分離している存在と思い込んでいるゆえに、弱肉強食原理で勝ち抜く為に自分を優れた存在に祭り上げる生き物だからね。
その結果、無明に陥った人間は自分の権威付け欲求に基づいて、優が劣、例えば正法が邪教を滅ぼすのが正義といった、争い肯定行動を必然的に生み出すこととなる。 仏界とは、地獄界の対局に位置する「絶対的幸福の境涯」だと戸田先生は言っておられたっけ
これはつまり、病気であろうと、貧乏であろうと、障害があろうと、愛する人を喪うとも、生きている事それ自体が幸福であると感じる状態
『法華経の行者としてかかる大難にあひ候は、くやしくおもひ候はず。いかほど生をうけ死にあひ候とも、これほどの果報の生死は候はず。
今は生死を切断し仏果をうべき身となればよろこばしく候…』
これは竜口の法難から数ヶ月後、四条金吾に与えられたお手紙の中の一節で、これぞまさにと言えよう
釈尊も「何を以ての故に、衆生をして我と同じ境涯に入らしむべきか?…」と
すべては夢幻のごとくなり
実態も相対も何もない!と思ったところで、現実生活は何も変わらないだろ?
なぜならそれは観念の遊戯に過ぎないからだ
男も女もないと、女の子のお尻を触ったら警察に捕まるだろ
幸せも不幸もないと言っても、前科者になって、家族を悲しませ、会社をクビになったら辛いだろ
この世とはそういうもんだ なぜ題目を上げれば幸せになれるのか?
それは、あの本尊は大聖人の魂であり、その前に座って唱題するとは、時空を越えて大聖人にお会いすることに他ならない
そして御書を学ぶことは、大聖人の声をじかに聞くことであり、そのお姿やお人柄に触れることである
だからどんなに深い悩みの中でも、病苦にあっても、励まされ、元気と勇気が湧いてくる
竜口の首の座にあって『不覚の殿原かな。これほどの喜びを笑えかし』と、馬の口に泣きつく金吾を諭されたそのお声が聞こえてくる
なんで無為に生きられようか?
『いのち限りあり・惜しむべからず』と心に噛みしめずにいられようか?
そういう事なんだよ… 日蓮のような悲惨な生涯も火事を喜ぶような人格も噛み締めたくない笑 差別的な書き込みしてるのはどこの宗派?
鎌倉時代から変わってないのだろうけれど
宗教で飯を食える時代ではないのに
墓穴を掘って加速させるね まったくどんな宿業してんだろうな!題目挙げて罪障消滅しなきゃ!
らい病もその業病だと法華経にも書かれてる笑
差別はやめよう 『折伏教典』戸田城聖監修・創価学会教学部編纂(昭和29年9月10日)より
地獄界―不具者、病者、狂人、ルンペン、邪宗教の坊主及び信者
餓鬼界―下級労働者、衣類住居まではとても手が廻らず毎日毎日の生活が食を得る為に働いて居るような人人。
アルコール中毒になつて酒が無ければ生きて行かれぬといった人間、金をもうける為には手段を選ばぬという拝金主義者、其他何んでも目についたものが欲しくてならぬという様な性格異常者。
畜生界―パンパン、不良、泥棒、スリ、其他犯罪者。自分より強い者には絶対に従順で自分より弱い者にはいばるという人格の低級な人間。
修羅界―競輪競馬バクチ等を事として居る人間、兵隊、警官、拳闘家、将棋、碁を職業とする人の様に常に人と争う人間。
人間界―普通平凡に生活している市井人。
天 界―大金持、元の皇族、貴族、一国を動かしている大政治家、経済家、偉大な軍人等々。
声聞界―学生、研究家、学者等。
縁覚界―大作曲家、音楽家、芸能上で一芸の奥義に達した者、何かの研究を完成した学者等。
菩薩界―二宮尊徳の如く広く社会を利益した者。偉大な発明発見により広く社会を利益した者。
(例えばエジソン、ワット、湯川秀樹博士、支那に生れた孔子等)さらにすぐれた菩薩界は正しい仏法を廣め、衆生にすくいを與えた人々。
仏界―日蓮大聖人(御本佛)釈尊(迹佛)天台(迹佛)伝教大師(迹佛)等。 >>643 仏界から日蓮さんは除きます。
理由は離欲の境に至らず、このお方は現物が欲しいという欲念を
断ち切って居りません 突っ込むところはそこ?w
戦後直ぐだし学校の先生をやってたので
子供向けな気がするけど >>643
一念三千なのだからこのように区分するのは間違い アルコール中毒になつて酒が無ければ生きて行かれぬといった人間
自己紹介だったのか >>643 この様な一覧表が信者には”判り易い”
教える方は”とっても楽に伝えられる”
詰まるところ、”非信者は見下すべし”の差別意識を産み、
仏心による平等観を感じませんね。 >>643
餓鬼界―下級労働者、衣類住居まではとても手が廻らず毎日毎日の生活が食を得る為に働いて居るような人人。
アルコール中毒になつて酒が無ければ生きて行かれぬといった人間、金をもうける為には手段を選ばぬという拝金主義者、其他何んでも目についたものが欲しくてならぬという様な性格異常者。
アル中は戸田城聖
拝金主義は池田大作
とても分かりやすいw >>649
そうじゃないだろう
根本は十界互具、一念三千の哲理から、分かりやすく一応の差別を言っているだけで、万人に仏性を見る慈愛の眼がそこにはあるのだから
634だが、もう少し真摯な反応があるかと期待したが、挙げ足とりばかりでもう沢山だ
邪魔したな 万人に問いかける慈悲をもっと無信者、もしくは無宗教者に向けられないのかw
宗教間で差別はあるんだなw あくまでもこの経典のカテゴライズは正しい思うんだな、それは自由 >>651
マジで上に書かれてる基本経典の事項は撤回的ないんだなwwwww
一信者だから仕方ないんだろうが笑うしかないw >>643
こんな醜い差別意識丸出しの鬼畜どもが折伏と称して迷惑千万なカルトの走狗になった。 >>643
将棋とか碁を指す人が修羅界とは。。。
分かりやすく説明しているつもりだろうが、それは酷すぎる >>643
人と争うのが修羅界なのであれば、オリンピックは修羅の大会なんだね 日蓮教徒のみなさんにぜひわかっていただきたいのは日蓮教は仏教ではないこと。
日蓮を神と信じるのは勝手だが、「本仏」ということは許されない。仏教ではないのだから。
日蓮教はたんに非仏教というのではなく、反仏教なのである。
反仏教でも信じるのは勝手だが、仏教ではないのだから「本仏」だとか「大聖人の仏法」などと言えば詐称になる。
このことだけは理解していただきたい。 >>126
鬼畜外道な「呪われた天敵仏敵国賊カルト」に入ると、呪われて鬼畜外道なハイエナに変わり果ててしまいます。
(淀川長治の口調で)
天罰仏罰ですね 恐ろしいですね♪ 怖いですね♪ 朝鮮宗教と別称すべきという意見が根強く在るのは
差別意識が強烈に潜む故だ。
信者が上で非信者は下に属す、真っ当な日本人が
そんな阿保な教えを奉じる訳がないだろ。 池田布教の中心が朝鮮部落
幹部は朝鮮系にある時期に入れ替わった
聖教も日本語が不自由な人が書いてたね
縦線から横線といわれた時代に草創期の友は去った
公明も書記長が軒並み追放されたね
代表も在日出身民団の公演なんかが動画で出回ってたはず
日本の福祉で育って日本を恨んでるから
どうしようもないやつらが多いね >>658
5chの輩に言われて「はいそうですか」と真に受けるバカがいるなら教えてほしいw
じゃあチミは真実の仏教が何か知ってるわけだ
だったらそれを命をかけて広めるべきじゃないの?
それが慈悲っってものだと、お釈迦さまも言ってたろw
5chなんかで講釈たれてる場合かこのアホ >>660
おまえのレスからも朝鮮人への差別意識がプンプンするんだがw
はよ働けや糞ニートが >>662
>
じゃあチミは真実の仏教が何か知ってるわけだ
だったらそれを命をかけて広めるべきじゃないの?
それが慈悲っってものだと、お釈迦さまも言ってたろw
釈尊が悟りを広布するのが慈悲だと言ったことは私は知りません。根拠かソースをご教示いただきたい。 私の知る限り仏教はみだりに説法することを戒めます。
悟りに達していない凡夫がいい加減な教義を流布しては仏道を毀損するからです。 >>663 或る人曰く「朝鮮人の心的特性、まあ性質だけどね彼らは上下関係で
のみでしか人間関係を構築しない人達なのだ。
儒教へのねじ呉れた解釈を応用して社会を創った。
俺の方が身分が上だ、お前は下決定だからという位置関係を決めて始めて心境が
固着安定する。
仏教でいうところの諸行無常が通用しないのだ、改めて言うけども
日本人が差別するのじゃ無くて、そういう差別実行的な民族性を過分に有する奇妙な人たち。
例えば実例なんだが、アメリカに移住してアフリカ黒人系の有色人種を差別する。
ブラジルに移住して同様な行為を平然と行う人たちが朝鮮人なのさ。
これはブラジル国家の基本政策、民族間の融和と差別撤廃に反すと議題に挙げられた
大問題なのだ。
後から移住してきたウリ人が先に住んでいる人を差別できる精神構造は日本人に理解不能。
上に記す様な人たちの二世、三世が創価の実権を握るとか、民族性は薄らいでいるか?
そりゃ数人の知人を見て怪しく私は思うね。」との談話 >>664
なら釈迦は何のために教えを説いたのか?
良薬の存在を知りながら、それを病人に教えないのは罪ではないのか?
それとも仏教は哲学であって、宗教ではないと?
むしろ自分だけが解っていて、他人は無知で愚かであってほしい?
なんかおまえら見てるとそんな気がするわw >>666
アメリカ人も先住民のインディアンを虐殺し、その差別意識は今も根強く続いている
朝鮮人もヨーロッパ人もブラジル人も変わらん
人間もまた、しょせんは畜生なんだよ
だからこそ信仰によるセルフコントロールが必要なんだろう
現代人は宗教に代わる信仰をどこに求める気なのか?
テクノロジーは人間の魂を救済し得るだろうか?
ならば、人身事故で電車が毎日のように止まるのはなぜ? >>643このような区分も差別的だし>>666このようなものも悲しいが差別思想丸出しだ
法華経には安楽行品にもそういう意識が出ている
いくら平等に成仏と謳っても過去世前世やら業というデータベース化された差別思想を背景にしてしまってる
法華経は失敗作 >>669
輪廻転生、永遠の生命観・宇宙観とその因果律を除いたら、仏教になにが残るのかw
それだったらもうヨガでいいだろw >>670
例えば普賢菩薩勧発品第二十八の有名なこの部分
若有人。軽毀之耳。汝狂人耳。空作是行。終無所獲。如是罪報。当世世界無眼
現代医療を知っていればレトリックとして失敗していてただの悪口になってしまってる
超越した法体としての存在もレトリックからボロが出てくる
ハンセン病は業病ではない >>671
同じハンセン病になるとしても、医療の発達していない時代に生まれるか否かで、その苦しみはまったく異なる
Aさんは昔に差別され、Bさんは今の薬で完治した
AさんがAさんたる因果とは?BさんはなぜBさんとして生まれて来たのか?
それは永遠の謎だろう
しかしその差別は現実にあり、ここに人間の苦しみの一切もある まあここには法華経の信者さんなんておらんか
日蓮系の末法観だと安楽行に勤めてるはずだw
でもなぜか団体で悪口の言い合い >>672
名医と偽る法華経さんが誤診のためほかの人が差別に苦しみましたよでおしまい
藪医者だったんだ >>674
法華経の悪口は、大好きな釈尊の悪口ちゃうの?w
大乗非仏説?
だからヨガやってろってw 日蓮教の信者さんたちはものすごく単純な世界を見ている
世界が単純に見えている
そこではあらゆることが明白で
絶対無二の正しい法を広める慈悲の実践こそがなすべき「正義」なのだ
日蓮上人ご自身は決してそのような単細胞ではなかったのだが
日蓮教の信者さんたちはなぜか単細胞が多いのだ
話が噛み合わないのは当然である >>676
おまえも頭悪いくせに仏教のことなんか考えてんじゃねーよ
下手の考え休むに似たりとは、まさに 囲い込まれて安心する人も居る、こういう人を創価は求めます。
一々疑問を出されては困りますね、答えられない問題を突き付けられたら
創価の文化会館とその地区は破綻します。
例えば、池田大作氏は成仏して会員を指導しているのか?
大作氏の息子の一人が30歳にもならず妻子を残して亡くなったが
此れって納得が行かない疑問だが、そんな俺を説得してくれるか?
などですね
日蓮系宗教は自己満わーるどのカルトだと揶揄されそうな感覚しかない
民は新宗教や新たな法を求めている もはや日本で新しい思想や宗教など生まれようはずがない
それどころかどんどん滅びている
俺たちは、そんな何もない時代に生きているんだよ
さあどうする? >>667
あなたは>>662で次のように書きました。
じゃあチミは真実の仏教が何か知ってるわけだ
だったらそれを命をかけて広めるべきじゃないの?
それが慈悲っってものだと、お釈迦さまも言ってたろw
それについて私は次のように質問しました。
釈尊が悟りを広布するのが慈悲だと言ったことは私は知りません。根拠かソースをご教示いただきたい。
「ご自身でお釈迦さまも言ってたろw」と言ったのだから、その根拠かソースをまずご教示いただきたい。
実は根拠もソースもないが、つい思い込みで書いたなら、そういえばよろしい。 >>667
>なら釈迦は何のために教えを説いたのか?
良薬の存在を知りながら、それを病人に教えないのは罪ではないのか?
>それとも仏教は哲学であって、宗教ではないと?
むしろ自分だけが解っていて、他人は無知で愚かであってほしい?
また私が665で言ったのは、次のことです。
私の知る限り仏教はみだりに説法することを戒めます。
悟りに達していない凡夫がいい加減な教義を流布しては仏道を毀損するからです。
釈尊は悟りを得た仏陀です。悟りに達していない凡夫ではありません。
あなたのような解釈になるのでしょうか?まったく反論にもなっていません。 法華経集団の中で抗争が絶えない
日蓮は仏教界のカオスをみて新宗教を立ち上げたのだが自身の末裔も同じ抗争を繰り返したわけだ 法華経の作者は何を意図したのか知らんけど、法華経という教えは基本的に
「今までの私(釈尊)の教えは正しくなかった。今までの教えは教えを理解する能力のない民に合わせた方便です。しかし衆生の準備が整ったのでこれから私の説きたかった真実の法を説きます」
って内容だからね。
この法華経の内容を読んだら、そりゃあ読んだ人は大喜びするよ。
俺は真実を聞いたとね。
そして当然法華経以外の教えは劣っていると強く思うから、法華経以外の教えを蔑みたくなる。
「法華経以外は方便で真実じゃない。俺は真実を聞いたから、お前らは俺の実践する真実に従え、そうしないと不幸になる」ってね。
お経の作者は、自作のお経を人に読んでもらったり、人から評価されたいと思うのは当たり前。
であるから、人情としてこの教えが真実というプロパガンダを作品内に紛れ込ませたくなるのは当たり前。
真実が強調されていれば読みたくなるし、読者は自意識が高められて気分が良くなる。
これが本当の教えというモチーフは、広告業界が何らかの新作をマスターピースと宣伝するのと同じで購買意欲をそそれせるのに効果抜群。
しかし、釈迦という人は真実だとか方便だとかなどのモチーフを本当に用いる人だったのだろうか?
あらゆることが虚実であると説き、ブラフマンヤアートマンを否定していた釈迦。
であったのに、真実や方便などという、ブラフマニズム(ブラフマンのみが真実であり、それ以外はマーヤーとの教え)と非常に類似した概念を用いるなんてことをしただろうか?
法華経は釈迦のエッセンスよりも後世の作者の主観が非常に反映されてしまった作品だと思う。 法華経は端的にいって「信じる者は救われる」
これかないんだ
理論的説法がまったくない >>682
我が滅度の後、この経を広める者は即ち我が弟子なり
こういう言葉が随所にあるだろ?
だから、おまえらアホなんだから難しいこと考えんなって
男は黙って働け
ウダウダウダウダうるさいんじゃおまえら >>686
だったらおまえが法華経以上の教えを示せや?
なんもできへんのやったら黙っとけボケ >>685
>法華経という教えは基本的に
>「今までの私(釈尊)の教えは正しくなかった。今までの教えは教えを理解する能力のない民に合わせた方便です。
>しかし衆生の準備が整ったのでこれから私の説きたかった真実の法を説きます」
>って内容だからね。
それは梵語がさっぱり読めず、漢語すら覚束ない日蓮を妄信する日蓮教の読み方です。
先日、「正直捨方便」の捨という字は捨てるという意味ではないと指摘しましたが、
方便といえば「嘘も方便」という通俗日本語の語感に引きずられて本来の意味が失われています。
ここでいう方便はサンスクリット語のupayaの漢訳で、悟りに導く方法あるいは悟りへの導きという意味です。
「悟りに導く方法」や「悟りへの導き」を投げ捨てるはずはありません。
したがって法華経以外の経典が仮の教えで、法華経だけが真実などの解釈は成り立ちようがないのです。
ついでに付言すれば、たいていの大乗経典には「これこそが真実である」という意味の記述はざらに見られます。 >>687
>我が滅度の後、この経を広める者は即ち我が弟子なり
こういう言葉が随所にあるだろ?
釈尊が言ったというからソースを聞いてみたら法華経の話でしたかw
法華経は内容のほとんどが自画自賛ですから、調べるまでもありません。
しかしあなたが法華経を釈尊の直説だと信じていることはよくわかりました。
そんなあなたにもう一つ質問です。法華経の中で「この経」といっているのはどんな経なのでしょうか。われわれが現在目にする法華経ではありえませんよね。 >>689
〉たいていの大乗経典には「これこそが真実である」という意味の記述はざらに見られます。
これについて、大乗経典から具体的に代表例を挙げてもらっていいですか?
自分が大乗経典で真実と感じるのは維摩の沈黙や華厳の事事無礙・理事無礙ですけど、これらは真実と言っても裏返せば結局「なにか特定の真実はない」という意味。
法華経で説かれる「私は久遠の昔から悟っていた」なんていう権威付けの真実とはまた異なるニュアンスだと思います。 >>688
そうやってカリカリ怒るだけなのは反論できない証拠
盲信信者さんw >>691
これこそが真実である、旨の記述は例えば代表的大乗経典の般若経典群に随所に見られます。
一番人口に膾炙している般若心経にも見られますし、法華経と分量的に近い八千頌般若には繰り返し見られます。たしか浄土経典にも見られたと思います。
これは考えてみれば当然のことで、仏教経典は如是我聞から始まりますから、すべて釈尊の直説だという建前を取ります。
つまり建前上はおびただしい大乗経典はすべて真実だということなりますから、個々の経典作者は「いやいや、これこそ真実中の真実だ」と強調したかったのでしょう。
維摩経も華厳経も有名な大乗経典で般若思想の影響が顕著ですが、特定の事実はないというふうには私には読めません。
私には両者は普通の物の見方つまり素朴実在論的な見方を否定し、事物の「空」性を強調し、それが真実だと言っているように思えます。ちなみに勝鬘経もそうですよね。
維摩の沈黙は空を言葉ではなく沈黙によって表現している点で高度な作劇法として感心させられます。 >>690
大乗非仏説前提の連中が、大乗経典の中で正邪を決した大聖人を批判する意味がわからん >>688 時代の要請は教えから方法へと進む
君は此れを如何したら良いと思いますか? >>690
上座部仏教がお好きなのか知らんが、釈尊の直説だろうと何だろうと、歴史の淘汰の中で大乗仏教が残ったのだから…
今さらその歴史をひっくり返されてもなぁ…
3000年も昔の事実をうんぬんかんぬん
健気だねえキミらも( ゚ 3゚)
その無駄なエネルギーをもっと違うことに使った方が役に立つと思うよ?
