アンパンマンは
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誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。 それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。 僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。 この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。 君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。 しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。 のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。 自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。 それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。 君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。 しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。 僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。 僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。 マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。 が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。 家族たちに対する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。 けれども若し非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。 僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。 (僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。 それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。 僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。 なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。 僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の―― のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訣には行かないであらう。)―― 僕の第一に考へたことはどうすれば苦まずに死ぬかと云ふことだつた。 が、僕は僕自身の縊死してゐる姿を想像し、贅沢にも美的嫌悪を感じた。 (僕は或女人を愛した時も彼女の文字の下手だつた為に急に愛を失つたのを覚えてゐる。)溺死も亦水泳の出来る僕には到底目的を達する筈はない。 のみならず万一成就するとしても縊死よりも苦痛は多いわけである。 轢死も僕には何よりも先に美的嫌悪を与へずにはゐなかつた。 ピストルやナイフを用ふる死は僕の手の震へる為に失敗する可能性を持つてゐる。 ビルデイングの上から飛び下りるのもやはり見苦しいのに相違ない。 僕はこれ等の事情により、薬品を用ひて死ぬことにした。 薬品を用ひて死ぬことは縊死することよりも苦しいであらう。 しかし縊死することよりも美的嫌悪を与へない外に蘇生する危険のない利益を持つてゐる。 僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品を手に入れようとした。 僕の家族たちは僕の死後には僕の遺産に手よらなければならぬ。 僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。 僕は僕の自殺した為に僕の家の売れないことを苦にした。 従つて別荘の一つもあるブルヂヨアたちに羨ましさを感じた。 君はかう云ふ僕の言葉に或可笑しさを感じるであらう。 が、このことを考へた時には事実上しみじみ不便を感じた。 僕は唯家族たちの外に出来るだけ死体を見られないやうに自殺したいと思つてゐる。 しかし僕は手段を定めた後も半ばは生に執着してゐた。 従つて死に飛び入る為のスプリング・ボオドを必要とした。 (僕は紅毛人たちの信ずるやうに自殺することを罪悪とは思つてゐない。 仏陀は現に阿含経の中に彼の弟子の自殺を肯定してゐる。 曲学阿世の徒はこの肯定にも「やむを得ない」場合の外はなどと言ふであらう。 しかし第三者の目から見て「やむを得ない」場合と云ふのは見す見すより悲惨に死ななければならぬ非常の変の時にあるものではない。 誰でも皆自殺するのは彼自身に「やむを得ない場合」だけに行ふのである。 その前に敢然と自殺するものは寧ろ勇気に富んでゐなければならぬ。)このスプリング・ボオドの役に立つものは何と言つても女人である。 クライストは彼の自殺する前に度たび彼の友だちに(男の)途づれになることを勧誘した。 又ラシイヌもモリエエルやボアロオと一しよにセエヌ河に投身しようとしてゐる。 が、それは僕等の為には出来ない相談になつてしまつた。 そのうちに僕はスプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じた。 それは誰も一しよに死ぬもののないことに絶望した為に起つた為ではない。 寧ろ次第に感傷的になつた僕はたとひ死別するにもしろ、僕の妻を劬りたいと思つたからである。 同時に又僕一人自殺することは二人一しよに自殺するよりも容易であることを知つたからである。 そこには又僕の自殺する時を自由に選ぶことの出来ると云ふ便宜もあつたのに違ひない。 最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。 (それ等の細部に亘ることは僕に好意を持つてゐる人々の為に書くわけには行かない。 尤もここに書いたにしろ、法律上の自殺幇助罪このくらゐ滑稽な罪名はない。 若しこの法律を適用すれば、どの位犯罪人の数を殖やすことであらう。 薬局や銃砲店や剃刀屋はたとひ「知らない」と言つたにもせよ、我々人間の言葉や表情に我々の意志の現れる限り、多少の嫌疑を受けなければならぬ。 のみならず社会や法律はそれ等自身自殺幇助罪を構成してゐる。 最後にこの犯罪人たちは大抵は如何にもの優しい心臓を持つてゐることであらう。 を構成しないことは確かである。)僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。 この先の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう。 我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。 所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。 しかし食色にも倦いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。 僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。 僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。 若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。 君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。 けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。 それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。 どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措いてくれ給へ。 僕は或は病死のやうに自殺しないとも限らないのである。 僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。 僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。 君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覚えてゐるであらう。 或小官吏だつた彼の父はそのためにかれを勘当しようとした。 それは彼の情熱が烈しかつたためでもあり、又一つには彼の友だちが彼を激励したためでもあつた。 彼等は或団体をつくり、十ペエジばかりのパンフレツトを出したり、演説会を開いたりしてゐた。 彼も勿論彼等の会合へ絶えず顔を出した上、時々そのパンフレツトへ彼の論文を発表した。 「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇に多少の自信を抱いてゐた。 それは緻密な思索はないにしても、詩的な情熱に富んだものだつた。 そのうちに彼は学校を出、或雑誌社へ勤めることになつた。 のみならず地下水の石を鑿つやうにじりじり実行へも移らうとしてゐた。 それ等は彼の生活に何か今まで感じなかつた或親しみを与へたのだつた。 彼は家庭を持つたために、一つには又寸刻を争ふ勤め先の仕事に追はれたために、いつか彼等の会合へ顔を出すのを怠るやうになつた。 少くとも彼は現在の彼も決して数年以前の彼と変らないことを信じてゐた。 殊に彼等の団体へ新にはひつて来た青年たちは彼の怠惰を非難するのに少しも遠慮を加へなかつた。 それは勿論いつの間にか一層彼等の会合から彼を遠ざけずには措かなかつた。 就中「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇にはだんだん物足らなさを感じ出した。 彼はもう彼等には非難するのにも足らないものだつた。 或は大体彼に近い何人かの人々を残したまま、著々と仕事を進めて行つた。 彼は旧友に会ふたびに今更のやうに愚痴をこぼしたりしてゐた。 が、実は彼自身もいつかただ俗人の平和に満足してゐたのに違ひなかつた。 それから何年かたつた後、彼は或会社に勤め、重役たちの信用を得るやうになつた。 従つて今では以前よりも兎も角大きい家に住み、何人かの子供を育てるやうになつた。 