コンピューター理論とか外国語の勉強とかさ >>695
けっきょく宗教なんてみな同じような事を説いているわけで
大乗だろうが小乗だろうが、キリスト教だろうがイスラム教だろうが
そこに天と地ほどの倫理的ギャップがあるわけじゃなし
大聖人のすごさは、法としての仏、人としての仏をリアルに後世に伝えたことだと思う
竜口の光物を出すまでもなく、およそ人間の究極の姿…
その忍耐力、意志力、行動力、包容力、知力を見ても、これが仏でなければ仏とはどんな化け物なのか
釈尊はもはや神話の中の存在だが、大聖人は現代に近い人であり、その功績はまさに現実のこととして仏法に触れるに十分である
大聖人がなければ、日本の仏教の精神は完全に死に絶え、単なる文化的鑑賞の価値しかなかったろう
現にチミらも、浄土宗や禅宗他の大乗仏教なんか信じてないんだから >>697 彼の文中の記述、「大聖人は現代に近い人」
「お釈迦様は2500年前の印度人」、日蓮は鎌倉時代の日本人で
比べりゃそりゃ日蓮の方が親しめるとは誠に安易に流れる思考じゃないの?
日蓮が信じたのは、釈尊金口の説法と思い込んだ法華経なのだが、
法華経を説き、記した人はお釈迦様とは全く時代もかけ離れた後世の無名人。
法華経は三度、増広された形跡があり。
現代に普及する訳文は鳩摩羅什三蔵の筆による加工が諸処に散在する。
十如是の元は五如是のみ、経題名を「正法蓮華経」と訳すべきを妙法蓮華経と改竄。
随分に余計な装飾を加えたお経が今も通用し読誦されている。
この先、貴君が尊崇する大聖人様の仏法は「廃れる運命にある」と申せます。
理由は上に挙げる諸点の虚偽判定をされた方から洗脳が解け、立ち去る故です。
言ってしまえば日蓮の掴んだ仏法は偽物でした。
其れを通用させようと、アリトアラユル手段を使っての末に創価学会は潰える最中じゃないのか。
そのように私は考えて居ります。 法華経信者なのに法華経を語っていない、いや語れない
物語の一部も語れない
どうなってんだ >>698
>法華経を説き、記した人はお釈迦様とは全く時代もかけ離れた後世の無名人
それはいささか暴論かと
如是我聞…経典は釈迦の説法を後世に記録したものだから、なにも法華経だけのことじゃない
あるいは釈尊の直説でないから価値がないというのも安易な発想かと
そのお釈迦様絶対主義こそが変なシューキョーなんじゃないか
まぁ何とでも言いなさいw >>699
だから御書を読めば自ずから法華経を読んだことになるんだよ
素人が法華経を読んで解ったような気になったところで時間の無駄だろ…
どんなに頑張っても大聖人の理解に及ぶわけがないのに、なぜわざわざ原文と格闘する必要があるのか(笑
どんだけ自己顕示欲つよいねん…
ほんとおまえらって奴は >>698
じゃあこれぞ正真正銘、本物の仏法だというものを教えてくれ
それはどの経典に書かれているの?
そしてその内容を具体的に実践するにはどんなことをすればいい?
冗談ぬきで教えてほしいわ
この世に何の光も救いもないなんて、辛すぎるじゃないか >>701
創価の御書講義がでたらめ過ぎるわけは
法華経を一通りも読んでないので前置きなしの引用が
無視され全く文脈が変わってしまう
法華経を知ってる者同士の手紙には省略された大前提がある
手紙にわざわざ書かないだろう >>703
もうちょっと分かりやすく頼むw
法華経を一通りも読んでないって、誰のこと?
池田氏?戸田氏?
>法華経を知ってる者同士の手紙には省略された大前提がある
これは誰のこと?? >>704
御書も法華経も創価が出してるから自分で確認したら
御書中心でいくと言ったのは池田だが言わせた奴がいると思うが
法華経の(妙法蓮華経並び開結)の初版本発行者は秋谷会長
本幹を見逃してないなら池田の横で秋谷会長が嬉しそうに報告してのを
覚えてる人も多いだろう >>702 既に開始されているのですが此処では言えませんね、
探しなさい此の日本に在りますよ。 >>702 既成の教団じゃ在りませんよ、但し真言天台、臨済の若手に御聞きすると
手掛かりは在るやも >>672
忍性 貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られる
日蓮は口だけで何にもしない >>708
しかし後年は幕府おかかえの堕落僧となり、大聖人との祈雨の公場対決に敗れ、権力を利用して大聖人を処刑しようとした
まさに潜聖増上慢を絵に描いたような人物 >>709 官辺が私度僧に雨乞い祈祷を依頼する作話は止めよう。 >>709 日蓮信徒はしばしば見せる性情に対立する二者を揚げ
優劣、勝敗を決めつけたがる。
無かった話を造って迄も日蓮を勝たせたい、ここ迄くると既に発狂者出現。
お釈迦様は、怨憎会苦を説き、指導される中身は、「愛憎の対象からは離れよ
と先ず離欲を説き、次いで其の心を生み出した機縁を覚らせ、執着の根本にあるのは
己が煩悩なのだと自覚させてから、後有からの解脱に向かう心境に至る指導を重ねる」
709氏は日蓮に愛着し、片時も離せないのだろうか。
哀れではないか、空想の日蓮像を造り、次いで煩悩を発し、日蓮を些かでも非難する輩を
排斥したがる。
斯くも応援される日蓮は頭を掻き、止めて呉れろと泣いて居りましょう。
日蓮は俺に祈祷をさせろと運動をした、其れは在ったかも知れません、然し乍ら
その支払い費用は誰が見るのでしょうか?支度には現代でも数百万円はかかる物なのです。
日蓮は私度僧、素人の坊さんモドキに官費は出ませんよ。 創価板にきて荒らしてるのにまったく自覚がない
争いを仕掛けなければ無視されて平和なのに
それに日蓮系以外で喧嘩してるようにも見える
成仏を諦めてる宗派は他人の成仏を邪魔する
障魔でしかないw >>711
>無かった話を造って迄も日蓮を勝たせたい
何を根拠にそう言うのか?
当時の経緯は御書に詳しく書かれ、七日の日延べにも関わらず、終に雨は降らず、良寛一党は人目も憚らず声を上げて泣いたと
これらの生々しい描写を架空の産物と切り捨てるのは不自然であり、良寛側や第三者の明確な反証も示さずに、一方的に作り話だと決めつけられてもとうてい受け入れられない
>日蓮は私度僧、素人の坊さんモドキに官費は出ませんよ
祈祷で雨を降らすといったのは良寛であり、大聖人はその話を聞いて、「もし雨が降れば法華経を捨てあなたの弟子になり、降らなければあなが日蓮の弟子となるというのはどうか?」と提案をしたに過ぎない
史実を勝手に作り変えるのはやめてもらいたい
大聖人を打ち負かすために法華経を否定し、大乗仏教を否定し、さらに御書の記述まで丸ごと否定して憚らない
哀れなのは、狂っているのは、どちらだろうか? 極楽寺の火事を喜んでた最低の人間性日蓮なら話を作り替えんな >>714
文永12年3月の大火のことか
鎌倉御所にも燃え移り、極楽寺と両方とも焼けたとある
それゆえ「両火房(良寛房)」と
そら言われてもしゃーないわ
身から出た錆び
もしこれが逆の立場なら、おまえらならキャッキャッと喜ぶだろw 他人の家の火事があったら悲しむのが普通
人間腐ってるな >>716
さんざん大聖人を聞くに耐えない言葉で悪し様に罵り、信徒の心を動揺させようと日夜朝暮に下らんネガキャンしてる奴に言われたくねぇ…
そんな暇があるなら地域の消防活動でもしたらどうだ? >>713
良寛の祈雨は、鎌倉幕府の要請によるもので日蓮は関係なし。 現在の私学、例えば慶応大学は幼稚園から一貫し大学院、医学部までも存する。
枕は此処まで、
日蓮が天台寺に住し、密教の四度加行を習得し云々とサラリと紹介している
文章を眼にした記憶が在る。
これが嘘なわけで、師匠が弟子に一流伝授を備える寺に日蓮はいただろうが,精々
一環教育課程を有する学窓での中学程度の過程を修めたに過ぎない。
日蓮は大学院過程に匹敵する阿闍梨位を得ていないことは明白、
現代で云うと博士課程免状を得ずと言える段階で寺から逃げだした。
梵字の読み書き教授は厳密な過程を経る、全く書式と書き順を会得せぬままに
曼陀羅に梵字モドキを記すのは大恥なのだが、日蓮に其れを誰も教えなかったのは
意地悪では無く、法を護るが故だ。
彼自身が頭脳明晰であるのに、次の課程を習えなかった悔しさは充分理解すべきなり。 >>719
大聖人の申し出に、願ったり叶ったりと良寛がこれを快諾したもの
当時は有名な祈祷僧であり、よほどの自負があったんだろう
その面目を潰された悔しさは想像に難くない
そしてその手には権力があり、幕府の庇護もある
ここで悪魔が囁かないわけがない
果たしてデッチ上げの罪で処刑しようとして、大聖人を平左衛門頼綱に召し捕らせ、その夜半に竜口へと連行した
間違いがあるなら訂正たのむ >>721
雨が降らずに誰もが深刻に悩んでいる時に
対決などと言う発想が
そもそも僧侶として論外である。
そして日蓮が流罪になったのはでっち上げでもなんでもなく
御成敗式目の「悪口の科」によるもの
重罪の場合が流罪の刑になる。
日蓮の四箇の格言は悪口そのものであり
首を切れ!焼き払え!はその象徴的な言葉ですね。
佐渡流罪の判決では
悪口の他にも悪人を囲い込み武器を所持していたことで
危険人物とみなされた
これは日蓮の遺文にも明らかなこと
伊豆流罪に続いて
日蓮は再犯であったために判決が言い渡された
初めから佐渡への流罪は決まっていたことで
鎌倉時代の評定所の判決は
権力がどうにでもできるようなものでも無いよ。 熱原法難あつはらほうなん
1279年(弘安2)9月、駿河(するが)国富士郡熱原(静岡県富士市厚原)の日蓮(にちれん)の門弟や信者に加えられた弾圧。
日蓮の弟子日興(にっこう)は富士郡一帯に伝道活動を展開し、天台宗の僧侶(そうりょ)や農民から多くの弟子や信者を獲得したので、
各地で他宗の僧との深刻な抗争が引き起こされた。とくに熱原の真言宗瀧泉寺では院主代の行智(ぎょうち)と日弁、日秀らが対立し
、農民をも巻き込んだ争いとなった。行智は、院主代の田地を刈田狼藉(かりたろうぜき)したとの理由で百姓の熱原神四郎ら20名を鎌倉に送り、
さらに日蓮の信者であることを訴えた。このため侍所所司平頼綱(よりつな)の処断によって、神四郎ら3名は題目を唱えながら斬首(ざんしゅ)され、
ほかの者は禁獄されるなど、過酷な刑が執行された。
日蓮はすべての日蓮宗徒への弾圧と捉え,弟子や門弟などに結束を呼びかけている。
ちなみに佐渡に流罪とされた人たちは順徳天皇、日蓮、世阿弥などが有名 >>721
言葉は悪いけど、当時の鎌倉に於いて日蓮と信者達は、今風に言えば武器を備えたテロリスト集団です。
片や幕府御用達の高僧の忍性ですから、相手にされる術は無かったと考えるのが順当と思いますよ。
一方的な文献が残っていることで、日蓮宗各派としては史実としたいところでしょうが、そこには非常に無理があると考えます。 >>722
>雨が降らずに誰もが深刻に悩んでいる時に
対決などと言う発想がそもそも僧侶として論外である
それはキミの価値観だろう?
庶民の安楽を思えばこそ邪教に挑まれたのである
負ければ改宗するというのだから、並大抵ではない
>御成敗式目の「悪口の科」によるもの
それはキミの憶測ではないのかね?
ならば御書の何頁、何行目の記述からそう判断されるのか?
もし他の資料があればそれを教えてほしい
>伊豆流罪に続いて
日蓮は再犯であったために判決が言い渡された
初めから佐渡への流罪は決まっていたことで
これもそうと断定できる文証があるなら示してほしい
キミらはまるで見てきたかのように断定的に語るので、主観や推測ではない、客観的根拠があるんだろう
まずはそれを出してくれ >>724
>一方的な文献が残っていることで、日蓮宗各派としては史実としたいところでしょうが、そこには非常に無理があると考えます
唯一現存する文献を疑うなら、話はそこで終わるわけで
あんたらはそれでメデタシメデタシなんだろうが、こっちとしてはポカーン( ゚A゚ )とするしかない
事実は小説より奇なり
順当に考えて?無理がある?
それがあんたのアタマの限界なのでは?
大聖人とその信徒がテロリスト?
そうそう。まさにそんな感じで両火房も幕府権力に吹き込んだんだろう
現代の警視総監たる頼綱も大聖人には恨み骨髄
事はトントン拍子に進んだことだろう
もしこのSTORYがお気に召さないなら、どうにかして違うSTORYを見つけるしかないな >>725
>まずはそれを出してくれ
あなたと法論をするつもりは無いですよ
日蓮が頼綱に連行された後に鎌倉市中引き回しになった後に、悪口の科により評定所に置いて佐渡流罪の判決を言い渡されたことは、日蓮正宗も書籍の中で時刻も含めて詳しく書いて認めていること。他の各派でも少なからず認めている。
知りたいのならネットで検索すればいくらでも出てくるだろうし、本気で知りたいのなら自分で調べて欲しい。
日蓮信仰を信じたいのな勧め無いよ。
それから評定所の佐渡流罪の判決の後に、日蓮を護送して依知に向かう途中で龍ノ口で休憩をとったことはあったにせよ
頼綱が日蓮を「私刑」によって殺す理由は何も無い。
そのようなことをすれば、それこそ頼綱が科を受けて身を滅ぼすことになる
だから首の座など初めから無いのだよ。
鎌倉時代の御成敗式目の運用は、個人の感情などで人を殺められるものでも無い。
当時の頼綱はまだまだ駆け出しのペイペイだしね。 日蓮は忍性を僭称増上慢と言うが、
年下の日蓮が61歳で亡くなってから、その僭称増上慢がどのぐらい生きたのか。
約20年だよ。
本当に末法の御本仏というのならかなり情けない話だね。
ともあれ僧侶としての社会的な実績は雲泥の差があると思うがね。
忍性のWikiにもあるが、日蓮の祈雨の対決に対しては「相手にせず」
これが史実だろう。 日蓮の野望を叶えるには、声望や名声が必要と彼自身は理解しただろう。
野望とは何か?寺領、宗旨、弟子口分を得て己がその宗旨の座主になる、これである。
それを一代で叶えたのは高野大師、空海の事績を観るにつけ俺もそうすべしと願う。
祈祷で名声を博し、当代の天皇から道場を賜った僧は可なりの人数に登る。
言うならば各流派の数だけあるのだろう。
さて日蓮であるが、彼は私度僧ゆえに晴れの舞台とも言うべき祈祷壇に登る資格無し。
造った伝説に惑わされる後世の信者は真にお気の毒様なのだが、判るかな? >>726
>テロリスト?
これは佐渡流罪のキッカケになった訴状の内容ですよね。僧侶の首を切って由比ヶ浜に並べろ、そして寺は焼け。
草案に鎌倉中の悪人を囲み武器を備えていたことは、日蓮は認めているどころか正法護持の為と言い放ったのですよ。知らないのですか?
これを現代風に表現すればテロリストです。社会的な危険人物として佐渡に追放された。
忍性や頼綱による冤罪の問題では無いし、自分が巻いたタネによるものですよ。 >>726
>テロリスト?
そんな危険人物と認識していたからこそ、頼綱は大勢の家来を連れて日蓮を逮捕しに行ったのです。辻褄が合うでしょ?
そんな危険人物が佐渡流罪から赦免になったにせよ、鎌倉には戻れなかった。
だから名目上どうであれ、身延に幽閉されたのです。
今でこそ、後世によって装飾された日蓮像がありますが、鎌倉時代の鎌倉に於いて、寺にも住めない私度僧が高僧に相手にされるとは思えないし、危険人物と認識されていたら尚更の事ですね。
祈雨の対決は日蓮という私度僧の一方的な話です。 >>727
>知りたいのならネットで検索すればいくらでも出てくるだろうし
ちょっと待ってくれよ
竜口の首の座は、大聖人の発迹顕本の契機となった最重要の出来事であり、それを否定するなら日蓮宗の存在意義すら危うくなる
開目抄冒頭の
『日蓮といゐし者は去年の九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐渡の国にいたりて…』という文
あるいは四条金吾殿御返事の
『…竜口にて頸切られんとせし時にも殿は馬の口に付いて足歩赤足(はだし)にて泣き悲しみ給い事…いつの世にか思い忘るべき』の文
これらもまったくの虚偽となる
御書を研鑽する立場の者が、御書の記述を、しかも最も重大な内容を虚偽認定するとは何があったんだ!?
>頼綱が日蓮を「私刑」によって殺す理由は何も無い。
そのようなことをすれば、それこそ頼綱が科を受けて身を滅ぼすことになる
頼綱は熱心な念仏宗徒だった
これを良寛は言葉巧みに動かし、大聖人は評定所に呼ばれて尋問を受ける
そこで大聖人はこの頼綱を『理不尽に失(とが)に行わるるほどならば国に後悔あるべし、…』と反対に諌められた
さらに九月十二日には書状にて再度諌められる
その夜、頼綱は兵を引き連れ大聖人の草庵を強襲する
良寛の訴えもあるにせよ、彼自身の私怨もまた大きかったろう
…これが史実だ
勝手に妄想するな >>731
でも雨は降らなかったんだよね。泣いて悔しがったとか。それで幕府に訴状を出した。
良観は売名事業をたくさんやったけどその原資はどこから?権力に取り入って庶民から税金を取り立てていたんだよね。
そこから中抜きやっていい寺を建てて住んでいたのかな?
晩年は祈雨の祈祷を何度もやってますね。よっぽど悔しかったのかも。でもそれで雨がふったとは記録にありませんね。 >>730
ちょっと失念した
御書の何ページ?
たぶん君の勘違いか、大げさな解釈だと思うんだが… 日蓮は竜ノ口にて首刎ねられぬと自覚している=という事は己の悪事を知悉する
其の本人が死なずに島流しで済んだのは、まさしく身に着ける袈裟の功徳なり。
私度僧と云えども頭を剃り袈裟を身に着ける僧形の者には罪一等を減じ死罪は避けるのが当時の掟。 祈祷対決というからに宗派に関わらない第三者機関が裁定を下すものだ、安土法論のように
どこで戒を受けたかもわからぬ僧より忍性のほうが信用があるのだから慈善事業ができたのだろう
そしてその後の日蓮は何か人のために救済をしたか? >>735
大聖人が斬首に処される次第となったその原因として「十一通の書状」がある
これは蒙古より牒状(ちょうじょう)が届いた文永五年に、幕府および諸大寺に法論での公場対決を迫ったもの
この時点で大聖人はすでに未来に大難が迫ることを予測されている
『…定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くことなかれ…』(177p)
当時の幕府要人には念仏や真言等の信者が多く、また各宗派は猛反発し、これにより大聖人の立場はますます窮地に立たされてゆく
そして文永八年、祈雨対決に敗れた良寛の画策により、大聖人を亡き者にする計画がいよいよ現実のものとなる
『…ますますにくみて御評定に僉議(せんぎ:大勢で評議すること)あり、頸はぬべきか鎌倉ををわるべきか弟子檀那等をば所領あらん者は所領を召して頸を切れ…』(910p)
頼綱は司法上の絶大な権力を有しており、その横には良寛、念仏真言等の評定衆…
大聖人が死罪になるのは最初から決まっていたといえる
「悪口の科」など後付けに過ぎないんだよ
>罪一等を減じ死罪は避けるのが当時の掟。
当時の法律上はそうだとしても、それが適用された形跡は御書からは読み取れない
なぜか頑なに「首の座」を無かったものと思い込みたいキミの我田引水だろうと言わざるを得ない 現代の世に、雨請い対決でも超能力ゴッコでもやって、勝ったとか負けたとかやってろよ。行方不明者捜索対決とか。
アホども。 >>737
>後付けに過ぎない
面白いこと言うね。
では、日蓮に下された2つの流罪は何の科によるものかな?御成敗式目の中から示してくれ。
頼綱はまだ重大な評議に名前が残らぬようなペイペイ時代。権力を持ったのは後のことだよ。 >>739
レス読んでる?
歴史の討論してんじゃないんだよ
当時、鎌倉中を敵に回した大聖人なのだから、罪状など如何様にもできるでしょ?
今みたいな捜査力や裁判なんか無いんだから
>頼綱はまだ重大な評議に名前が残らぬようなペイペイ時代。権力を持ったのは後のことだよ
だから、それどこに書いてあんの?
どっかの研究者が言ってんの?
因みに頼綱の身分は評定宗よりも低かったが、実務上の権力は彼にあったんだよ
また当時の評定制の最終的な決定権は執権にあった
大河ドラマ「北条時宗」でもあったでしょ
頼綱が日蓮の厳罰を時宗に直談判したが、穏健派の時宗はなかなか承知しない
だが日蓮に亡き父は地獄にいると言われ激昂して、頼綱に「好きにいたせ」と事実上の処刑の許可をする
ドラマの話だが、こういう事があったと見るべきなんだよ
なぜかって?
御書に書いてあるからだよ! 「末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」の文 は、誹謗正法にあたるブーメラン。 >>743
今がそうじゃない仏教でひとくくりにされて
神社もお寺も教会もありがたがって全部行く人たちが多いw >>737
歴史の討論をしてるつもりはない。
あくまでも客観的に日蓮のことを語っている。
鎌倉時代の初頭には、武士階級意外に武器の所持を禁止するような時代ですよ、それだけ治安に重きを置いた背景が鎌倉時代にはあった。
そんな鎌倉社会に於いて、日蓮は治安を乱す悪口(あっこう)の常習犯であり、悪凶を囲み武器を所持していた。しかし裁かれても死罪には至らないことも当然知っていたでしょう。
佐渡遠流の判決の後に、鎌倉の八幡宮に向かって讒言をしたと言うのが史実なら、飛んだ食わせ者とも見えてしまう。
それが本当に事実ならだが、私は後世の装飾と見ているけどね。
首の座も然りだよ。 >>745
>あくまでも客観的に日蓮のことを語っている
よく言う。主観的憶測ばかりじゃないか(笑
キミは目の前の御書の文字を文字どおりに 誤送信
キミは目の前の御書の文字をちっとも文字どおりに読もうとしない
>しかし裁かれても死罪には至らないことも当然知っていたでしょう
こんなこと大聖人は一言も述べておられない
どこをどう読めばそんな解釈が成り立つのか?
>日蓮は治安を乱す悪口(あっこう)の常習犯であり、悪凶を囲み武器を所持していた
悪口とは根も葉もない中傷のことであって、謗法の輩の首を斬り、寺を焼けというのは、国を滅ぼす悪鬼を討てという意味だ
実際は、各宗派に公場での法論を持ちかけ、あくまでも法による決着を望まれている
武器を用意というが、それはどんな武器をどれぐらいの量だったんだろう?
それを使って誰かを傷つけたのだろうか?
いつ襲われるやも知れぬ大聖人門下の者が、最低限の護身用の武器を持ったとして、それはそんなに危険なことだろうか?
だからその御書のページを教えてくれ 745ですが失礼しました。
×武士階級意外→○武士階級以外
×八幡宮に向かって讒言→○八幡宮に向かって諫言 >>745
>それが本当に事実ならだが、私は後世の装飾と見ているけどね。
首の座も然りだよ。
首の座は後生の装飾のような、そんな些末な問題ではないんだよ
それがなければ大聖人の発迹顕本もなくなり、人法一箇のご本尊も成立しなくなる
『日蓮といゐし者は去年の九月十二日子丑の時に頸はねられぬ…』
これは竜口の前後で大聖人の内証に生死ほどの隔たりがあることの告白と見るべきで、教義的には菩薩界から仏界へ、境涯の大転換と見なされる
このような重大な内容を後世の者が装飾することは考えられず、また記述の具体性、迫真性、全体の整合性から見ても、それは不可能だと思われる
つまりどう転んでも、首の座は無かったとするキミの推理には無理がある
無理を承知で、何としても首の座を否定したい、あるいは周囲にそう印象付けたいというキミの動機はなんとなく想像できるがね
しかしこちらも譲るわけにはいかないよ >>751 当時の公家の日記(彼らは日記を記す、其れは仕事の範囲、人事交流記録など)
其れの何処を探しても、鎌倉の付近にて騒動、其れに日蓮が加担、とか祈祷を俺にさせろとか、に関するどころか日蓮と云う個人名の片鱗もないそうだ >>751鎌倉で日蓮は日々どの様にして食を得たか?何故住居を焼き討ちにされたか?
有体に言うと、彼は数人の仲間と法華経を元に題目を唱え、阿弥聖と同一の
サービス業を営んでいたと推測する。
詰まり亡者の葬祭業者の新規開業を晴れ晴れしくやったが、彼の悪癖の悪口雑言を
浄土系に属する阿弥聖に投げつけ、営業妨害をなした。
その為彼の住まいは焼かれてしまったのだ、その様に理解するが如何か? >>752
それは、そもそも時事的話題を書くような性質のものではなかったということではなくて?
あなたはぼくと同じような立場の人と見てよいのでしょうか?
なら嬉しいけど このスレでは既出かもしれないが、北鑑 第四十六巻に下記の様な記述がある。
『立正安國論を北條時ョに請上して忿怒を招き伊豆伊東に流罪されしも、同三年。赦され鎌倉に歸りて、諸宗の否を罵りて土牢に幽せられ、文永八年。龍ノ口にて斬首の刑に蒙らんとせるも、陸奥の安東船なる龍飛十郎兼季の船出に不吉とて願ひあり。斬首を免じ、佐渡に配流さる。』
船乗り達が船出に不吉という事で刑の免除をされ、佐渡に流されたとの事。 >>756
北鑑については
「…集めた史料(文献の書写や、聞書き等)も“玉石混淆”とも言えるもので、それらを内容に関係なく順次列挙した体裁です。そのため、相互に矛盾する内容が掲載されたり、同じテーマが繰り返し述べられたりもします。…」
というようなもので、まったく信憑性に欠ける
その筆者は誰で、根拠となる資料をどこから得たのか?
斬首取り止めの翌十三日の夜八時ごろ、依智の本間邸に入られた大聖人のもとに幕府の文が届く
これは『此の人はとがなき人なり今しばらくありてゆるさせ給うべし・あやまちしては後悔あるべし』と、執権時宗による正式な死罪中止の知らせだった
船乗りうんぬんによる刑の免除などの記述は一切なく、それであれば、追って幕府からの文が届くのもおかしい 真跡の御書を読むと、処刑は何らかの理由で延期となり、佐渡流罪となった。
『光りもの』についての記述は無い。
一谷入道御書
又文永八年太歳辛未九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが・忽に頸を刎らるべきにて・ありけるが・子細ありけるかの故に・しばらくのびて北国佐渡の嶋を知行する武蔵の前司預りて
報恩抄
去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相模の国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん其の夜は・のびて依智というところへつきぬ、又十三日の夜はゆりたりと・どどめきしが又いかにやありけん・さどの国までゆく >>748
>御書のページ
日蓮の陳情の内容は
行敏訴状御会通(ぎょうびんそじょうごえつう)
ネットでも検索出来ると思うが、日蓮は全ての訴状内容に陳情はしていないし、無罪を主張する気配もない。
行敏からの訴状内容は定本1巻に漢文で載っている。
その辺はあらためて!
それから悪口の罪は、争いの元となる言論に罪が科されたのですよ。
しかしどんなに重罪でも流罪どまりは明確。御成敗式目は当時の法律です。
日蓮が死罪なるならその罪は何なのか?なんの根拠もない話です。 >>759
これね
日蓮門下は刀杖を集めているとの疑いに
『…涅槃経に云く・天台云く・章安云く・』 >>754 752ですが、補強材と見てください。
故今東光師が、宗教家ってのは、筆が立たねば名が残らないモノだと仰る通りで
不立文字と世に宣する禅宗、道元禅師は山ほど難解な文章を残します。
さてそこで、日蓮さんに戻ります
彼が書き残した文章が残って居なければ、後の世の
誰の口の端にも登らないと「断言」すべき私度僧でしか在ります。
真言と天台の坊さんに、日蓮自筆の曼陀羅を見せて此処の梵字はどうですか?
とお尋ねすると、多分口を濁して語らないと思います。
今更、誤りを指摘する大人気ない振る舞いと重ねて「悪口」になります。 間違い
『…法華経の守護の為の弓箭兵杖は仏法の定れる法なり例せば国主守護の為に刀杖を集むるが如し』
これでは武器を所持しているという証言にはならない
(例え所持していても)正法護持のためには武具を帯して戦うことは、経典や先師も言っていますよと、単にその正統性を述べているだけ
これをもって日蓮門下はテロリストとは恐れ入る
>日蓮が死罪なるならその罪は何なのか?なんの根拠もない話です
開目抄、種種御書、竜口御書、報恩抄その他に首の座に関する記述が散見される
大聖人が何らかの罪状で死罪に処せられたことは明白
根拠もヘチマもない
罪状に関しては、
『…諸国の守護・地頭・雑人等を相語らいて言く日蓮並びに弟子等は阿弥陀仏を火に入れ水に流す汝等が大怨敵なりと云云、…』
とあるように、敵対勢力が日蓮門下が他宗を冒涜しているかのようなデマを流していたと分かる
また当時の頼綱は独断で刑を執行できるほどの権力を有しており、これらの讒言を受けて大聖人を死罪にしたとしても何ら不思議はない >>762
いや、誤りを指摘することは悪口ではなく善行だろう
そんなことで裁かれるなら、鎌倉時代の人はさぞかし生きた心地がしなかったろうね >>758
種種御振舞御書
『又なにとなくとも頸を切らるべかりけるが守殿の御台所の御懐妊なれば・しばらくきられず終には一定ときく』
守殿(北条時宗)の御台所(夫人)が懐妊したので斬るのを見合わせとなった
とある。 昭和定本日蓮聖人遺文 第1巻 (P497-P500)より
行敏による訴状内容の主な和訳
1、釈尊八万四千の経典は、全て出離解脱の法門であるが、日蓮は法華経のみを正法として他を邪法と説いている。
2、日蓮は、念仏宗を無限地獄の業、 禅宗を天魔波旬の悪魔、 律宗を世間狂惑の法と非難している。
3、日蓮の教えを盲信している無知の信者は、元々の本尊であった阿弥陀仏や観音像を焼き払い川に流す大悪行をしている。
4、日蓮は庵室内に凶徒を集め、弓矢や戦闘用の武器を蓄えている。
5、良観聖人の祈雨に対し再三申し越して、天台・真言・禅・律の僧侶による祈祷は叶わない。蝦夷、蒙古が東西に競い起こるのは、禅戒や念仏が日本中に広まり盛んであるからであると、一方的な雑言を吐いている。
6、建長寺・極楽寺・多宝寺・大仏殿・長楽寺・浄光明寺以下の諸寺を焼き払い、禅僧などの頸を刎ねて由比ヶ浜に懸ければ、旬雨一天に潤い徳風四海に静かになると言っている。これは言語道断である。
この行敏とは浄光寺の役僧で、忍性祈雨の後に日蓮に法論を求める書状(行敏初度の難状)を送るが、日蓮は公的な法論でなければ受けないと(行敏御房返事 定本1 P497)これを拒否したことで、この訴状提出に発展した経緯があり、それに対する日蓮の陳情は、日蓮信仰者から見れば当然の内容と映るにせよ、世間法として見れば何の陳情にもなっていないのですよ。
これを忍性や頼綱の一方的な陰謀とするのは無理があります。 >>765
これは塚原問答に集まった念仏宗徒らの言
念仏宗徒A
「首を斬られるはずだったのが、執権夫人のご懐妊でしばらくは無事らしいぜ。だがいずれまた斬られるとのことだ」
念仏宗徒B
「本間殿に訴えて斬らせよう。もしダメなら我々でやろうじゃないか」
という文脈の中の一節で、はやとちり 日蓮は立宗のときから、わざと流罪になるように振る舞った。法華経の行者たらんとして…
これは私の主観です。 >>768
キミの主観はさておいて
もしこれが今のタリバン政権下で、イスラム教は邪教であると主張したらどうなるだろう?
そして住民たちが「この男はコーランを川に捨て火にくべています」と証言したら?
その男が死刑になったとして、誰が不思議がるだろう?
当時の鎌倉がそこまで過激な原理主義社会とは言わないが、まったく的はずれな例えでもないと思うが
キミは大聖人を悪者にするため、周囲の前提をいたずらに理想化していないか
つまり民主主義の思想も、基本的人権も、それらを保証する法的整備も国際感覚もない中世の日本社会を、今と同じような感覚で論じるから、話が噛み合わない
現代ですら差別や偏見はなくならない
ましてや鎌倉時代だよ >>769
そのような原理主義社会だったら日蓮はすでに殺されてるだろう >>769
すみませんが何を言いたいのかイマイチ良く分かりません。
鎌倉時代の御成敗式目の運用は、中世としては画期的なもので近代的なものと海外から評価されるようなものです。讒言についても罰則があるし、証拠もなければ一方的に罰せられるものでもない運用です。
あなたの信仰世界による認識はどうであれ..信仰を離れた学術的な研鑽は大切だと思いますよ。
誤解の無いように書きますが、あなたの721の「間違いがあるなら訂正たのむ」の言葉につられて、722で初めてロムしていたこのレスにコメントをしたのですが、日蓮信仰を信じている人と対論するつもりは毛頭ないですし、日蓮を悪者にしたつもりもないのですよ。
そして日蓮に対して主観を述べれば、歪められた情報を鵜呑みにしたにせよ、日蓮は人として好きな人物です。
しかし後世の装飾については色々と認識していますので、機会があればコメントさせて頂きます。
龍ノ口の首の座などは、その代表的な懸案ですね。 種種御振舞御書は後世に改竄されてしまったのであろう >>770
たしかにね
一神教は構造上、他の神を認められないから、議論もへったくれもない
100年戦争からつづく現代のテロ活動のように、異教徒は抹殺するしかない
しかしとうじの しかし当時の鎌倉の世相として、大聖人はまさに異教徒のような扱いだったということ
裁判官も警察も証言者も大聖人の死を望んでいる状況で、それを避ける術はなかったんだよ
大聖人は、竜口の法難の三年も前から、そのことを述べている
死罪・流罪は一定と 飛鳥時代に仏教が入ってきて日本書紀に聖徳太子が法華経を講じたとあり
平安に至るまで仏教文化が花咲いた500〜1100
鎌倉時代は150年続き武家台頭で幕府にすり寄った宗派が好き勝手にする
戦国時代までは500年ぐらいかな大まかな数字だけどw
江戸幕府になって寺社奉行管轄の区割りで地域の宗派が固定され
戸籍の下地ができて移動が不自由になる
この辺りで宗教の質の低下が極まる葬式仏教の始まりなのかな
金を集めるための権威付けが盛んで仏教の本質とかけ離れてしまった。
良いことをしていた寺もある
寺小屋などを開放し庶民の識字率を世界最高にした
西洋からの書物や瓦版なども発展して明治維新を迎えて
2回目のモラル低下国家神道が日本を滅ぼすw
G7結束後グローバル社会が急速に進み価値観の変革変動が激しい
共通のモラルにキリスト教などに仏教が影響し平等な社会推進と
資本主義による格差が課題となっている
今こそだよね
世界に法華経を広め真の自由と平等と戦乱のない社会を固定させるのは >>773
種種御振舞御書が後世に4つの手紙が合わさったことは、ここでも認識されていると思いますが。
龍ノ口の刑場を描写した文言においては、日蓮が首の座に据えられた光景ではありません。
何故なら死刑執行の際に、罪人は面紙(つらがみ)を被せられて何も見えなくなりますので、刀を振り上げられた状態で、あのような描写は出来ないのです。
つまり座に据えられて手を後ろ手にされて面紙を被せられた所までには至らなかった。このように読めると思います。
刀を振り上げられたと言うのであれば、あれは第三者の文章となりますね。 >>772
>龍ノ口の首の座などは、その代表的な懸案ですね
キミは大聖人の罪状は初めから「佐渡流罪」であり、斬首刑そのものが事実無根だと言いたいんだね?
だとすれば
『…九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが・忽に頸を刎らるべきにて・ありけるが・子細ありけるかの故に・しばらくのびて…』(一谷入道御書)
『…何事よりも文永八年の御勘気の時・既に相模の国・竜口にて頸切られんとせし時にも殿は馬の口に付いて…泣き悲しみ給いし事、実にならば腹きらんとの気色なりしをば・いつの世にか思い忘るべき』(四条金吾殿御返事)
などの箇所も全否定するの?
光物を認めろとは強制しないが、これらの文証をまったく意に介さないのも不自然だと思うんだよ
これらはすべて後世の装飾だと思うの? >>778
初めから佐渡流罪を言い渡されたことは、日蓮正宗も認めていると申し上げたはずです。
日蓮大聖人正伝(改訂版)P179
「酉の刻、評定所に於いて平左衛門尉と相対し、佐渡流罪を言い渡されたと見るべきであろう」
これで宜しいですか? >>778
補足しますが
「評定所の判決は、表向きは『佐渡流罪』あった。」と言っています。
しかし判決に表向きも裏もないでしょう。法に背いて流罪判決の罪人を殺めれば、その罪は重いのですよ。 では、先に上げた御書の文句はどう解釈するの?
はじめから流罪ならば、頸を切られ云々の記述は存在しようがないと思うのだけど?
四条金吾が今生の離別れと腹を切るの一節も、とたんに陳腐化してしまう…
流罪で、泣いて腹を切るなんておかしいでしょ?
違うかい? その上で、鶴岡八幡宮に換言をしたのが事実であれば、飛んだ茶番だと言ったのです。 >>781
ここは状況を考えて想像するしかないことですよね?
日蓮は依知に向かうとは知らされずに、佐渡とはまったく反対方向に連行されたのですよね?
それは紛れもなく龍ノ口の方角であった。
だから本当に首を切られると思ったのでは?
これは主観です。 >>784
え?
本当は佐渡流罪だけど、大聖人が斬首だと勝手に勘違いした?
で、それをその後の御書で「頸きられぬ」と吹聴した?
評定所では大聖人に罪状は言わなかったの?
竜口でサプライズ的に伝えたの? 龍ノ口で光物が無かったことは、種種御振舞御書を読めば分かりますよね? >>786
一体何を読んでんですか?
罪状の申し渡しとその日の行き先は別ですよね? >>787
光物の話なんかしてない
とりあえずレス読めよ >>788
別って?
罪状の申し渡しは、いつどこで行われたの? 日蓮一門の勘違いもしくはパフォーマンスだとでも言いたいんだろ >>791
カン違いで、開目抄の冒頭の書き出しになるかねぇ…
まるで吉本新喜劇だね 初めから評定所で佐渡流罪を言い渡されたと書いていますよ。
そして日蓮正宗も認めていると言っているのです。
しかしその当日に「依知」に向かうとは
評定所では聞かされていなかった。
そう言う意味での「別」です。
お分かり頂けますか?
日蓮の大勘違いと言えばそうなりますね。
佐渡とは反対方向の龍ノ口に向かったのは事実ですから。
殺されると思ったとしても不思議ではないですよね。
でも首の座は無かった。 >>793
流罪なのになぜ竜口に向かうのか?
流罪なのになぜ殺されると勘違いしたのか?
キミは、日蓮は流罪以上の刑にはならないと予想していたと言ったろ?
辻褄が合わん >>769
むしろタリバンに比べられる原理主義者は日蓮だろ。
涅槃経を誤解して、法華経誹謗者は弾圧すべしって考えだったんだから。 >>793
>佐渡とは反対方向の龍ノ口に向かったのは事実ですから
竜口へ向かったのは事実で、首の座は事実ではない?
なぜそう区別できるのか?
竜口へ向かったことが事実であるとする根拠は?
同じく、首の座を事実でないとする根拠は? 地理的に言うと松葉ケ谷の草庵で逮捕されてから佐渡守護の北条邸に拘禁されていた
北条邸がどこにあったかは不明だがおそらく鎌倉市だろう。そこから佐渡守護代の本間邸に移送が決まった。
鎌倉から本間邸のある厚木市に向かうのに龍の口刑場のあった藤沢市片瀬を通りそこで休憩したのだがそれを斬首されると勘違いしたという論旨か?