そのどこにあるかといふことは神の知るばかりかも知れなかつた。 彼は時々籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出した。 それは妙に彼の心を憂鬱にすることもない訣ではなかつた。 けれども東洋の「あきらめ」はいつも彼を救ひ出すのだつた。 が、彼の「リイプクネヒトを憶ふ」は或青年を動かしてゐた。 それは株に手を出した挙句、親譲りの財産を失つた大阪の或青年だつた。 その青年は彼の論文を読み、それを機縁に社会主義者になつた。 彼は今でも籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出してゐる、人間的に、恐らくは余りに人間的に。 立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明みを、右の端から左の端まで画の如く鮮に領している。 元浅野内匠頭家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵助良雄は、その障子を後にして、端然と膝を重ねたまま、さっきから書見に余念がない。 書物は恐らく、細川家の家臣の一人が借してくれた三国誌の中の一冊であろう。 九人一つ座敷にいる中で、片岡源五右衛門は、今し方厠へ立った。 早水藤左衛門は、下の間へ話しに行って、未にここへ帰らない。 あとには、吉田忠左衛門、原惣右衛門、間瀬久太夫、小野寺十内、堀部弥兵衛、間喜兵衛の六人が、障子にさしている日影も忘れたように、あるいは書見に耽ったり、あるいは消息を認めたりしている。 その六人が六人とも、五十歳以上の老人ばかり揃っていたせいか、まだ春の浅い座敷の中は、肌寒いばかりにもの静である。 時たま、しわぶきの声をさせるものがあっても、それは、かすかに漂っている墨の匂を動かすほどの音さえ立てない。 内蔵助は、ふと眼を三国誌からはなして、遠い所を見るような眼をしながら、静に手を傍の火鉢の上にかざした。 金網をかけた火鉢の中には、いけてある炭の底に、うつくしい赤いものが、かんがりと灰を照らしている。 その火気を感じると、内蔵助の心には、安らかな満足の情が、今更のようにあふれて来た。 丁度、去年の極月十五日に、亡君の讐を復して、泉岳寺へ引上げた時、彼自ら「あらたのし思いははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」と詠じた、その時の満足が帰って来たのである。 赤穂の城を退去して以来、二年に近い月日を、如何に彼は焦慮と画策との中に、費した事であろう。 動もすればはやり勝ちな、一党の客気を控制して、徐に機の熟するのを待っただけでも、並大抵な骨折りではない。 しかも讐家の放った細作は、絶えず彼の身辺を窺っている。 彼は放埓を装って、これらの細作の眼を欺くと共に、併せてまた、その放埓に欺かれた同志の疑惑をも解かなければならなかった。 山科や円山の謀議の昔を思い返せば、当時の苦衷が再び心の中によみ返って来る。―― もし、まだ片のつかないものがあるとすれば、それは一党四十七人に対する、公儀の御沙汰だけである。 が、その御沙汰があるのも、いずれ遠い事ではないのに違いない。 それも単に、復讐の挙が成就したと云うばかりではない。 すべてが、彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するような形式で成就した。 彼は、事業を完成した満足を味ったばかりでなく、道徳を体現した満足をも、同時に味う事が出来たのである。 しかも、その満足は、復讐の目的から考えても、手段から考えても、良心の疚しさに曇らされる所は少しもない。 こう思いながら、内蔵助は眉をのべて、これも書見に倦んだのか、書物を伏せた膝の上へ、指で手習いをしていた吉田忠左衛門に、火鉢のこちらから声をかけた。 こうして居りましても、どうかすると、あまり暖いので、睡気がさしそうでなりません。」 この正月の元旦に、富森助右衛門が、三杯の屠蘇に酔って、「今日も春恥しからぬ寝武士かな」と吟じた、その句がふと念頭に浮んだからである。 「やはり本意を遂げたと云う、気のゆるみがあるのでございましょう。」 忠左衛門は、手もとの煙管をとり上げて、つつましく一服の煙を味った。 煙は、早春の午後をわずかにくゆらせながら、明い静かさの中に、うす青く消えてしまう。 「こう云うのどかな日を送る事があろうとは、お互に思いがけなかった事ですからな。」 手前も二度と、春に逢おうなどとは、夢にも存じませんでした。」 が、現実は、血色の良い藤左衛門の両頬に浮んでいる、ゆたかな微笑と共に、遠慮なく二人の間へはいって来た。 忠左衛門は、こう云いながら、また煙草を一服吸いつけた。 「今日の当番は、伝右衛門殿ですから、それで余計話がはずむのでしょう。 片岡なども、今し方あちらへ参って、そのまま坐りこんでしまいました。」 すると、頻に筆を走らせていた小野寺十内が、何かと思った気色で、ちょいと顔をあげたが、すぐまた眼を紙へ落して、せっせとあとを書き始める。 これは恐らく、京都の妻女へ送る消息でも、認めていたものであろう。―― もっとも先刻、近松が甚三郎の話を致した時には、伝右衛門殿なぞも、眼に涙をためて、聞いて居られましたが、そのほかは―― 我々が吉良殿を討取って以来、江戸中に何かと仇討じみた事が流行るそうでございます。」 相手は、この話をして聞かせるのが、何故か非常に得意らしい。 「今も似よりの話を二つ三つ聞いて来ましたが、中でも可笑しかったのは、南八丁堀の湊町辺にあった話です。 何でも事の起りは、あの界隈の米屋の亭主が、風呂屋で、隣同志の紺屋の職人と喧嘩をしたのですな。 どうせ起りは、湯がはねかったとか何とか云う、つまらない事からなのでしょう。 そうして、その揚句に米屋の亭主の方が、紺屋の職人に桶で散々撲られたのだそうです。 すると、米屋の丁稚が一人、それを遺恨に思って、暮方その職人の外へ出る所を待伏せて、いきなり鉤を向うの肩へ打ちこんだと云うじゃありませんか。 それも「主人の讐、思い知れ」と云いながら、やったのだそうです。……」 藤左衛門は、手真似をしながら、笑い笑い、こう云った。 それでも、近所の評判は、その丁稚の方が好いと云うのだから、不思議でしょう。 そのほかまだその通町三丁目にも一つ、新麹町の二丁目にも一つ、それから、もう一つはどこでしたかな。 それが皆、我々の真似だそうだから、可笑しいじゃありませんか。」 復讐の挙が江戸の人心に与えた影響を耳にするのは、どんな些事にしても、快いに相違ない。 ただ一人内蔵助だけは、僅に額へ手を加えたまま、つまらなそうな顔をして、黙っている。―― 藤左衛門の話は、彼の心の満足に、かすかながら妙な曇りを落させた。 と云っても、勿論彼が、彼のした行為のあらゆる結果に、責任を持つ気でいた訳ではない。 彼等が復讐の挙を果して以来、江戸中に仇討が流行した所で、それはもとより彼の良心と風馬牛なのが当然である。 しかし、それにも関らず、彼の心からは、今までの春の温もりが、幾分か減却したような感じがあった。 事実を云えば、その時の彼は、単に自分たちのした事の影響が、意外な所まで波動したのに、聊か驚いただけなのである。 が、ふだんの彼なら、藤左衛門や忠左衛門と共に、笑ってすませる筈のこの事実が、その時の満足しきった彼の心には、ふと不快な種を蒔く事になった。 これは恐らく、彼の満足が、暗々の裡に論理と背馳して、彼の行為とその結果のすべてとを肯定するほど、虫の好い性質を帯びていたからであろう。 勿論当時の彼の心には、こう云う解剖的な考えは、少しもはいって来なかった。 彼はただ、春風の底に一脈の氷冷の気を感じて、何となく不愉快になっただけである。 しかし、内蔵助の笑わなかったのは、格別二人の注意を惹かなかったらしい。 いや、人の好い藤左衛門の如きは、彼自身にとってこの話が興味あるように、内蔵助にとっても興味があるものと確信して疑わなかったのであろう。 それでなければ、彼は、更に自身下の間へ赴いて、当日の当直だった細川家の家来、堀内伝右衛門を、わざわざこちらへつれて来などはしなかったのに相違ない。 所が、万事にまめな彼は、忠左衛門を顧て、「伝右衛門殿をよんで来ましょう。」とか何とか云うと、早速隔ての襖をあけて、気軽く下の間へ出向いて行った。 そうして、ほどなく、見た所から無骨らしい伝右衛門を伴なって、不相変の微笑をたたえながら、得々として帰って来た。 「いや、これは、とんだ御足労を願って恐縮でございますな。」 忠左衛門は、伝右衛門の姿を見ると、良雄に代って、微笑しながらこう云った。 伝右衛門の素朴で、真率な性格は、お預けになって以来、夙に彼と彼等との間を、故旧のような温情でつないでいたからである。 「早水氏が是非こちらへ参れと云われるので、御邪魔とは思いながら、罷り出ました。」 伝右衛門は、座につくと、太い眉毛を動かしながら、日にやけた頬の筋肉を、今にも笑い出しそうに動かして、万遍なく一座を見廻した。 これにつれて、書物を読んでいたのも、筆を動かしていたのも、皆それぞれ挨拶をする。 ただその中で聊か滑稽の観があったのは、読みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはずして、丁寧に頭を下げた容子である。 これにはさすがな間喜兵衛も、よくよく可笑しかったものと見えて、傍の衝立の方を向きながら、苦しそうな顔をして笑をこらえていた。 「伝右衛門殿も老人はお嫌いだと見えて、とかくこちらへはお出になりませんな。」 内蔵助は、いつに似合わない、滑な調子で、こう云った。 幾分か乱されはしたものの、まだ彼の胸底には、さっきの満足の情が、暖く流れていたからであろう。 「いや、そう云う訳ではございませんが、何かとあちらの方々に引とめられて、ついそのまま、話しこんでしまうのでございます。」 「今も承れば、大分面白い話が出たようでございますな。」 「江戸中で仇討の真似事が流行ると云う、あの話でございます。」 藤左衛門は、こう云って、伝右衛門と内蔵助とを、にこにこしながら、等分に見比べた。 御一同の忠義に感じると、町人百姓までそう云う真似がして見たくなるのでございましょう。 これで、どのくらいじだらくな上下の風俗が、改まるかわかりません。 やれ浄瑠璃の、やれ歌舞伎のと、見たくもないものばかり流行っている時でございますから、丁度よろしゅうございます。」 会話の進行は、また内蔵助にとって、面白くない方向へ進むらしい。 そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下の辞を述べながら、巧にその方向を転換しようとした。 「手前たちの忠義をお褒め下さるのは難有いが、手前一人の量見では、お恥しい方が先に立ちます。」 「何故かと申しますと、赤穂一藩に人も多い中で、御覧の通りここに居りまするものは、皆小身者ばかりでございます。 もっとも最初は、奥野将監などと申す番頭も、何かと相談にのったものでございますが、中ごろから量見を変え、ついに同盟を脱しましたのは、心外と申すよりほかはございません。 