まあ最初に佐渡守護の屋敷に囚われていることからしてその時点で佐渡流罪が決まっていたというのは一定の説得力はあるな。
だが平頼綱の独断で処刑しようとしたという線も濃厚だ。だからわざわざ鎌倉から龍の口に中止せよと使者が使わされたと御書にはある。
つまり幕府の正式決定は流罪だが平の独断による処刑の可能性があったということ 頭を剃り、僧形の者に死刑は無い。
重い罪状が在ったとしても必ず罪を減じるのが
仏弟子への礼儀。
其れを知ってか知らずなのか、今となっては判らないが、
日蓮自身が、己の罪は刑死に値すると認識して居たか?多分そうなのだろう。
後日に命の危ういところを免れたと、自ら記すのがその証。
だからして、この議論は此れで落ちが着く筈だ。 >>799
都合のいい解釈だなw
アンチにとっては、大聖人を死罪に値する極悪人に祭り上げ、僧侶だから減刑されたと言うことで、竜口の首の座も光物もなかったことにできるもんな
なにがこれでこれで落ち着くだコラ >>799
それはどうかな。興福寺奏上で安楽房遵西は六条河原で弟子らと一緒に斬首されているし、他にも多くの念仏僧が死罪になっている。
そもそも佐渡流罪は死刑であったとも言える。流罪自体が擁護者の目が行き届かないところでひそかに殺害する方法でもあった。
現に佐渡で念仏者の攻撃を受けているし、極寒の中で餓死してもおかしくなかった。 本質とかけ離れたところで人格攻撃((笑))
いくら攻撃しても妙法蓮華経の1文字も変わらない
日蓮は何文字か数えたみたいだが忘れた
この法華経を広めた事実が日蓮たる証で
地涌の菩薩のお手本
我々も自分のやり方で後に続く
南無妙法蓮華経とはそういう意味だよ 日蓮を亡き者にするという計画が本当に有ったならば頚を跳ねたはず。
躊躇する理由はありません。それは刑場でなくても暗殺は出来たことですよ。違いますか?
777で書いたように、振舞御書の内容に頸の座に据えられて刀を振り上げられたという記述は無い。
竜の口の刑場に連行されたけど「何もなかった」「理由は分からない」他の手紙などからもそう解釈できます。
また種々御振舞御書の本間邸に於ける記述のなかで、庭の軒先に光が降りてきた下りがありますが、この文面の前段で日蓮は、竜の口の刑場に於いて諸天の加護の印が無かったことを嘆いているのですよ。
つまり「光り物」も何もなかったと言っています。おかしいですよね?
このように同じ御書の中で齟齬が生じているのは、もともと4つの手紙だったことは知られていますが、真に日蓮の言葉として読むのは甚だ疑問ですね。 >>801
確かに当時は佐渡への配流は死刑と同義だったろうね
冬の寒さ、乏しい栄養、粗末な住居、衣服、念仏宗徒らの敵意…
大聖人も、先業の罪で今世で八寒地獄に堕ちたとも
普通なら生き延びられない
末法の仏との内証と正法流布への使命感、純真な信徒の供養があったればこそだろうね 塚原問答が佐渡だよね
塚原三昧堂で念仏をはじめとする諸宗の僧ら数百人と行った問答のことで
多くの人を改宗させたみたいね 死刑という線はないという訳だ
暗殺を危惧したというならわざわざ刑場に行く必要ないなw >>803
>日蓮を亡き者にするという計画が本当に有ったならば頚を跳ねたはず
だからはねようとしたんだよ
竜口の刑場で
当時の侍所司所であった平左衛門頼綱のほぼ独断に近い形でね
>それは刑場でなくても暗殺は出来たことですよ。違いますか?
小松原の法難等、大聖人は幾度となく命を狙われている
今度の竜口では、国家権力によって堂々と斬れるのだから、なぜ暗殺などする必要があるのか
>振舞御書の内容に頸の座に据えられて刀を振り上げられたという記述は無い
描写からは、斬首の場と思われる場に着いてしばらくすると、案の定、兵たちが大聖人と金吾たちを取り囲んで、騒然とした雰囲気となる
金吾が「今が最後です」と涙を流す
以降原文より
『不かくのとのばらかな・これほどの悦びをわらえかし・いかにやくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、…』
つまり、まだ執行の段取りが整わない内に起きたものと見られる
刀を振り上げた瞬間というのは、それがよりドラマチックで皆が勘違いしているんだろう
>竜の口の刑場に於いて諸天の加護の印が無かったことを嘆いているのですよ
一時的に斬首を免れたとはいえ、未だ囚われの身であり、今後どうなるかも分からない
その大聖人の頭上で美しく輝く中秋の名月を見て、月天を叱咤されたもの
特に矛盾はない 塚原三昧堂の跡として根本寺という日蓮宗の寺があるが実際は其所では無い。
正宗が調査して別な場所に塚原三昧堂の碑を建てたが学者からはその場所でも無い事を指摘されている だからさその場所がどこであろうと本質的には全く関係なくてさw
議論で打ち負かして改宗させたってところが肝心
佐渡だけでなく周辺からも噂を聞きつけやってきて挑んで
負けたら弟子になるって潔くて気持ちがいい人たちではないかw >>807
>特に矛盾はない
日蓮宗各派の信仰者がそう解釈するのは分かりますよ。
しかし、そこにいた人間が驚くような大きな光り物の話は、諸天の加護の象徴的な記述であり、その加護によって頸の座を逃れたという認識に他なりません。誰もが認識できる「印」です。あくまでも事実ならの話ですがね。
しかしそのハイライトな出来事が、まるで無かったかのように、何のなんの「印」もないと、日蓮は本間邸で嘆いているのです。
例え庭に星が落ちて来たことが事実だとしても、あの光り物に比べたら何の加護でもない小さな出来事です。
これはあくまでも信者ではない立場からの見え方です。ご参加までに。 >>810
信者ではないなら、このような水掛け論をやめて自分の信じる道に邁進したらどうか?
竜口での一連の出来事をどうしても無かった事にしたいなら、種種御振舞御書や金吾殿御返事その他の諸御書が、真っ赤な偽書であると証明するしかない
しかしそんなことが今さら出来るはずもなく、出来ないことに拘るのは時間の無駄であり、愚かだよ
キミらとしては、嘘も100回言えば本当になるという腹で、地道なネガキャンをしているのだろうけど
一体、何年こんなこと続けてるの?
そして後何年続けるつもりなの?
ぼくとしては、もっと建設的なことに情熱を注いで欲しいと願うよ >>801
>興福寺奏上で安楽房遵西は六条河原で弟子らと一緒に斬首されているし、他にも多くの念仏僧が死罪になっている。
あのさ、念仏関係者が死罪にしたのは後鳥羽上皇だろ。つまり朝廷側。鎌倉幕府じゃないぞ。
鎌倉幕府と朝廷は対立関係にあったのであり、朝廷の処分に鎌倉幕府が関与できる訳がない。
朝廷が坊主を斬首したから、鎌倉幕府やっていたという理屈は通らない。
>そもそも佐渡流罪は死刑であったとも言える。
佐渡は鎌倉時代も現在もごく普通に一般の人が居住している。
もしかして硫黄島とか沖ノ鳥島をイメージしてる?
>極寒の中で餓死してもおかしくなかった。
佐渡がそんなところなら、なんで一般人が住み着いてのよw 禅や念仏が蔓延るから世の中が乱れる、禅や念仏の坊主の首を切って、法華経で思想統制しなくては国が滅びる、などと語っていた日蓮を賛美し、現代世界の理念とは全く相容れない七百年も昔のカルトイデオロギーで洗脳させて人を集めておいて、その組織力で選挙で当選させて、与党の補完勢力として政治を牛耳るなど、全くのインチキだ。
平和勢力などと宣伝しながら、ベトナム、イラク、アフガニスタンなどなど、戦争加担ばかり。改憲軍拡、軍国主義復活加担そのもの。
公約違反以前の、詐欺集団。
カルトのネズミ講選挙。
こんなインチキ政治はやめさせなくてはならない。 >>812
何いってんの。レスするんなら話の流れを読もうね。
>頭を剃り、僧形の者に死刑は無い。
>重い罪状が在ったとしても必ず罪を減じるのが
>仏弟子への礼
に対して、鎌倉時代にそんな法も不文律もないという史実を指摘したまでのこと。
それが朝廷だろうが幕府だろうと変わらない。
逆に聞くが、朝廷にできて幕府にできないという理由は?
言っとくが後鳥羽院は幕府に流罪にされ赦免もなく現地で死んでいる。朝廷より幕府のほうが力が上なわけだが。
ちなみに後鳥羽院の子供の順徳院は佐渡に流され現地で自殺している。これなんか佐渡流罪は死罪と同義の例。
何くれとなく面倒を見てくれる召使を引き連れて流される上皇のような高貴な人物でさえ死んでしまう。
現地に何の伝手なく知己も檀那もいない一介の僧が、死体処理の地である塚原の一間の堂で暖房も照明もなく雪と寒風の中たった一人。訪れる人もなかった。
あなたなら耐えられるか?暖衣と三度の食事、暖房と断熱材で囲まれた家がある現代と比較するのがおかしいことぐらいわかるだろう。 >>814
ここ2、3日お邪魔している者ですが
あなたは創価の方ですか?
法華講の方ですか?
私は元学会員ですけど。 智の見解では華厳経は釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。
「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。
華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている。
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。
これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
「六十華厳」の中で特に重要なのは、最も古層に属する「十地品」と「入法界品」の章とされている。 薬王菩薩本事品第二十三
若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。
法華経を修行した女人は死後、阿弥陀如来が住む世界の蓮華の宝座に住するのである >>815
814の人は俺とは別人
キミと竜口についてやり合ってたのは俺
元学会員とのことだけど、そうじゃないかなと思ってた
自分も学会員だよ
でも活動なんかしてないけどね
心配しなくても、学会はもう終焉に近づいてるよ
組織としての魅力も求心力もない
金集めに走った時点で日顕宗と同じ
戸田先生は草葉の陰で泣いているだろうか
学会にどんな恨みがあるか知らないけど、大聖人を悪く言うのはやめろよ
男らしくないぞ
俺はこの辺で失礼するよ >>818
なるほどなるほど
活動してないならいいね
私は日蓮を悪くいったつもりはないよ
後世の装飾に目を向けているのみ >>815
元学会員という立場の表明は過去に所属していたという立場の表明にすぎない。
自分の立場は不透明であるのに相手には明らかにしろと?
匿名掲示板でそれを明らかにしたところで何の益があるのかな? >>820
このスレで元学会員以外に何を言えばいいのか?
?逆に知りたいね。
別に相手が答えたくなければそれまでのことですよ。やり取りした相手がどんな立場で言葉を発していたのか気になったから聞いたまでのこと。
何の益も求めてないよ。 ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり。
(蓮如上人)
阿弥陀仏は光明無量、寿命無量の特徴を持った全ての仏の師匠なのである。 管見と云う熟語の意味は御存じだろう、類似で「葦の髄から天井覗く」なんて表現も在る。
管見一味の日蓮と云う御仁は、法華経しか知らないのだが其れで無理やりにでも
仏教界を統一したかったのが真相。
彼に対立する思想は全て反発、行きつく先は二局対立構造に落ち込む。
戦いは止めよと説くべき僧侶が、敵の頸を切れ其れは念仏坊主だ!と叫ぶ。
悟りや寂静、菩提、涅槃と云うような境地とはかけ離れた私度僧じゃないですか。 >>817 法華経が当時の仏教常識を記す証拠と思われます
初期大乗から密教思想形成の歴史には数百年経過を要し、法華経に
三度の増広と学問的に証明される、
陀羅尼品が二十六番目に在る理由でしょう。
>>802氏は法華経が初学者の為のオムニバス教典と思いませんか?
仏教案内経とでも云いましょうか、法華経を
日蓮が信奉した理由は、法華経を釈尊金口の説法と信じた為なのですが
例え、日蓮が立派な人物であっても明瞭なる間違いと認めるべきです。
竜の口、島流しにも耐えた日蓮師ですが、わたくしは誠に御気の毒様と思います。
※人は死後、霊界に行くらしいのですが、現代の基本資料を知った時の心境を想像できますか?
700年前の僧侶の誤謬にお付き合いするのは、お止めに成るのが理性ある現代人でしょう 仏教ってのは、様々な教えの全てが、一つ一つ一見微妙に違うように見えながらも、悟りという共通地点に向かうための共通する道なき道。
道なき道と書いたのは、特定の方法や特定の理念といったものはないというか、必要を求められていないから。
何故ならば、悟りというのは手段を選ぶような偏狭なものではない。
あらゆるものを含んでいるのが悟り。
現に我々は悟りの中にいる。
言い換えれば、我々は悟りの中にいながらそれに気づかずに迷っているだけ。
悟りの別名は包括や無境界。
悟りの対局は個別や差異。
禅も念仏も密教も上座部も南無妙法蓮華経もその他の全ての教えも、全てが悟りに通じる道なき道。
それは、自分が迷っていることが幻想であることに気づくための仮の道というか、自分がすでにいつでも悟りというゴールにいたことに気づくためのもの。
自分の本質が悟りそのものであったことに気づけば道は必要ではなくなる。
つまり、教えというのは自分自身に気づくためのきっかけにすぎず、その人にとって自分自身に気づくのに最適な教えがその人にとって最良の教え。
教えの優劣なんてものは、客観的には存在しえない。
教えを欲する人にとって、その人に適しているか適していないかの違いがあるだけ。 道元にしろ親鸞にしろ、日蓮ほどではないが他宗を批判している。
それはその人にとってみれば、自分に適している教えは自分以外にも適していると思うのは当然のこと。
しかし日蓮は明らかに違う。
他宗批判を通り越して、他宗信者殺害を肯定するような発言まで飛び出す。
まぁ、それは自分の教えに絶対確信があればそういう気持ちも起こるでしょう。
しかし、そこには悟りという感覚が欠如しているというか、意識が包括や無境界に溶け込んで全てと一体化する状態には至れていない。
法華経が唯一といった個別性や他は劣っているという差異から抜け出せないまま。
この状態はまだ道に迷っている状態で、こっちの道は優れている、あっちの道は間違い、だからあっちの道は破壊しなければいけないなどと試行錯誤している状態。
全ての道に無駄な道などない、あらゆる道は悟りの内にある。
それに気づけば、道は全て自分の内にある。
その中で人間は、迷いという道を探求する行動、言い換えれば自己探求を行っている。
それは、更に言い換えれば仏による仏のあらゆる可能性の探求でもある。
何故ならば、悟りの状態は悟りでないものを理解することが出来ない、悟りの状態は迷いという状態を理解できない、それでは仏は自分自身のあらゆる可能性を探求や表現出来ない。 迷いとは、言い換えれば仏があらゆる自己探求をする為の手段。
迷いとは、仏が自分の内にあるあらゆる道を迷いによって生み出し、自分自身の可能性を最大限に広げて探求・表現しようとする手段。
我々というのは仏の分身として仏が生み出し、仏あるいは悟りから降りて、神の内にあるあらゆる道を探求している。
それゆえに我々とは、仏が仏を知るための目であり耳であり体であり思考であり手足であり仏の感覚器官としての役割を担っている。
目は目を見ることはできない、舌は舌の味を感じることが出来ない、手は手自身を握ることが出来ない。
よって仏は自分を見て感じて味わう為に、人間という感覚器官存在を自分の延長として生み出した。
我々はいつでも仏に帰る気になればいつでも帰られる存在だが、探求に熱中しすぎると自分の個別性に囚われて帰れなくなってしまう。
これが六道輪廻。
ある意味日蓮という存在及び教えは、この個別性あるいは六道輪廻という仏と対局の究極の可能性を探求・表現するための道の一つと見なすことが出来よう。
それゆえに日蓮信奉者は、仏や悟りからあえて最も遠ざかるという困難な道を自ら選んび探求・表現している勇者と見なすことも出来よう。 >>824
法華経を読んでその通りと思える人は本化の菩薩であり
認めない人は毒された凡夫
どっちも成仏できるから如説修行すればよい
そもそも釈迦が書き残した経典がない如是我聞をのちの人が起草している
鳩摩羅什が天竺から長安に赴いて漢訳して残ってるのが「妙法蓮華経」
西遊記などでお馴染みな三蔵法師などはさらに約500年後の
中国の人が新しい解釈や経典を求めてインドに探しに行く物語
もうこの頃からは商売になっている模様で中国では廃れるのが早い
創価もサンスクリット語の法華経を金の力で探しまくって
法華経展などやっていたがこれといった成果はなかった模様
派生した宗教はこの法華経を真似て作られ
最初からアンチ法華経と思われる
起源は早いということをいう宗派は小乗仏教色が強い
いちいち質問しなくていいよ
自分の労力と知見で真実を見つけなてな 嘱累品がラストでそれ以降は菩薩の継ぎはぎストーリーだもんな >>822
観世音菩薩普門品のサンスクリット本には
西方に 清き「極楽」 世界あり そこで阿弥陀師 皆を導く
その世には 女性、交合 ありもせぬ 仏子は生じて 蓮華に座する
けがれなき 蓮華の内なる 阿弥陀師よ 獅子座で輝く シャーラ王の如し
しかし妙法蓮華経では省略されている 10日に近畿地方で観測された「火球」の映像を見たけど、明るいね
夜なのに昼間のように明るくなり、周囲の人々の顔も目視できたという種種御振舞御書の描写を彷彿とさせる
やはり竜口の光物を科学的に説明するなら、それは火球だったということだろう >>831
同意ですね
御書の中には、刀が折れたという内容もあるけど
後世の装飾としか思えません。
仮に、頸の座に据えられて光り物が現れて死刑を免れたのなら、鎌倉中で大騒ぎになったことでしょう。他の記録にも残ると思いますし、そんなことか本当に有ったのなら、日蓮は多くの人達によって生き仏として敬われたとしても不思議ではありません。
この事を推察するに、2日後の9月14日に日蓮が
書いた真筆が現存する手紙は重要です。 >>832
なにしろ何百年も前の出来事なので、仮に当時は話題になったとしても、それが後世に伝え残る可能性は薄いかも
また当時の竜の口にどれほどの群衆がいたか
午前2時という深夜であり、途中、使いを出して金吾を呼びにいっているのを見ても、ほとんど知る人はなかったんじゃないか
刀が折れたという描写は初耳でした >>833
大変失礼しました
刀が折れたという話はローカルな伝説と
創価での指導です
御書の内容は
鎌倉竜の口と申す処に九月十二日の丑の時に頸の座に引きすへられて候いき、いかがして候いけん月の如くにをはせし物・江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず、とかうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頸はのがれぬ
妙法比丘尼御返事
光り物が役人の頭に向かってきたので切ることが出来なかった
この内容も振舞御書と同じで、頸の座に据えられていたら、面紙で視界は無い筈ですので、これが本当のことなら第三者の文章と読めます。 >>834
>光り物が役人の頭に向かってきたので切ることが出来なかった
これは光り物の軌道と使いの頭がちょうど重なって見えたという意味に過ぎないでしょう
件の御書からは、金吾との会話の途中で「ひかりわた」ったとあるので、斬首の姿勢をとる前と思われます 日蓮系は馬鹿みたいに題目唱えてるだけで法華経語れない説 ここで注意したいのは題目を唱えるにしても創価学会が認定した御本尊を用いなければ無間地獄に堕ちるのです。
身延や池上の本尊はたとえ日蓮大聖人の直筆であっても用いてはいけません。 信心の血脈は三代会長が師弟で築きあげた創価学会にしかありません。
師匠と心を合わせてお題目を唱える所に異体同心の血脈が生まれるのです。 >>835
仰る通り、少なくとも頸の座には据えられてはいないですよね。
振舞御書の、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる
ここで分かるのは
・頸の座には据えられていなかった
・江ノ島の方から現れた光り物は、辰巳(南東)のかたより戌亥(北西)の方角に流れていった。
時計の文字盤でこれを当てはめると、龍ノ口の刑場は「12」、江ノ島の位置は「6」
役人も含めて「12」から「6」、つまり海の方角を向いていた。
そして刑場から見えた火球は「6」から「9」に流れて行った。となります。
ご考察された、>光り物の軌道と使いの頭がちょうど重なって見えた。について、
日蓮からそのように見えたとしても、同じように海に向かって空を見ていた役人からは、そのようには見えませんので、単に火球を見て驚いた?そんなことを連想させます。
しかしながら、この光り物の事を書かれている御書は、少なくとも龍ノ口から7年以上経過してのもの。
龍ノ口の2日後の9月14日に、本間邸で書かれた真筆の残る土木殿御返事には、光り物の「ひ」の字も無いことを考えると、光り物の下りは全て第三者の言葉ではないか?そのように考えています。 >>839
光物、または竜口の首の座について触れられた御書はごく少なく、大聖人自身のご内証に関わる重要事ではあっても、それは外部に向けて声高に強調する性質のものではないんでしょう
大変に劇的であり感動的ですが、偶然といえば偶然であり、道理を重んじる仏法の立場からは頼りとすべきではないでしょう
竜口御書には『…三光天子の中に、月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ。いま日天子はばかりのこり給ふ。…』
とありますが、この日天子の験が現れた形跡はありません
まぁ良寛との祈雨対決がそれと考えられないこともないですが…
もしくは第三者の落ち度でしょうか?
あなたはなぜ光り物の存在をそこまで頑なに否定するのですか?
どうしても譲れない、何か特別な事情があるんですか? >>838
血脈も何も牧口と池田に繋がりないでしょう
牧口は志半ばで獄死。戦前と戦後の創価は別物ですよ
それに池田は戸田を師匠という割には戸田の言うことを守ってない
戸田は政治参加について
「創価党というものはありませんすべての党に創価学会員がいるというのが望ましい」旨の
録音が残っているの知ってる?
子弟もソクラテスとプラトンを引き合いに出して師匠を有名にしたのは弟子が偉いからだと
これが子弟の絆だと強調して池田を有名にするのはお前らの仕事だと言ったんだが
今の体制では創価三代の子弟の絆は完結したんだろうw >>841
信心の血脈は牧口先生から戸田先生へ、そして戸田先生から池田先生へ脈々として受け継がれています。
広義にはその三代会長の信心の血脈が会員一人一人に受け継がれているのです。
>録音が残っているのを知ってる?
知りません。
弟子は師匠の言葉を全て受け入れる必要は無く、師匠の意思を時代に見合ったように昇華させていくものではないでしょうか? >>837
直筆に勝るものはありません。そこから狂ってる。 >>842
池田は後継者を作ってないだろう最後まで独裁者でボケて逝ってる
胡錦濤がどうしても会いたいと日本に来た時にまともな会話ができてなかったし後継者だと公に紹介してない
山口代表が習近平に会いに行ったとき私が引き継ぐといったが中国も日本の誰もが認めてない。
そもそも君が言う信心の血脈とは何だい
そして始まりは誰なのかな >>840
お返事ありがとうございます。
特別な事情という物ではありません。あくまでも私の考察に対して、信仰者の方々がどのように考えられるのか、とても参考になります。 返事を待つまでもなく答えを書いておくよ
生死一大事血脈抄 1行目〜
「夫れ生死一大事血脈とは所謂 妙法蓮華経 是なり、
其の故は釈迦多宝の二仏 宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて
此の 妙法蓮華経の五字 過去遠遠劫より已来寸時も離れざる 血脈なり」 日蓮大聖人様は末法の御本佛である為、龍ノ口の法難以外でも
様々な奇跡を呼び起すことが出来ました。
大聖人様が佐渡に流罪される時、日本海は暴風でしたが、大聖人様は海面に南無妙法蓮華経の題目を書いて高波を静め、難破するのを救いました。 これを波題目と言います。 >>845
あなたは、かつての日蓮大聖人への信仰を完全に捨て去るために、自分の中の日蓮像のカリスマ的ベールを剥がそうとするのでしょうか?
そうすることで、過去の自分と決別したいのでしょうか?
前述したように、時間を遡って事実をこの眼で見ることができない以上、議論はどこまでも平行線です
なぜなら、我われが見ようとするものをあなたは見ず、あなたが見ようとするものを我われは見ないからです
一冊の小説を巡って、百者百様の読み方があるように、竜口の首の座を真実と見るか否かはもはや各人の心の領域と言えるでしょう
いかなる人も事実を確定できない今となっては、その領域を互いに侵すべきではありません
大聖人が法華経と他の経典の優劣を論じた際も、残された文字を文字通りに読むことが唯一のルールだったのです
その裏に隠された架空のSTORYを持ち出すことは、徒に事態を混乱させることにしかならないからです
あなたが歴史学者か文献学者であれば大いに研究されればよいでしょうが、その途上の成果を他人にひけらかしたりせず黙々と進めるべきです
ましてそれが信仰する者の動揺や逡巡を招くもであれば、なおさら慎重になるべきでしょう
もうこれ以上のやりとりは無益と思います
語れば語るほど、自らの尊厳と相手の尊厳を傷つけるだけでしょう
私も、もうここは見ないようにします
最後に、あなたの実社会でのご活躍を期待して
ではでは 聖書無謬説を見ているようだ
神学者と文献学者の戦い、史的イエス高等批評
仏教にもこの手のジャンルはないものか >>837
>無間地獄に堕ちるのです
先日逝った細木数子もよく言ってたよな。
あんなんでも信者いたんだから、創価も言わずもがな。 >>840
私は単に光り物の存在を否定している訳ではありません。純粋に後世の装飾に目を向けています。
そしてその御文を出されたので、ご意見をお聞かせ頂けるとありがたいです。他の方でも結構です。
ご紹介頂いた御書(竜口御書)は、評定所に於いて佐渡流罪判決が言い渡された同月20日、本間邸から四条金吾に宛てられえた手紙で「月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ」とあり、ここでは明確に「月天子」が光物となって頸の座を助けたとあります。
ところが種種御振舞御書では、「今かかる事出来せばいそぎ悦びをなして法華経の行者にも・かはり仏勅をも・はたして誓言のしるしをばとげさせ給うべし、いかに今しるしのなきは不思議に候ものかな、何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず、しるしこそなくとも・うれしがをにて澄渡らせ給うはいかに、大集経には「日月明を現ぜず」ととかれ、仁王経には「日月度を失う」とかかれ、最勝王経には「三十三天各瞋恨を生ず」とこそ見え侍るに・いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし。」
この中で「いかに月天いかに月天とせめしかば」と、ここでは竜の口で現れなかった「月天子」を叱咤しているように読めますが、この両書の齟齬についてはどのような解釈をされていますか?
これは日蓮が間違えて書いてしまったのでしょうか? >>848
>嘘も100回言えば本当になる
私が日蓮の装飾に目を向けている理由です。 >>832
ただの火球ではなく、数年前にロシアに落ちたような隕石の落下で
大規模な衝撃波が発生して役人の刀が折れたとも考えられる。 衝撃波www
刀折るほどの衝撃なら、刀の前に北斗の拳みたいに頭が破裂するのが先だろw
まさに頭破七分だ 誰かが話を盛りすぎおかしくなるな
日蓮の真筆と伝わっていても法華経の引用のないもの
また解釈の整合性のないものは無視するに限る
正見、正思、正語の実践は大事ね 或遭王難苦 臨刑欲壽終
或いは王の為に難儀を得て刑罰を受けまさに命終わらんとするに
念彼観音力 刀尋段段壊
観音を念じその誓願力を乞うならば 首切り役人の持つ刀は何段にも折れる
訳は誠に拙いのがその意を汲んでいただきたい。
上の偈は観世音菩薩普門品偈の一部を抜粋したもの。
竜の口の難儀を救ったのは観音様の慈悲かも知れないが、日蓮師は観音菩薩に対し
謝意を述べた記録を見ない。
江戸時代、日蓮氏が助かった故事を基にこの短い経文が.徒刑者に口ずさまれ、題目が
唱えられた。
近代では浪花節にもなり、歌入り観音経 故鈴木米若でヒットしている。
さて法華経の本尊て誰ですかね?>釈迦>観世音>阿弥陀>そこが明瞭ではない、
考えた末に日蓮は
金口の説法全体を本尊と見込み題目を唱えて流布させようと望む。
それが近代仏教学の篩の目を通らない暴論なので御座いますから、私迄がそりゃ
アカンでしょと述べる段。
法華経は当時の印度で流布した仏教思想の案内、オムニバス教典と見做せば落ち着く。
素直に信じて入れ込み大損をする人が余りにも多しです。
>>840
御書の不整合について意見を求められても迷惑な話ですね。
せっかくですので竜の口の「光り物」については、2.3スレを残して失礼したいと思います。
実はご紹介いただいた御文(竜口御書)は他にも信じられない齟齬があります。それは同じ四条金吾に対しての事ですので、次にご紹介しておきます。 竜口御書は、文永8年9月20日に依知の本間邸で書かれたものとされていて、
「月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ」とあり、
種種御振舞御書と並んで「光り物」に関しては有名な御書とされます。
しかしその1年後のこと...
文永九年九月、日蓮は佐渡流罪の地から四条金吾に手紙を残しています。
「無尽の秘計をめぐらして日蓮をあだむ是なり先先の諸難はさておき候いぬ、去年九月十二日・御勘気をかほりて其の夜のうちに頭をはねらるべきにて・ありしが・いかなる事にやよりけん彼の夜は延びて此の国に来りていままで候に世間にも・すてられ仏法にも・すてられ天も・とぶらはれず二途にかけたるすてものなり」
四条金吾殿御返事 文永九年九月
驚くことに同一人物の四条金吾に対して、
その1年後には「いかなる事にやよりけん」と、
首の座を逃れた理由が分からないと言っているのですから、
どちらかの御書は偽物とも言えますが
このような内容は他にもあり、>>758がご紹介の通りで
一谷入道御書では「子細ありけるかの故に」。
報恩抄では「いかにしてやありけん」と書かれていますので、
竜の口では頸の座も無ければ
月天子の加護(光り物)も無かったと推測する根拠となります。 そして日蓮が、初めから佐渡流罪を評定所にて言い渡されたことは、
日蓮が依知の本間邸に到着した翌日である
文永8年9月14日に書かれた真筆現存の遺文の言葉にも明らかです。
「上のせめさせ給うにこそ法華経を信じたる色もあらわれ候へ、月はかけてみち・しをはひてみつる事疑なし此れも罰あり必ず徳あるべし・なにしにか・なげかん。
此の十二日酉の時・御勘気・武蔵守殿御あづかりにて十三日丑の時にかまくらをいでて佐土の国へながされ候が、たうじはほんまのえちと申すところにえちの六郎左衛門尉殿の代官・右馬太郎と申す者あづかりて候が、いま四五日はあるべげに候、御歎きはさる事に候へども・これには一定と本よりごして候へば・なげかず候、いままで頸の切れぬこそ本意なく候へ、法華経の御ゆへに過去に頸を・うしないたらば・かかる少身のみにて候べきか、又数数見擯出ととかれて度度失にあたりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば我と苦行をいたす事は心ゆへなり」
土木殿御返事
この富木常忍に当てられた遺文を読んで感じることは、あくまでも主観になりますが、2日前に草庵に踏み込まれて身柄を拘束された挙句に市中引き回しに遭い、佐渡流罪を言い渡されたものの、当日の行き先である依知に向かうとは知らされず、評定所から竜の口に向かう道中にあって、本当に命を奪われる事を覚悟していたのではないか...。そんな日蓮が依知に到着した翌日になって、まるで安堵しているかのような雰囲気を感じます。
ともあれ個人的な考察に過ぎませんが、>>722からレスさせて頂きました。
二度の流罪の罪が「悪口の科」によるものと言うのは、御成敗式目に照らして他には見当たらないと言う主観であり、遺文には無いと思います。
以上、これにて失礼致します。 >>858
その御書のもっと前の下りに
『…而るに日蓮は法華経の行者にもあらず、又僧侶の数にも入らず。…』と
内心は末法の仏たる確証に満ちてはいても、文脈上、謙遜の意味でそう言われています
何事もそうですが、同じ事柄を表すのに表と裏、正論と逆説があるものです
たとえば
君子危うきに近寄らず
虎穴に入らずんば虎子を得ず
この一方は偽であり、ゆえに一方は真であるとは必ずしも言えません
つまり首の座を免れた事実は同じでも、それを天の加護と見る場合もあれば、加護などではなくその他の要因ゆえと見ることもできるわけです
そもそも首を斬られる事態に至ることがすでに悲劇であり、たまたま命が助かったとしてそれが守護といえるのか
さらにその後も念仏宗徒らの讒言や自作自演の事件が続き、未だ大聖人と門下の立場は危機的な状況に変わりはないのです
冒頭の文から『…二途にかけたるすてものなり』に続くシニカルな文脈の中で、僥倖としての光り物にあえて触れないのは不自然ではありません
>首の座を逃れた理由が分からないと言っているのですから
だから上記のような理由から、これは分からないのではなくて婉曲的に言われているのでしょう
執行寸前で処刑が中止されるとは余程の重大な理由があるわけで、それが囚人に知らされないままうやむやにされることがあるでしょうか?
ゆえに処刑そのものがなかったと言うのでしょうが、それも無理があると思います
初めから存在しないのなら、その後の御書で首の座について幾度も触れらることがおかしい
依智ではなく竜口へ向かうことを死罪と勘違いしたというのも違和感がある
勘違いと分かったなら、その時点から死罪とか首の座といった言葉は使わないでしょう
それともあなたは、大聖人は勘違いを棚に上げて、これを自らの「発迹顕本」の筋書きに利用したとでも言うのでしょうか?
開目抄とはそのような邪な動機からか書かれた書なのでしょうか?
あなたこそ、邪な動機でこんな主観を述べるのではないですか?
もう来ないつもりでしたが、あまりに目に余りました… 御成敗式目に日蓮が死罪が適用されるかが論点になりましたな >>858,859
ここまで御書が読めて、意味が理解できるなら、
光物のせいで首切り処刑が中止になったとかの作り話は、
いいかげんにやめたらいいのに。
とくに、佐渡流罪のために、依知の庄屋宅に向かっていたことを
知らされなかったことと、首切り処刑の記述がないことは重要で、
気の小さい日蓮師匠とアホな弟分の金吾が、
二人だけで、首切られるうー(泣く)と思い込んで、
大騒ぎしてるだけの話なんだよな。
ついでに言えば9月20日の金吾宛の御書には、
あの夜に日蓮が斬られるなら、自分も一緒に腹を切ります、
といってくれてありがとう、みたいな謝意を書いてて、
この部分、種種御書の記述と一致してて、
龍の口はホントにあったことなんだな、とすぐにわかって、
真筆写本判定とはリクツが違うけど、そんな印象だな。
※※
それと光物に関しては、翌日の依知の庄屋宅では、
江ノ島の方から、どんどこ音がしてくると書いてあるから、
明らかに晩秋の稲妻が閃いたんだろな、とすぐにわかるわ。
種種御書にある、まりのような、という記述に関しては、
平家物語にある、平盛久首座の霊験談をこのスレのだれかが
探し出してきてくれた瞬間に、あっパクったのね、とわかるけど、
球状の光物については、吾妻鑑にも人魂の話があって、
当時としても、ありふれた一般的なオカルト話だったみたいね。 >>863
貞永式目は僧侶項目もあって、種種御書にある評定所に呼び出されて、
お奉行さまから聞かれた二点がモンダイになってるらしく、
1. 先代の執権連署である、北条時頼と重時が今は地獄に堕ちている、
と吹聴して回ってるそうだが?
2. 鎌倉の寺に火をつけて、坊主の首を切れと煽っているのも、
ホントにそんなこと言ってるのか?
1 はさほどでもない感じだけど、2 のほうはかなり重大で、
これは依知の庄屋宅に預けられていた二十日間ほどの間に、
鎌倉の市中では、放火と殺人がひまなく起こっていると、
自分でも種種御書に書いてるくらいだから、
日蓮一門が鎌倉の放火殺人を実行しているテロ団体と、
疑われているわけよ、
そしてそのことは日蓮師匠は百も承知だから、
殺人放火は斬首の刑に決まってるんで、
だから龍ノ口で平左衛門一行は休憩してるだけなのに、
金吾はここが首切りの場所ですう(泣く)、と早合点して、
日蓮師匠と二人で大騒ぎしているだけ、と種種御書のストーリーで、
ところがね、鎌倉の放火殺人が日蓮一門のせいと疑われるのなら、
それはテロ実行の罪になるんであって、その場合貞永式目には、
過去の事例をかんがみながら、評定でケースバイケースに
決定する、という項目があるから、これが一番近いかも。
結局は証拠が見つからなくて、1 の悪口該当の流罪になったのでは? という感じ。 連続放火殺人犯人の容疑で取り調べを受ける日蓮大聖人。
最初からあの人がやるわけが無いと思うか、怪しいと疑うか?
手下の誰かに命じてやらせたらと云う、危ない疑いが晴れ、
悪口の罪状のみが適用され島流し。
取り調べ中に一個しかない生命惜しさに、大聖人様は全部喋ったのじゃないですか?
金吾の語りと大聖人様の語りが同じ、他からの証言も矛盾なし。
警察は事件の記述のみでしょうが、書類を裁判官に渡す検察の取り調べってそういうものです。
私事で詐欺事件の参考人で検察庁に行き、尋問に応える経験が有ります。
後から考えたらば、容疑者の証言に矛盾する箇所を見出す為の参考人調書作成に参加したのです。
当日交通費五千円頂きました。 // detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14163574734
2016/8/28 20:03
さて、、、 鎌倉時代に日本人の道徳律として浸透した、『御成敗式目』の宗教に関する規定は、 「神社を修理し、祭祀を盛んにして、寺塔を修造し、仏事を勤行すべきこと」のみでした。
鎌倉幕府は、この問題に対して「自らを正統とし、他を異端として攻撃すること」を厳重に禁じていたのです。 宗教の教義や信仰、戒律などには干渉せず、全ては【社会秩序の維持】(※1)という面からのみ関与するに留めていたのです。
・山本七平 (ヨーロッパがこの状態に達したのが19世紀であることを考えると鎌倉幕府の先進性に驚かされる)
1271年9月13日、幕府は蒙古襲来に備えての御家人総動員令を発令しました。(小代文書) この緊急命令を下す前日の9月12日に、日蓮の逮捕劇がありました。日蓮側では龍口法難とかいってるけど、
日蓮の逮捕劇は、幕府の対蒙古政策の一環、そうです【社会秩序の維持】(※1)としての位置づけだったのです。
そんな日蓮に対し、後年幕府は、土地の寄進と坊舎の建立を申し出るという大人の配慮を見せています。(御伝土台)
・佐藤弘夫 (幕府は、他宗を批判する姿勢を改めれば、寺を与えると言った) >>864
>首切り処刑の記述がないことは重要で
『日蓮といゐし者は去年の九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて……をそろしくて・をそろしからず』
この他、各御書に散見される頸の座についての言及は、ならば一体何のことを言われているのか?(笑
>だから龍ノ口で平左衛門一行は休憩してるだけなのに
わざわざ血なまぐさい刑場で休憩?
陰険な嫌がらせ?
また依知へ行くにしても、なぜ歩きにくい真夜中に移動するのか?
休憩しているのか処刑のためなのか、雰囲気で判りそうなものだが?
もし休憩だったとして、一行が何の沙汰もなく出発 誤送信
再び出発するだけの話で、なぜたびたび後の御書で頸きられぬなどと吹聴するのか?
それは自らの恥をさらすも同然であり、考えられないことだが? >>864
>江ノ島の方から、どんどこ音がしてくると書いてあるから、明らかに晩秋の稲妻が閃いたんだろな、とすぐにわかるわ
竜口の刑場での光は、これは火球とするのが最も適当で、稲妻などと見間違えるわけがない
その後も小さな光り物が梅の木にかかったとあるが、前者が彗星などの破片の巨大な火球だとすると、後者はより小さなものが流れ星となって再び落下してきたのかもしれない
火球の映像を見ればわかるが、まさに御書の記述に一致する
目撃者は昼間のよう明るくなったとも
別にモーゼのように海が割れたとか、キリストが死後に復活したとかの話ではなく、オカルトでもなんでもない
>平家物語にある……あっパクったのね、とわかるけど
平家物語の方が自然現象である火球や発光現象をネタ元にしているとのではないかと…(^.^) >>860
>大聖人は勘違いを棚に上げて、これらを「発迹献本」の筋書きに利用したとでも言うのでしょういか?