そのほか、新藤源四郎、河村伝兵衛、小山源五左衛門などは、原惣右衛門より上席でございますし、佐々小左衛門なども、吉田忠左衛門より身分は上でございますが、皆一挙が近づくにつれて、変心致しました。 して見ればお恥しい気のするのも無理はございますまい。」 一座の空気は、内蔵助のこの語と共に、今までの陽気さをなくなして、急に真面目な調子を帯びた。 この意味で、会話は、彼の意図通り、方向を転換したと云っても差支えない。 が、転換した方向が、果して内蔵助にとって、愉快なものだったかどうかは、自らまた別な問題である。 彼の述懐を聞くと、まず早水藤左衛門は、両手にこしらえていた拳骨を、二三度膝の上にこすりながら、 一人として、武士の風上にも置けるような奴は居りません。」 それも高田群兵衛などになると、畜生より劣っていますて。」 忠左衛門は、眉をあげて、賛同を求めるように、堀部弥兵衛を見た。 「引き上げの朝、彼奴に遇った時には、唾を吐きかけても飽き足らぬと思いました。 何しろのめのめと我々の前へ面をさらした上に、御本望を遂げられ、大慶の至りなどと云うのですからな。」 「高田も高田じゃが、小山田庄左衛門などもしようのないたわけ者じゃ。」 間瀬久太夫が、誰に云うともなくこう云うと、原惣右衛門や小野寺十内も、やはり口を斉しくして、背盟の徒を罵りはじめた。 寡黙な間喜兵衛でさえ、口こそきかないが、白髪頭をうなずかせて、一同の意見に賛同の意を表した事は、度々ある。 「何に致せ、御一同のような忠臣と、一つ御藩に、さような輩が居ろうとは、考えられも致しませんな。 さればこそ、武士はもとより、町人百姓まで、犬侍の禄盗人のと悪口を申して居るようでございます。 岡林杢之助殿なども、昨年切腹こそ致されたが、やはり親類縁者が申し合せて、詰腹を斬らせたのだなどと云う風評がございました。 またよしんばそうでないにしても、かような場合に立ち至って見れば、その汚名も受けずには居られますまい。 これは、仇討の真似事を致すほど、義に勇みやすい江戸の事と申し、且はかねがね御一同の御憤りもある事と申し、さような輩を斬ってすてるものが出ないとも、限りませんな。」 伝右衛門は、他人事とは思われないような容子で、昂然とこう云い放った。 この分では、誰よりも彼自身が、その斬り捨ての任に当り兼ねない勢いである。 これに煽動された吉田、原、早水、堀部などは、皆一種の興奮を感じたように、愈手ひどく、乱臣賊子を罵殺しにかかった。―― が、その中にただ一人、大石内蔵助だけは、両手を膝の上にのせたまま、愈つまらなそうな顔をして、だんだん口数をへらしながら、ぼんやり火鉢の中を眺めている。 彼は、彼の転換した方面へ会話が進行した結果、変心した故朋輩の代価で、彼等の忠義が益褒めそやされていると云う、新しい事実を発見した。 そうして、それと共に、彼の胸底を吹いていた春風は、再び幾分の温もりを減却した。 勿論彼が背盟の徒のために惜んだのは、単に会話の方向を転じたかったためばかりではない、彼としては、実際彼等の変心を遺憾とも不快とも思っていた。 が、彼はそれらの不忠の侍をも、憐みこそすれ、憎いとは思っていない。 人情の向背も、世故の転変も、つぶさに味って来た彼の眼から見れば、彼等の変心の多くは、自然すぎるほど自然であった。 もし真率と云う語が許されるとすれば、気の毒なくらい真率であった。 従って、彼は彼等に対しても、終始寛容の態度を改めなかった。 まして、復讐の事の成った今になって見れば、彼等に与う可きものは、ただ憫笑が残っているだけである。 それを世間は、殺しても猶飽き足らないように、思っているらしい。 何故我々を忠義の士とするためには、彼等を人畜生としなければならないのであろう。 江戸の町人に与えた妙な影響を、前に快からず思った内蔵助は、それとは稍ちがった意味で、今度は背盟の徒が蒙った影響を、伝右衛門によって代表された、天下の公論の中に看取した。 しかし、内蔵助の不快は、まだこの上に、最後の仕上げを受ける運命を持っていた。 彼の無言でいるのを見た伝右衛門は、大方それを彼らしい謙譲な心もちの結果とでも、推測したのであろう。 その敬服さ加減を披瀝するために、この朴直な肥後侍は、無理に話頭を一転すると、たちまち内蔵助の忠義に対する、盛な歎賞の辞をならべはじめた。 「過日もさる物識りから承りましたが、唐土の何とやら申す侍は、炭を呑んで唖になってまでも、主人の仇をつけ狙ったそうでございますな。 しかし、それは内蔵助殿のように、心にもない放埓をつくされるよりは、まだまだ苦しくない方ではございますまいか。」 伝右衛門は、こう云う前置きをして、それから、内蔵助が濫行を尽した一年前の逸聞を、長々としゃべり出した。 高尾や愛宕の紅葉狩も、佯狂の彼には、どのくらいつらかった事であろう。 島原や祇園の花見の宴も、苦肉の計に耽っている彼には、苦しかったのに相違ない。…… 「承れば、その頃京都では、大石かるくて張抜石などと申す唄も、流行りました由を聞き及びました。 それほどまでに、天下を欺き了せるのは、よくよくの事でなければ出来ますまい。 先頃天野弥左衛門様が、沈勇だと御賞美になったのも、至極道理な事でございます。」 「いや、それほど何も、大した事ではございません。」内蔵助は、不承不承に答えた。 その人に傲らない態度が、伝右衛門にとっては、物足りないと同時に、一層の奥床しさを感じさせたと見えて、今まで内蔵助の方を向いていた彼は、永年京都勤番をつとめていた小野寺十内の方へ向きを換えると、益、熱心に推服の意を洩し始めた。 その子供らしい熱心さが、一党の中でも通人の名の高い十内には、可笑しいと同時に、可愛かったのであろう。 彼は、素直に伝右衛門の意をむかえて、当時内蔵助が仇家の細作を欺くために、法衣をまとって升屋の夕霧のもとへ通いつめた話を、事明細に話して聞かせた。 「あの通り真面目な顔をしている内蔵助が、当時は里げしきと申す唄を作った事もございました。 それがまた、中々評判で、廓中どこでもうたわなかった所は、なかったくらいでございます。 そこへ当時の内蔵助の風俗が、墨染の法衣姿で、あの祇園の桜がちる中を、浮さま浮さまとそやされながら、酔って歩くと云うのでございましょう。 里げしきの唄が流行ったり、内蔵助の濫行も名高くなったりしたのは、少しも無理はございません。 何しろ夕霧と云い、浮橋と云い、島原や撞木町の名高い太夫たちでも、内蔵助と云えば、下にも置かぬように扱うと云う騒ぎでございましたから。」 内蔵助は、こう云う十内の話を、殆ど侮蔑されたような心もちで、苦々しく聞いていた。 と同時にまた、昔の放埓の記憶を、思い出すともなく思い出した。 それは、彼にとっては、不思議なほど色彩の鮮な記憶である。 彼はその思い出の中に、長蝋燭の光を見、伽羅の油の匂を嗅ぎ、加賀節の三味線の音を聞いた。 いや、今十内が云った里げしきの「さすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ」と云う文句さえ、春宮の中からぬけ出したような、夕霧や浮橋のなまめかしい姿と共に、歴々と心中に浮んで来た。 如何に彼は、この記憶の中に出没するあらゆる放埓の生活を、思い切って受用した事であろう。 そうしてまた、如何に彼は、その放埓の生活の中に、復讐の挙を全然忘却した駘蕩たる瞬間を、味った事であろう。 彼は己を欺いて、この事実を否定するには、余りに正直な人間であった。 勿論この事実が不道徳なものだなどと云う事も、人間性に明な彼にとって、夢想さえ出来ない所である。 従って、彼の放埓のすべてを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。 こう考えている内蔵助が、その所謂佯狂苦肉の計を褒められて、苦い顔をしたのに不思議はない。 彼は、再度の打撃をうけて僅に残っていた胸間の春風が、見る見る中に吹きつくしてしまった事を意識した。 あとに残っているのは、一切の誤解に対する反感と、その誤解を予想しなかった彼自身の愚に対する反感とが、うすら寒く影をひろげているばかりである。 彼の復讐の挙も、彼の同志も、最後にまた彼自身も、多分このまま、勝手な賞讃の声と共に、後代まで伝えられる事であろう。―― こう云う不快な事実と向いあいながら、彼は火の気のうすくなった火鉢に手をかざすと、伝右衛門の眼をさけて、情なさそうにため息をした。 厠へ行くのにかこつけて、座をはずして来た大石内蔵助は、独り縁側の柱によりかかって、寒梅の老木が、古庭の苔と石との間に、的たる花をつけたのを眺めていた。 日の色はもううすれ切って、植込みの竹のかげからは、早くも黄昏がひろがろうとするらしい。 が、障子の中では、不相変面白そうな話声がつづいている。 彼はそれを聞いている中に、自らな一味の哀情が、徐に彼をつつんで来るのを意識した。 このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透って来る寂しさは、この云いようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。―― 内蔵助は、青空に象嵌をしたような、堅く冷い花を仰ぎながら、いつまでもじっと彳んでいた。 或木曜日の晩、漱石先生の処へ遊びに行っていたら、何かの拍子に赤木桁平が頻に蛇笏を褒めはじめた。 当時の僕は十七字などを並べたことのない人間だった。 が、そう云う偉い人を知らずにいるのは不本意だったから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。 しかし僕は赤木のように、うまいとも何とも思わなかった。 すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。 丁度やはりその前後にちょっと「ホトトギス」を覗いて見たら、虚子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表していた。 僕の蛇笏に対する評価はこの時も亦ネガティイフだった。 殊に細君のヒステリイか何かを材にした句などを好まなかった。 こう云う事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにとも思った。 すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。 この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。 僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。 「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」―― 当時又可笑しかったことには赤木と俳談を闘わせた次手に、うっかり蛇笏を賞讃したら、赤木は透かさず「君と雖も畢に蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。 僕をして過たしめたものは実は君の諳誦なんだからな」とやっと冷笑を投げ返した。 と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす」と云う句を「連山影を斉うす」と間違えて僕に聞かせたからである。 しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。 或時句作をする青年に会ったら、その青年は何処かの句会に蛇笏を見かけたと云う話をした。 同時に「蛇笏と云うやつはいやに傲慢な男です」とも云った。 僕は悪口を云われた蛇笏に甚だ頼もしい感じを抱いた。 それは一つには僕自身も傲慢に安んじている所から、同類の思いをなしたのかも知れない。 けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云うものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい気がしていた。 「いやに傲慢な男です」などと云う非難は到底受けそうもない気がしていた。 それだけに悪口を云われた蛇笏は悪口を云われない連中よりも高等に違いないと思ったのである。 爾来更に何年かを閲した今日、僕は卒然飯田蛇笏と、―― 蛇笏君の書は予想したように如何にも俊爽の風を帯びている。 成程これでは小児などに「いやに傲慢な男です」と悪口を云われることもあるかも知れない。 僕は又この頃思い出したように時時句作を試みている。 が、一度句作に遠ざかった祟りには忽ち苦吟に陥ってしまう。 どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往年の感激は返らないらしい。 所詮下手は下手なりに句作そのものを楽しむより外に安住する所はないと見える。 かう云ふ問題が出たのですが、実を云ふと、私は生憎この問題に大分関係のありさうな岩野泡鳴氏の論文なるものを読んでゐません。 だからそれに対する私の答も、幾分新潮記者なり読者なりの考と、焦点が合はないだらうと思ひます。 実を云ふとこの問題の性質が、私にはよくのみこめません。 イズムと云ふ意味や必要と云ふ意味が、考へ次第でどうにでも曲げられさうです。 又それを常識で一通りの解釈をしても、イズムを持つと云ふ事がどう云ふ事か、それもいろいろにこじつけられるでせう。 それを差当り、我我が皆ロマンテイケルとかナトウラリストとかになる必要があるかと云ふ、通俗な意味に解釈すれば、勿論そんな必要はありません。 元来さう云ふイズムなるものは、便宜上後になつて批評家に案出されたものなんだから、自分の思想なり感情なりの傾向の全部が、それで蔽れる訳はないでせう。 全部が蔽れなければそれを肩書にする必要はありますまい。 (尤もそれが全部でなくとも或著しい部分を表してゐる時、批評家にさう云ふイズムの貼札をつけられたのを許容する場合はありませう。 これは何時か生田長江氏が、論じた事があつたと思ひますが。) 又そのイズムと云ふ意味をひつくり返して、自分の内部活動の全傾向を或イズムと名づけるなら、この問題は答を求める前に、消滅してしまひます。 それからその場合のイズムに或名前をくつつけて、それを看板にする事も、勿論必要とは云はれますまい。 又もう一つイズムと云ふ語を或思想上の主張と翻訳すれば、この場合もやはり前と同じ事が云はれませう。 唯、必要と云ふ語に、幾分でも自他共便宜と云ふ意味を加へれば、まるで違つた事が云はれるかも知れません。 一つにはイズムの提唱に無経験な私は、さう云ふ便宜を明にしてゐませんから。 好きといふのは、東京にゐると十二月頃の自然もいいし、また町の容子もいい。 自然の方のいいといふのは、かういふ風に僕は郊外に住んでゐるから余計そんな感じがするのだが、十一月の末から十二月の初めにかけて、夜晩く外からなんど帰つて来ると、かう何ともしれぬ物の臭が立ち籠めてゐる。 それは落葉のにほひだか、霧のにほひだか、花の枯れるにほひだか、果実の腐れるにほひだか、何んだかわからないが、まあいいにほひがするのだ。 葉が落ち散つたあとの木の間が朗かに明くなつてゐる。 田端の音無川のあたりには冬になると何時も鶺鴒が来てゐる。 夏のやうに白鷺が空をかすめて飛ばないのは物足りないけれども、それだけのつぐなひは十分あるやうな気がする。 町はだんだん暮近くなつてくると何処か物々しくなつてくる。 ざわめいて来て愉快になるといふことは、酸漿提灯がついてゐたり楽隊がゐたりするのも賑かでいいけれども、僕には、それが賑かなだけにさういふ時は暗い寂しい町が余計眼につくのがいい。 たとへば須田町の通りが非常に賑かだけれど、一寸梶町青物市場の方へ曲るとあすこは暗くて静かだ。 さういふ処を何かの拍子で歩いてゐると、「鍋焼だとか「火事」だとかいふ俳句の季題を思ひ出す。 ことに極くおしつまつて、もう門松がたつてゐるさういふ町を歩いてゐると、ちよつと久保田万太郎君の小説のなかを歩いてゐるやうな気持でいい気持だ。 十二月は僕は何時でも東京にゐて、その外の場処といつたら京都とか奈良とかいふ甚だ平凡な処しかしらないんだけども、京都へ初めて往つた時は十二月で、その時分は、七条の停車場も今より小さかつたし、烏丸の通だの四条の通だのがずつと今より狭かつた。 でさういふ古ぼけた京都を知つてゐるだけだが、その古ぼけた京都に滞在してゐる間に二三度時雨にあつたことをおぼえてゐる。 殊に下賀茂の糺の森であつた時雨は、丁度朝焼がしてゐるとすぐに時雨れて来たんで、甚だ風流な気がしたのを覚えてゐる。 時雨といへば矢張り其時、奈良の春日の社で時雨にあひ、その時雨の霽れるのをまつ間お神楽をあげたことがあつた。 それは古風な大和琴だの筝だのといふ楽器を鳴らして、緋の袴をはいた小さな―― 巫女が舞ふのが、矢張り優美だつたといふ記憶がのこつてゐる。 勿論其時分は春日の社も今のやうに修覆が出来なかつたし、全体がもつと古ぼけてきたなかつたから、それだけよかつたといふ訣だ。 さういふ京都とか奈良とかいふ処は度々ゆくが、冬といふとどうもその最初の時の記憶が一番鮮かなやうな気がする。 それから最近には鎌倉に住つて横須賀の学校へ通ふやうになつたから、東京以外の十二月にも親しむことが出来たといふわけだ。 その時分の鎌倉は避暑客のやうな種類の人間が少いだけでも非常にいい。 ことに今時分の鎌倉にゐると、人間は日本人より西洋人の方が冬は高等であるやうな気がする。 どうも日本人の貧弱な顔ぢや毛皮の外套の襟へ頤を埋めても埋め栄えはしないやうな気がする。 東清鉄道あたりの従業員は、日本人と露西亜人とで冬になるとことにエネルギイの差が目立つといふことをきいてゐるが、今頃の鎌倉を濶歩してゐる西洋人を見るとさうだらうと思ふ。 もつとも小説を書くうへに於ては、寧ろ夏よりは十一月十二月もつと寒くなつても冬の方がいいやうだ。 また書く上ばかりでなく、書くまでの段取を火鉢にあたりながら漫然と考へてゐるには今頃が一番いいやうだ。 新年号の諸雑誌の原稿は大抵十一月一杯または十二月のはじめへかかる。 さういふものを書いてゐる時は、他の人は寒いだらうとか何とかいつて気にしてくれるけれども、書き出して脂が乗れば煙草を喫むほかは殆ど火鉢なんぞを忘れてしまふ。 それにその時分は襖だの障子だのがたて切つてあるものだから、自分の思想や情緒とかいふものが、部屋の中から遁出してゆかないやうな安心した処があつてよく書ける。 もつともよく書けるといつても、それは必ずしも作の出来栄えには比例しないのだから、勿論新年号の小説は何時も傑作が出来るといふ訣にはゆかない。 藤井と云う弁護士は、老酒の盃を干してから、大仰に一同の顔を見まわした。 円卓のまわりを囲んでいるのは同じ学校の寄宿舎にいた、我々六人の中年者である。 場所は日比谷の陶陶亭の二階、時は六月のある雨の夜、―― 勿論藤井のこういったのは、もうそろそろ我々の顔にも、酔色の見え出した時分である。 「僕はそいつを見せつけられた時には、実際今昔の感に堪えなかったね。――」 「医科の和田といった日には、柔道の選手で、賄征伐の大将で、リヴィングストンの崇拝家で、寒中一重物で通した男で、―― 突然横槍を入れたのは、飯沼という銀行の支店長だった。 「君がつれて行った時なんだろう、和田がその芸者に遇ったというのは?」 久しぶりに和田と顔を合せると、浅草へ行こうというじゃないか? 浅草はあんまりぞっとしないが、親愛なる旧友のいう事だから、僕も素直に賛成してさ。 「活動写真ならばまだ好いが、メリイ・ゴオ・ラウンドと来ているんだ。 おまけに二人とも木馬の上へ、ちゃんと跨っていたんだからな。 あんまり和田が乗りたがるから、おつき合いにちょいと乗って見たんだ。―― 野口という大学教授は、青黒い松花を頬張ったなり、蔑むような笑い方をした。 が、藤井は無頓着に、時々和田へ目をやっては、得々と話を続けて行った。 「和田の乗ったのは白い木馬、僕の乗ったのは赤い木馬なんだが、楽隊と一しょにまわり出された時には、どうなる事かと思ったね。 尻は躍るし、目はまわるし、振り落されないだけが見っけものなんだ。 が、その中でも目についたのは、欄干の外の見物の間に、芸者らしい女が交っている。 髪は勿論銀杏返し、なりは薄青い縞のセルに、何か更紗の帯だったかと思う、とにかく花柳小説の挿絵のような、楚々たる女が立っているんだ。 僕の顔をちらりと見るなり、正に嫣然と一笑したんだ。 こっちは木馬に乗っているんだから、たちまち女の前は通りすぎてしまう。 誰だったかなと思う時には、もうわが赤い木馬の前へ、楽隊の連中が現れている。――」 跡はただ前後左右に、木馬が跳ねたり、馬車が躍ったり、然らずんば喇叭がぶかぶかいったり、太鼓がどんどん鳴っているだけなんだ。―― 我々は皆同じように実生活の木馬に乗せられているから、時たま『幸福』にめぐり遇っても、掴まえない内にすれ違ってしまう。 もし『幸福』を掴まえる気ならば、一思いに木馬を飛び下りるが好い。――」 からかうようにこういったのは、木村という電気会社の技師長だった。 所がそんな事を考えている内に、三度目になったと思い給え。 あの女が笑顔を見せていたのは、残念ながら僕にじゃない。 「しかしまあ哲学通りに、飛び下りなかっただけ仕合せだったよ。」 「和田のやつも女の前へ来ると、きっと嬉しそうに御時宜をしている。 それがまたこう及び腰に、白い木馬に跨ったまま、ネクタイだけ前へぶらさげてね。――」 彼はさっきから苦笑をしては、老酒ばかりひっかけていたのである。 いよいよメリイ・ゴオ・ラウンドを出たとなると、和田は僕も忘れたように、女とばかりしゃべっているじゃないか? おい、君、こうなればもう今夜の会費は、そっくり君に持って貰うぜ。」 飯沼は大きい魚翅の鉢へ、銀の匙を突きこみながら、隣にいる和田をふり返った。 和田は両肘をついたまま、ぶっきらぼうにいい放った。 彼の顔は見渡した所、一座の誰よりも日に焼けている。 その上五分刈りに刈りこんだ頭は、ほとんど岩石のように丈夫そうである。 彼は昔ある対校試合に、左の臂を挫きながら、五人までも敵を投げた事があった。―― そういう往年の豪傑ぶりは、黒い背広に縞のズボンという、当世流行のなりはしていても、どこかにありありと残っている。 藤井は額越しに相手を見ると、にやりと酔った人の微笑を洩らした。 飯沼は冷然と受け流してから、もう一度和田をふり返った。 慶応か何か卒業してから、今じゃ自分の銀行へ出ている、年配も我々と同じくらいの男だ。 