どうも誤解されているようですので一言つけ加えますが
日蓮自身は、自分が勘違いしたとは思っていない…と私は思いますよ。 補足しますが
評定所に於いて佐渡流罪の判決が言い渡されたことは
「武蔵守殿御あづありにて…土佐の国へ流され候が」とあるように
日蓮自身が認識していることは明らかですし
忍性への一方的な騒動が発端となってしまった
>>766で紹介した行敏の訴状に基づけは死罪はあり得ません。
しかし旧鎌倉街道を北上するルートではなく
当日の行き先を告げられないまま「竜の口」へ向かったことで
日蓮も呼び出された四条金吾も
竜の口で殺されると勘違いをした可能性があると言っているのです。
種種御振舞御書
「はるか計りありて云くさがみのえちと申すところへ入らせ給へと申す」
このように竜の口の刑場に於いて
当日の行き先が「相模の依知」と告げられたとありますから
日蓮だけが知らなかったと言うことです。 >>870
>江ノ島のほうから、どんどこ音が…
巨大な火球の落下に伴う衝撃波の音かもね、ただの火球の光くらいでは
役人が驚いて処刑を中止するほどでもなかろうから。
光り物で刀が折れたと言うのは誇張した描写で実際は衝撃で驚いて
落とした刀が足元の石か何かに当たって折れたのかも知れないし。
(折れたと言うのも誇張で単なる大きめの刃こぼれかもね) という訳で,日蓮の頸が切られずに済んだ奇特談はスッキリしましたね。
官憲がよく取り調べて、悪口の刑なら
島流しが順当な罰となったが、日蓮が俺は危ない!と慌てた話なんですね。
とても良い勉強に成りました。
※今は奇跡、昔は奇特と云いました。 >>872
>しかし旧鎌倉街道を北上するルートではなく
当日の行き先を告げられないまま「竜の口」へ向かったことで
なぜわざわざ遠回りをして、しかも子丑の時という深夜に、また何の目的で竜口へ向かったのでしょう?
合理的に説明してもらえますか
>日蓮も呼び出された四条金吾も
竜の口で殺されると勘違いをした可能性があると言っているのです
もしそうであれ、竜口に着いてしばらくすればその疑いは自ずと氷解するはずですね
だって何時まで経っても、誰も刀を手にしたり大聖人を拘束したりしないのだから
この時点で、相手に殺意がなく、斬首の覚悟は取り越し苦労だったと知れるわけです
にも関わらず、開目抄のような重書で真っ先に頸の座について言及されるのはどうしてか?
また竜口御書、報恩抄、その他の幾多の御書にも頸の座についての記述が出てきます
結果的に勘違い、早とちりであったのなら、 これは恥の上塗りであり、理解不能な行為ではありませんか? >>875 僧は罪を一等級下げるという事を彼らに
見せしめる為に刑場を訪れた可能性が在る。
本当は此処で首チョンパなんだが、島流しね。
という話も有りそうだな >>875
遠回りと言うのは何を根拠に言われているかわかりませんが
これはわざわざ遠回りをした訳ではありません。
神奈川県の湘南海岸の少し内陸を辿りながら鎌倉から江ノ島方面に向かい、相模川の手前で現在の厚木に向かって北上するルートがこの時代にありました。ですから竜の口は依知に向かって行くルートの途中にあったのです。竜の口の刑場跡と神奈川県の依知でお調べ下さい。
(続きます) 時間について言えば
そもそも日中に誤送する決まりが有ったのかどうかは知りませんが、
どちらかと言えば判決の後にそのまま誤送されたことの方が自然だとも思います。
もう一つの考察としては
本間邸に日中に到着するように出発した可能性もありますね。
しかし状況的に考えれば、悪口の科にも関わらず市中引き回しになる程に鎌倉中を騒がせてしまった日蓮ですから、夜中であろうともさっさと誤送したい状況だったのではないでしょうか?日蓮を殺してしまえという感情は、何も権力者に限ったことでは無かったと思いますから。
(続きます) その上でもう一つの推察をすれば、
竜の口に到着した際には、既に松明が炊かれ役人や日蓮を憎む人が集まり、あたかも斬首されるかのような準備をされていてお灸を据えられた可能性は十分にあると思いますよ。
(私は個人的にそんな想像をしています)
しかし、種種御振舞御書に書かれているように朝方近くまでそこにいたとは考えにくいです。その理由は竜の口の刑場から、依知の本間鄭までの距離は候補とされる位置で一番遠いところまで約40kmもあることです。遺文では13日の正午に到着したと言う事を逆算すれば、夜中の歩行も考慮すれば少なくとも10時間以上、途中で休憩した場所の伝説もあったり相模川の渡船を利用したことも考えれば11時間〜12時間ははかかったと推測しています。ですから、竜の口の刑場荷に長居いはしておらず、小休止程度の滞在だった可能性は高いと考えています。
(続きます) >結果的に勘違い、早とちりであったのなら
ですので先ほどもレスしましたが、日蓮は勘違いしたとは思っていません。
日蓮にしてみれば殺されると思ったと言う状況だった訳ですから
後々の御書に記述が出てきても不思議ではありませんよ。
そのような考察の上で考えれば
「いかなる事にやよりけん」「いかにしてありけん」と言う言葉は
その時の心境を表していると思います。
以上が大まかな考察の内容です。 >>879
そこに「たまたま」大きな火球が飛来したので
かのような話が出来上がったと言うことか。 >>882
火球については本当に分からない事ですね。
しかし個人的には
種種御振舞御書で書かれているように
まるで舞台のストリーを書いているような内容を
本当に日蓮が書いたのだろうか?と...そんな疑問は持っています。 >>877
>遠回りと言うのは何を根拠に言われているかわかりませんが
鎌倉から厚木北部まではそのまま北西に進むのが近いように思いましたので
間違いなら失礼
>どちらかと言えば判決の後にそのまま護送されたことの方が自然だとも思います。
護送団の数がいくらかは分かりませんが、草庵を武装兵が取り囲んだ下りの描写からは、10人や20人ではないでしょう
その集団が真っ暗な夜道を何十kmも移動するのは大変な労力でしょうし、それなりの資財や準備も必要なはずです
佐渡への流罪であればなぜそんな強行軍をする必要があるのでしょう
その日は鎌倉に留まり、用意を整えてから早朝に出発するのが、より「自然」だと私には思われます
>しかし状況的に考えれば、悪口の科にも関わらず市中引き回しになる程に鎌倉中を騒がせてしまった日蓮ですから、夜中であろうともさっさと護送したい状況だったのではないでしょうか?日蓮を殺してしまえという感情は、何も権力者に限ったことでは無かったと思いますから
いや、これらの状況をあなたは御書から汲み取るわけですね?
十中八九まで御書の情報によりながら、肝心のところは主観によるのでは、何やら都合のいい態度に思えます
なぜ最後まで素直に読めないのでしょう(笑
>あたかも斬首されるかのような準備をされていてお灸を据えられた可能性は十分にあると思いますよ。
それなら先に評定所で流罪を言い渡さないでしょう
ドッキリの意味がありません
>しかし、種種御振舞御書に書かれているように朝方近くまでそこにいたとは考えにくいです
13日の正午に依知に着いたという記述は信用して、そこから逆算すると考えにくい…ですか
そのダブルスタンダードやめませんか?
御書を疑うなら、いっそのこと丸ごと全部疑ったらどうです >>880
>ですので先ほどもレスしましたが、日蓮は勘違いしたとは思っていません。
それは竜口に着くまでのことです。
あなたの推理のように実際に現場では何事もなかったのなら、100%勘違いじゃないですか(笑
「勘違い」とは思ったことと現実の結果が違うことでしょう?
現実の結果をその眼で見てもなお勘違いに気づかない状況とはどんなものですか?
言わんとする事が伝わっているでしょうか?
結果的に何もなかったのに、その結果を無視して、頸の座と言い続ける意味が分からないのです
文法的におかしいと言っているんです
>後々の御書に記述が出てきても不思議ではありませんよ。
上の理由からあり得ません
頸の座は存在しなかったのですから、それをさもあったかのごとく言うのは妄語の罪となります
とすれば人本尊開顕の書たる開目抄は妄語から始まることとなり、日蓮宗はひっくり返ってしまいます
しかしそんな話は聞いたことがありません
ここでのあなたの話以外では、ね 貞永式目通り流罪という判決が出て結果的に流罪になってるんだから
どちらが妄語なのかw
私文で恨みつらみw日本が滅ぶだの嘘ばっかり誇張し馬鹿坊主だなw バカは幸せでいいな
この「ままでは日本は滅ぶ」という表現は
日本を守るために役立つ
そしてどうするべきか指針もある
偉大な科学者や哲学者は数々の警鐘を鳴らして
その通りにならなかったことを喜ぶ
バカははずれたと喜ぶなさけない話だねw 移送も公式の死罪も深夜にやるものではないだろう。謀殺の企みがあったとすれば全て納得がいく。
移送に付き添う武者の姓名も官職も不明だし、知られたくない事情があったんだろうね。堂々と名乗るのが通常の時代に。
現代の街灯がある時代じゃないから月明かりを頼りに密かに首を刎ねるつもりだったが、光物が出現して処刑人たちは顔を見られてしまったのでうずくまったのでは。
金吾や集まった人達に氏素性を知られてしまっては独断で処刑したことが露見したときに処分されてしまう。
もし首を刎ねることに成功していれば死体はそのまま龍の口にさらしそそくさと帰ってしまえば流罪人が逃亡しただけで知らんとすればそれまで。
日中に正々堂々とやれることをやっていたのではないからと考えればつじつまが合う。
この時代、有力者に都合が悪い人物はこうやって葬られてきたのだろう。 その「光り物=火球」がいわゆる諸天善神の所為なのですね。 「大日如来(梵:マハーヴァイローチャナ)」は大乗仏教(密教)の尊格。
真言宗の本尊。
大乗仏教が発展していく中で古代インド神話やヴェーダ、漢字圏の陰陽思想を巻き込みつつ成立していった密教(秘密仏教)の最高位の仏である。
我が国には弘法大師により齎されたが、他ならぬ弘法大師自身が結縁灌頂を結んだ仏でもある。
古代の太陽神信仰を源流とするとされる尊格であり、仏法の示す“宇宙”その物であるとされる事から法身仏と呼ばれる。
このため、SF的に云えば太陽神どころか宇宙神と呼べる存在であり、思想的にはそれをも越えた概念であると云える。
華厳経の主であり、根源仏(※智慧の光により釈迦を生み出した仏)として考え出された(毘)盧遮那仏(奈良の大仏として有名)の概念を更に発展させた存在と考えられているが、
大日如来へと繋がる系譜は仏教の黎明期より存在しているとの説もある。 智の見解では華厳経は釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。
「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。
華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている。
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。
これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
「六十華厳」の中で特に重要なのは、最も古層に属する「十地品」と「入法界品」の章とされている。 日蓮と真言と天台の密教は御縁なし、>>890、、>>891 君の書き込みは無用
なんたって梵字の読み書きが出来ないのだからお話にならん人ですよ。
さて日蓮に関して色々と論じてます、実に興味深い話が出て来て宜しい。
時の為政者としては、道中の何処で身罷ろうと一向に構わない罪人であった日蓮。
密殺的な処刑をする役目の人物が、僧侶と見て刀を引っ込めた可能性も在る。
それにしても、ご本人の寿命が在ったので良かったですね。
これぞ法華経の行者に授かる生命の体現かも知れませんな。 波題目の逸話から日蓮大聖人様の如来秘密神通之力の凄さが伺われます。
日蓮大聖人様が佐渡へ流された時、荒れた海上で南無妙法蓮華経の題目を海面に書き、難破を救った。
日蓮大聖人様が赦免された文永11年(1274)の3月、佐渡を去る時に船の上から朝日に向かって合掌すると、波間から「南無妙法蓮華経」の7文字が浮かび上がった。 >>893 其れの何処が現代日本人の幸福、人生と関わり合いが生じますか?
その奇跡が在った、無かったは別にしてもですね。
こんな実例を挙げましょう。
かのカルト教祖、故麻原正晃氏は色々な奇跡談話を振りまき信者を呼び込もうとしました、其れは御存じでしょう。
然し彼が申さなかった、出来なかった「奇跡の範囲」に病気治しが指摘できます。
詰まり麻原氏は、他人の不幸を消し、幸福を呼び寄せる「超能力」を持ってなかった。
その程度の「超能力者」でした。
参考に成りましたでしょうか? >>885
では龍ノ口で何が起こったのですか?
教えて頂けますか? 役人が刀を振り上げたと思われるなら
是非その根拠を教えてください。
頸の座とはそう言うことですよね?? >>896
また、この碑の近くには日蓮大聖人様が一夜を過ごした洞窟があります。
そこは日蓮洞窟と呼ばれていました。 良く分からないのですが
光り物が現れたとしたなら日蓮が四条金吾と話をしていた時のこと...
その後に役人が刀を振り上げたと? >>897 そんな問題は簡単にお答えできます
命が助かった!と日蓮は安堵したのです >>897
『…此(ここ)にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門の尉申すやう只今なりとなく(泣く)、』
うちまはり(取り囲み)・さわぎしかば(騒然とした)とある以外に、具体的な兵士の動きに触れた記述はありません
また光物が現れたのはその直後、『…いかにやくそくをば・たがへらるるぞと申せし時』とあります
この時に兵が刀を抜き、それを振り上げていたかどうかまでは判断できません
しかしながら『…月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめ(興醒め)て』 との描写から、少なくとも太刀を手にした者が付近にいたと推察されます
>役人が刀を振り上げたと思われるなら
是非その根拠を教えてください。
頸の座とはそう言うことですよね??
刀を振り上げるか否かではなく、斬首があったかどうかですね?
上の記述から、まさしく処刑が行われようとしていたのは明白です
この一連の出来事を包括して「頸の座」と言われているのだと思われます >>902
問題なのは
極秘に斬首しようとしたかどうか...
ですよね?
鎌倉の市中引き回しのあとに判決が言い渡されて日蓮の信者が安否を気遣ってぞろぞろついてきて、きっと題目を唱えたでしょうね...
鎌倉の信者が何人いたのかご存知ですよね?
それを考えたら極秘に斬首など出来ないと思いますが、その辺はかがですか? もうひとつ申し上げれば
斬首のときに罪人は、手を後ろ手に縛られて顔に面紙(つらがみ)を被せられますから、周囲の様子は分かりませんので、辺りの様子を書いてあることから頸の座には据えられてはいませんよ。 >>903
>鎌倉の信者が何人いたのかご存知ですよね?
詳しい数字はちょっと分かりません
>それを考えたら極秘に斬首など出来ないと思いますが、その辺はかがですか?
『子丑の時』とは現在の午後11時〜午前3時であり、そのため見物人などはほとんどいなかったでしょう
件の御書にも、竜口まで付き添ったのは金吾と兄弟四人(左衛門尉頼基、頼隆、四郎頼季、七郎頼実)の計五名とあります
評定上は流罪であっても、侍所司所平左衛門尉頼綱の独断で行われた可能性が高いでしょう
でなければ、人の顔も見えないような深夜に竜口などへ赴く理由もありません
翌9月13日、執権北条時宗から依知の大聖人のもとへ『追状に云く此の人はとが(失)なき人なり今しばらくありてゆるさせ給ふべし・あやまちしては後悔あるべし』と、立文が届きます
当時の評定の最終議決権は執権にあり、表向きは死罪に持ち込むのは難しかったでしょう
そこで頼綱が夜闇に紛れて大聖人を斬り、事後報告という形で押し切ろうと考えた
それだけの権力が彼にはあったし、又そうしたところで誰が抗議をしたでしょうか?
当時、大聖人は鎌倉中を敵に回していたのです 日蓮大聖人ご誕生の地、天津小湊の鯛の浦。
ここでは真鯛が群泳しています。
普通、真鯛は深い海を回遊しているのですが、ここでは浅い海に住んでいて、その理由は不明です。
日蓮大聖人様が御生誕した時に、この場所で鯛が飛び跳ねて蓮の花が咲いたそうです。
その言い伝えから村人達はこの場所を「鯛の浦」と名づけ、漁を禁止しました。
さらに、大聖人様が両親の供養の際にここに訪れた時、海に向かって題目を唱えた所、海面に
題目の文字が現れ、そこにいた鯛の群れがその題目の文字を食べつくしたと伝えられています。
村人達は、それ以来、鯛を大聖人様の化身としております。 >>906 鯛に関しては、創価大が責任を以って現地調査をすべきなので御座います。
題目が現れ云々は、伝説で御座いまして信じようと信じまいと、アズユーライク
お好みの儘、人に依りけり、信ずる者は救われることも在るだろう、なので御座います。
でもって此処の鯛の浦は、魚類捕獲禁止でしょうか? >>905鎌倉時代の人達が、現代の我々と心情が全く違うなんてことは無い、
その人たちに敵と認定され嫌われる、そういう人は、社会的に成功は覚束ない。
日蓮さんは生前に於いて、成功者の人生と云えるか?
信者が死後の評価が成功です、其れを君は見なさいと言うのは、100%負け惜しみ。
頸が切られると思ったが、繋がって罪状が配流に変わる。
島流しに遭う坊さんってのは、余程の悪事を為した、その様に現代人の我々が
推測してまず以って間違いはない。
かの俊寛僧都は国家転覆を企て島流し、日蓮から100年程前の実話。 鯛供養 についてWikipediaから引用します。
//
地元では、毎年1月に『鯛供養』が行われる。「鯛供養」とは網にかかったタイを供養するもの。両親閣妙蓮寺の「小湊妙の浦弁天祭」ともいわれるもので、タイのいる洋上に舟で出て、「南無妙法蓮華経」の題目(日蓮宗の読経)をささげるというもの。
また、ここの鯛は日蓮の化身とされ、地元では同海域の鯛を食せず、タイがエビ網などの網にかかっても生きていれば放流し、死んだ場合は漁協の冷凍庫で保存し、一定数になると誕生寺境内のタイ塚に埋葬する。昭和時代には「鯛のお葬式」も行われた
// ここまで
日蓮宗は鯛をも供養する心やさしい宗派ですね。 >>905
鎌倉における弟子の人数は「日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人知るさる」
種種御振舞御書
これは日蓮が逮捕されてから、いわゆる放火とか殺人の冤罪によってリストアップされた鎌倉の弟子の人数で、そこには約260人とあります。
午後3時から5時の間に市中引き回しとなり、午後5時から7時の間で評定所での判決となれば、信者も含めて相当な人数が評定所にいたと思いますが、いかがでしょうかね…そんな大騒動になった中で午後9時に評定所を出発し、竜の口に到着したのは午後11時と言う仮説も成り立ちます。
その竜の口への道中で老婆の尼が「ぼたもち」を授けたと言う伝説もあり、未だに鎌倉では有名なお寺になっています。
このような状況で暗殺ができるとは、私は到底あり得無いと思います。
そして北条時宗からの追状についても「日蓮は罪の無い人」と言っているのであって、処刑について述べているものではありません。そして頼綱が権力を持って暴権を振るったのは寄合衆になって以降のことです。 もちろん日蓮信仰の方にとって
頸の座における処刑は重症な話ですので、それを覆そうなどとは思っていませんが、信仰を離れて検証すると明らかにおかしい部分が多いのです。
根本的に種種御振舞御書は
元々4つの御書が組み合わさったものですし、内容的にも後世によって装飾されている可能性は大きいと思っています。
その後世の装飾の内容は
「日蓮は無実の罪で頸の座で処刑される事になった。」と言うものです。付け加えればパクリと言われる「光り物」もそうでしょう。
現にあなたも評定所で佐渡流罪が言い渡されたことさえ信用しませんでしたよね?