色の白い、優しい目をした、短い髭を生やしている、―― そうさな、まあ一言にいえば、風流愛すべき好男子だろう。」 その若槻という実業家とは、わたしもつい四五日前、一しょに芝居を見ていたからである。 「君は我々が知らない間に、その中学時代の同窓なるものと、花を折り柳に攀じ、――」 僕があの女に会ったのは、大学病院へやって来た時に、若槻にもちょいと頼まれていたから、便宜を図ってやっただけなんだ。 和田は老酒をぐいとやってから、妙に考え深い目つきになった。 が、そんな事よりも話したいのは、あの女と若槻との関係なんだ。――」 和田はこう前置きをしてから、いつにない雄弁を振い出した。 「僕は藤井の話した通り、この間偶然小えんに遇った。 所が遇って話して見ると、小えんはもう二月ほど前に、若槻と別れたというじゃないか? なぜ別れたと訊いて見ても、返事らしい返事は何もしない。 ただ寂しそうに笑いながら、もともとわたしはあの人のように、風流人じゃないんですというんだ。 「僕もその時は立入っても訊かず、夫なり別れてしまったんだが、つい昨日、―― あの雨の最中に若槻から、飯を食いに来ないかという手紙なんだ。 ちょうど僕も暇だったし、早めに若槻の家へ行って見ると、先生は気の利いた六畳の書斎に、相不変悠々と読書をしている。 僕はこの通り野蛮人だから、風流の何たるかは全然知らない。 しかし若槻の書斎へはいると、芸術的とか何とかいうのは、こういう暮しだろうという気がするんだ。 まず床の間にはいつ行っても、古い懸物が懸っている。 書物も和書の本箱のほかに、洋書の書棚も並べてある。 おまけに華奢な机の側には、三味線も時々は出してあるんだ。 その上そこにいる若槻自身も、どこか当世の浮世絵じみた、通人らしいなりをしている。 昨日も妙な着物を着ているから、それは何だねと訊いて見ると、占城[#ルビの「チャンパ」は底本では「チャンバ」]という物だと答えるじゃないか? 僕の友だち多しといえども、占城なぞという着物を着ているものは、若槻を除いては一人もあるまい。―― まずあの男の暮しぶりといえば、万事こういった調子なんだ。 「僕はその日膳を前に、若槻と献酬を重ねながら、小えんとのいきさつを聞かされたんだ。 が、その相手は何かと思えば、浪花節語りの下っ端なんだそうだ。 君たちもこんな話を聞いたら、小えんの愚を哂わずにはいられないだろう。 僕も実際その時には、苦笑さえ出来ないくらいだった。 「君たちは勿論知らないが、小えんは若槻に三年この方、随分尽して貰っている。 若槻は小えんの母親ばかりか、妹の面倒も見てやっていた。 そのまた小えん自身にも、読み書きといわず芸事といわず、何でも好きな事を仕込ませていた。 そのほか発句も出来るというし、千蔭流とかの仮名も上手だという。 そういう消息を知っている僕は、君たちさえ笑止に思う以上、呆れ返らざるを得ないじゃないか? 何、あの女と別れるくらいは、別に何とも思ってはいません。 が、わたしは出来る限り、あの女の教育に尽して来ました。 どうか何事にも理解の届いた、趣味の広い女に仕立ててやりたい、―― 何も男を拵えるのなら、浪花節語りには限らないものを。 あんなに芸事には身を入れていても、根性の卑しさは直らないかと思うと、実際苦々しい気がするのです。……… あの女はこの半年ばかり、多少ヒステリックにもなっていたのでしょう。 一時はほとんど毎日のように、今日限り三味線を持たないとかいっては、子供のように泣いていました。 それがまたなぜだと訊ねて見ると、わたしはあの女を好いていない、遊芸を習わせるのもそのためだなぞと、妙な理窟をいい出すのです。 そんな時はわたしが何といっても、耳にかける気色さえありません。 ただもうわたしは薄情だと、そればかり口惜しそうに繰返すのです。 もっとも発作さえすんでしまえば、いつも笑い話になるのですが、……… 何でも相手の浪花節語りは、始末に終えない乱暴者だそうです。 前に馴染だった鳥屋の女中に、男か何か出来た時には、その女中と立ち廻りの喧嘩をした上、大怪我をさせたというじゃありませんか? このほかにもまだあの男には、無理心中をしかけた事だの、師匠の娘と駈落ちをした事だの、いろいろ悪い噂も聞いています。 そんな男に引懸かるというのは一体どういう量見なのでしょう。……… 「僕は小えんの不しだらには、呆れ返らざるを得ないと云った。 しかし若槻の話を聞いている内に、だんだん僕を動かして来たのは、小えんに対する同情なんだ。 なるほど若槻は檀那としては、当世稀に見る通人かも知れない。 が、あの女と別れるくらいは、何でもありませんといっているじゃないか? たといそれは辞令にしても、猛烈な執着はないに違いない。 たとえばその浪花節語りは、女の薄情を憎む余り、大怪我をさせたという事だろう。 僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、打ち込むのが自然だと考えるんだ。 小えんは諸芸を仕込ませるのも、若槻に愛のない証拠だといった。 僕はこの言葉の中にも、ヒステリイばかりを見ようとはしない。 小えんはやはり若槻との間に、ギャップのある事を知っていたんだ。 「しかし僕も小えんのために、浪花節語りと出来た事を祝福しようとは思っていない。 幸福になるか不幸になるか、それはどちらともいわれないだろう。―― が、もし不幸になるとすれば、呪わるべきものは男じゃない。 いや、当世の通人はいずれも個人として考えれば、愛すべき人間に相違あるまい。 およそこの地球を荘厳にすべき、猛烈な何物も知らずにいるんだ。 そこに彼等の致命傷もあれば、彼等の害毒も潜んでいると思う。 害毒の一つは能動的に、他人をも通人に変らせてしまう。 昔から喉の渇いているものは、泥水でも飲むときまっている。 小えんも若槻に囲われていなければ、浪花節語りとは出来なかったかも知れない。 いや、あるいは若槻の代りに、浪花節語りを得た事だけでも、幸福は確に幸福だろう。 我々は皆同じように、実生活の木馬に乗せられているから、時たま『幸福』にめぐり遇っても、掴まえない内にすれ違ってしまう。 もし『幸福』を掴まえる気ならば、一思いに木馬を飛び下りるが好い。―― いわば小えんも一思いに、実生活の木馬を飛び下りたんだ。 この猛烈な歓喜や苦痛は、若槻如き通人の知る所じゃない。 僕は人生の価値を思うと、百の若槻には唾を吐いても、一の小えんを尊びたいんだ。 和田は酔眼を輝かせながら、声のない一座を見まわした。 が、藤井はいつのまにか、円卓に首を垂らしたなり、気楽そうにぐっすり眠こんでいた。 秀林院様(細川越中守忠興の夫人、秀林院殿華屋宗玉大姉はその法諡なり)のお果てなされ候次第のこと。 一、石田治部少の乱の年、即ち慶長五年七月十日、わたくし父魚屋清左衛門、大阪玉造のお屋敷へ参り、「かなりや」十羽、秀林院様へ献上仕り候。 秀林院様はよろづ南蛮渡りをお好み遊ばされ候間、おん悦び斜めならず、わたくしも面目を施し候。 尤も御所持の御什器のうちには贋物も数かず有之、この「かなりや」ほど確かなる品は一つも御所持御座なく候。 その節父の申し候は、涼風の立ち次第秀林院様へお暇を願ひ、嫁入り致させ候べしとのことに御座候。 わたくしももはや三年あまり、御奉公致し居り候へども、秀林院様は少しもお優しきところ無之、賢女ぶらるることを第一となされ候へば、お側に居り候ても、浮きたる話などは相成らず、兎角気のつまるばかりに候間、父の言葉を聞きし時は天へも昇る心地致し候。 この日も秀林院様の仰せられ候は、日本国の女の智慧浅きは横文字の本を読まぬゆゑのよし、来世は必ず南蛮国の大名へお輿入れなさるべしと存じ上げ候。 二、十一日、澄見と申す比丘尼、秀林院様へお目通り致し候。 この比丘尼は唯今城内へも取り入り、中々きけ者のよしに候へども、以前は京の糸屋の後家にて、夫を六人も取り換へたるいたづら女とのことに御座候。 わたくしは澄見の顔さへ見れば、虫唾の走るほど厭になり候へども、秀林院様はさのみお嫌ひも遊ばされず、時には彼是小半日もお話相手になさること有之、その度にわたくしども奥女中はいづれも難渋仕り候。 これはまつたく秀林院様のお世辞を好まるる為に御座候。 たとへば澄見は秀林院様に、「いつもお美しいことでおりやる。 一定どこの殿御の目にも二十あまりに見えようず」などと、まことしやかに御器量を褒め上げ候。 なれども秀林院様の御器量はさのみ御美麗と申すほどにても無之、殊におん鼻はちと高すぎ、雀斑も少々お有りなされ候。 のみならずお年は三十八ゆゑ、如何に夜目遠目とは申せ、二十あまりにはお見えなさらず候。 三、澄見のこの日参り候は、内々治部少かたより頼まれ候よしにて、秀林院様のおん住居を城内へおん移し遊ばされ候やう、お勧め申す為に御座候。 秀林院様は御勘考の上、御返事なされ候べしと、澄見には御意なされ候へども、中々しかとせる御決心もつきかね候やうに見上げ候。 然れば澄見の下がり候後は「まりや」様の画像の前に、凡そ一刻に一度づつは「おらつしよ」と申すおん祈りを一心にお捧げ遊ばされ候。 何も序ゆゑ申し上げ候へども、秀林院様の「おらつしよ」は日本国の言葉にては無之、羅甸とやら申す南蛮国の言葉のよし、わたくしどもの耳には唯「のす、のす」と聞え候間、その可笑しさをこらふること、一かたならぬ苦しみに御座候。 四、十二日は別に変りたることも無之、唯朝より秀林院様の御機嫌、よろしからざるやうに見上候。 総じて御機嫌のよろしからざる時にはわたくしどもへはもとより、与一郎様(忠興の子、忠隆)の奥様へもお小言やらお厭味やら仰せられ候間、誰もみな滅多にお側へは近づかぬことと致し居り候。 けふも亦与一郎様の奥様へはお化粧のあまり濃すぎぬやう、「えそぽ物語」とやらの中の孔雀の話をお引き合ひに出され、長ながと御談義有之候よし、みなみなお気の毒に存じ上げ候。 この奥様はお隣屋敷浮田中納言様の奥様の妹御に当らせられ、御利発とは少々申し兼ね候へども、御器量は如何なる名作の雛にも劣らぬほどに御座候。 五、十三日、小笠原少斎(秀清)河北石見(一成)の両人、お台所まで参られ候。 細川家にては男はもとより、子供にても奥へ参ることはかなはざる御家法に候間、表の役人はお台所へ参られ、何ごとによらずわたくしどもに奥への取次を頼まるること、久しきならはしと相成り居り候。 これはみな三斎様(忠興)秀林院様、お二かたのおん焼餅より起りしことにて、黒田家の森太兵衛などにも、さてこそ不自由なる御家法も候ものかなと笑はれしよしに御座候。 なれども亦裏には裏と申すことも有之、さほど不自由は致し居らず候。 六、少斎石見の両人、霜と申す女房を召し出され、こまごまと申され候は、この度急に治部少より、東へお立ちなされ候大名衆の人質をとられ候よし、専ら風聞仕り候へども、如何仕るべく候や、秀林院様のお思召しのほども承りたしとのことに有之候。 その節、霜のわたくしに申し候は、「お留守居役の衆も手ぬるいことでおりやる。 そのやうなことは澄見からをとつひの内に言上されたものを。 尤もこれは珍しきことにても無之、いつも世上の噂などはお留守居役の耳よりも、わたくしどもの耳へ先に入り候、少斎は唯律義なる老人、石見は武道一偏のわやく人に候間、さもあるべき儀とは存じ候へども、兎角たび重なり候へば、 わたくしどもを始め奥のものは「世上に隠れない」と申す代りに「お留守居役さへ知つておりやる」と申すことに相成り居り候。 七、霜は即ちその旨を秀林院様へ申し上げ候ところ、秀林院様の御意なされ候は、治部少と三斎様とは兼ねがねおん仲悪しく候まま、定めし人質のとりはじめにはこの方へ参るならん、万一さもなき節は他家の並もあるべきか、もし又一番に申し来り候はば、 少斎石見の両人、分別致し候やうにとのことに御座候。 少斎石見の両人も分別致しかね候へばこそ、御意をも伺ひし次第に候へば、秀林院様のおん言葉は見当違ひには御座候へども霜も御主人の御威光には勝たれず、その通り両人へ申し渡し候。 霜のお台所へ下がり候後、秀林院様は又また「まりや」様の画像の前に「のす、のす」をお唱へ遊ばされ、梅と申す新参の女房、思はず笑ひ出し候へば、以ての外のことなりとさんざん御折檻を蒙り候。 八、少斎石見の両人は秀林院様の御意を伺ひ、いづれも当惑仕り候へども、やがて霜に申され候は、治部少かたより右の次第を申し来り候とも、与一郎様与五郎様(忠興の子、興秋)のお二かたは東へお立ちなされたり、内記様(同上、忠利)も亦唯今は江戸人質に御座候間、 人質に出で候はん人、当お屋敷には一人も無之候へば、所詮は出し申すことなるまじくと返答仕るべし、なほ又是非ともと申し候はば、田辺の城(舞鶴)へ申し遣はし、幽斎様(忠興の父、藤孝)より御指図を仰ぎ候まま、それ迄待ち候へと挨拶仕るべし、 秀林院様の仰せには分別致し候やうにと申し渡され候へども、少斎石見両人の言葉に毛すぢほどの分別も有之候や。 まづ老功の侍とは申さず、人並みの分別ある侍ならば、たとひ田辺の城へなりとも秀林院様をお落し申し、その次には又わたくしどもにも思ひ思ひに姿を隠させ、最後に両人のお留守居役だけ覚悟仕るべき場合に御座候。 然るに人質に出で候はん人、一人も無之候へば、出し申すことなるまじくなどとは一も二もなき喧嘩腰にて、側杖を打たるるわたくしどもこそ迷惑千万に存じ候。 九、霜は又右の次第を秀林院様へ申し上げ候ところ、秀林院様は御返事も遊ばされず、唯お口のうちに「のす、のす」とのみお唱へなされ居り候へども、漸くさりげなきおん気色に直られ、一段然るべしと御意なされ候。 如何さままだお留守居役よりお落し奉らんとも申されぬうちに、落せと仰せられ候訣には参り兼ね候儀ゆゑ、さだめし御心中には少斎石見の無分別なる申し条をお恨み遊ばされしことと存じ上げ候。 且は御機嫌もこの時より引きつづき甚だよろしからず、ことごとにわたくしどもをお叱りなされ、又お叱りなさるる度に「えそぽ物語」とやらをお読み聞かせ下され、誰はこの蛙、彼はこの狼などと仰せられ候間、みなみな人質に参るよりも難渋なる思ひを致し候。 殊にわたくしは蝸牛にも、鴉にも、豚にも、亀の子にも、棕梠にも、犬にも、蝮にも、野牛にも、病人にも似かよひ候よし、くやしきお小言を蒙り候こと、末代迄も忘れ難く候。 秀林院様御意なされ候は、三斎様のお許し無之うちは、如何やうのこと候とも、人質に出で候儀には同心仕るまじくと仰せられ候。 然れば澄見申し候は、成程三斎様の御意見を重んぜられ候こと、尤も賢女には候べし。 なれどもこれは細川家のおん大事につき、たとひ城内へはお出なされずとも、お隣屋敷浮田中納言様迄入らせらるべきか。 浮田中納言様の奥様は与一郎様と御姉妹の間がらゆゑ、その分のことは三斎様にもよもやおん咎めなされまじく、左様遊ばされ候へとのことに御座候。 澄見はわたくし大嫌ひの狸婆には候へども、澄見の申し候ことは一理ありと存じ候。 お隣屋敷浮田中納言様へお移り遊ばされ候はば、第一に世間の名聞もよろしく、第二にわたくしどもの命も無事にて、この上の妙案は有之まじく候。 十一、然るに秀林院様御意なされ候は、如何にも浮田中納言殿は御一門のうちには候へども、これも治部少と一味のよし、兼ねがね承り及び候間、それ迄参り候ても人質は人質に候まま、同心致し難くと仰せられ候。 澄見はなほも押し返し、いろいろ口説き立て候へども、一向に御承引遊ばされず、遂に澄見の妙案も水の泡と消え果て申し候。 その節も亦秀林院様は孔子とやら、「えそぽ」とやら、橘姫とやら、「きりすと」とやら、和漢はもとより南蛮国の物語さへも仰せ聞かされ、さすがの澄見も御能弁にはしみじみ恐れ入りしやうに見うけ候。 十二、この日の大凶時、霜は御庭前の松の梢へ金色の十字架の天下るさまを夢のやうに眺め候よし、如何なる凶事の前兆にやと悲しげにわたくしへ話し申し候。 尤も霜は近眼の上、日頃みなみなになぶらるる臆病者に御座候間、明星を十字架とも見違へ候や、覚束なき限りと存じ候。 十三、十五日にも亦澄見参り、きのふと同じことを申し上げ候。 秀林院様御意なされ候は、たとひ何度申され候とも、覚悟は変るまじ、と仰せられ候。 然れば澄見も立腹致し候や、御前を退き候みぎり、「御心痛のほどもさぞかしでおぢやらう。 秀林院様にも一かたならず御立腹遊ばされ、以後は澄見に目通り無用と達し候へと仰せられ候。 なほ又この日も一刻置きに「おらつしよ」をお唱へ遊ばされ候へども、内証にてのお掛合ひも愈手切と相成り候間、みなみな安き心もなく、梅さへ笑はずに控へ居り候。 十四、この日は又河北石見、稲富伊賀(祐直)と口論致され候よし、伊賀は砲術の上手につき、他家にも弟子の衆少からず、何かと評判よろしく候まま、少斎石見などは嫉きことに思はれ、兎角口論も致され勝ちとのことに御座候。 十五、この日の夜半、霜は夢に打手のかかるを見、肝を冷やし候よし、大声に何か呼ばはりながら、お廊下を四五間走りまはり候。 十六、十六日巳の刻頃、少斎石見の両人、再び霜に申され候は、唯今治部少かたより表向きの使参り、是非とも秀林院様をおん渡し候へ、もしおん渡し候はずば、押し掛けて取り候はんと申し候間、さりとは我儘なる申し条も候ものかな、この上は我等腹を切り候とも、 然れば秀林院様にも御覚悟遊ばされたくとのことに有之候。 その節、生憎少斎は抜け歯を煩はれ居り候まま、石見に口上を頼まれ候よし、又石見は立腹の余り、霜をも打ち果すかと見えられ候よし、いづれも霜の物語に御座候。 十七、秀林院様は霜より仔細を聞こし召され、直ちに与一郎様の奥様とお内談に相成り候。 後に承り候へば、与一郎様の奥様にも御生害をお勧めに相成り候よし、何ともお傷しく存じ上げ候。 総じてこの度の大変はやむを得ぬ仕儀とは申しながら、第一にはお留守居役の無分別よりことを破り、第二には又秀林院様御自身のお気性より御最期を早められ候も同然の儀に御座候。 然るに与一郎様の奥様にも御生害をお勧め遊ばされ候上は、わたくしどもにさへお伴を仕るやう、御意なされ候やも計り難く、愈迷惑に存じ居り候ところ、みなみな御前へ召され候間、如何なる仰せを蒙ることかと一かたならず案じ申し候。 十八、やがて御前へ参り候へば、秀林院様御意なされ候は、愈「はらいそ」と申す極楽へ参り候はん時節も近づき、一段悦ばしく候と仰せられ候。 なれどもおん顔の色は青ざめお声もやや震へ居られ候間、もとよりこれはおん偽と存じ上げ候。 秀林院様又御意なされ候は、唯黄泉路の障りとなるはその方どもの未来なり、その方どもは心得悪しく、切支丹の御宗門にも帰依し奉らず候まま、未来は「いんへるの」と申す地獄に堕ち、悪魔の餌食とも成り果て候べし。 就いては今日より心を改め、天主のおん教へを守らせ候へ。 もし又さもなく候はば、みなみな生害の伴を仕り、われらと共に穢土を去り候へ。 その節はわれらより「あるかんじよ」(大天使)へ頼み、「あるかんじよ」より又おん主「えす・きりすと」へ頼み奉り、一同に「はらいそ」の荘厳を拝し候べしと仰せられ候。 然ればわたくしどもは感涙に咽び、みなみな即座に切支丹の御宗門に帰依し奉る旨、同音に申し上げ候間、秀林院様には御機嫌よろしく、これにて黄泉路の障りも無之、安堵いたし候まま、伴は無用と御意なされ候。 十九、なほ又秀林院様は三斎様与一郎様へお書置きをなされ、二通とも霜へお渡し遊ばされ候。 その後京の「ぐれごり屋」と申す伴天連へも何やら横文字のお書置きをなされ、これはわたくしへお渡し遊ばされ候、この横文字のお書置きは五六行には候へども、秀林院様のお書き遊ばされ候には一刻あまりもおかかりなされ候。 これも序ゆゑ申し上げ候へども、このお書置きを「ぐれごり屋」へ渡し候節、日本人の「いるまん」(役僧)一人、厳かに申し候は、総じて自害は切支丹宗門の禁ずるところに御座候間、秀林院様も「はらいそ」へはお昇り遊ばさるることかなふまじく候、 但し「みさ」と申す祈祷を奉られ候はば、その功徳広大にして、悪趣を免れさせ候べし。 もし「みさ」を修せられ候はんには、銀一枚賜り候へとのことに御座候。 お屋敷の表は河北石見預り、裏の御門は稲富伊賀預り、奥は小笠原少斎預りと定まり居り候。 敵寄すると承り候へば、秀林院様は梅を遣はされ、与一郎様の奥様をお召し遊ばされ候へども、はやいづこへお落ちなされ候や、お部屋は藻ぬけのからと相成り居り候よし、わたくしどもみなみなおん悦び申し上げ候。 なれども秀林院様にはおん憤り少からず、わたくしどもに御意なされ候は、生まれては山崎の合戦に太閤殿下と天下を争はれし惟任将軍光秀を父とたのみ、死しては「はらいそ」におはします「まりや」様を母とたのまんわれらに、末期の恥辱を与へ候こと、 その節のおんありさまのはしたなさ、今も目に見ゆる心地致し候。 二十一、程なく小笠原少斎、紺糸の具足に小薙刀を提げ、お次迄御介錯に参られ候。 未だ抜け歯の痛み甚しく候よし、左の頬先腫れ上られ、武者ぶりも聊はかなげに見うけ候。 少斎申され候は、お居間の敷居を越え候はんも恐れ多く候間、敷居越しに御介錯仕り、追ひ腹切らんとのことに御座候。 御先途見とどけの役は霜とわたくしとに定まり居り候へば、この頃にはみなみないづこへか落ち失せ、わたくしどもばかり残り居り候。 秀林院様は少斎を御覧ぜられ、介錯大儀と仰せられ候。 細川家へお輿入れ遊ばされ候以来、御夫婦御親子のかたがたは格別に候へども、男の顔を御覧遊ばされ候は今日この少斎をはじめと致され候よし、後に霜より承り及び候。 少斎はお次に両手をつかれ、御最期の時参り候と申し上げ候。 尤も片頬腫れ上られ居り候へば、言舌も甚ださだかならず、秀林院様にも御当惑遊ばされ、大声に申候へと御意なされ候。 二十二、その時誰やら若き衆一人、萌葱糸の具足に大太刀を提げ、お次へ駈けつけ候や否や、稲富伊賀逆心仕り敵は裏門よりなだれ入り候間、速に御覚悟なされたくと申され候。 秀林院様は右のおん手にお髪をきりきりと巻き上げられ、御覚悟の体に見上げ候へども、若き衆の姿を御覧遊ばされ、羞しと思召され候や、忽ちおん顔を耳の根迄赤あかとお染め遊ばされ候。 わたくし一生にこの時ほど、秀林院様の御器量をお美しく存じ上げ候こと、一度も覚え申さず候。 二十三、わたくしどもの御門を出で候節はもはやお屋敷に火の手あがり、御門の外にも人々大勢、火の光の中に集まり居り候。 尤もこれは敵にては無之、火事を見に集まりたる人々のよし、又敵は伊賀を引きつれ、御最期以前に引きあげ候よし、いづれも後に承り申し候。 まづは秀林院様お果てなされ候次第のこと、あらあら申し上げたる通りに御座候。 その又僕の読んだ作品は何れも手を抜いたところはない。 若し欠点を挙げるとすれば余り丹念すぎる為に暗示する力を欠き易い事であろう。 それから又犬養君の作品はどれも皆柔かに美しいものである。 