その意味で言えば、評定所を出て八幡宮に向かって諫言をしたと言う記述も首を切られる判決が前提になっていますので、これは日蓮の言葉なのだろうか?もしもそうであるならば飛んだ食わせ物と以前レスしたのです。
また後々には「世間には一分のとがも・なかりし身なれども・故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を地獄に堕ちたりと申す法師なれば謀叛の者にも・すぎたりとて・相州・鎌倉・竜口と申す処にて頸を切らんとし候いしが」などと、話がまったくおかしくなっている御書もあります。
その結果、>>721であなたが認識している結果になると思うのです。まあそれは日蓮宗としては通説となっていますので信仰者として仕方がないことです。
しかし、訴状が出されて陳情を踏まえた「悪口の科」による流罪判決であり陰謀による斬首もありえず、結果的に「頸の座」として刀を振り上げられることは無かったにせよ、日蓮にとっては死ぬ事を覚悟した出来事であり。竜の口での出来事は刀杖の難の一つとなり数数の流罪と合わせて法華経勧持品二十行の偈に照らして、日蓮自身が法華経を身読したと捉えたのだと思いますよ。それを以て「発迹顕本」とするのは大石寺系のみにある解釈ですから、ここでは何も言うことはありません。 このスレッドの価値とは、日蓮の虚飾を脱し
実寸の日蓮師を世間に出す作業と云うべきです。
今まで明瞭になった事
1,立正安国論は記すも時の執権に未提示の儘、机底に秘匿。
死後に弟子が発見する著作。
2,自筆の法華文字曼陀羅に記す、不動と愛染の種字は誤字のまま
宗旨で伝承されるも、他宗からの指摘は皆無。
3,令和3年11月現在は、竜の口の御難の詮索に移る段階であり、
死罪首切りは初手から無く、島流しと判決が下って居たものを立証中。 子安まんだら、という埼玉県戸田市に伝わる昔話を見つけましたので紹介します。
戸田市のHPから引用させていただきます。
https://www.city.toda.saitama.jp/soshiki/377/hakubutsu-legend6.html
むかしむかし、新曽村(戸田市)や川の向こうの新倉村(和光市)の領主で、
墨田五郎時光というお殿さまがおりました。
美しいお姫さまをお嫁さんにして、新曽のお城に住んでおりましたが、
二人はとても仲がよく、人もうらやむほどだったといいます。
そして間もなく、お嫁さんに子供が生まれることになりました。
しかし、おなかが日ましに大きくなっても、なかなか子供が生まれません。
くるしいくるしいというばかりです。お殿さまは、心配で心配でたまりませんでしたが、
どうしようもなくほんとうに困ってしまいました。
そのときふと「今日は日蓮さまというえらいお坊さんが、近くの鎌倉街道を通る」と、
村の人たちが話をしていたことを思い出しました。
「そうだ、そのお方ならきっと助けてくださるだろう。安産するようにおがんでいただこう」
と急いでお迎えに出かけてみると、ちょうどお殿さまの領地の新倉村へ着いたところで、
日蓮さまと会うことができました。
お殿さまは、「これからすぐ私のお城へ来てください」とお願いしましたが、
日蓮さまは「佐渡へ行く途中なので、それは許されまい」と言われ、
その場で安産を祈願し、お守りを書いてくださいました。
お殿さまは、それをいただいて飛ぶようにしてお城へ帰り、
このお守りを見せますと、たちまち男の子が元気よく生まれました。
続く >>913
続きです。
お殿様はたいそう喜んで、その子の名前を「徳丸」とつけましたが、
そのときお殿さまは「しまった。日蓮さまへお礼をいうのを忘れた」と、
またすぐに後を追いかけましたが、もうどこにもお姿は見えません。
それでもどんどん行って、やっと追いついたところが岸村(浦和市)のお宮のところでした。
そのため、このお宮は「つきの宮」と呼ばれるようになりました。
また、このとき日蓮さまが乗っていた馬をつないだ木は、「日蓮上人駒つなぎの欅」といい、
今でもそのお宮にすごい大木となって残っています。
そして、このときの安産のお守りは、後世の女人のためにと、「子安まんだら」といわれ、
大切にまつられることになりました。
お殿さまは、その後いっそう信心に心がけ、徳丸が九歳になったとき、父と子で日蓮さまのお弟子さんとなり、
二人で心を合わせて建てたのが、新曽の長誓山妙顕寺だということです。 >>912
この「祈雨」から「流罪」に至るまでの考察は、日蓮信者の方にとっては受け入れ難いものかも知れませんが、その考察を以て勝った負けたの論議をするつもりは毛頭ありません。
この考察の中でご紹介していないものとして、文永8年6月の祈雨の翌月、浄光寺の役僧であった行敏から日蓮へ送られた書状(行敏初度の難状)と日蓮からの返事は、御書全集には無いかと思いますので...
以下資料として掲載しておきます。(定本1-496…497)
行敏から日蓮への法論申込の書状
未だ見参に入らずと雖も事の次を以て申し承るは常の習に候か、そもそも風聞のごとくんば、所立の義尤も不審なり。法華の前に説ける一切の諸教は、皆これ妄語にして出離の法にあらずと<是一>。大小の戒律は世間を誑惑して、悪道に墜せしむるの法と<是二>。念仏は無限地獄たりと<是三>。禅宗は天魔の説、もし依って行ずる者は悪見を増長すと<是四>。事もし実ならば、仏法の怨敵なり。よって対面を遂げて、悪見を破らんと欲す。はたまた、その義無くんば、いかでか悪名をこうむらざらん。痛ましいかな。是非に付き、委しく示し給わるべきなり。 恐恐謹言。
七月八日 僧 行敏 在判
日蓮阿闍梨御房 行敏からの書状に対する日蓮の返事
条々の御不審の事、私の問答は事行い難く候か。しかれば上奏を経られ、仰せ下さるるの趣に随って、是非を糾明せらるべく候か。かくのごとく仰せを蒙り候条、尤も庶機する所に候。恐恐謹言
七月十三日 日蓮 花押
行敏御房御返事
日蓮がこの法論を断ったことで、>>766で紹介した訴状の提出となり、それに対する陳情が「行敏訴状御会通」と言うものです。訴状の4項である凶徒を集め武器を蓄えていたと言う内容を除けば、訴状の内容は悪口についての訴えです。
その判決により佐渡流罪を言い渡されたことは>>859の通り、日蓮の言葉が真筆として残っていますので、単なる権力者の陰謀で頸の座による死刑を言い渡されたと言う通説は、少なくとも誤りと見るべきでしょう。
その他の考察については、信仰者の立場とそうで無い立場で感じ方が異なって当然のことです。 >>910
>午後3時から5時の間に市中引き回しとなり、午後5時から7時の間で評定所での判決となれば、信者も含めて相当な人数が評定所にいたと思いますが、いかがでしょうかね
やけに細かいですが、それは御書のどの記述から判るのでしょう
不勉強なものですみません
種種御振舞御書より、『さては十二日の夜・武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに・わかみやこうぢにうちいでて四方に兵のうちつつみて・ありしかども、…』
頼綱が兵を率いて松葉ケ谷の草庵で大聖人を捕縛して後、武蔵守(北条宣時)の館にしばらく身柄を預けられ、夜半になって竜口へ発ったとあります
市中引回しとはその道中でのことを言うのでしょうか?
それなら時間的にもルート的にも、沿道に立つ群衆は多くなかったのではないかと想像します
>このような状況で暗殺ができるとは、私は到底あり得無いと思います
『文永八年九月十二日に都(すべ)て一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども内には頸を切ると定めぬ』
(下山御消息)
ニュアンス的には暗殺というより、職権乱用による私的制裁だったのでしょう
当時の頼綱が侍所司所として軍事・警察の権限を一手に担っていたことは周知の事実です
また十日の評定所での尋問の際に、大聖人が臆することなく頼綱を諌めた場面
『…其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道(平清盛)のくるひ(狂い)しやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう』
とあるように、その時の頼綱の怒りは相当なものだったと窺えます
>そして北条時宗からの追状についても……処刑について述べているものではありません。
『…かまくらより上の御使とてたてぶみをもちて来ぬ、頸切れという・かさねたる御使かと・もののふどもは・をもひてありし程に』
この「かさね(重ね)たる」という言葉は、前夜の竜口での頸の座を受けていることは明らかです つづき
>その後世の装飾の内容は
「日蓮は無実の罪で頸の座で処刑される事になった。」と言うものです。付け加えればパクリと言われる「光り物」もそうでしょう。
評定所に呼ばれた際、建長寺等を焼き払うべき、道隆・良寛等の頸をはねるべき由、『上件の事・一言もたがはず申す』と認められ、この時点で、当時の情勢から無罪は絶望的だったと思います
加えて『…上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す』との幕府要人たちへの裏工作があったわけです
今まで評定所での正式な流罪申し渡しについては懐疑的でしたが、下山御消息などからそれもあったのかと
ただ『内には頸を切ると定めぬ』という文からは、取り乱した頼綱が大聖人に斬首を仄めかすような言動があったかも知れません
>それを以て「発迹顕本」とするのは大石寺系のみにある解釈ですから、ここでは何も言うことはありません。
三沢抄にこうあります
『又法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とおぼしめせ、…而るに文永八年九月十二日の夜たつの口にて頸をはねられんとせし時より…』
釈尊が法華経如来寿量品第十六で始成正覚の垂迹の姿を開いて本地の久遠実成を顕すことになぞらえて、「発迹顕本」というのです
決して一宗門の独断にとどまる解釈ではないと思います >>918
>それは御書のどの記述から判るのでしょう
>>779で紹介した日蓮正宗の見解に詳しいです。その元になった御書もありますが、信者さんならご自身でお調べください。
>決して一宗門の独断にとどまる解釈ではないと思います
竜の口の頸の座を持って、日蓮の発迹顕本とするのは大石寺系のみですよ。...と言う意味です。 >>918
読ませてもらいました。色々とご見解をありがとう御座います。
これからも考察を続けたいと思います。
その上で一言申し上げるとしたらですが...
良観や頼綱が
日蓮を恨んでいたと言う見え方が確かにあると思いますが
その逆も然りなのですよね…
それは法然に対しても感じます。これは個人的な見解です。 日蓮が俺は斬られて死ぬと覚悟した、その場面考証の山場であります、
これは後世に残すべきかも知れません。
世間の表に立って日蓮の行状、周囲の反応、官憲の動きを逐一に亘り
互いの非違を論証し合う,度胸のある学者は居ません。
日蓮を寸法通りに表現すると激怒する信者がいるわけですからね。
此処で出された資料は入手し易いらしいので、非常に宜しいと思います。 >>914
「日蓮上人駒つなぎの欅」は現在のさいたま市の調神社(つきじんじゃ)にあります。
この神社は鳥居が無く、狛犬の代わりに狛兎が置かれています。
月神社とも呼ばれていたので、月で餅をつくウサギと言う事で狛兎となったそうです。
この神社で日蓮大聖人様は道中の無事を祈られたのでしょう。 >>922
>これは後世に残すべきかも知れません
私は学者でもありませんし、多少御書に詳しかった程度の元学会員です。ここで述べた考察は、かつて別の場所(削除済)で書いていた内容に基づいていますが、そこから更に納得がいく考察まで進んだタイミングに、たまたまレスが重なった事からお邪魔したような格好でした。
この考察については、いづれネット上で公開するかも知れませんが…どうするかはまだ分かりません。
また、特に日蓮を「末法の御本仏」とする界隈に於いて「竜の口の法難」は、日蓮自身の「発迹顕本」となる重要な出来事ですので、それが単なる「日蓮の勘違い」などとは到底受け入れ難いものでしょう。また初めから佐渡流罪が言い渡された事も、刀を振り上げられていなかった事も、信仰者の立場で受け入れて認識するのは相当の難事だと思います。 >>922
>その場面考証の山場であります。
これまでの内容以外に示すものは考察としては特にありません。
残す問題としては、結果的に刀を振り上げられなかったにせよ、「良観や頼綱による斬首の計画が有ったのか無かったのか」と言う部分だと思いますが、私も日蓮本仏論を信仰していましたので、この考察に相反する文章ももちろん承知しています。
その点では、遺文真筆の有無は元より、それが書かれた時期なども踏まえながら、日蓮自身の感情の変化も視野に入れて、じっくりと読み解いていかないと、日蓮の実態には迫れないと思います。 >>917
「下山御消息」についてですが
日興が10大部御書に数えた重書であるにも関わらず、現存する写本に対して、その真筆は全体の15%が全国20ヶ所に分散しており、内容的にも問題があるとされていて、日蓮が亡くなった後に直弟子の間でも論議の種になり、いわゆるいわく付きの御書です。
その御書を紐解いて示された部分は、
「去る文永八年九月十二日に都て一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども内には頸を切ると定めぬ」
下山御消息
このように日蓮が「一分の科もなくして」...と「自分はまったくの無実」言っているのは、訴状に対する陳情も踏まえての判決と見れば、明らかに事実とは異なり「嘘」となります。
しかし、これが日蓮自身の言葉なのか、はたまた後世の装飾なのかは、簡単には判断できる物ではありません。それは日蓮自身が「竜の口」の出来事を、無実の冤罪による「刀杖の難」と位置付けて強調した可能性もあると思うからです。
この様な状況もありますので、この「良観や頼綱による斬首の計画が有ったのか無かったのか」の考察を進めるのであれば、少なくとも真跡が現存している御書を用いなければならないと思いますし、その論議をここの場でする事は、恐らく双方にとっても時間を削る事になると思いますので、私自身は個人的に考察を進めたいと思います。
また、これまで私の考察についてご意見を頂いた事で、新たにハッキリ見えてきた事もありましたので、個人的に感謝しております。
また興味のあるレスが有った時には参加させて頂きますね。
これにてロムに戻らせて頂きます。 >>914
和光市に妙典寺という日蓮宗のお寺が有りますが、そこには子安の池という湧水で出来た池が有ります。
その由縁がありましたので引用させていただきます。
参照元:
https://tesshow.jp/saitama/niza/temple_snikura_myoten.html
昔、鎌倉時代の文安八年の秋(一二七一年、元の来襲のあった頃)日蓮上人は佐渡へ向う途中、武州新倉の領主墨田五郎時光に再会した、
日蓮上人は時光の姿に悩みのあるのを見て訳を聞くと、妻が三日以来の難産で苦しんでいることを知らされた。
さっそく日蓮上人は時光の館に行き、若い柳の枝を折って先をつぶして筆がわりにし、持仏堂(法華堂)で安産祈願の護符をしたため、庭に湧きえている泉を汲んで産婦の口にそそいでやった。
しばらくして無事に男子(幼名徳丸、出家して日堅となる)が生まれた。
これが縁となり、その後時光は日蓮上人に帰依して日徳と改め、館を寺に造りかえた。
爾来、この池を「子安の池」と呼ぶようになった。
池水は今日まで涸れることなく、またいまなお安産を願う人々によって護符と共に利用されている。
なお、当寺にこの事象を伝える板碑・絵馬などが格護されている。(和光市教育委員会・和光市文化財保護委員会掲示より) >>927
文永8(1271)年10月10日、日蓮大聖人様は、厚木の依智にある本間重連の屋敷を出発し鎌倉街道の上道を北進しました。
現在、その屋敷跡には妙純寺が建てられています。
最初に宿泊したのが今の東村山市に位置する立川家という所です。
一日で厚木から東村山まで歩かれたのでしょうか?
GoogleMapで現在の道路を使って徒歩で歩いた場合の所要時間をみると約8時間30分程になりました。
東村山の立川家は数年前迄は当時を想わせる建物があったのですが、今は普通の住宅地となってしまいました。
そして翌日の10月11日に和光市の墨田五郎時光の館に向かったのです。 >>926
>その論議をここの場でする事は、恐らく双方にとっても時間を削る事になると思いますので、私自身は個人的に考察を進めたいと思います。
賢明な判断だと思います
このような場での議論は楽しいものですが、楽しいがゆえに、それはゲームに過ぎません
たとえ敵を倒したところで、現実の問題が解決するわけではないのです
>このように日蓮が「一分の科もなくして」...と「自分はまったくの無実」言っているのは、訴状に対する陳情も踏まえての判決と見れば、明らかに事実とは異なり「嘘」となります。
私はそうは思いません
大聖人があのような過激な発言をされた背景には、蒙古の牒状が届き、他国侵逼の難が現実のものとなった有史以来の非常事態を考慮すべきでしょう
すべては経文に拠る真摯な批判であり、まったく悪意も私意もないのは明らかです
各宗派に十一通の状を送って公場対決を呼びかけたことでもそれが知れます
これを「悪口の科」というなら、ここにいる全員も又有罪ではないですか?