こう云う柔かい美しさは一寸他の作家達には発見出来ない。 僕はそこに若々しい一本の柳に似た感じを受けている。 いつか僕は仕事をしかけた犬養君に会った事があった。 その時僕の見た犬養君の顔は(若し失礼でないとすれば)女人と交った後のようだった。 僕は犬養君を思い出す度にかならずこの顔を思い出している。 同時に又犬養君の作品の如何にも丹念に出来上っているのも偶然ではないと思っている。 昔、大和の国葛城山の麓に、髪長彦という若い木樵が住んでいました。 これは顔かたちが女のようにやさしくって、その上髪までも女のように長かったものですから、こういう名前をつけられていたのです。 髪長彦は、大そう笛が上手でしたから、山へ木を伐りに行く時でも、仕事の合い間合い間には、腰にさしている笛を出して、独りでその音を楽しんでいました。 するとまた不思議なことには、どんな鳥獣や草木でも、笛の面白さはわかるのでしょう。 髪長彦がそれを吹き出すと、草はなびき、木はそよぎ、鳥や獣はまわりへ来て、じっとしまいまで聞いていました。 ところがある日のこと、髪長彦はいつもの通り、とある大木の根がたに腰を卸しながら、余念もなく笛を吹いていますと、たちまち自分の目の前へ、青い勾玉を沢山ぶらさげた、足の一本しかない大男が現れて、 己はずっと昔から山奥の洞穴で、神代の夢ばかり見ていたが、お前が木を伐りに来始めてからは、その笛の音に誘われて、毎日面白い思をしていた。 そこで今日はそのお礼に、ここまでわざわざ来たのだから、何でも好きなものを望むが好い。」と言いました。 「私は犬が好きですから、どうか犬を一匹下さい。」と答えました。 「高が犬を一匹くれなどとは、お前も余っ程欲のない男だ。 しかしその欲のないのも感心だから、ほかにはまたとないような不思議な犬をくれてやろう。 こう言う己は、葛城山の足一つの神だ。」と言って、一声高く口笛を鳴らしますと、森の奥から一匹の白犬が、落葉を蹴立てて駈けて来ました。 「これは名を嗅げと言って、どんな遠い所の事でも嗅ぎ出して来る利口な犬だ。 では、一生己の代りに、大事に飼ってやってくれ。」と言うかと思うと、その姿は霧のように消えて、見えなくなってしまいました。 髪長彦は大喜びで、この白犬と一しょに里へ帰って来ましたが、あくる日また、山へ行って、何気なく笛を鳴らしていると、今度は黒い勾玉を首へかけた、手の一本しかない大男が、どこからか形を現して、 「きのう己の兄きの足一つの神が、お前に犬をやったそうだから、己も今日は礼をしようと思ってやって来た。 そうして髪長彦が、また「嗅げにも負けないような犬が欲しい。」と答えますと、大男はすぐに口笛を吹いて、一匹の黒犬を呼び出しながら、 「この犬の名は飛べと言って、誰でも背中へ乗ってさえすれば百里でも千里でも、空を飛んで行くことが出来る。 明日はまた己の弟が、何かお前に礼をするだろう。」と言って、前のようにどこかへ消え失せてしまいました。 するとあくる日は、まだ、笛を吹くか吹かないのに、赤い勾玉を飾りにした、目の一つしかない大男が、風のように空から舞い下って、 「己は葛城山の目一つの神だ、兄きたちがお前に礼をしたそうだから、己も嗅げや飛べに劣らないような、立派な犬をくれてやろう。」と言ったと思うと、もう口笛の声が森中にひびき渡って、一匹の斑犬が牙をむき出しながら、駈けて来ました。 この犬を相手にしたが最後、どんな恐しい鬼神でも、きっと一噛みに噛み殺されてしまう。 ただ、己たちのやった犬は、どんな遠いところにいても、お前が笛を吹きさえすれば、きっとそこへ帰って来るが、笛がなければ来ないから、それを忘れずにいるが好い。」 そう言いながら目一つの神は、また森の木の葉をふるわせて、風のように舞い上ってしまいました。 髪長彦は三匹の犬をつれて、葛城山の麓にある、路が三叉になった往来へ、笛を吹きながら来かかりますと、右と左と両方の路から、弓矢に身をかためた、二人の年若な侍が、逞しい馬に跨って、しずしずこっちへやって来ました。 髪長彦はそれを見ると、吹いていた笛を腰へさして、叮嚀におじぎをしながら、 「もし、もし、殿様、あなた方は一体、どちらへいらっしゃるのでございます。」と尋ねました。 「今度飛鳥の大臣様の御姫様が御二方、どうやら鬼神のたぐいにでもさらわれたと見えて、一晩の中に御行方が知れなくなった。」 「大臣様は大そうな御心配で、誰でも御姫様を探し出して来たものには、厚い御褒美を下さると云う仰せだから、それで我々二人も、御行方を尋ねて歩いているのだ。」 こう云って二人の侍は、女のような木樵と三匹の犬とをさも莫迦にしたように見下しながら、途を急いで行ってしまいました。 髪長彦は好い事を聞いたと思いましたから、早速白犬の頭を撫でて、 すると白犬は、折から吹いて来た風に向って、しきりに鼻をひこつかせていましたが、たちまち身ぶるいを一つするが早いか、 「わん、わん、御姉様の御姫様は、生駒山の洞穴に住んでいる食蜃人の虜になっています。」と答えました。 食蜃人と云うのは、昔八岐の大蛇を飼っていた、途方もない悪者なのです。 そこで木樵はすぐ白犬と斑犬とを、両方の側にかかえたまま、黒犬の背中に跨って、大きな声でこう云いつけました。 生駒山の洞穴に住んでいる食蜃人の所へ飛んで行け。」 恐しいつむじ風が、髪長彦の足の下から吹き起ったと思いますと、まるで一ひらの木の葉のように、見る見る黒犬は空へ舞い上って、青雲の向うにかくれている、遠い生駒山の峰の方へ、真一文字に飛び始めました。 やがて髪長彦が生駒山へ来て見ますと、成程山の中程に大きな洞穴が一つあって、その中に金の櫛をさした、綺麗な御姫様が一人、しくしく泣いていらっしゃいました。 「御姫様、御姫様、私が御迎えにまいりましたから、もう御心配には及びません。 さあ、早く、御父様の所へ御帰りになる御仕度をなすって下さいまし。」 こう髪長彦が云いますと、三匹の犬も御姫様の裾や袖を啣えながら、 しかし御姫様は、まだ御眼に涙をためながら、洞穴の奥の方をそっと指さして御見せになって、 「それでもあすこには、私をさらって来た食蜃人が、さっきから御酒に酔って寝ています。 あれが目をさましたら、すぐに追いかけて来るでしょう。 そうすると、あなたも私も、命をとられてしまうのにちがいありません。」と仰有いました。 「高の知れた食蜃人なぞを、何でこの私が怖がりましょう。 その証拠には、今ここで、訳なく私が退治して御覧に入れます。」と云いながら、斑犬の背中を一つたたいて、 この洞穴の奥にいる食蜃人を一噛みに噛み殺せ。」と、勇ましい声で云いつけました。 すると斑犬はすぐ牙をむき出して、雷のように唸りながら、まっしぐらに洞穴の中へとびこみましたが、たちまちの中にまた血だらけな食蜃人の首を啣えたまま、尾をふって外へ出て来ました。 ところが不思議な事には、それと同時に、雲で埋まっている谷底から、一陣の風がまき起りますと、その風の中に何かいて、 私は食蜃人にいじめられていた、生駒山の駒姫です。」と、やさしい声で云いました。 しかし御姫様は、命拾いをなすった嬉しさに、この声も聞えないような御容子でしたが、やがて髪長彦の方を向いて、心配そうに仰有いますには、 「私はあなたのおかげで命拾いをしましたが、妹は今時分どこでどんな目に逢って居りましょう。」 「わん、わん、御妹様の御姫様は笠置山の洞穴に棲んでいる土蜘蛛の虜になっています。」と、主人の顔を見上げながら、鼻をびくつかせて答えました。 この土蜘蛛と云うのは、昔神武天皇様が御征伐になった事のある、一寸法師の悪者なのです。 そこで髪長彦は、前のように二匹の犬を小脇にかかえて御姫様と一しょに黒犬の背中へ跨りながら、 笠置山の洞穴に住んでいる土蜘蛛の所へ飛んで行け。」と云いますと、黒犬はたちまち空へ飛び上って、これも青雲のたなびく中に聳えている笠置山へ矢よりも早く駈け始めました。 さて笠置山へ着きますと、ここにいる土蜘蛛はいたって悪知慧のあるやつでしたから、髪長彦の姿を見るが早いか、わざとにこにこ笑いながら、洞穴の前まで迎えに出て、 碌なものはありませんが、せめて鹿の生胆か熊の孕子でも御馳走しましょう。」と云いました。 「いや、いや、己はお前がさらって来た御姫様をとり返しにやって来たのだ。 早く御姫様を返せばよし、さもなければあの食蜃人同様、殺してしまうからそう思え。」と、恐しい勢いで叱りつけました。 「ああ、御返し申しますとも、何であなたの仰有る事に、いやだなどと申しましょう。 御姫様はこの奥にちゃんと、独りでいらっしゃいます。 どうか御遠慮なく中へはいって、御つれになって下さいまし。」と、声をふるわせながら云いました。 そこで髪長彦は、御姉様の御姫様と三匹の犬とをつれて、洞穴の中へはいりますと、成程ここにも銀の櫛をさした、可愛らしい御姫様が、悲しそうにしくしく泣いています。 それが人の来た容子に驚いて、急いでこちらを御覧になりましたが、御姉様の御顔を一目見たと思うと、 「妹。」と、二人の御姫様は一度に両方から駈けよって、暫くは互に抱き合ったまま、うれし涙にくれていらっしゃいました。 髪長彦もこの気色を見て、貰い泣きをしていましたが、急に三匹の犬が背中の毛を逆立てて、 わん。」と、気の違ったように吠え出しましたから、ふと気がついてふり返えると、あの狡猾な土蜘蛛は、いつどうしたのか、大きな岩で、一分の隙もないように、外から洞穴の入口をぴったりふさいでしまいました。 こうして置けば、貴様たちは、一月とたたない中に、ひぼしになって死んでしまうぞ。 何と己様の計略は、恐れ入ったものだろう。」と、手を拍いて土蜘蛛の笑う声がしています。 これにはさすがの髪長彦も、さては一ぱい食わされたかと、一時は口惜しがりましたが、幸い思い出したのは、腰にさしていた笛の事です。 この笛を吹きさえすれば、鳥獣は云うまでもなく、草木もうっとり聞き惚れるのですから、あの狡猾な土蜘蛛も、心を動かさないとは限りません。 そこで髪長彦は勇気をとり直して、吠えたける犬をなだめながら、一心不乱に笛を吹き出しました。 するとその音色の面白さには、悪者の土蜘蛛も、追々我を忘れたのでしょう。 始は洞穴の入口に耳をつけて、じっと聞き澄ましていましたが、とうとうしまいには夢中になって、一寸二寸と大岩を、少しずつ側へ開きはじめました。 それが人一人通れるくらい、大きな口をあいた時です。 洞穴の入口に立っている土蜘蛛を噛み殺せ。」と、斑犬の背中をたたいて、云いつけました。 この声に胆をつぶして、一目散に土蜘蛛は、逃げ出そうとしましたが、もうその時は間に合いません。 「噛め」はまるで電のように、洞穴の外へ飛び出して、何の苦もなく土蜘蛛を噛み殺してしまいました。 所がまた不思議な事には、それと同時に谷底から、一陣の風が吹き起って、 私は土蜘蛛にいじめられていた、笠置山の笠姫です。」とやさしい声が聞えました。 それから髪長彦は、二人の御姫様と三匹の犬とをひきつれて、黒犬の背に跨がりながら、笠置山の頂から、飛鳥の大臣様の御出になる都の方へまっすぐに、空を飛んでまいりました。 その途中で二人の御姫様は、どう御思いになったのか、御自分たちの金の櫛と銀の櫛とをぬきとって、それを髪長彦の長い髪へそっとさして御置きになりました。 が、こっちは元よりそんな事には、気がつく筈がありません。 ただ、一生懸命に黒犬を急がせながら、美しい大和の国原を足の下に見下して、ずんずん空を飛んで行きました。 その中に髪長彦は、あの始めに通りかかった、三つ叉の路の空まで、犬を進めて来ましたが、見るとそこにはさっきの二人の侍が、どこからかの帰りと見えて、また馬を並べながら、都の方へ急いでいます。 これを見ると、髪長彦は、ふと自分の大手柄を、この二人の侍たちにも聞かせたいと云う心もちが起って来たものですから、 あの三つ叉になっている路の上へ下りて行け。」と、こう黒犬に云いつけました。 折角方々探しまわったのに、御姫様たちの御行方がどうしても知れないので、しおしお馬を進めていると、いきなりその御姫様たちが、女のような木樵と一しょに、逞しい黒犬に跨って、空から舞い下って来たのですから、その驚きと云ったらありません。 髪長彦は犬の背中を下りると、叮嚀にまたおじぎをして、 「殿様、私はあなた方に御別れ申してから、すぐに生駒山と笠置山とへ飛んで行って、この通り御二方の御姫様を御助け申してまいりました。」と云いました。 しかし二人の侍は、こんな卑しい木樵などに、まんまと鼻をあかされたのですから、羨しいのと、妬ましいのとで、腹が立って仕方がありません。 そこで上辺はさも嬉しそうに、いろいろ髪長彦の手柄を褒め立てながら、とうとう三匹の犬の由来や、腰にさした笛の不思議などをすっかり聞き出してしまいました。 そうして髪長彦の油断をしている中に、まず大事な笛をそっと腰からぬいてしまうと、二人はいきなり黒犬の背中へとび乗って、二人の御姫様と二匹の犬とを、しっかりと両脇に抱えながら、 飛鳥の大臣様のいらっしゃる、都の方へ飛んで行け。」と、声を揃えて喚きました。 髪長彦は驚いて、すぐに二人へとびかかりましたが、もうその時には大風が吹き起って、侍たちを乗せた黒犬は、きりりと尾を捲いたまま、遥な青空の上の方へ舞い上って行ってしまいました。 あとにはただ、侍たちの乗りすてた二匹の馬が残っているばかりですから、髪長彦は三つ叉になった往来のまん中につっぷして、しばらくはただ悲しそうにおいおい泣いておりました。 すると生駒山の峰の方から、さっと風が吹いて来たと思いますと、その風の中に声がして、 私は生駒山の駒姫です。」と、やさしい囁きが聞えました。 それと同時にまた笠置山の方からも、さっと風が渡るや否や、やはりその風の中にも声があって、 私は笠置山の笠姫です。」と、これもやさしく囁きました。 「これからすぐに私たちは、あの侍たちの後を追って、笛をとり返して上げますから、少しも御心配なさいますな。」と云うか云わない中に、風はびゅうびゅう唸りながら、さっき黒犬の飛んで行った方へ、狂って行ってしまいました。 が、少したつとその風は、またこの三つ叉になった路の上へ、前のようにやさしく囁きながら、高い空から下して来ました。 「あの二人の侍たちは、もう御二方の御姫様と一しょに、飛鳥の大臣様の前へ出て、いろいろ御褒美を頂いています。 さあ、さあ、早くこの笛を吹いて、三匹の犬をここへ御呼びなさい。 その間に私たちは、あなたが御出世の旅立を、恥しくないようにして上げましょう。」 こう云う声がしたかと思うと、あの大事な笛を始め、金の鎧だの、銀の兜だの、孔雀の羽の矢だの、香木の弓だの、立派な大将の装いが、まるで雨か霰のように、眩しく日に輝きながら、ばらばら眼の前へ降って来ました。 それからしばらくたって、香木の弓に孔雀の羽の矢を背負った、神様のような髪長彦が、黒犬の背中に跨りながら、白と斑と二匹の犬を小脇にかかえて、飛鳥の大臣様の御館へ、空から舞い下って来た時には、あの二人の年若な侍たちが、どんなに慌て騒ぎましたろう。 いや、大臣様でさえ、あまりの不思議に御驚きになって、暫くはまるで夢のように、髪長彦の凜々しい姿を、ぼんやり眺めていらっしゃいました。 が、髪長彦はまず兜をぬいで、叮嚀に大臣様に御じぎをしながら、 「私はこの国の葛城山の麓に住んでいる、髪長彦と申すものでございますが、御二方の御姫様を御助け申したのは私で、そこにおります御侍たちは、食蜃人や土蜘蛛を退治するのに、指一本でも御動かしになりは致しません。」と申し上げました。 これを聞いた侍たちは、何しろ今までは髪長彦の話した事を、さも自分たちの手柄らしく吹聴していたのですから、二人とも急に顔色を変えて、相手の言を遮りながら、 「これはまた思いもよらない嘘をつくやつでございます。 食蜃人の首を斬ったのも私たちなら、土蜘蛛の計略を見やぶったのも、私たちに相違ございません。」と、誠しやかに申し上げました。 そこでまん中に立った大臣様は、どちらの云う事がほんとうとも、見きわめが御つきにならないので、侍たちと髪長彦を御見比べなさりながら、 一体お前たちを助けたのは、どっちの男だったと思う。」と、御姫様たちの方を向いて、仰有いました。 すると二人の御姫様は、一度に御父様の胸に御すがりになりながら、 その証拠には、あの男のふさふさした長い髪に、私たちの櫛をさして置きましたから、どうかそれを御覧下さいまし。」と、恥しそうに御云いになりました。 見ると成程、髪長彦の頭には、金の櫛と銀の櫛とが、美しくきらきら光っています。 もうこうなっては侍たちも、ほかに仕方はございませんから、とうとう大臣様の前にひれ伏して、 「実は私たちが悪だくみで、あの髪長彦の助けた御姫様を、私たちの手柄のように、ここでは申し上げたのでございます。 この通り白状致しました上は、どうか命ばかりは御助け下さいまし。」と、がたがたふるえながら申し上げました。 それから先の事は、別に御話しするまでもありますまい。 髪長彦は沢山御褒美を頂いた上に、飛鳥の大臣様の御婿様になりましたし、二人の若い侍たちは、三匹の犬に追いまわされて、ほうほう御館の外へ逃げ出してしまいました。 ただ、どちらの御姫様が、髪長彦の御嫁さんになりましたか、それだけは何分昔の事で、今でははっきりとわかっておりません。 どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。 読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。―― その頃、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。 これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にしたいのであるが、生憎旧記には、それが伝はつてゐない。 恐らくは、実際、伝はる資格がない程、平凡な男だつたのであらう。 一体旧記の著者などと云ふ者は、平凡な人間や話に、余り興味を持たなかつたらしい。 この点で、彼等と、日本の自然派の作家とは、大分ちがふ。 兎に角、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。 頬が、こけてゐるから、頤が、人並はづれて、細く見える。 我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上つてゐたのである。 この男が、何時、どうして、基経に仕へるやうになつたのか、それは誰も知つてゐない。 が、余程以前から、同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎々した烏帽子をかけて、同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる事だけは、確である。 その結果であらう、今では、誰が見ても、この男に若い時があつたとは思はれない。 (五位は四十を越してゐた。)その代り、生れた時から、あの通り寒むさうな赤鼻と、形ばかりの口髭とを、朱雀大路の衢風に、吹かせてゐたと云ふ気がする。 上は主人の基経から、下は牛飼の童児まで、無意識ながら、悉さう信じて疑ふ者がない。 かう云ふ風采を具へた男が、周囲から受ける待遇は、恐らく書くまでもないことであらう。 侍所にゐる連中は、五位に対して、殆ど蠅程の注意も払はない。 有位無位、併せて二十人に近い下役さへ、彼の出入りには、不思議な位、冷淡を極めてゐる。 五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。 彼等にとつては、空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、眼を遮らないのであらう。 下役でさへさうだとすれば、別当とか、侍所の司とか云ふ上役たちが頭から彼を相手にしないのは、寧ろ自然の数である。 彼等は、五位に対すると、殆ど、子供らしい無意味な悪意を、冷然とした表情の後に隠して、何を云ふのでも、手真似だけで用を足した。 従つて、彼等も手真似では用を弁じない事が、時々ある。 が、彼等は、それを全然五位の悟性に、欠陥があるからだと、思つてゐるらしい。 そこで彼等は用が足りないと、この男の歪んだ揉烏帽子の先から、切れかかつた藁草履の尻まで、万遍なく見上げたり、見下したりして、それから、鼻で哂ひながら、急に後を向いてしまふ。 彼は、一切の不正を、不正として感じない程、意気地のない、臆病な人間だつたのである。 所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を飜弄しようとした。 年かさの同僚が、彼れの振はない風采を材料にして、古い洒落を聞かせようとする如く、年下の同僚も、亦それを機会にして、所謂興言利口の練習をしようとしたからである。 彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲して飽きる事を知らなかつた。 彼が五六年前に別れたうけ唇の女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師とも、屡彼等の話題になつた。 その上、どうかすると、彼等は甚、性質の悪い悪戯さへする。 が、彼の篠枝の酒を飲んで、後へ尿を入れて置いたと云ふ事を書けば、その外は凡、想像される事だらうと思ふ。 しかし、五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。 黙つて例の薄い口髭を撫でながら、するだけの事をしてすましてゐる。 唯、同僚の悪戯が、嵩じすぎて、髷に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」と云ふ。 その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。 (彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが―― 多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。)―― さう云ふ気が、朧げながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。 唯その時の心もちを、何時までも持続ける者は甚少い。 このスレッドは1000を超えました。
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