>…考察を進めるのであれば、少なくとも真跡が現存している御書を用いなければならないと思いますし
それでは判断が偏ると思います
800年前に書かれた紙の文字が残っていることの方が不思議なくらいです
現に身延にあった開目抄の正筆は明治の大火で焼けてしまったし、似たような事情で失われた御書も少なくないと想像します
>…新たにハッキリ見えてきた事もありましたので、個人的に感謝しております。
ハッキリしているのは、御書にか書かれた文字だけでしょう
その文字の外に真実を見ようとするのは、モナリザの微笑の意味を探るのと同様に、観念の迷路に入り込むしかありません
本当にこれで最後にします
こちらこそ今までありがとうございました >>928
本間重連の館にて10月9日に日蓮大聖人様は初めて曼陀羅を御図顕されました。
これは楊枝御本尊と呼ばれています。
持っていた筆では文字が小さくなる為、楊の枝をほぐして書かれたそうです。
「南無妙法蓮華経」の首題が中央に書かれ、その向かって左に「日蓮(花押)」、左右には種字で不動明王と愛染明王が認められています。
釈迦牟尼如来や多宝如来、十界の諸天の尊体はこの時は書かれていません。
ここで法華経とは関連の無い密教の尊体である不動明王と愛染明王だけは大聖人様が御図顕された御本尊全てに描かれているのは何らかの理由があるのではと思われます。 >>930 不動尊、愛染明王は真言立川流で欠かせられない尊で在ります。
当時の宗教を風靡し高野、叡山などでは是を知らない行者は素人扱いされるまで
流行りました。
然し後年,淫祀邪教と判ぜられ焚書扱いに成ります、中身は
男女の赤白の交接を以って慈悲智慧の発生と悟りを証すという宗教。
参考資料、故水原堯栄著「立川流の研究」生前の著者は故司馬遼太郎と交友あり。
日蓮までが自筆曼陀羅に取り入れる程に世間に流布している、但し
日蓮の記す梵字は二個共に誤字です。
>>930
日蓮大聖人様は10月12日には川越に訪れたとの記録があります。比叡山で同学であった仙波尊海僧正に再会するためでした。
宿とした邸跡に現在の妙養寺があります。
日蓮大聖人様は仙波尊海僧正より建長5年に恵信流の伝法灌頂を受けたとの碑が川越中院にあります。
川越は鎌倉街道からかなり外れてはいるのですが、生きて帰れるかどうかの旅路でしたので、わざわざお会いに行ったのでしょうか。 >>932 川越中院の伝法灌頂の事実がそもそも無く、虚偽と見做すべし
日蓮が比叡山で修行したとの記述も虚偽。
誰が日蓮の師匠となって入山を許可したのか、不明の儘なり。
不動と愛染の梵字を正確に記せないってのがその証明です。
日蓮の実家が貧困の為に天台阿闍梨に成れなかった恨みが日蓮一生の傷となりました。
日蓮の経歴を盛り過ぎ、装飾過多、後世の検証が行われるとは思わない人達が
いかに多いか判ります。
>>933
日蓮が叡山から戻ったとされる建長5年に
川越中院 尊海による伝法灌頂の伝説が後世にまかり通ると言うことは
逆にその他の伝法灌頂の事実も痕跡も無いということの裏返しですか? >>932
翌10月13日に日蓮大聖人様は鎌倉街道に戻り、今の狭山市、日高市、鳩山町、嵐山町を経て児玉町に着きました。
其所で児玉時国という豪族と出会い、その館に宿泊したそうです。そして時国は大聖人に深く帰依することとなりました。
その館跡に建てられた玉蓮寺には大聖人様が足を洗われたという井戸があります。
時国はまた赦免され佐渡から帰る大聖人様を再度、館に泊め鎌倉街道にて久米川(今の東村山)まで送ってあげました。それを期に、時国は姓を児玉から久米に改めたそうです。 >>934 私が所持する先達の記録に四度加行を先ず何方かについて受法し、又違う
師匠について再度受法することは、江戸期以前にはかなり記録が残って居ます。
その代表者として挙げるべき真言の
覚鑁上人は諸流派、天台までも含め諸儀軌、法流を各阿闍梨より受けました。
鳥羽上皇の許可を得て経蔵を閲覧し密教を再構成された人です。
弘法大師や入唐八家の伝える儀式が
時代年代の推移と共に曖昧になり、院政期に仏前供養作法、教学を再編したわけです。
因みに祖霊への霊供養作法を編纂した人でもあります(いわゆる葬儀の手順)
日蓮師に関して言うなら、最初に縁あって入った寺では修行をさせて貰って居ない。
加行の修学には数年を要し、その期間の食い扶持やその諸費用は寺ではなく誰かが負担しますが、
其の多くは裕福な実家が面倒を見るのが通例です。
袈裟などの衣装、法具支度、供物(菓子、灯明油、米穀、香料は白檀、丁子等々)
費用計算を言うなら、米ハーバード大学へ私費留学し資格を得る程の金額でしょう
晴れの法要に天台宗の阿闍梨が着する袈裟衣の下には絹地の公家装束を纏う。
伝承文化とはそういう者なのです。
詰まり天台阿闍梨ともなれば、資格は公家に匹敵すると思えばまず間違いがない。 >>934 尊海師に附いて受法と石碑に記録される
その事実に関しての信憑性は希薄です。
日蓮師が基礎的な学が足りな過ぎることは、>>936で記すように彼には
全く密教に関する知識がない、その人に伝法灌頂は在り得ません。
因みに途中からの入壇ならばそれに際し相当な礼物を添えるのが通例。
それにしても
梵字のカン字を記すに間違えた儘、信者に曼陀羅を配布するとは如何したものでしょう
真言天台の坊さんが口を噤んで、その奇異なる梵字を無視するのは悪口を禁ずる戒も在りますが
無用な敵を造り、己が身の危険も恐れてのことかと思われる。 >>938 日蓮信者の君には真っ当な反論不能でしょう
君曰くキモイってのは何ですかね?チェっと舌打ち程度の反発か君って安いね 日本の仏教は伝来当初から政治権力と密接に結びついていたが改革派であった日本天台宗も仏教と関係ない権力機構の一部に成り下がったのは密教化と関係があるのかも知れん
密教というのは要するにコソコソやるということだから有力者の師弟が高僧への階梯を上っていくのに適しているんだろう。顕教ではそうはいかない 「如是我聞」は現代では完全に詐欺だ。
「法華経」フィクション・ライターは,独自のストーリーを作り上げ,「如是我聞」=「是くの如く我聞けり」=「私はこのように直接お釈迦様からお聞きしました」と虚偽の言説を埋め込んだのである。仏陀直説の正典に見せかける偽装工作と呼ばれてもしかたがあるまい。結果として,「如是我聞」というフレーズは,おおいなるノイズとなったのだ。
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090521/330462/?P=2 お釈迦様から直接聞いてもいないことを,勝手に聞いたことにしてしまった。諜報諜略論の立場から厳しく言えば,法華経は当事のインドの布教対象の民衆に対する欺瞞(ぎまん)工作の産物であり,未来に向けた共同謀議のノイズだったのである。
それ以降の仏教者は,「法華経」フィクション・ライターの,無邪気といえば無邪気,狡猾といえば狡猾,遊び心といえば遊び心から作られた欺瞞工作のようなゆらぎ,ノイズにはまってしまった。智は非常に実直な人物で,カオスの縁にいた大衆部の心性,法華経に埋め込まれたゆらぎ,ノイズを見抜けなかったのだろうか。
インドの「法華経」フィクション・ライターの共同謀議による経典捏造(ねつぞう)の社会的インパクトは広大無辺といっていほど甚大なものであった。仏教経典のデファクト・スタンダードとして,ユーラシア大陸東部のほぼすべての地域で広く流布し,漢語はもちろんのこと,チベット語,ウイグル語,モンゴル語,満州語,朝鮮語にまで翻訳されて,異言語,異文化へ伝播した。2000年という長きにわたる歴史に浸透させることに成功したからだ。ユーラシア大陸の東端を越え,日本でも大きな影響を及ぼしたことは前回述べたとおりである。
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090521/330462/?P=2 >>935
翌10月14日は藤岡の長谷川長源の家に宿泊しました。児玉と藤岡はそれほど離れていないので何かあったのかもしれません。
その屋敷跡には現在は祖師堂が建てられています。
佐渡から戻る時も長谷川長源の館を訪れたましたが、その時は既にお寺になっていた為、大聖人様はお喜びになり大黒天像の開眼を行いました。 創価公明は、伝統宗教化、既得権益団体化してるってことよ
広宣流布の虚構が徐々に会員にバレて、会員数や財務の急減が生じている
こういったマイナスを補うためには、広宣流布というプロパガンダ崩壊を補う為に宗教以外の収入源が必要
それが公明さんがやってる様々な不法な仲介業
別に公明じゃなくても他の政党もやってるけどね
広宣流布を筆頭に様々な宗教プロパガンダが崩壊している状況において、自ずと創価公明は生き残りの為に仲良く世俗に妥協して既得権益にしがみつかなければならなくなった、てこと
これらは既に一般の伝統宗教が、信者を使って財テクに有利な裏情報をかき集めて蓄財熱心などなど習慣的にやってることで珍しいことではない
宗教の崇高な使命を失った団体が生き残る為に、世俗に寄生する自然な流れ
こっち方が、先輩の天理や立正のように布教意欲が衰えて大人しくなって良い傾向だと思うけど 永遠に 日本の天敵仏敵国賊
呪われたカルト 創価学会・公明党 創価といえば「逆恨み」
たとえ親切心からでも絶対に関わってはいけない
「助けない、関わらない」 永遠に 日本の天敵仏敵国賊 人類の敵
呪われたカルト 創価学会・公明党 >>937
日蓮は独学の僧侶…この印象が強いですから
誰かに本格的に師事したと言う記述は皆無だと思いますので
その推察は否定でき無いですね。
後の五百歳における法華経弘通の付属は
地湧の菩薩に対してでは無い事...これは明白な事ですから
そこを読み解けなかった日蓮はそれだけの事だと思います。 法華経と原始キリスト教との奇妙な符号
まず時代の背景。西暦50年から150年にはキリストの十二弟子の一人のトマスがインドに布教に来ていたとされ,原初的形態をとどめた原始キリスト教(現在よく見る西欧化,白人化されたキリスト教とは異なる)が急速に教線を拡大していたのである。
傍証をあげる。現在でもインドのケララ州に行けばトマスが建てた教会堂が公式に保存され,口承,口伝のたぐいがたくさん残っている。法華経の成立時期とトマスによるインドへのキリスト教伝道の時期は符号するのである。
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090521/330462/ 次に論理構成。拡大著しい新興宗教のキリスト教の隆盛を横目でみながら,「法華経」フィクション・ライターはキリスト教の言説戦略を大いに参考にした可能性が高いのだ。法華経の論理構成と初期キリスト教の福音の論理構成は同型だからである。
法華経は「一乗妙法」を説く。すべての人々を平等に救済する唯一の教えであるとしている。法華経は「久遠本仏」を説く。これは永遠の救い主が仏であるという宣言である。法華経は「菩薩行道」を説く。法華経の教えを一生涯かけて他者に伝道することがなによりの救済への道だという教えである。
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090521/330462/ 法華経は,一乗妙法,久遠本仏,菩薩行道を,法華経の真実性,絶対性,優位性とともに,これでもか,これでもかと繰り返し説く。この経典を読む人間は,法華経のゆらぎの世界に心酔し,魅せられる。このテキストは読む者を引き込み,法華経の内在的論理,情念を信者に浸透させる工夫に満ちている。その意味で,たしかに法華経は創作仏教経典における画期的なイノベーションだった。
イエス・キリストのみを救い主として心の底から信じ,十字架による罪のつぐないを受け入れ,確信し,ひたすらイエス・キリストを信じ,その教えを他者に伝えることで誰もが等しく救済されると福音書は説く。法華経と福音書の論理構成は同じなのである。
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090521/330462/ 法華経の構成論理は,上座部系の経典には全く見られず,仏教の脈絡からは隔絶したものであり,かつ福音書の論理構成と同型である。ゆえに法華経の構成論理は仏教本来の思考様式から生まれたものではなく,外部の福音書に本源があり伝播した可能性がある。この仮説をにわかに「とんでもない考え」として排除はできないだろう。
カオスの縁には新たな知識の創発,突然変異が頻繁に立ち現れるものだ。法華経は,こうしたカオスの縁に突然発生したゆらぎのようなものだ。このゆらぎは,めぐりめぐって後世に多大な混乱をもたらすことになったのだが。
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090521/330462/ 今度はキリスト教の宣伝しに来たの?www
根本的に違うでしょう
キリスト崇拝と哲学主体の本来の仏教とはね
神仏と括られるわけのわからない存在に頼らないよ >>954 阿弥陀経と法華経は、キリスト教のメシア思想である
救済者待望の強い影響下にある教典と
説く学説が有るそうだ。
953氏の御意見をきちんと読みましょう、
氏の説明は実に判り易い。
もしかしてだが、日蓮を本佛に祭り上げた日寛の御説は日蓮を
一切衆生救済者に据えて居ませんかね? >>954
ルカの福音書にある「放蕩息子」の例えは
法華経信解品の「長者窮子」と同じですよ
どちらが先なのかと言う議論はあっても
無関係とは言えないですね キリスト教が人道的になったのは仏教の影響で最近だろ
奴隷貿易で教会が糾弾したか?
植民地支配を教団が糾弾したか?
覇権拡大に乗じて布教してマルチ的組織作っただろうw
暴力で支配しキリスト教布教で従順な信徒を作り神の思し召しで奴隷化
国や地域に布教をしたものに独占権を与え寄付が本部に
集まるようにしたやくざやユニセフが真似た方式 景教経典というものがあるぐらい影響力ありましたからね すべての人は平等に救われる
主イエス・キリストは、久遠の昔から永遠の未来まで生きておられるかた
あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい イエスキリストの言行を観るに、彼は病気を治癒させる祈りが可能な人。
詰まり日本人がよく知る古来から彼方此方に居た「行者さん」です。
その彼を救世主と持ち上げすぎて、当時の宗教家の怒りを蒙り処刑される。
実体はこの様な中身なのですが、装飾過多の教会と聖書制作は御存じの通り。 ワクチン打つ人はこれからもぶるぶる震えながら何回も打つ習性がある。
つまりは打つ度に死への確率は増える。
脳の影響で知能や人格低下も著しい。
老人の交通事故も増加するだろう。 ワクチンの緊急性については意味がる
問題は普段だと未承認になるものをいつまで続けるのかということですね
ワクチンの再評価をしてから健康保険適用し副作用や対象年齢等を明確にし
政府が死亡後遺症に責任を持つといった以上因果関係を政府が立証すべきです
今は立証責任が個人にあり医師や厚労省が協力しないと因果関係を争い
裁判所に提出する資料が集まらないので無理
放射能による癌もワクチンも国民の泣き寝入りという状態。 大体、超越者を信じれば救われるというのは初期仏典には無いだろw
西方極楽浄土とはエルサレムの事。
観音信仰はマリア信仰から来ている。 月末の話題は日蓮に戻しましょう
妙一尼御前(多分未亡人ですね)が日蓮に宛てた文にて尋ねた御題。
日蓮さんは、法華経で即身成仏すると仰るが、真言大師空海の説く
即身成仏との方法の相違を教えて呉れ。
これを日蓮はお答えせずに、「我が今までの行いは書店全身おっと変換しませんね。
改めて「私の今までの行いは諸天善神がご覧になって称賛されている!」と逃げちゃったのです。
あれほど断言するのを好む日蓮が、逃げるとは此れ如何に?
御教養の底が割れて水が駄々洩れじゃないですか。 立正安国論とて
方便の大乗経典が論書の6割を占め
真実を説いていないとしていた
大乗経典を元に難が起こると述べている内容で
高僧達にとっては既知の事であったろうし
予言書として持ち上げているのは信者のみで
日蓮の御書は大乗経典ばかりなのだ
そのことを信者に突っ込まれた日蓮は
法華経の海に入れば
全て釈尊の金言であり真実の言葉であると
なんとも苦しい言い訳をしている 妙一尼は即身成仏義等の高度な教学の素養はなかったのでは?何かと勘違いしていると思われる 独学の日蓮には真言密教についての高度な教学の素養はなかったのでは?後世が勘違いしていると思われる 二項対立的世界観を見出したがのちに弟子たちも分裂分裂
日蓮流に弟子内で仏罰を繰り出してるのか笑 久々に覗いたが、あらためて日蓮教信者のレベルの低さを思い知ったよ。
日蓮教信者には合理的にものを考えるということができないんだよな。
信じているから真実、否定できないから真実ってか?
アホかと。 >>972 最初から日蓮に誤謬なし、仏さまと同価値の大聖人様と定義する。
其の真実性を知るべしと、このスレッドで多くの情報が寄せられて来た、日蓮の
言行や執筆類を対応、検証し実際には在り得ないと立証されて居るのを無視して
これほど有難い御方であると個人尊崇を徹底させる指導者らしきを見掛ける。
彼が在り得ぬ事ばかりだと理解していながら指導するなら詐欺。
人に虚構を信じ込ませると必ず、隙間やズレ、狂いが生じる。
例えば規格寸法外れに製材された気儘な材で建てられた家の状態を
一見しそのズレを狂ってますね、と云う。
人も情報を基に生活するのだが、狂った情報を真と信じて行動すると人生が狂う
これまた当たり前すぎる。
何でこんなこと判らんの?と思わされるわけですな。 検証とは笑わせるw 根拠のない邪推・中傷を匿名の卑怯者がやってるだけだろw どう見ても下衆なのは日蓮系以外
その証拠としてこのスレがある
説明するより明らかだろう
日蓮系や創価などの内部の議論に
割って入ってきてぐちゃぐちゃにしてる
お邪魔な虫、ハエやゴキブリのレベルだな >>977
何を言っているのか分からない。
ここは日蓮を真面目に語るスレだよね?
日蓮信者同士の議論の場所じゃないだろ もしも違うのなら
スレ主は明確に書いておくべきですね。 今更かい?
創価・公明板@2ch掲示板 ローカルルール
■創価学会、公明党について語る板です。
■創価学会以外の宗教の話題については【心と宗教板】へどうぞ。
■公明党以外の政党の話題については【政治板】もしくは【議員・選挙板】へどうぞ。
■単発の質問スレは禁止です。質問は【初心者質問スレ】でお願いします。
■煽りや荒らしは放置しましょう。無視できないあなたも荒らしです。
■書き込む又はスレッドを立てる際には【ガイドライン】、ローカルルールに違反しないか確かめましょう
■板内で困った事、相談事、提案、問題提起などは【自治スレ】へどうぞ
■明らかなルール違反や【削除ガイドライン】違反をみつけたら、【削除依頼】に協力を
■スクリプト等によるコピペ連続投稿・広告・宣伝等の報告は【あらし報告・規制議論板】へお願いします
■告知【悪質なコピペ荒しへの対応について】を一読しておきましょう
つまり創価と公明党と創価のルーツである日蓮と法華経以外は板違い
最近は創価の間違い原因である法華経を勉強しない事で起きる迷走を
日蓮スレで掘り下げている。
アンチはお呼びでない(死語 レベルが低いとか下衆とか書く人は、レベルが高くて議論を呼び起こす内容を自分で書けばいいじゃん
人格攻撃の煽り合いこそ、レベルが低かったり下衆だと思うけど 基本的な他宗との法論は日蓮がやってるし君らが蒸し返しても過去は変わらない
また日蓮の言葉を代弁することも許されない
誤解され間違いが独り歩きして日蓮の意図したことと真逆になる可能性もある
法華経についても法華経に書かれていることは我々は「如来の使い」であり
一文字も変えられず解釈を変えることも許されない正確に周知していくことが何よりも求められる
幸いなことに出版物が厳然として存在するので議論が起きない 日蓮正宗系の信者は増えすぎて内部で変異種が発生して
互いに潰し合って急速に崩壊するのですよ、
コロナウィルスと同じだね。まさに「病毒」 >>981
それで
このスレが日蓮系以外でぐちゃぐちゃにされているとは
具体的にどのレスなの? 知らしむべからず,寄らしむべしを一貫して実践し
信者の囲い込みを専らにし、如何にも鹿つめらしき御振る舞いを踏襲する、これで食う
幹部諸氏は、見て見ぬ振り聴いてない物は無いモノってがこの「日蓮って」というスレ
私が驚いた投稿は日蓮本人が著作したのは100%だったにしても時の執権に未提示の
儘、机底に秘蔵したままご逝去、その遺品整理の段階で弟子が発見すると証明される
「立正安国論」の顛末でしょう。
この件は、其れを知りて波紋が広がると極めて困惑する関係者多数なのです。
✖が付いて立正大師の根拠から消滅に始まりますね。
日蓮師を寸法通りに現代世界に提示するのが、嫌な人多数ってこっちゃなぁ、ですか。 良家の息子たちよ
悟りとは何か
それは自己の心を正しく、ありのままに、知りつくすことである。 大毘盧遮那成仏神変加持経
仏の言わく、菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す。
秘密主、云何が菩提とならば、謂く実の如く自心を知るなり。
秘密主、是の阿耨多羅三藐三菩提は、乃至、彼の法として少分も得可きこと有ること無し。
何を以ての故に、虚空の相は是れ菩提なり、知解の者も無く、亦た開暁も無し。
何を以ての故に、菩提は無相なるが故に。
秘密主、諸法は無相なり、謂く虚空の相なり。 法華経とい成仏が約束された経典を勉強するスレで
成仏から目をそらせ迷信を生む大日経とか恥ずかしいくないのかな〜w
真言宗はルールも守れないゴミ お経って成仏への約束手形なの?
そして、特定のお経でしか成仏できないの? 日蓮系
「恨」、他人に粘着、他人との比較に執着、排他的攻撃性、異常に執拗 日蓮系は執着攻撃型が多いと思うけど、他力本願でおとなしいように見える浄土系であっても親鸞会という攻撃型の異端宗派があるんだよね。
執着や攻撃性は、正義という概念が教義に色濃く反映されると生じると思う。
正義は勝つという意識が焚き付けられて自意識過剰になるから。
親鸞会発行の機関紙名は「顕正新聞」。
日蓮系が全て攻撃的なわけではないけど、日蓮教義は正義と結びつき易いせいで自ずと攻撃型宗派が多くなるんだろうね。 >>991
他の経典は勉強してないですが法華経は人の生き方として仏を説きます。
宗教でなく哲学としてお読みになったら御自身で理解頂けると思います。
仏教における宗教宗派は目的を達成するために化儀を作り
戒律や規範を作って修行します。
発生が約2千年前なので読経で経を覚え読み書き教養など
今の学校のような教育の基礎ができていきます。
他宗はこの大事な目的を失っています。
目先のお金に執着して醜く・・・余談になりますね(笑)
今は学校の存在によって経をそのまま読んでも
理解され正邪を判断できる規範がありますので宗教という教育は不要です。 「大日如来(梵:マハーヴァイローチャナ)」は大乗仏教(密教)の尊格。
真言宗の本尊。
大乗仏教が発展していく中で古代インド神話やヴェーダ、漢字圏の陰陽思想を巻き込みつつ成立していった密教(秘密仏教)の最高位の仏である。
我が国には弘法大師により齎されたが、他ならぬ弘法大師自身が結縁灌頂を結んだ仏でもある。
古代の太陽神信仰を源流とするとされる尊格であり、仏法の示す“宇宙”その物であるとされる事から法身仏と呼ばれる。
このため、SF的に云えば太陽神どころか宇宙神と呼べる存在であり、思想的にはそれをも越えた概念であると云える。
華厳経の主であり、根源仏(※智慧の光により釈迦を生み出した仏)として考え出された(毘)盧遮那仏(奈良の大仏として有名)の概念を更に発展させた存在と考えられているが、
大日如来へと繋がる系譜は仏教の黎明期より存在しているとの説もある。 智の見解では華厳経は釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。
「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。
華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている。
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。
これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
「六十華厳」の中で特に重要なのは、最も古層に属する「十地品」と「入法界品」の章とされている。 南無本因妙の教主・一身即三身・三身即一身・三世常恒の御利益・主師親三徳・大慈大悲・宗祖日蓮大聖人、御威光倍搆范傴u廣大御報恩感謝徳の御為に >>994
他の仏典は勉強されていないなら、なぜ法華経以外の経典は成仏から遠いといった評価が出来るのですか?
金儲けを一番しているのは昭和発の新興宗教だと思いますが、その新興宗教は創価、立正佼成会、霊友会など法華経が基礎になっています。
大日経がゴミなら、大日如来を中心に据える空海さんの説く即身成仏は嘘っぱちということですか? >>998
ここで宣伝する人がゴミよ
ここで方程式を教えてるのに
余計な計算式を入れとて勉強してる人が混乱するの狙ってるでしょうw >>999
方程式ってなんですか?
特定の方程式の教えしか成仏できなくて、その方程式以外の教えでは成仏はかなわないということですか?
極論すると、法華経以外はこの世からいらないということですか? このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 68日 14時間 40分 19秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。